ままへ。いきているといいね おげんきですか
映画『1000年後の未来へ -3.11保健師たちの証言-』予告編
http://youtu.be/rkaqmu1XIvU
1000年後の未来へ -3.11保健師たちの証言-
http://311hokenshi.main.jp/film.html
Japan marks 6 months since earthquake, tsunami
(The Sacramento Bee)October 14, 2013
http://blogs.sacbee.com/photos/2011/09/japan-marks-6-months-since-ear.html
東日本大震災後6ヶ月の変化
古いですが、感動的なのでご紹介します。
震災直後、3ヶ月後、半年後の定点観測写真です。
宮城県仙台市若林区
宮城県気仙沼市鹿折の第18共徳丸(現在は撤去されています)
宮城県気仙沼市
宮城県名取市
宮城県石巻市
岩手県上閉伊郡大槌町の遊覧船はまゆり号
宮城県岩沼市
岩手県上閉伊郡大槌町
宮城県気仙沼市
宮城県仙台空港
宮城県石巻市
宮城県東松島市
福島県相馬市松川浦漁港
岩手県陸前高田市
福島県いわき市
東日本大震災4年
被災地で何が復興して何が進んでいないか
(東京新聞)2015年3月8日
東日本大震災4年
被災地はいま
(しんぶん赤旗)2015年3月5~11日
東日本大震災から11日4年がたちます。しかし、多くの被災者は生活再建が進まず、いっそう苦しい状況に置かれています。その実態と復興への課題に迫ります。
仮設住宅のカビで発病
避難生活が長期化する仮設住宅では、構造上の欠陥がより深刻な問題になり、被災者の健康を害す事態が起きています。
結露が多く、湿気がこもりやすいため、室内に大量のカビが発生。カビが原因で病気になるなど、健康被害も出ています。
せきと呼吸困難
宮城県石巻市の樋口敏雄さん(66)は、仮設住宅に入居後の2011年冬から、激しいせき、呼吸困難に苦しみました。
医師から処方された錠剤や吸入薬を示し、「一時は死ぬかと思った。これからずっと薬を飲んで暮らす。悔しいよ」と訴えます。
震災から2年たった13年5月、一睡もできないほど症状が悪化。あまりに強くせき込んだために目の周りの細かい血管が切れ、顔がどす黒く変色しました。
妻、恵さん(55)は、「津波に流されながらも助かった命。こんなことで殺されてたまるかと必死でした」。
のちに分かった病名は、「アレルギー性気管支肺真菌症」。悪化すると酸素吸入を欠かせなくなり、命にかかわる病気です。
国立医薬品食品衛生研究所の渡辺麻衣子博士(衛生微生物部第三室長)は、樋口さんの病気を「仮設住宅のカピが原因と証明された」と説明します。
渡辺博士が代表研究者を務める厚生労働省研究班は、樋口さん宅の畳の裹から大量のカビを発見。樋口さんのアレルギー反応も検査し、病気の原因だと突き止めました。
さらに研究班が昨年、石巻市内の仮設住宅を対象に実施した集団検診では、受診した約340人のうち約2割にぜんそく症状がありました。数字の評価は分析中ですが、過去の非被災地での調査で有症率が1割未満となっていることと比べて高い割合でした。
私たちの生活に身近なカビ。なぜ仮設住宅では問題になるのか-。
渡辺博士は「仮設はカビが大量にはえる条件がそろっている。身近な種類のカビも、たくさん吸入し続けると病気になることが分かってきた」と話します。
一般の50~100倍
研究班は震災2年目から3年目にかけて、石巻市内の仮設住宅のべ52戸の室内空気を調査しました。
検出したカビは、一般住宅の50倍から100倍という高濃度でした。
「通常、空気1立方メートルあたりのカビ数は1000程度。ところが仮設住宅では1万超の部屋が頻繁にあり、計算上の検出上限値の16万を超えた部屋もありました。国内の住居では前例を知りません」
カビで病気になった樋口さん宅も、検出上限値となった部屋のひとつでした。
日本共産党の三浦一敏宮城県議は3日、県議会で仮設住宅のカピ汚染を取り上げ、村井嘉浩知事に対策を求めました。
「まさに異常な住環境だ。生存権が長期にわたり侵害されている」
(本田祐典)
守れ生存権 住民総点検
仮設住宅のカビ汚染は、宮城県石巻市など一部地域の特殊事例ではありません。震災直後から
各地で問題になってきました。
カビで病気になった樋口敏雄さんが暮らす仮設住宅も、特異な構造ではありません。東日本大震災で最も多く建てられた大和リース製の仮設住宅です。
厚生労働省研究班の渡辺麻衣子博士は、時間の経過とともにカビ汚染が深刻化しているといいます。
「調査を続けるうちに、後からカビがはえた部屋があった。いまは健康に問題ない人でも長期にわたってカビを吸うほど危険性が高まる」
仮設暮らしの長期化に合わせて、対策を考える必要があるというのです。
石巻市では、仮設住宅でさらに4年、5年と暮らさざるを得ない人たちがいます。
宅地造成が市内で最も遅い二子(ふたご)地区に移り住む予定の秋山マサ子さん(79)もその一人です。
部屋を訪ねると、結露が特にひどい梁(はり)の根元にぞうきんが置いてありました。「毎朝、しぼるんです。カーテンを除菌・漂白しても、すぐにカビがつく」
同じく造成を待つ杉山良一さん(80)は、カビでまだら模様になった天井を指さし、「もう慣れてしまった」。
住民の生活を脅かす問題は、カビだけではありません。入居期限の延長を繰り返すうち、老朽化が進んでいます。
仮設住宅の改善などに取り組んできた「石巻住まいと復興を考える会連絡協議会」(石巻住まい連)は震災4年を迎えるにあたって、改めて仮設住宅の「総点検運動」を呼びかけています。
寄せられた問題(表参照)は、備え付けのガス器具や換気扇の故障をはじめ、玄関前の階段の腐食などさまざまです。
ある女性は、石巻住まい連が配布した点検表に書きました。
「狹くて、うつ病になりそう。毎日、死を考えています」
石巻住まい連の佐立昭代表委員は、「仮設住宅の提供は、抜本的な改善が必要です。住み続けるとどんどん地獄のようになり、生存権が守られていない」と話します。
宮城県は「2015年度に仮般住宅を一斉点検して補修する」とします。ところが、その対象は基礎杭(くい)、屋根、外壁などに限定。これは内閣府が入居延長の条件とする「最低限の補修」にすぎず、費用も国負担です。
室内の補修について、宮城県は市町まかせ。岩手県では県が設置したコールセンターが住民の相談に応じます。
3日の宮城県議会。日本共産党の三浦一敏県議は、カビで病気になった樋口さんの事例を示し、健康実態調査の実施や、室内も含む補修を求めました。
同日、石巻市議会でも庄司慈明(よしあき)市議が、仮設住宅でぜんそくに苦しむ家族の訴えを紹介。亀山紘市長は自身もぜんそくだったと共感し、「市に相談してほしい」と対策に前向きな姿勢を示しました。
建設遅れる災害公営住宅
「早く仮設から出たいけれど、災害公営住宅の建設が遅れているんです…」。宮城県気仙沼市の仮設住宅で息子と暮らす田村久美子さん(65)は、ため息まじりに話します。
田村さんが入居する同市内の災害公営住宅は、当初2016年3月完成予定でしたが、半年延びて9月に。「仮設はカビが発生し、床も傷んでベコペコ音がする。震災後に体を壊しました。仮設暮らしは本当にきつい」
同市は1月、一部の災害公営住宅建設がさらに遅れると発表。市の説明資料には、遅れの主な要因について「労務確保」「資材調達」「造成計画の修正」王砂運搬先調整」など多様な理由が並びます。市担当課長は「建設を急いでいますが、さまざまな問題が出てきます。今後も人手不足や資材の高騰などが心配」といいます。
完成は2割以下
岩手、宮城、福島3県では、今なお8万人以上が仮設住宅で生活しています。次の主要な住まいとなる災害公営住宅の完成は、いずれの県も遅れています。各県が公表した1月末時点の建設進捗(しんちょく)状況(表参照)によると計画数が3県で計2万9009戸にたいし、完成数は5192戸と2割以下です。
最も遅い宮城県名取市と岩手県山田町の一部地区では、完成は18年度と3年先に。福島県では、用地選定すら進んでいない地区が10力所以上あります。
3県の担当課に聞くと、遅れの原因はほぽ共通しています。
▽用地取得交渉の難航
▽かさ上げが必要な場所も多く困難な土地造成
▽人手不足や建築資材の高騰
▽建設費上昇などで業者と価格が折り合わず入札が不調にー。
重大な国の責任
こうした問題は、自治体の努力だけでは解決が難しく、国の姿勢が問われます。復興庁が1月に発表した「復興の現状と課題」は、安倍内閣の住宅再建の取り組みとして「用地取得の手続き簡素化・運用改善」「労務単価の引き上げ」などを記載。今後の対策として「きめ細やかに市町村を支援」するとしています。
しかし、資材高騰や人手不足につながる無駄な大型公共事業が全国で進められている実態をみると、責任を果たしているとはいえません。
気仙沼市で被災者の生活再建に尽力する日本共産党の秋山善治郎市議はこう強調します。「被災者は、我慢を重ねて仮設で暮らしている。災害公営住宅の完成が遅れると知って、涙があふれる人もいます。転居できても家賃負担や孤独化など困難は続きます。国は、生活再建の要となる住まいの問題にもっと真剣に取り組むべきだ」
(森近茂樹)
元気に 宮古 三陸の復興へ
水産と観光と電子部品のまち・岩手県宮古市-。「目指すのは、熱く大海を照らす漁火。私たちのアクションが漁火(いさりび)となり、人々の心を引き寄せ、宮古の水産業を盛り上げていきたい」と誓うのは「宮古チーム漁火」代表の鈴木良太さん(33)=共和水産代表取締役専務=です。
「チーム漁火」は、旬の鮮度のいい原料を仕入れ・加工、製造・販売する水産加工業の共和水産、かくりき商店、佐々京商店、佐幸商店の若手リーダー4人で構成します。
共和水産は1億3000万円分の原材料が津波で流失しました。「当初はぼうぜんとした」というものの、残った製造工場で2011年4月から操業。他の3社は工場建物が全壊。被災事業者に対する支援措置、グループ補助金(国・県、4分の3補助)などを利用し、復興へ立ち上がりました。鈴木さんは「宮古ブランドの確立へ、地元で仕事をという思いと、とっかかりの仕事がほしいという思いが合致したのが始まりです」と語ります。
最優秀賞に輝く
「チーム漁火」の新商品「岩手県産うにいか」を昨年12月から販売。1月、「第3回宮古市新加工品コンクール」で最優秀賞に輝きました。
「うにいか」は、ビン詰めや塩加減など熟練の技術が得意な、かくりき商店「潮うに」と、素早く繊細に仕上げる共和水産「いかそうめん」を合体させたもの。薬品や添加物を使わず、受け継いできたふり塩の技術、素材の鮮度が自慢です。
仕入れ・1次加工、製造・販売など4社の”強み”を生かして連携し、各社の業績も向上。鈴木さんは「若い人たちが前に出ている産地のほうが元気。夢と希望で盛り上げていきたい」と語ります。
海の恵みを使う
宮古市内の魚市場、ワカメーコンブやカキーホタテの養殖施設は大きな被害を受け、漁船の被害隻数は3漁協で2629隻に。水産加工業も工場被災、販路消滅や風評被害を受けましだ。
宮古市産業振興部の佐藤日出海部長は「国が大枠の復興支援制度をつくり、県制度を加え、市が隙間を埋め、すべての被災事業者を支援して、産業復興をはかっていきたい」としています。
「宮古の未来は豊饒な海の恵みを使った”ものづくり”にあると信じ」る。「チーム漁火」の誓いです。
◇
日本共産党の田中尚・宮古市議団長の話 大井誠治県漁連会長の「ゼロからの復旧を」との要望を受け止め、グループ補助などで、ここまでこられました。浜では6次産業化や担い手の育成などの課題があります。環太平洋連携協定に反対し暮らせる漁業へ頑張ります。
(中東久直)
建築費高騰 自宅再建阻む
「被災者の第一の願いは、住まいの再建だ」
被災者主体の復興を目指す「東日本大震災津波救援・復興岩手県民会議」の代表世話人、前川慧一さん(77)は訴えます。
自身も津波で岩手県釜石市の自宅を失い、再建に奔走。被災者の苦しみを、2月13日の「被災者の声を聰け!国会総行動」で紹介しました。
心労で不眠続く
ー早く自分の家に帰りたいという願いもむなしく、長引く仮設暮らしで体調を崩して、お年寄りが相次いで亡くなっている。
ーエ地を確保しても、建築費がどんどん上がってお金が足りない。足りたとしてもその後の暮らしが不安で、吐き気で眠れない毎日だ。
仮設住宅で暮らす宮城県東松島市の大友昭子さん(68)も総行動の省庁交渉で訴えました。「公営住宅の家賃は高く、再建の支援金は少ない。なぜ被災者をいじめるのですか」
被災者生活再建支援法の支援金は最大でも300万円。住宅再建には足りないことが問題になってきました。
東日本大震災ではこの支援金が、実質ゼロになる事態が起きています。安倍政権の経済政策「アペノミクス」で建築費の上昇に拍車がかかっているのです。
被災地では、床面積100平方びの住宅を地元工務店に発注した場合、震災前より200万円ほど上がっています。そのうえ、より割高な大手ハウスメーカーが供給力の強さで販売を広げ、実際の値上がりは300万円を超えます。
日本共産党の斉藤信岩手県議は、再建の困難から大槌町で災害復興公営住宅の入居希望が当初に比べ一割増になったと指摘します。
建設に一戸あたり2000万円超かかる公営住宅(集合住宅タイプの場合)。自宅再建できないことによる入居者の増加は、自治体にとっても不幸です。
500万円に増額を
こうした事態を受けて、支援金を最低でも500万円に引き上げようと、開会中の通常国会に請願署名57万人分が提出されています。署名は東北6県の生活協同組合連合会が呼びかけました。
また、災害被災者支援と災害対策改善を求める全国連絡会(全国災対連)も拡充を求める署名を呼びかけます。
自身の経済政策で再建をさらに困難にした安倍晋三首相は、どう考えているのかー。(`・ω・´)
日本共産党の山下芳生書記局長が国会で支援金拡充を求めたのに対し、安倍首相の答弁は「慎重に検討」(2月18日、参院本会議)と後ろ向きでした。支援金
は「見舞金」だといい、他の見舞金と比べて多くてはいけないとしたのです。
山下氏は質問のなかで強調しました。
「心身ともに疲弊の限界だ。住宅再建・確保は一刻の猶予もできない」
(本田祐典)
進まない周辺地域の復旧
宮城県石巻市の中心街から牡鹿(おしか)半島に向かい海沿いの道を車で1時間余。半島の先端部に位置し、捕鯨で栄えた漁港の鮎川浜に着きます。
積まれた土のう
鮎川浜をはじめ牡鹿半島で目立つのは、海岸沿いのあちらこちらに積まれた黒い土のう。東日本大震災で地盤沈下したり、防波堤が壊れた場所に設置された仮の防波堤です。石巻市でも半島部の牡鹿や雄勝など周辺地域は、とりわけ復旧整備が遅れています。
「岸壁と防波堤工事を急いでほしい」と望むのは、外房捕鯨鮎川事業所の大壁孝之所長(44)。「捕鯨文化の展示施設など町おこしのプランが決まり期待しているが、肝心のインフラ整備ができないと前にすすめません」
遅れている岸壁整備にはさらなる問題も。鮎川浜は震災で102センチほど地盤が沈下しました。ところが昨年9月にはそこから約20センチ上昇し、隆起が続いています。そのため工事が完成した部分では、満潮時の水揚げ作業や船の乗降に支障が出始めているのです。
牡鹿漁業協同組合の渡辺玲参事(54)は、「県からは、完成した部分の再工事は難しいと言われています。対策として、はしごの早急な設置をお願いしている」と話します。
魚市場再建遅れ
市が鮎川浜に建設する牡鹿魚市場の再建も遅れています。市の資料には、2015年の「3月末の完成を目指す」とありますが、現状は用地整備中です。市担当者は「大きな岩盤が出るなどして手間取っている。現段階で完成時期は確定できないが、急ぎたい」と言います。
牡鹿漁協内の水揚げ量は、震災前の8割程度。渡辺参事は「現在の仮設魚市場では、扱える魚にも制約がある」と語ります。
同時に半島部の水産業復興には、「ハード面の整備だけでは難しい。流通販路の拡充のためにマーケティングの専門家を長期的に派遣してくれるなど、人的支援も必要」と強調します。
しかし、竹下亘復興相は3日、今年度で期限となる「集中復興期間」後の事業費について、「全部を(国費で)負担し続けるのは難しい」と発言。遅れている現状に目を向けない態度です。
半島地域への早急な対策を市に求めてきた日本共産党の庄司慈明市議団長は、こう指摘します。「安倍政権は、国土強靭化の名の下に大型公共工事をすすめています。しかし、優先すべきは、被災地の復興です。地方自治体の力だけでは遅れがちな周辺地域の復旧には国の支援強化が不可欠です」
(森近茂樹)
避難指示 解除されたが…
「避難指示は解除されたけれど…」。東京電力福島第1原発から20キロ圏内で避難指示が出されていた福島県川内村東部で昨年10月、避難指示解除準備区域が解除されました。しかし、県内の仮設住宅には「帰りたくても帰れない」など複雑な思いを抱く被災者が残されています。
私だけ戻っても
郡山市の富田町若宮前仮設住宅に住む鈴木鈴子さん(62)は、「『川内村に帰りたい』という思いはあるが、私だけが戻っても…」と言葉を濁します。放射能の影響を心配する2人の娘から、「お母さんが戻っても私たちは行かない」と言われているからです。
「娘は結婚して、いわき市と須賀川市に家族でいるが、娘の子どもたちが来るのが楽しみ。行かないと言われては、川内に帰る意味がない」と話します。
避難指示が解除されたとは言え、川内村には診療所があるだけで十分な医療体制はありません。鈴木さんは郡山市内の借り上げ住宅に避難中、脳梗塞を起こしました。「これが川内村だ
ったら」と不安をのぞかせます。
「雪が降ったら除雪もままならない。何かあったらと思うと…」。同市の富田町稲川原仮設住宅の秋元トヨ子さん(71)も避難指示解除に戸惑う一人です。
川内村では6人だった家族が、秋元さん夫婦が仮設住宅へ入り、息子家族は借り上げ住宅へとバラバラに。4年たって孫も高校生になり、生活の基盤は郡山市に移っています。
「息子は『戻ってもしょうがないべ』つて。でも国は『帰れ』つて言う。線量が下がっても取った野菜やコメはいちいち検査。すぐに食えなけりや帰ったって意味ないべ」
賠償もされない
「川内村は生まれ育ったふるさと。早く帰りたい」と自宅の建て替えを進める若宮前仮設の久保田ツネ子さん(67)は、東電の賠償姿勢に憤ります。避難指示解除後、東電は精神的賠償を1年で打ち切るとしています。さらに、再建する自宅は、名義が事故前に亡くなった久保田さんの父のままになっていることを理由に賠償を拒否しているのです。
「事故から4年、避難を余儀なくされ、放置された家は床が抜け、天井も落ちて住める状態ではない。これまで固定資産税も私が払って住んできた家を、名義が違うだけで賠償されないのはおかしい」
復興庁が2月20日に発表した住民の意向調査(昨年19一月2日~16日実施)によれば、旧避難指示解除準備区域と旧居住制限区域で「震災発生当時の住居」に暮らす人は20・6%にとどま
っています。
(釘丸 晶)
賠償戦ってこそ前に
福島県民の生活と生業(なりわい)に被害を与え続けている東京電力福島第1原発事故。国と東電が理不尽な賠償の打ち切りに乗り出す中、被災者は、「たたかってこそ賠償を勝ち取れる」と、声を上げています。
国見町の青果卸売業、羽根かゆりさん(48)は、事故の影響で名産のあんぽ柿(干し柿)をつくれません。
羽根さんは福島県農民連を通して東電に賠償請求。震災前のあんぽ柿販売収入額を2011~13
年分、賠償させることができました。
「一人では何もできませんでした。農民連に入って、たたかわなきゃいけないという気持ちになりました」
福島県農民連は、農産物の損害賠償請求運動で次々に成果を勝ち取ってきました。県産米の精密な放射能検査を行う機器の費用も、必要性など条件を満たせば賠償に応じるという回答を得ました。
県農民連の佐々木健洋事務局長は、「生活に関わる賠償金だけでなく東電に責任をとらせることが大事。あきらめている人を残さず、運動を広げたい」と話します。
自主除染費用も
国が決めた「精神的賠償はたった8万円」との指針に怒りが広がり、12年に発足した「完全賠償させる県北の会」は、1000を超える世帯が会員に。粘り強い請求の結果、東電は昨年9月、個人と事業者が自主的に行った除染費用の賠償に応じると発表しました。
原発を進めた国と東電の責任を問い、原状回復と損害賠償を求める「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟は、昨年9月の第4次提訴で原告団が3865人になりました。
「県北の会」事務局長で、生業訴訟原告団の福島支部長も務める伊達市の元教員、菅野偉男(かんの・ひでお)さん(74)は、「怒りを腹の中に収めていては力にならない。これだけひどい目にあったのだから、立ち上がらないわけにはいかない」と語ります。
年の瀬の昨年12月25日、国と東電が営業損害賠償を来年2月にすべて打ち切る「素案」を発表
したことは、県内の業者、業界に怒りを広げています。
切り捨て許さぬ
日本共産党県議団は1月8日、県に素案撤回を求めるよう要請。各業界から実情を聞き、今月3日には東電の担当者に「賠償がなければ次々に倒産する。絶対に賠償継続しかない」と迫りました。県民の批判を浴びた東電は素案の見直しを表明しました。
神山悦子県議団長は語ります。「素案は本格的な福島切り捨てを明確にした内容。東電は見直しを言いましたが、撤回はしていません。あらゆる業界、団体のみなさんと一緒に東電に声を突きつけ、福島を切り捨てさせない連帯をつくりたい」
(細川豊史)
(おわり)
子どもができたとき、何かあったりしたら私たちのせい?
被災の子 心の傷 癒えず
PTSD多発、アトピーも増加傾向
(東京新聞【こちら特報部】ニュースの追跡)2015年3月8日
東日本大震災からまもなく四年を迎える今も、被災した子どもたちの心の傷は癒えない。津波や住環境の変化によるストレスは、体調にまで影響を及ぼしている。
(林啓太)
悩み話せる環境整備を
今月一日、宮城県石巻市の仮設住宅の集会所。震災による津波で児童・教職員計八十四人が死亡、行方不明となった市立大川小の卒業生六人が集まった。仙台市で十四日に開幕する第三回国連防災世界会議に代表者の子が出席し、被災した校舎を「震災遺構」として残してほしいと訴えることなどを決めた。
「まだ僕らの思いが完全に日本の端々までは伝わっていない」。卒業生たちは一見、和やかな雰囲気で議論していた。「こちら特報部」が直接話を聞こうとすると、子どもたちの校舎保存活動を支援するNPO「ここねっと発達支援センター」(仙台市)は「今回はお断りしたい」とさえぎった。
なぜか。佐藤秀明理事長は「子どもは大人が想像する以上に心に深い傷を負っている。マスコミの取材に求められるがままに応じていたけれど、最近になって『実は、震災当時のことを聞かれるのはつらかった』と打ち明けた子もいる。子どもの本心は、ほぼ四年前のままだ」と説明する。
実際、被災地の子どもには、心的外傷後ストレス障害(PTSD)が多発している。文部科学省が二〇一二年度に実施した調査によると、被災地の子どもの約14%にPTSDが疑われる症状が見られた。症状の割合は、地震や津波被害が大きい地域のほうが、少ない地域に比べて多かった。
お茶の水女子大大学院の榊原洋一教授(小児科学)は「急に震えが止まらなくなるとか、夜寝られないといった状態に悩まされている」とみる。
心の傷は身体にも深刻なダメージを与える。
東北大の東北メディカルーメガバンク機構(仙台市)は昨年十二月、被災した子どもにアトピー性皮膚炎が出やすい傾向があるとの調査結果を発表した。
「地域子ども長期健康調査」の一環で昨年六月、宮城県内二十五市町村の小中学生二万八千人の保護者にアンケート用紙を配布し、六千四百五十一人(22・9%)から回答を得た。津波から逃げたり、津波を見たりした経験のある九百十三人のうち二百二十四人がアトピー性皮膚炎を抱えていた。有症率は24・5%と、津波の体験がない子どもの約一・二倍に上った。
仮設住宅で暮らすなど、住環境が変わった子どもについても、千五百七十三人のうち三百六十四人にアトピーの症状があった。有症率は23・1%と、住環境が変わらない子どもの約一・一倍だった。
同機構の菊谷昌浩准教授(疫学・予防医学)は「ストレスからアトピーが発症することはよく知られた事実。津波の経験が背景にある可能性はある」と推測する。
もちろん、大人たちは手をこまねいているわけではない。岩手県は、宮古市や釜石市などに相談所を開設している。宮城県は学校や幼稚園を児童精神科医が巡回する。福島県では、母子で避難している家族を支援する民間団体などを対象に、子どもの心のケアの研修をおこなっている。
ただし、全ての子どもに支援の手が届いているとは言い難い。
榊原教授は「子どもは、自分の思いを言葉にする能力が十分発達しておらず、ストレスを抱えてしまいがちだ」と指摘した上で、「子どもが不安を感じたら、すぐに思いを聴いてあげられる環境を早く整備するべきだ」と強調した。
東日本大震災シリーズ21
大川小学校の今~被災地 宮城・石巻~
http://youtu.be/rkKpn4LOw70
これだけひどい目にあったのだから、立ち上がらないわけにはいかない!
『地震』・雷・火事・『原発』…現代の怖いもの!?≡(( ´Д`)/≡=
Earthquakes of magnitude 8.0 and greater since 1900
3_11の地震が世界的に見ても如何にヤバかったかが分かる動画
https://youtu.be/ndEBCMUqcAk
次の巨大地震 震源地が予想された!地震10件をすべて的中の村井教授「次はココ」
https://youtu.be/grszSCSLzY4
<緊急警鐘レポート>
村井俊治・東大名誉教授がまた的中
徳島震度5強もズバリで
昨年からの「パーフェクト」更新!
MEGA地震予測「最新警戒エリア」MAP
(週刊ポスト)2015年2月16日
独自の地震予測法をもとに一昨年から本誌で次々と大地震の発生を当ててきた測量学の権威が、2015年最初の大地震も的中させた。地震学者から無視され続けながらも、村井俊治・東大名誉教授は地震の予測法の精度を高めるため、日々研究を重ねている。最新調査は次なる危険地域を示した━━。
MEGA地震予測とは
村井氏が予測に利用しているのは国土地理院が全国約1300か所に配備する「電子基準点」のGPSデータ。2000~2007年に発生した162回のマグニチュード6以上の地震のGPSデータをすべて分析した結果、揺れが大きかった付近の基準点では地震の前に「土地の微細な変動」が観測されていたことが判明。そこで、同氏は1週間の間に基準点がどれだけの上下動があったかに注目し、4センチ上の変動があった場合を「警戒ライン」とした。現在は、その基本的な考え方に、地表の隆起・沈降の値を一定期間累積した「累積変位」と、地表が東西南北のどの方向に動いているかの「水平方向の動き」の分析を加味し、過去の地震発生の前兆現象と比較した上で、地震発生の可能性を予測している。
最大震度の町からわずか35キロ
2月6日午前10時25分、徳島県南部地震が発生。今年初めて震度5以上の揺れを記録した。
本誌1月5日発売号に掲載された東大名誉教授・村井俊治氏による『MEGA地震予測が示した2015年「最警戒エリア」』を読んだ読者は「また当たった!」と驚いたに違いない。同記事で徳島県は、村井氏が警戒ゾーンとして挙げていた「南海・東南海」に含まれており、特にゾーン内で「異常変動地点」としたのが徳島県の「木屋平」だった。最大震度5強を観測した同県牟岐町からはわずか35キロしか離れていない。
村井氏は自身が顧問を務める民間会社JESEA(地震科学探査機構)が週1回発行するメルマガ『週刊MEGA地震予測』の12月17日号でも。
〈(南海・東南海エリアの中でも)特に徳島県で異常変動が顕著でした〉
〈徳島県を中心に、かなりの歪みが蓄積されていると考えられます〉
と、徳島県に警戒を呼びかけていた。同県で震度5以上の地震が発生したのは1946年の南海地震以来69年ぶりだ。
昨年、国内では震度5以上の地震が8回発生した。村井氏はこのすべてをメルマガや本誌記事で事前に予測、的中させた。中でも、圧巻は11月22日に最大震度6弱を記録した長野県北部地震。特に被害が大きかった北安曇郡白馬村を「異常変動地点」として名指ししていたのである。
そして今年の徳島県南部地震発生で、昨年からの「パーフェクト的中」を更新し続けている。ここまでの実績を誇る地震予測は現時点では他にない。
精度を高める「村井流ノウハウ」
MEGA地震予測の理論は右下の囲みにまとめた通りだが、簡単にいえば、全国に張り巡らされた「電子基準点」のデータを使って「土地の微細な変動」を分析し、地震発生の可能性を予測するものだ。
しかしピンポイント的中を重ねる一方で、今も批判の声が静まらないのも事実だ。特に地震学の専門家から多いのは「電子基準点の短期的な上下動の数値データのみで予測するのは乱暴だ」コアータは地殻の変動だけではなく誤差も含んでいるので信用できない」という意見である。
村井氏はこう反論する。「確かにデータは地表の数値ですから豪雨や豪雪など気象条件の影響で誤差が出る。私は誤差を考慮した上で、数値の異常が地震発生と高い相関関係にあると確認している。『週刊ポスト』のマップで示している短期的な上下動に加えて多角的分析と積み重ねたノウハウに基づいて予測の精度を高めています。
完全に誤差が排除できないから使えないというのは地震学など理学的発想ですが、そのアプローチではこれまで長い時間をかけても国民に信頼される予測を実現できなかった。工学を研究してきたエンジニアである私の使命は、今得られる最善のデータと今考え得る最良の方法で地震予測を行なうことなのです」
村井氏の多角的な分析の大きな柱は「累積変位」と「水平方向の動き」だ。累積変位とは、地表の隆起・沈降(上下動)の値を一定期間累積したもので、長期間にわたり蓄積した歪みを把握するのに役立つ。一方、水平方向の動きは特定範囲の電子基準点が同一方向に動いているのに、一部の電子基準点だけが別方向に動いていれば、その域内に歪みが生じていると推測できる
前述した徳島の震度5強も総合的に判断して導き出したものだ。
「昨年8月に木屋平で大きなL下動が確認されていました。加えて『累積変位』を見ると、四国全体が隆起傾向にあるのに対し、徳島県と高知県の南部周辺だけが沈下し、水平方向の動きでも周囲と違う動きをしていた。そのためこのポイントに大きな歪みが蓄積されていると考えたわけです」(村井氏)
「北信越」「奥羽山脈」に警戒
電子基準点のデータは常に変動を続けている。そのため、地震発生に備えるには、定期的に情報をアップデートする必要がある。本誌は今回、JESEA協力のもと、1月の電子基準点のデータを反映した最新マップを作成した。
村井氏は通常、電子基準点の上下4センチ超の動きを異常変動とするが、このマップでは大地震の危険性が高まる「5センチ以上」の変動を記録した電子基準点をマークで示した。特に「7センチ以上」の動きを示した基準点には地名も記した。その上で、警戒ゾーンの指定には前述の「累積変位」と「水平方向の動き」を考慮している。
今回、新たに加わったのが、富山、石川、福井、新潟、長野の5県に岐阜県の一部(飛騨地方)を加えた「北陸・北信越警戒ゾーン」だ。全国的に動きが少なかった昨年11月~今年1月にかけて異常変動が記録されたため、「最警戒」と考えられる。
■北陸・北信越警戒ゾーン
昨年9月に御嶽山が噴火した後、前述の長野県北部地震が発生した。
「震度6弱の地震が起き、火山活動も低下したため、エネルギーは放出されたと考えた。しかし地震の1か月後に2~3回、一斉異常変動が見られたため、まだエネルギーは溜め込まれており、再び同程度かそれ以上の地震が起こる可能性があると見ています」(村井氏)
過去の例から、大半の地震は異常変動が記録されてから半年以内に発生している。そのため、今年7月までは注意が必要だ。
■奥羽山脈警戒ゾーン
この地域は、昨年9~10月に異常変動があった上、累積変位からも北信越と同等の警戒が必要という。
「4年前の東日本大震災発生時には大きく沈降していた太平洋側が一転して隆起している一方で、奥羽山脈から日本海側にかけては大きく沈降している。経験則として沈降状態の地域は地震発生時の震度が大きい」(村井氏)
■北海道十勝・釧路・根室警戒ゾーン
「水平方向の動き」で要警戒なのがこの地域だ。
「北海道のほとんどの地域は南東に動いているのに、釧路・根室地域だけは北西に動いており、歪みが溜まっていると見られる。1月9日に根室地方中部で震度4の地震が起きたが、それ
だけでは終わらない可能性があります」(村井氏)
■首都圏・東海警戒ゾーン
常に大地震が警戒されてきた地域だ。
「上下動に関しては大きな動きがないように見えますが、注目すべきは水平方向の動きです。周辺のほとんどの基準点は南方向に動いているのに、千葉県の房総半島、神奈川県の三浦半島、東京都の伊豆諸島だけは北に動いているので、その周辺地域で注意が必要です。関東大震災の震源は神奈川県西部の大井付近とされており、首都直下型でなく、他のどこで地震が起きても地盤の緩い都心部は大きく揺れます」(村井氏)
■南海・東南海警戒ゾーン
2月6日の徳島県南部地震は、南海トラフ地震の前兆とも報じられている。
「和歌山、徳島、高知の太平洋沿いは北西に動いているのに、他の地域は南東に動いており、ここも歪みが溜まっていると見られる。今回の地震の震源は約10キロと浅いため、さらなる大地震の予兆という可能性もあるでしょう」(村井氏)
■九州・南西諸島警戒ゾーン
昨年8月と10月に屋久島などで7センチ超の異常変動が見られた。
「それらは昨年8月の口永良部島の噴火や11月の阿蘇山噴火の前兆だった可能性もある。このまま収束に向かえばよいのですが、念のため前回の異常変動から半年後にあたる4月までは警戒は解かないほうがいい」
※
MEGA地震予測には「警戒ゾーンが多過ぎる」という声もある。だが、村井氏は「データに忠実に予測しているだけです。それだけ日本の地表は動いている。恥をかくことを恐れて異常があるのにそれを知らせずに被害が拡大することのほうが怖い」と、あえて警戒ゾーンを絞り込まずに提示している。何より、村井氏の予測が実際に的中しているという事実は重い。本誌は今後も同氏の最新調査と警告を伝えていく。
スゴ過ぎる!地震予測を次々と的中させる村井名誉教授
https://youtu.be/r0hPD4-uTSU
2014/03/17 (再掲)
3.14 伊予地震は予測されていた:測量学が挑む新たな地震予測
~岩上安身による村井俊治氏インタビュー
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/129791
9月16日に地震が起きた北関東を、事前に警戒ゾーンに指定していた 東京大学名誉教授 村井俊治氏。既存の地震学にとらわれず、新しい地震予測手法を提唱する村井氏への、大変興味深いインタビュー内容となっております。この機会にぜひサポート会員となってご覧下さい!会員登録はこちらから
3月14日未明に愛媛県を中心とした四国・中国地方・九州一帯で大きな地震が発生(伊予地震)。震度は最大で5強、マグニチュードは6.2を記録した。甚大な被害こそ報告されなかったものの、震源は愛媛県に立地する伊方原発から44kmの距離に位置し、新たな原発が建設予定である山口県上関町からはわずか10数kmしか離れていなかった。
岩上安身が3月17日にインタビューしたのは、この伊予地震の発生を予測していた東京大学名誉教授の村井俊治氏。測量学が専門である村井氏は、既存の地震学にとらわれない新しい地震予測手法を提唱している。インタビューでは実証データを交えながら、伊予地震予測の解説や、東日本大震災の検証が行われた。
記事目次
地震学によらない地震予測
東日本大震災の前兆
伊予地震と次の巨大地震
■イントロ動画
https://youtu.be/K3PbGNYtccw
地震学によらない地震予測
村井氏は自らを「工学系のエンジニア」と呼び、地震予測に対する自身のアプローチを「地震のメカニズムは一切考えない」ものだと説明する。「地表のデータの動きと地震発生との関連について相関分析するのがエンジニアリングの立場。地表のデータからでも、地震という事象を説明できる」のだという。
現在の測量技術では、人工衛星と地上の電子基準点とを組み合わせて運用される「衛星測位」という手法が主流だ。「衛星測位」を通じ、陸地の「微妙」で「微小」な動きを捉え、データとして記録することが可能になったという。日本では国土地理院によって全国1200カ所に電子基準点が設置され、国際的にも高い精度で測量データの収集が可能である、と村井氏は語る。
村井氏が顧問を務める地震科学探査機構(JESEA)では、地表の隆起・沈降現象のデータを継続的に記録し、地表各地の上下変動幅の傾向を分析することで、地震の前兆を読み取る試みを続けている。
現在、電子基準点は全世界を覆い、巨視的な視点から観測データの比較分析が可能とのこと。「北半球で巨大地震が起きるときには、南半球でも前兆現象があることが、測量学ではわかっています。ところが、地震学では活断層など局所的な議論にとどまっている」と村井氏は話す。
東日本大震災の前兆
「衛星測位」を用いて記録された隆起・沈降の変動データからは、東日本大震災の「異常」な前兆も読み取られていた。岩手、宮城、福島県内の各基準点では、地震発生の約半年前に一斉に隆起・沈降が発生。この「一斉変動」は2010年9月11日、10月23日および2011年1月8日に観測され、時系列データからは当該日付のみ同時発生的に各基準点において隆起・沈降が発生したことが確認できる。
村井氏が悔やむのが、この「異常さ」を広く周知できなかったことだ。「これを『異常だ』と言わなかったので、震災で多くの人が亡くなった。それで私は考え方を変えました。『異常だ』と言って予測が当たらなくても、しょうがない。だけど、『異常だ』と言わないで人が死んだら、もっと罪深い」。(IWJ・藤澤要)
伊予地震と次の巨大地震
三月中に平成南海地震がくるかもしれない 東大名誉教授地震予知
https://youtu.be/VAX7buQg34E
これはこの国の宿命なのか 3・11直前と似てきた 多くの専門家が心配する 巨大地震がまた来るかもしれない
(週刊現代)2015年03月03日
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42301
東京に巨大地震が来れば、3・11同様に津波の大きな被害が……〔PHOTO〕gettyimages
お気づきだろうか。不気味な余震、地下水温の上昇、深海生物の大量発生……東日本大震災の直前と同じような異変が増えている。われわれの国は、巨大地震から逃れることはできないのだろうか。
先日の地震が意味するもの
日本列島が、3・11の直前の状況に似てきている。近々、また巨大地震が起こるのではないだろうか—地震の専門家たちの間で、こんな不穏な噂が囁かれている。
なぜいま、そんな話が持ち上がっているのか。
発端となったのは、2月3日、筑波大学やスイス連邦工科大学の研究グループが発表した衝撃的な研究結果だった。
この研究を行った筑波大学准教授のボグダン・エネスク氏が語る。
「我々は、太平洋プレート上で起こる地震活動を'98年から調査してきました。東日本大震災が起きたことで、プレート境界に溜まっていた地震のエネルギーは一気に放出されました。研究結果から推測すると、その地震エネルギーのレベルが、昨年9月までに震災前と同じレベルに戻ったと考えられるのです」
巨大地震は、長期間にわたって徐々にエネルギーが蓄積し、それが限界に達すると発生すると考えられている。東日本大震災のような大地震が起きると、地震によって放出されたエネルギーがもとの状態に戻るのには、10年程度はかかると思われていたため、専門家の間で大きな話題となった。
エネスク氏が続ける。
「これまでは、大地震はある程度の間隔をおいて規則的に発生すると考えられていましたが、それを否定する結果となりました。大地震は不規則に起きるということです。大きな地震が来たから、その後の数十年は大丈夫だろうという『安全な期間』はないと言えます」
大地震が心配される二つ目の理由は、2月17日に岩手沖で発生した2つの地震だ。
その日、午前8時6分に発生した地震はM6・9。各地で震度4の揺れを観測した。津波注意報が発令され、約6300人が高台に避難。岩手県で最大20㎝の津波が観測された。同じ日の午後1時46分。今度は、M5・7、青森県で最大震度5強となる地震が起こった。
じつは、東日本大震災が起こる少し前にも、三陸沖で同じような地震が観測されている。
'11年3月9日、午前11時45分のことだった。M7・3、宮城県では震度5弱を観測した。まさか、この後に、M9、最大震度7の巨大地震が起こるとは誰も予測していなかっただろう。
気象庁の発表によると、先の2月17日の地震は「(4年前の)東日本大震災の余震と考えられる」というが、「余震だから心配ない」などと油断はできない。
元東京大学地震研究所准教授の佃為成氏は、次のように警告する。
「歴史的に見ると、巨大地震が起こったあとには、本震よりマグニチュードで1程度小さい規模の余震がかなりの確率で起こっていることがわかっています。しかし東日本大震災が起きたあと、そのレベルの大きな余震は来ていません。そのため今後、最大でM8の余震が起こる可能性が大いにあるのです」
日本列島の「不穏な動き」はこれだけではない。
佃氏は、長年にわたって地下水温と地震との関係の調査を続けているが、そこでも異変が見つかっているという。
「新潟県阿賀野市の出湯温泉というところで、地下15mの泉源の温度を観測しています。3・11の前には、普通では考えられない水温の急上昇があり、その後、地震が起こりました。そして最近、また気味の悪い動きがあります。ずっと停滞していた水温が、急上昇したのです。これは、地震前の地殻活動が始まったことを示していると考えられます」
首都圏がもっとも危ない
3・11前には、深海魚のリュウグウノツカイなどが引き揚げられたというが、最近はこんな「前兆」も観測されている。
「昨年から、日本海でダイオウイカが数多く発見されています。ダイオウイカは海底600~1000mに生息する深海生物なので、海面近くに上がってきて捕獲されるというのは、異常事態。
魚介類は電磁波には非常に敏感なため、地震との関連が推測されます。地殻が動いて電磁波が放射されている可能性があるのです」(元前橋工科大学教授・濱嶌良吉氏)
現在、日本列島に起きているさまざまな異変。これはまさに「3・11の直前と同じ状態にある」と言っていい。常に巨大地震の危険にさらされるのは、もはやこの国の宿命なのだろうか。
では、具体的に巨大地震が来るかもしれない地域はどこなのか。多くの専門家がもっとも危険視している場所は、日本で一番人口が密集する「首都圏」なのだ。
なぜか。
武蔵野学院大学特任教授の島村英紀氏が解説する。左に記した図も併せて見てほしい。
「東日本大震災は、日本列島の東、南北500kmにわたるプレート境界付近で発生しました(図中の『2011年3月11日の震源域』部分)。境界の東側の太平洋プレートが、西側の北米プレートの下に滑り込んでいるのですが、沈み込んだプレートがそのひずみに耐えられなくなり、元に戻ろうとして地震が起きた。
しかし、両プレートの境界はこの500kmだけでなく、さらに南北に長く続いています。沈み込んだ太平洋プレートのひずみ、つまり地震エネルギーは境界の南北にはずっと溜まったままというわけです。
東日本大震災は、太平洋プレートの深いところで耐えていた『留め具』が外れた状態。そこ以外の南北のプレート部分は、エネルギーのバランスが崩れたことで、より地震が起きやすくなっているのです」
そんな中、2月17日に太平洋プレートと北米プレートの北側の境界で地震が発生した。これによって、北側のエネルギーは多少なりとも発散されたことになる。
島村氏が続ける。
「一方、南側の房総沖では大きな地震はこのところ起きていません。プレート境界の南側、つまり房総沖では地震エネルギーが発散されずに蓄積され続けているということ。ここで大きな地震が生じて、首都圏に被害が及ぶ可能性が高まっているのです」
房総沖はいまだに地震が起きていない「空白の地帯」。いますぐ巨大地震が起こってもおかしくない「もっとも危険なエリア」なのだ。
東京湾に津波が発生
それ以外に、首都圏は大地震のこんなリスクも抱えている。前出の濱嶌氏が言う。
「房総沖には、日本海溝、伊豆・小笠原海溝、相模トラフという3つの海溝(プレートが沈み込んでできる溝)が集まる『三重会合点』と呼ばれる場所があります。このように3つの海溝が1点で接する場所は、世界で唯一です。
東日本大震災が日本海溝で起こったことで、三重会合点の力のバランスを取るために他の2つの海溝が動き、その2つの海溝で地震が起こるリスクが高まっていると言えます。
さらに'12年には、伊豆小笠原海溝で300km、160kmに及ぶ2つの巨大な活断層が発見されました。ここでM9クラスの巨大地震が発生する可能性も充分ありえます」
この房総沖で巨大地震が起きた場合、その被害は凄まじいものになるという。
「東京湾に5~6mの津波が押し寄せる危険があります。東京湾は閉鎖的な空間のため、海水が逃げる場所がない。津波が来たら、湾岸の臨海工業地帯は壊滅的な被害を受け、3000基ともいわれる燃料タンクが破壊されます。大規模な火事が発生することは避けられません」(前出・濱嶌氏)
東日本大震災から、もうすぐ4年が経過する。「もう4年」と思う人もいるかもしれないが、被災地の人々にとっては「まだ4年」。
あれほど大きな被害を受けたのだから、2度目はないはず—そう思いたくもなるが、日本に住んでいる以上、地震のリスクから逃れることはできないのである。
「週刊現代」2015年3月7日号より
石橋克彦 私の考え
http://historical.seismology.jp/ishibashi/opinion/2011touhoku.html
2011.05.23 参議院 行政監視委員会
原発事故と行政監視システムの在り方
https://youtu.be/p-kfc6o8OPE
参考人 石橋克彦(神戸大学名誉教授)
小出裕章先生:日本ではオリンピック等ということで浮かれていて…それどころでは本当はない。
東日本大震災から4年、被災地からの声
(ラジオフォーラム#114)
https://youtu.be/hvZz06hYoUk?t=14m32s
14分32秒~第114回小出裕章ジャーナル
原発事故から4年「敷地の中全体が放射能の沼のような状態になってしまっていて、毎日毎日どんどん海に向かって汚染が流れ出ていってるわけです」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no114/
景山佳代子:
3月11日にですね、東日本大震災から4年が経過しました。小出さんからは、この間ずっと原発事故の収束がいかに難しいものなのかとか、日本の原子力エネルギー政策、それがいかに電力会社、経済界、それから日米外交の利権にまで関わって進められてきたものだということとかを、ほんとに分かりやすく伝えてきてもらったと思います。ありがとうございました。
小出さん:
いえ、こちらこそありがとうございました。
景山:
今回はですね、事故からのこの4年の状況を踏まえて、ほんとに実は燃料取り出し労働者の確保、それから今まで私も伺わせてもらった汚染水対策とか、それから移染の問題、放射性廃棄物の処理とか、ほんとにいっぱいいっぱい緊急を要する課題があるんですけど、これらの課題をどうしても優先順位付けて取り組んでいかなきゃいけないっていうふうに考えたら、小出さんでしたら、どういう優先順位で問題解決取り組まれるのか。もし、ご意見あったら伺いたいなと思ったんですけど。
小出さん:
はい。まずは、この間ずっとなわけですけれども、放射能で汚れた汚染水という物が原子炉建屋の中、タービン建屋の地下、トレンチ、ピット、立て坑というような地下のトンネル構造物などにもう溢れてしまって、それが、あちこちから地下に染み出してしまっているわけです。
福島第一原子力発電所の敷地の中全体が放射能の沼のような状態になってしまっていて、毎日毎日どんどん海に向かって汚染が流れ出ていってるわけです。
それをとにかく何とかくい止めなければいけないということが、まずは緊急の課題だと思います。ただし、そのためにやらなければいけないことはいくつもありまして、例えば、これまでは溶け落ちた炉心の冷却のために、水をひたすら4年間かけ続けてきたわけですけれども、「もうこれ以上、水をかけるという作業は止めなければいけない」と、私はもう2年ぐらい前から発言をしてきました。
景山:
ずっとおっしゃってましたよね。はい。
小出さん:
はい。金属で冷やす、あるいは最近では、もう空冷もできると私は思いますので、水をかけて汚染水を増やすということ自体をまず止めるということが必要だと思います。
そしてもうひとつは、地下水がどんどん壊れた原子炉建屋の中に流れ込んできていますので、それをくい止めなければいけません。それについては、私は2011年の5月から「原子炉建屋周辺に地下の遮水ダムを造らなければいけない」と発言を続けてきていますが、それすらがまだなされないまま放置されてきています。
最近になって、国と東京電力は、やはり遮水壁は必要だということに気が付いたわけですが、それでも造ろうとしてる遮水壁が凍土壁という物なのです。土を凍らせて、凍らせた土で壁を造るというような計画を立てています。しかし、その壁というのは、深さが30メートルもあって、壁の長さは1.4キロにも及ぶというような壁なのです。
そんな壁を造ったことは経験的にもありませんし、四六時中凍らせておかなければ壁が崩れてしまうという物なわけですから、長い年月維持できる道理もありませんし、おそらくその壁はできないだろうと私は思っています。やはり、もっときちっと計画を立てて、凍土壁ではないきちんとした遮水壁という物を一刻も早く造らなければいけないと思います。
景山:
はい。作業員の方をどういう形で確保していくかということも、実は重要な課題になっていくかと思うんですけれども。
小出さん:
はい、大変な問題だと思います。チェルノブイリ原子力発電所の事故が起きた時には、60万人とも80万人とも言われるほどの労働者を確保しなければなりませんでした。軍人、退役軍人、普通の労働者、あるいは一部には囚人という人達もいたそうですけれども、とにかく被ばくをしながら、大量な労働者で作業にあたったわけです。
今、日本ではオリンピック等ということで浮かれていて、そちらの建設労働の方にたくさんの労働者が吸い上げられていってしまってるわけですけれども、それどころでは本当はない。
私たちの東京五輪は1000年は延期しないとダメです
景山:
ないですね。
小出さん:
きちっと福島の事故に対処するための労働者というものを確保しなければいけないと、私は思います。
https://youtu.be/dmLqOmHwivM
景山:
でも現実、じゃあどうやって確保したらいいのかっていうのも、これも実は東電、あるいは国もその方向が見えないのかなあと思うんですけれども。
小出さん:
大変デタラメな国だと私は思いますけれども、現場で働いてる労働者はもちろん、東京電力の社員ではなくて、まずは、元請が東京電力から仕事を請け負いまして、ピンはねした上で次の下請けに仕事を下ろす。そして、次々に下請けにピンはねをしながら仕事を下ろしていくわけで、7次8次9次10次というようなものすごい下請け関係の中で、現場で働く人達がかり集められているのです。
東京電力が払った賃金が次々とピンはねされていって、労働者の手に入る時には最低賃金にも満たないというような本当に劣悪な状況の下で労働者が今、かり集められています。
そして、私が何よりも問題だと思うのは、被ばく作業には被ばくの限度というものが決められていますので、
被ばくが限度に達してしまうと、その労働者は実は首切りされてしまうのです。
仕事を失ってしまうということになりますので、労働者の方としては、何とか自分の被ばくを値切って、あまり被ばくをしていないのだというふうに見せかけなければ、首を切られてしまう、生活が成り立たなくなるというような状態になっているわけです。
被ばく作業に従事する労働者は、きちっとした雇用関係の中で生活を保障するというような体系を作らねければいけないと、私は思います。
景山:
そうですよね。それから、私、実は4年前にですね、福島第一原発がバンと白煙を上げたあの映像を見た時に、もうほんとに怖かったですね。放射能は何なのかとか、そういうことが全く自分が分かってない、その中で映像を見て、「これから日本どうなるんだろう」とか、凄く心配したんですけれども。逆に今、ほんと皮肉なことなんですけれど、原発作業現場の方達ですよね、この方達の日々の努力によって、そういったメディアにパンと出てしまうような分かりやすい危険っていうのが見えなくなって、逆に、私達だんだん4年経って、福島のことをもう終わってきたのかなというふうに、収束してしまったのかなと。こういった記憶のすり替えというのか、認識が間違っていくというのがあって。
でも、やはり小出さんがおしゃって下さってるように、目に見えないんだけれども、問題は全く終息していない、ずっと継続してるんだと。これを改めて、この4年という時間で、もう1回私達、福島のこと、何も変わってない、あるいはもっと悪くなってることだってあるんだっていうのを覚えておきたいなというふうに思いました。
小出さん:
はい。景山さんを含めて、ラジオフォーラムが頑張って下さってるので有難く思います。
景山:
小出さん、今日はどうもありがとうございました。
小出さん:
いえ、ありがとうございました。
環境市民Channel
汚染水はアンダーコントロールされていない!
出演:小出裕章先生
https://youtu.be/8hOx971KoTA
汚染水処理を2015年3月までに終わらせると言っていた東電が、5月末まで期限を延長しました。しかし、実態はそのような期間で処理できるはずもなく、地下水は流れ込み汚染水は毎日増えています。汚染水はアンダーコントロールできていないのです。これらの現状を踏まえて小出先生にお話をうかがいました。
汚染水処理 ゴール遠く
(東京新聞)2015年3月10日
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/archive/fouryears/150310_3.html
東京電力福島第一原発で事故から四年たっても逃れられない課題が汚染水だ。原子炉内に溶け落ちた核燃料は安定して冷やせているものの、注入された冷却水が高濃度汚染水として建屋地下に漏れ、流入する地下水で水量が増え、その処理に追われる状況は何も変わっていない。
これまでに処理された汚染水量は約百十七万トンと、霞が関ビル二棟分以上に上る。冷却水に再利用できない分は、タンクを増設しここにためている。
タンクは水漏れの懸念があるボルト締め型から耐久性の高い溶接型への置き換えが進められ、トリチウムなどを除くほとんどの放射性物質を除去できる除染装置(ALPS)なども続々と投入。タンクの水が再び処理され、リスクは少しずつ低下してはいる。
一方、海の汚染はまだ止まっていない。ずっと沖合の海水からも、福島第一からの放射性セシウムが検出され続けている。二月末には、建屋近くに設置されている排水溝から、外洋に汚染水が垂れ流しになっていたことが発覚。東電は流出を知りつつ一年間以上も放置し、公表せずにいた。
現場では作業工程を急(せ)かされるあまり、死傷事故も多発している。一歩一歩、焦らず地道に進んでいくしかない。
汚染水漏れ1年以上前報告 規制委、対策指示せず
(東京新聞)2015年2月26日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015022602000132.html
東京電力福島第一原発の排水溝から、高濃度の汚染水が外洋に漏出している問題で、原子力規制委員会は遅くとも二〇一三年十一月、東電から漏出の報告を受けていたのに、排水溝の付け替えなど有効な対策を明確に指示していなかったことが二十五日、規制委や東電への取材で分かった。現在も、外洋への汚染は続いている。
汚染水に追われ遠い廃炉
苦闘続く福島第1原発 現場のいま
(しんぶん赤旗)2015年3月4日
構内の森や桜並木は切り倒され、灰色のタンク群が広がります。水素爆発で大破した原子炉建屋は姿を変えましたが、内部の放射線量は依然高い。事故から間もなく4年。東京電力福島第1原発は汚染水対策に追われながら、遠い廃炉への道を手探りで進んでいます。
2月26日、第1原発に時事通信記者が入りました。雨の中、1号機原子炉建屋の西約100メートルの高台でバスを降りると、東電の担当者が「放射線量が高いので短時間でお願いします」と注意を促しました。線量計は毎時300マイクロシーベルト前後を示しました。
無残な壁
1号機を覆う白いカバーは、解体に向け準備が始まつています。南側には爆発を免れた2号機。その脇にある大物搬入口の屋上にたまった放射性物質を含む雨水が、排水路から海に流出したことが明らかになったばかり。
隣の3号機は水素爆発で原子炉建屋上部が吹き飛びました。放射線量が高いため遠隔操作で大きながれきを撤去し、上部は平らになっています。使用済み燃料プールからの燃料取り出しに向け、建屋はクレーンなどの足場になる構台で囲まれましたが、2号機側で崩れた壁が今も無残な姿をさらしています。
廃炉作業が最も進んでいるのは4号機。事故当時は定期検査中で原子炉内に燃料がなく、炉心溶融(メルトダウン)を免れました。燃料プールに1535体も燃料があり危険視されましたが、昨年12月に取り出しを終えました。
燃料プールがある5階に上がりました。放射線量は毎時10マイクロシーベルト。プールには制御棒などが残っていますが、他の作業を優先するため水を張ったまま置かれています。
灰色地面
構内の樹木は多くが伐採され、汚染水を保管する夕ンクが800基余り並びます。あちこちで表土が削られ、雨水が地面に染み込むのを防ぐため灰色のモルタルが吹き付けられていました。染み込んだ雨が建屋地下に流れ込み、汚染水が増えるのを防ぐためです。
東電は汚染水の増加抑制策として、地下水のくみ上げや建屋周囲の土壌を凍らせて「氷の壁」を造る計画を進めていますが、担当者は「(地面を覆う)フェーシングは効果が高い」と期待します。
プレハブの上に大きな文字で「子供たちの未来のためにがんばろう」と掲げられていました。第1原発では1日6000~7000人が働きます。正門脇には3階建ての仮設休憩所が2棟。企業ごとに分かれ、カーペットの座敷で作業員が休んでいました。
福島第一原発 カメラが追った“原発作業員の日常”
https://youtu.be/L1AIVrzuz6w
元原発作業員の告発
https://youtu.be/Y6ahEibI1fA
元原発作業員の林哲哉さん。2012年の夏から秋にかけて東京電力福島第一原発の収束作業に携わった。私たちが普段知る事のできない、イチエフの映像や情報を元に現場の抱える課題を赤裸裸に明かしてくれた。
ーこれはいつ頃の映像ですか?
2012年の10月27日ですね。
ーこんなに流された車が山積みになっているんですね。
これは海側、おそらく今も海側はこのままで片付けている余裕がないと思います。ここにかまっている余裕がないです。がれきの撤去をやっている人もまだ3号機の建屋の上のがれき撤去などに追われていますから。そちらを先にならなければいけないから。
ー原子炉建屋の海側で線量はどれくらいですか?
このあたりで、自分の持っている線量計で毎時300から400μSvでしたね。回り込んで山側の方、建屋の横に行くと高いところだと毎時800から900μSvの値です。
ー相当高いですね。800、900というとどれくらいで許容範囲を超える値ですか?
結局、800、900ということは1時間に1mSv近くなので、24時間仮に浴び続けたら24mSv近いですよね。ということはイチエフ(東電福島第一原発)の作業が年間で20mSvまでという基準があるとしたら、丸24時間そこで働いたら1日で達してしまうという値ですよね。一般の人が年間で浴びてよいのが1mSvだとしたら、1時間で達してしまうという高さです。だから、全然人影見ないじゃないですか。殆ど人の姿がないですよね。
ー本当ですね。まるで休日のオフィス街のように人の行き来が殆どないですが、これはどこの現場の映像ですか?
これは2号機の隣です。そして、この奥が3号機。クレーンも動いていないし、人影も見ないじゃないですか。結局、自分が思うには毎日2000人から3000人作業に入っていると言われていますが、本丸にアプローチできる人というのはごくわずかだし、ごく短い時間しか作業ができないから。普段クレーンが動いているのは滅多に見ないですし、人影を見る事もあまりないんですよね。今、やっている収束作業というのは建屋から離れたところで、冷やして水をくみ上げてくるというのがメインではないかなと。自分は1ヶ月半イチエフで働いていましたけど、ここの間で人を見たというのは滅多になかったですから。
"多重下請け"はびこる原発収束作業員の実態
https://youtu.be/vSwrvM6ihVw
福島第一原発作業員、危険作業は5次下請け 3日で線量オーバーでポイ捨て
(週刊朝日)2013/12/ 4
http://dot.asahi.com/wa/2013120300073.html
福島第一原発で収束作業に関わった元作業員が、東京電力などに不当労働行為があったと、東京都労働委員会に救済命令の申し立てをした。そこで明らかになった衝撃の事実とは……。ジャーナリストの桐島瞬氏ほかが取材した。
厚生労働省で11月28日に行われた会見に詰めかけた報道陣に怒りの告発をしたのは、長野県在住の林哲哉さん(41)だ。
林さんは昨年6月、5次下請けのRH工業に1年間の契約で雇われた。仕事の内容は、福島第一原発の収束作業で使う道具の貸し借りや、作業員の身体に付着した放射性物質の測定。だが、実際は違った。
「作業を始める前に、1次下請けのエイブルの担当者から『放射線量の高い場所で、除染装置の攪拌(かくはん)機の交換作業をしてもらう』と言われました。しかも、全面マスクだけでは放射性物質を吸い込んでしまう危険があるため、酸素ボンベを担いでの作業だったのです」
現場の放射線量は毎時60ミリシーベルトほどにも達する。そんな危険な場所で、1日約5ミリシーベルト被曝するまで作業を続けろと言われた。もともと被曝線量の低い仕事だと思っていたのに、その違いに驚く。RH工業に問いただすと、予想外の答えが返ってきた。
「担当者は『大丈夫、1日1ミリシーベルトを浴びても、8日経てば初日の1ミリが半減してゼロになる』と言うのです。おかしな説明だし、そんなに大量に被曝したら、どう考えても1年も原発で働けません」
労働安全衛生法では、原発作業員の通常時の累積被曝限度を5年間で100ミリシーベルト以下、かつ1年間で50ミリシーベルト以下と定めている。しかもRH工業の元請け企業である東京エネシスが定める上限は年間16ミリシーベルト。つまり、1年間どころか、たった3日で原発での仕事ができなくなる「使い捨て」だったのだ。
幸いなことに、作業初日の数日前に除染装置が故障したことで、予定していた作業は他に振り替えられた。だが、腑に落ちない林さんは、エイブルの現場責任者に質問をする。20歳そこそこの同僚に高線量作業をさせるのは、おかしいのではないかと抗議した。
「そしたら、RH工業からその日のうちに首を言い渡されて。お客さんに意見をしたことが気に障ったのでしょう。エイブルから『林はもう来させなくていい』と言われたそうです」
契約期間の1年どころか、配置転換もなく、作業初日に首になってしまった。
こうした使い捨てが起きる原因の一端は、多重下請け構造だ。林さんの場合、東京電力を筆頭に、7社が絡んでいる。
多重下請けはもともと、需要変動に応じて専門作業員を集めやすくするためのもの。だが、下請けの序列が下がるに従い企業規模は小さくなり、不安定な雇用形態となる。しかも、危険な現場作業を割り当てられやすい。
同時に偽装請負も蔓延する。請負契約では、発注者と下請けに指揮命令関係があってはいけない。だが、実際には、元請けの担当者を筆頭に、複数の下請けの作業員が入り交じり、作業班が構成されている。これは、職業安定法などに抵触する行為だ。
※週刊朝日 2013年12月13日号
1F(イチエフ)作業員~福島第一原発を追った900日~
https://youtu.be/VkbJEkZ5TIw
『1F(イチエフ)作業員~福島第一原発を追った900日~』
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/22th/13-429.html
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#Fukushima
#原発 メルト燃料半年超燃え続け #放射能 ダダ漏れ
☢東大と米大証明[字幕]#Nuke ExposeNeutron6Month
https://youtu.be/gnYcpGaJ_qY
京都大学 小出裕章助教の第10回インタビュー byホワイトフード
https://youtu.be/nS-9xX-u3uE
インタビュー内での放射性ヨウ素の見解についての文字おこし
http://www.whitefood.co.jp/radioactivitymap/i-131/2402/
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福島に背 原発推進 再稼働、輸出…事故の教訓は
(東京新聞【核心】)2015年3月12日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kakushin/list/CK2015031202000140.html
東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から四年。安倍政権は、原発の再稼働や輸出を推進する姿勢を変えない。福島第一原発周辺は、今なお避難指示が解除されず、住民は帰還できずにいる。汚染水問題なども解決されていないが、政権は原発ゼロに背を向け続けている。
(石川智規)
首相式辞 汚染水・廃棄物触れず
■強調
「原発事故のために住み慣れた土地に戻れない方々をはじめ、二十三万人が厳しい、不自由な生活を送っている。震災の教訓を無にしない決意で、全土にわたって災害に強い強靭(きょうじん)な国づくりを進めていく」
安倍晋三首相は十一日、都内で営まれた追悼式典での式辞で、復興の加速を宣言した。
だが、原発事故に触れたのは二十三万人が避難生活を送っていることを説明した部分だけ。かつて東京五輪の招致演説で「コントロールされている」と断言した汚染水漏れや、放射性濃度が一定レベルを超えた指定廃棄物の処理など、解決のめどが立たない問題は素通りした。過去二回の式辞とほとんど変わらない内容にとどまった。
首相官邸ホームページに同日公開された首相のメッセージ動画では、常磐道の全線開通を伝えたり、東北への旅行を呼び掛けた。原発事故で苦しむ被災者には言及せず「福島の明るい未来を感じた」と強調した。
■転換
安倍政権は二〇一二年十二月に発足した後、三〇年代の原発稼働ゼロを目指すとした民主党政権の方針を転換。昨年四月に閣議決定したエネルギー基本計画で、原発を「重要なペースロード(基幹)。電源」と明確に位置付けた。理由としてエネルギーの安定供給の必要性などを強調し「原発停止の結果、化石燃料の輸入増加などにより貿易収支の赤字幅が拡大」と指摘した。「安全神話」の過ちを認めながらも、原発ゼロは経済的損失につながるという経済優先の発想や、再稼働を望む業界の意向が見え隠れする。
首相は国会などで「原子力規制委員会が新規制基準に適合すると認めた原発は再稼働を進める」と繰り返し説明し、再稼働の動きは加速している。現在、停止している国内の全ての原発
のうち、十電力会社が十三原発・二十基の審査を規制委に申請。この中で九州電力川内原発―、2号機(鹿児島県)と関西電力高浜原発3、4号機(福井県)は、規制委が新規制基準を満たすと認めた。条件が整えば、年内にも再稼働する。
■反映
核物質や原子炉などの資機材や技術を輸出する動きも活発だ。原発輸出を成長戦略に結びつけたい政権の方針を反映している。
原発輸出の前提として、相手国が原発を「平和目的」に限って利用することを法的に担保する原子力協定を、日本は米国や英国など十四力国・機関と締結している。安倍首相は就任後、原発導入に積極的なトルコと協定を締結し、インドと協定締結に向けた交渉を進めるなど、各国首脳と自ら会い、日本の原発は安全だとアピールする「トップセールス」を重ねる。
世界では三〇年までに最大三百七十基の原発新設が予定される。市場規模は約百兆円。政権はエネルギー基本計画に「原発インフラの国際展開を推進することが重要」と明記し、今後も原発輸出を進める構えだ。
首相は原発輸出をめぐり、以前に「原発事故の経験と教訓を共有することで、世界の原子力安全の向上を図ることは日本の責務だ」と発言したことがある。十一日の式辞で述べた「震災の教訓を無にしない決意」とは、原発を推進していく決意ということなのか。
双葉町、原子力PR看板撤去へ 標語考案者「負の遺産残して」
(東京新聞【こちら特報部】)2015年3月13日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015031302000134.html
東京電力福島第一原発の事故の影響で、全町民が避難している福島県双葉町が、町内にある原子力PRの看板を撤去することを決めた。小学生のころ、標語を考案した男性は、「原発推進の歴史や事故の記憶を消すことになる」と訴える。町域の大半は帰還困難区域で、除染もほぼ手付かずのまま。先が見通せない中、帰還をあきらめる町民が増えている。
(沢田千秋、上田千秋)
「標語の考案者じゃなければ、黙っていた。でも、標語の誤りを訂正できるのは作った自分しかいない。看板は原発とともに歩んだ双葉の歴史を象徴するものとして残すべきだ」
大沼勇治さん(三九)は原発事故後、標語を作った張本人としての責任を感じ、講演やインターネットで「脱原発」を訴えてきた。
一九八八年三月、小学校の卒業式目前だった。天沼さんのもとに町役場から表彰式の招待状が届いた。「入選、誠におめでとうございます」。福島第一原発7、8号機の増設計画があった当時、町は原子力を広報する標語を募集。大沼さんの「原子力明るい未来のエネルギー」が優秀賞の一つに選ばれたのだ。「町長から直接、表彰状をもらえるなんて、とても光栄で感激した」と振り返る。
当時、町には全国から大勢の原発作業員が集まっていた。JR双葉駅前の旅館はにぎわい、人口八千人の町に作業員が二千人いたという。「原発の大人たちは旅館近くの川やグラウンド
で釣りやサッカーを教えてくれた。みな親切で楽しい思い出ばかり。原発が増えれば、双葉の町もいわきや郡山、いや仙台ぐらい大きくなれると信じ、発展を夢見て標語を作った」
国道6号から双葉駅へ通じる町のメーンストリートに、大沼さんの標語は掲げられた。桜の季節はライトアップされ、クリスマスの時期はイルミネーションがともる。「誇らしかった」。不動産会社に勤める傍ら、看板の脇にオール電化のアパートを建て、原発で働く東電関係者らに貸し出した。大沼さんは正直に言う。「ぼくは原発のおかげで精神的にも経済的にも豊かになった」。三十四歳で妻せりなさん(三九)と結婚。一年後の二〇一一年三月十一日、震災が起きる。
「こんなに揺れたんだから、原発はきっと大変なことになっている」。そう思っても、町や東電からは何のアナウンスもなかった。震災当夜、大沼さんは身重のせりなさんを連れ、南相馬市にある道の駅で車中泊した。翌日は双葉町の自宅へ。片付けをしていると、警察官がやって来て「早く逃げろ」と怒鳴る。理由を聞いても答えない。見たこともない自衛隊の装甲車が原発方面に向かう。「これはただごとでない」。再び町を離れた後、1号機が爆発した。二日後の十四日、3号機も爆発。妊娠七ヵ月のせりなさんはパニック状態になった。「もう戻れないな」。大沼さんは覚悟した。
放射能の影響を避けようと愛知県安城市に避難した。原発事故を伝えるテレビを食い入るように見つめる日々。どのチャンネルにも、自分が考えた標語が映された。「恥ずかしく忌まわしかった」。貯金を切り崩しながら、無入となった双葉町のアパートのローンを払い続けた。
「撤去されれば過ちが忘れられてしまう」
原発推進の象徴
事故から半年後の一時帰宅は忘れられない。「防護服を着せられ、囚人のように番号で呼ばれた。バスが標語の下を通る時、町民が指をさして『あっ』と声を上げ、居たたまれなかった」。放射性物質で汚染された町はダチョウがたたずみ、点滅信号の下を牛の親子が闊歩(かっぽ)し、民家の軒先で豚が眠り、異種交配のイノブタまでいた。「衝撃だった。無力感とあきらめ感に襲われ、人間の力では原子力に太刀打ちできないと悟った」。そして、確信を深めていく。「原発推進は間違っていた」と。
茨城県古河市に自宅を再建し、「自分にふさわしい仕事」として、太陽光発電事業を立ち上げた。茨城県内や栃木県内でソーラーパネルを設置している。
双葉町に一時帰宅するたび、看板を撮影する。標語の一部を「改変」した写真を撮ることも。世界に発信しようと英語の文面も作った。「同じ過ちを繰り返してはならないと現地から訴えることに意味がある。看板を見て『このザマだ』とバカにされたとしても、これこそが過去に原発を推進した事実を証明するものだ」
町は今月九日、看板の撤去費用約四百十万円を盛り込んだ新年度予算案を町議会に提出した。看板撤去の方針を知った大沼さんは、町議会に駆け付け、町議らに反対を訴えたが、芳しい答えは返ってこなかった。署名活動や伊沢史朗町長へ手紙を書くことも検討している。
町民の中には、看板から目を背けたいという人がいることも知っている。だが「町や国、東電は撤去したいのだろうが、過ちが忘れられてしまう。歴史の否定は町そのものの否定につながる。過去の失敗から学ぶことはたくさんある」と思う。「原発とともに歩んだ双葉の歴史を象徴する原発震災遺構として、標語を残してほしい。三歳と一歳の息子たちにもいつか見せてやりたい」
看板は町内二ヵ所。一九八八年に町体育館近くに設置された看板には、表裏に「原子力明るい未来のエネルギー」「原子力正しい理解で豊かなくらし」と表示。九一年に役場近くに設置されたものには、「原子力豊かな社会とまちづくり」「原子力郷土の発展豊かな未来」と書かれている。
町「老朽のため」
町復興推進課の担当者は「経年劣化に加え、事故後メンテナンスが一切できていないので、さびや腐食が激しい。パネルなどが落下する危険があり、一時帰宅する町民や工事車両の安全を考えて撤去を決めた。標語の内容とは関係ない」と説明する。
約七千百人(事故当時)の全町民が古里を追われた。除染はほとんど進まず、町役場や中学校、高校といった公共施設や一部の道路で実施されている程度。除染廃棄物の中間貯蔵施設が、同町と大熊町にまたがって建設される。帰還のめどは立たず、復興庁などが実施した一四年秋の住民意向調査では、「戻りたい」と考えている世帯は12・3%にとどまる。55・7%は「戻らないと決めている」と答えた。
双葉町民の苦悩などを描いたドキュメンタリー映画「フタバから遠く離れて」の舩橋淳監督は「原発事故は双葉だけでなく、日本全体に大きな被害を与えた。単に老朽化したからという理由だけで、十分に議論しないまま撤去するのは短絡的すぎる」と訴える。
「米国から原発が最初に入ってくる時に原子力の平和利用は可能だというキャンペーンを信じ込み、まんまとだまされた。看板はそうした事実を表す、人類全体の負の遺産。今の場所に残し、原爆ドームと同じく、後世まで継承していくべきだろう」
>┴< ⊂⊃ 幸せだった日々
-(.破滅.)- ⊂⊃
>┬< ワーイ 金を積まれて手に
J( 'ー`)し ('∀` ) 入れた美しい思い出と
( )\('∀`) ) 汚染された故郷
|| (_ _)||
;;⌒::.;;.⌒⌒/ /| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ /::. :; ;⌒⌒:.:⌒:;⌒;
,::.; / /| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ /.., ,; .: ,,。,.(◯)
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,:.; / /| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ /.., ,; :ヽ|〃 ,,。,
映画『フタバから遠く離れて』予告編
https://youtu.be/xgBEAJ_Flu0
『フタバから遠く離れて 第二部』映画オリジナル予告編
https://youtu.be/gkM-agsdsq4
ウスッペラ~(・3・) とどまるところを知らない劣化・幼稚化 (´・_・`)
「無知の無恥」が国を滅ぼす?
(東京新聞【こちら特報部】)2015年3月7日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015030702000170.html
昔から「知らないことを恥じるな」という。知ったかぶりをするより、謙虚に学ぶことが大切という意味だ。しかし、もし「謙虚に学ぶ」という暗黙の了解がなくなれば、ただの恥知らずになる。最近、そうした「無知の無恥」が目に余るように思える。それも権力の中枢、周辺で横行している。「反知性主義」という言葉が流行しているが、現実はさらにその一歩先を進んではいないか。
(榊原崇仁、沢田千秋)
4つのケースで検証
補助金問題や人種隔離論争
開き直る首相や識者
●実例1
「知らなかった」と恥じるのではなく、開き直る異様な光景が国会で続いていた。与野党に広がる補助金に絡む政治資金問題だ。
政治資金規正法では、国から補助金をもらう企業は交付决定から一年間、政治活動に寄付できない。
だが、複数の国会議員たちはこうした寄付を受けていた。ただ、政治家は企業への補助金の交付決定を知らなければ、罪に問われない。「法の不備」だ。
不備である以上、違法性はなくても、倫理的には頭を下げるのが当然だ。しかし、安倍首相は先月二十七日の衆院予算委員会で「知らなければ違法行為ではないということは法律に明記されており、違法行為ではないことは明らか」と問題視しない姿勢を示した。
政治資金に詳しい神戸学院大の上脇博之教授(憲法学)は「問題は違法性だけではない。補助金の一部が寄付されたと考えられる。補助金の元は税金だ。企業は自らに利益を誘導するため、政治家側に寄付しているのだろうが、その原資に税金が使われることが許されるのか」と憤る。
首相も今月三日までに、三社から同様の寄付金計百八十四万円を受けていたことが判明。首相は「国からの補助金については知らなかった」と釈明した。
だが、第一次政権当時も首相が代表を務めていた自民党支部に対し、国の補助金を受けた山口県の企業から五十万円の献金があったことが指摘されている。
●実例2
「知らない」で済ます姿勢は、安倍首相に近い有識者にも見られる。一三年十月まで安倍政権の教育再生実行会議の委員だった作家の曽野綾子氏もそうだ。
同氏は移民政策に関連して、産経新聞のコラムで「二十~二十年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」と持論を展開した。
これに対し、南アフリカの駐日大使やNPO法人「アフリカ日本協議会」(東京)などは、国際的に非難を浴びた同国のアパルトヘイト(人種隔離)を擁護する記述だと非難した。
しかし、曽野氏は「飛躍した発想。そう考える人たちの悪意」などと反論。民放のラジオで「アパルトヘイトの問題点は何か」と問われると、「全く分からない。見たこともない。私か
行ったころには(アパルトヘイトは)もう崩れていた」と無知を決め込んだ。
曽野氏が初めて南アフリカを訪れたのは一九九二年ごろという。アフリカ日本協議会の津山直子代表理事は「まだ人種差別が色濃く残っていた時期。人種ごとの居住区も多くあった。黒人の人びとに選挙権が与えられたのも、九四年のことだ」と再批判している。
行き着く先 国際的孤立
●実例3
改憲をめぐる動きの中でも「無知」はうごめく。
自民党憲法改正推進本部の礒崎陽輔事務局長(参院議員)は一二年、憲法によって権力を縛る「立憲主義」について「この言葉は学生時代の憲法講義では聴いたことがない。昔からある学説なのか」と自身のツイッターに書き込んだ。
磯崎氏は一九八二年に東大法学部を卒業。同時期に同じ学部を卒業した護憲派の伊藤真弁護士は「授業で立憲主義に触れることはあまりなくても、それは基本的なことだったから。そもそも明治憲法制定時にもあった原則。勉強してなかったのだろう」と皮肉る。
むしろ、伊藤弁護士は「知らないふりをして立憲主義を軽く扱おうとしているのでは」と疑う。というのも、礒崎氏の現行憲法を軽んじる姿勢は最近の言動からもうかがえるからだ。
例えば、先月二十一日に盛岡市内であった自民党の会合。礒崎氏は「改憲を国民に一回味わってもらう。『怖いものではない』となったら、二回目以降は難しいことをやっていこうと思う」と語っている。
改憲、文民統制でも…
主張通す方便?
●実例4
最新の「無知」は、六日に閣議決定された「文官統制」を廃止する防衛省設置法改正案にまつわる。
文官統制は文民統制(シビリアンコントロール)の一形態で、防衛省で大臣を支える背広組(文官)が自衛隊の制服組より優位にあることを意味する。
中谷元防衛相は先月二十七日の会見で「文官統制の規定は軍部が暴走した戦前の反省から作られたのか」と問われ、「その辺は私、その後生まれたわけで、当時、どういう趣旨かは分からない」と発言した。
本当なのか。中谷防衛相は五七年十月生まれの五十七歳。誕生した後も、文民統制の成立については、しばしば語られてきた。
例えば、七〇年四月の衆院本会議で、佐藤栄作首相(当時)は「自衛隊は政治優先のシビリアンコントロールが貫かれ、その背景には戦前の苦い経験があることを忘れてはならない」と答弁。七三年十二月の衆院建設委員会では、大村襄治官房副長官(同)が「(文民統制を意味する)憲法六六条は、国の政治が武断政治に陥ることを防ぐ目的で…」と明言している。
首都大学東京の木村草太准教授(憲法)は「軍国主義の反省に立ち、憲法九条ができ、軍人が閣僚にならないよう六六条ができた。生年月日にかかわらない常識だ」と切り捨てた。
「何でもあり」まん延
こうした「無知」を恥じない発言の横行について、上智大の中野晃一教授(政治学)は「古代ギリシャの哲学者プラトンは『知識がない人間の統治は不正義』と言った」と批判する。
中野教授は今日の事態は小泉純一郎元首相の登場から始まったと指摘する。小泉氏は二〇〇三年、自衛隊のイラク派遣を非戦闘地域に限定することに絡んで、「どこが戦闘地域か、私に聞かれたって分かるわけがない」と開き直った。
「辞任に追い込まれても全くおかしくない暴言だったのに結局、許されてしまった。小泉氏は従来、支配的だった建前の政治をバカにし、『そんなことを知らなくて何か悪い』とタブーを破るポーズで改革者を装って、大衆の支持を集めた」(中野教授)
この手法が第三次安倍政権下の今日まで続いているという。ただ、この劇薬的な手法は副作用を伴う。
中野教授は「事態は政治の枠にとどまらない。首相や有名人の無知や差別的発言がまかり通れば、国民にも何でもありの雰囲気がはびこる」とし、「国民は知性を守る戦いを挑まれている」と警鐘を鳴らす。
放置すれば、待っているのは日本の国際的な孤立だという。「立憲主義への無知やアパルトヘイトの肯定は、人類が打ち立ててきた原理原則や英知に対する挑戦だ。生ぬるい態度をとっていると、日本だけが世界からどんどん外れていき、孤立するだろう」
マイナンバー アベノミクス 安全保障
度が過ぎる!?メディア戦略
(東京新聞【こちら特報部】ニュースの追跡)2015年3月10日
安倍政権になってから、政府広報の予算が激増している。安倍晋三首相の進める経済政策や積極的平和主義などをPR。批判の根強い政策に関しても、メリットばかりを強調する。国民を誘導するようなあからさまなメディア戦略との見方もある。
(林啓太)
安倍政権広報予算 激増
識者 「国民は踊らされないで」
「マイナンバーは、自分だけの番号。自分専用の番号で、いろいろ便利になっていく」。女優の上戸彩さんが声を弾ませる。九日から全国百十四のテレビ局で流れているマイナンバー制度をPRする政府広報のCMだ。
マイナンバー制度には、個人情報の流出や成り済まし被害などマイナス面の指摘もあるが、これらには一切触れていない。
政府広報とは、内閣府の政府広報室が扱う政府の政策などの宣伝活動のこと。テレビのCMやラジオ番組、新聞・雑誌の広告、街角のポスターなどを通じてPRする。最近では、インターネット上のバナー広告まで活用している。この政府広報予算が、安倍政権になって跳ね上がっているのだ。
二〇一五年度の政府広報の予算案は、前年度比三割増の八十三億円。野田政権時代の一二年度に四十億円だった政府広報予算は、安倍政権の一三年度に四十四億円に増加。一四年度には、さらに二十一億円を上積みし、六十五億円になった。この増加分は、主に「消費税増税の理解を得るため」に使われたという。
一五年度予算案の増額分は、ほぽすべてを外国向けの「国際広報」の強化に充てるという。政府広報室の担当者は「最近の領土や主権を取り巻く厳しい情勢などを踏まえて、戦後七十年の節目に、国際社会で事実関係に関する正しい認識と、わが国の基本的立場や政策に関する理解の浸透を図りたい」と話す。
全国のFMラジオ三十八局で流す政府広報のラジオ番組「ウィークリー ニッポン!!」で今年二月、正社員との差別的扱いを禁止する改正パートタイム労働法を特集。同法は派遣やパートの正社員への転換を難しくするとの指摘がある。
昨年十一月に漫画誌「週刊ヤングジャンプ」と女性誌「non-no」に「成長戦略でチャレンジー 日本」と題した広告が載った。
「有効求人倍率が二十二年ぶりの高水準」、「賃上げ率が過去十五年間で最高」などと、アベノミクスの「成果」を強調した内容だ。
安倍政権の安全保障政策の宣伝にも使っている。昨年三月には「週刊文春」と「女性セブン」で一三年十二月に閣議決定した国家安全保障戦略を解説。女性セブンでは「日本や世界の平和と安全を守り続けることで、子どもたちが豊かに暮らす未来が確実に守られる」とPRした。
いじめや自殺対策、薬物対策などの政府広報は必要だろう。だが、国民の間で評価が分かれる政策について、一方的に宣伝するのは、どうなのか。
一橋大の稲葉哲郎教授(政治コミュニケーション論)は「国民の目に留まる機会が増えれば増えるほど、当然ながら認知度は高まる」と指摘する。政府の進める政策が自然と国民に浸透していく効果がある。
明治大の西川伸一教授(政治学)は「安倍政権の最終目標は、憲法九条の改正だ。戦争のできる軍隊を持つことを許容する世論を巧妙な手口で形成しようとしている」とみる。「安倍政権の政府広報の利用は度を越えている。国民は政府広報に踊らされないよう目を凝らす必要がある」
元首相、NHK会長…問題発言の常習者
キャラで許していいの?
(東京新聞【こちら特報部】ニュースの追跡)2015年3月13日
元首相にNHKトップ、有名作家…。最近、地位も名誉もある人の問題発言が目立っている。何度も連発されると、いちいち突っ込むのがバカらしくなってくるが、それぞれ影響力があるだけに、「ああいうキャラクターだから仕方がない」では済まされない。
(三沢典丈)
鈍感 冷笑… マスメディアに責任
鳩山由紀夫元首相は十日、ロシアがウクライナから一方的に併合したクリミア半島入りした。十一日には現地で記者会見し、「憲法に従い、クリミア住民の意思を反映していた」と、併合を容認する考えを示した。日本政府の意向に反する言動は、日本の外交に影響を及ぼしかねない。鳩山氏は、そのとっぴな言動から「宇宙人」とからかわれてきた。首相在任中に直面した沖縄の米軍普天間飛行場移設問題では、移設先について「最低でも県外」とぶち上げたものの、結局は名護市辺野古に転換。米紙から「ルーピー(間抜け)」と評された。政治評論家の浅川博忠氏は「元総理としての自覚がなさすぎる。祖父の故鳩山一郎元首相ゆかりの人が『あの人には困った』とこぼしていた」とあきれ顔だ。
問題発言の常習者といえば、やはり籾井勝人NHK会長だろう。昨年一月の就任会見で、慰安婦について「どこの国にもあった」と発言。先月の定例記者会見では、慰安婦関連の番組について「政府のスタンスがよく見えない中で放送するのが本当に妥当かを、慎重に考えなければ」と政府の姿勢におもねった。
アパルトヘイト(人種隔離)を容認するかのようなコラムが批判を浴びた作家の曽野綾子氏の差別的発言は枚挙にいとまがない。二〇〇九年のコラムで「『基地の町』で午前一時過ぎに基地の近くを出歩く女性は、性的商売をしていると思われても仕方がない」、一三年の雑誌の寄稿では、セクハラ、マクバラの改善を訴える企業の女性社員に向かって「出産したらお辞めなさい」といった具合だ。
新聞やテレビは、この手の問題発言に鈍感だ。籾井氏を当初こそ指弾したものの、ここ数力月は通り一遍の報道にとどまっている。曽野氏のアパルトヘイトコラムは、海外メディアが先んじて問題視した。振り返れば、「三国人」などの問題発言を繰り返した石原慎太郎氏にも甘かった。こんなことでいいのか。
コラムニストの小田嶋隆氏は「石原氏や曽野氏のような『ぶっちやけギャラ』を『無神経だけど正直者』と、支持する層は年配者を中心に一定数いる。ネットで本音主義がまかり通り、差別語が飛び交う今、彼らの需要は高まっている。マスメディアは、それを知っているから批判しない」とみる。「だが、コラムで問題があったなら、連載を終わらせるなど毅然(きぜん)とした措置を取るべきだ」
上智大の碓井広義教授(メディア論)も「マスメディアは彼らを『困ったちゃん』とみなし、『いつものことだから』と冷笑、無視する。その結果、問題発言を取り上げず、取り上げても批判しない」と指摘した上で、ジャーナリズムに警鐘を鳴らす。
「メディアが伝えなかったことは、一般市民には『なかったこと』になるし、批判されないと、彼らは自分の言動が肯定されたと思い込む。やはり彼らの言動を批判的に取り上げ、その背後にある本質的な問題をきちんと解説するのがメディア本来の役割。そうしないとジャーナリズムに対する信頼感を損ねかねない」
こんなものを見つけましたので引用します。
2003-03-21 [書評]斎藤貴男著「空疎な小皇帝ー「石原慎太郎」という問題」(岩波書店)その2
http://www.himajin.net/diary/p.php3?80/10/10
さて、著者が「あとがき」の中で言及している「オウム真理教」との関係について触れておきたい。著者としては、確証をつかむまでの取材ができなかったために書かなかったようである。
1995年(平成7年)4月、石原慎太郎は突然衆議院議員辞職を表明した。地元の後援会にも知らされず、全く唐突であった。日本の政治に失望したという趣旨の意見を残しているが、とってつけたような感じである。なぜ唐突にやめるのか、全くその説明としては不十分であった。
しかし、彼は議員辞職をせざるを得ない、大きな事情を抱えていた。
オウム真理教は、1984年(昭和59年)2月に任意団体「オウム神仙の会」として設立された。その後、1989年(平成元年)8月に、東京都から「宗教法人オウム真理教」の認定を得ている。東京都は頑なに認定を拒否し続けていたのにもかかわらずである。
一方、石原裕次郎は1978年(昭和53年)、舌ガンのため慶應病院に最初の入院をする。翌年東大病院に転院して再び手術を受ける。ここで病魔を克服したかと思ったが、1981年(昭和56年)、解離性大動脈瘤で再び慶應病院に運ばれる。生還率3%、6時間33分の大手術に耐える。しかし、その後も1984年(昭和59年)に肝細胞ガンで、1985年(昭和60年)に胆内単胆菅炎でと毎年慶應病院に入退院を繰り返し、1987年(昭和62年)7月17日に永眠。
オウム真理教と石原裕次郎になんの関係があるのかと思われるであろう。キーワードは「慶應病院」である。1981年に解離性大動脈瘤で入院したときの執刀医がだれであったか、そこに鍵がある。この大手術の執刀を行ったのは、心臓外科医としての林郁夫だった。
1987年に石原裕次郎が亡くなった2年後、オウム真理教は宗教法人になっている。頑なに宗教法人認定を拒否されていたオウム真理教としては、好き勝手なことをするためにはなんとしても宗教法人の認定を受けたかった。林郁夫から1988年に運輸大臣であった石原慎太郎に、状況打開の依頼がいったことは想像に難くない。実際、石原慎太郎は運輸大臣の肩書きを背景に東京都にプレッシャーをかけ、オウム真理教はまんまと宗教法人に成りおおせている。
石原慎太郎が議員辞職を表明した直前の1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起きる。宗教法人を隠れ蓑にしなかったら、このようなとんでもないテロをオウム真理教は起こせたであろうか。当時、政権は村山富市首相であり、自民党は戦後もっとも弱体化していた不安定な時期であった。阪神淡路大震災の不手際で政府は批判を受け、そして地下鉄サリン事件である。その原因を作った人物が元閣僚経験者で衆議院の赤い絨毯の上で踏ん反り返っていることが衆人の知れるところとなったら、自民党はひっくり返ってしまう。表面的には強がりを言っていたが、詰め腹を切らされたことは、想像に難くない。
その時の思いつきと自分の人気がどうやったら出るかしか考えられず、自分の言動がどのような影響を与えるか想像できない。そして、本書を読めばわかるが、本当に節操がない。政治家として最も不適切な人物と言わざるを得ない。そして、オウム真理教に対するものも、きちんと責任を取っていない。もっとも、へたに取ればとんでもないことになってしまうが。
そんな人物が東京都知事として君臨しているのである。東京に住んでいれば実感するが、この4年間で確実で東京は住みにくくなった。それは、不況のせいではない。福祉の切り捨てをやっているのである。節操もなく弱者への思いやりもく気も小さい、そんな人物をあなたはさらに4年、都知事として仰ぎたいか。
(´・д・`)
「日本の大新聞は権力側に立って国民を見下ろしている」
注目の人 直撃インタビュー
(日刊ゲンダイ)2015年3月13日
相変わらず安倍政権の支持率は高いが、不思議なことだ。庶民にアペノミクスの恩恵はまったくないし、イスラム国の人質事件は最悪の結末に終わった。政治とカネの醜聞が噴出し、大臣がまた辞任した。そんな中で、安倍政権は平和憲法をかなぐり捨てる法整備を進めているのに、世論は怒るわけでもない。その理由を尋ねると、来日して12年になるジャーナリストからは明快な答えが返ってきた。
「報じない大メディアが悪いのです」―。
国の根幹が変わるのに新聞が反論を載せない異常
-この調子でいくと、今月中にも自衛隊が世界中に出ていって、戦争協力する法案が提出されることになります。国の形が完全に変わってしまうのに、日本人は関心も示さない。どう思いますか?
こうなっているのは2つの大きな要因がありますね。ひとつは自民党一強、野党不在の政治状況。もうひとつはメディアが安倍政権を怖がって批判を控えていることです。
-やっぱり、怖がっているように見えますか?
見えますよ。日本はいま、これまでとは全く異なる国家をつくろうとしている。憲法に基づいた平和主義を守るのではなく、米国や英国の仲間になろうとしている。果たして、それでいいのか。大きな岐路、重要な局面に立っているのに、そうした議論が何もないじゃないですか。これは本当に不思議なことです。恐らく多くの国民は、戦後以来の大きな変化が起こっていることすら知らないんじゃないですか。私は何も新聞に反安倍のキャンペーンをやれと言っているわけではないんです。安倍政権はこういうことをやろうとしているけれども、そこにはこういう問題点や危険性がある。こういう別の意見もある。せめてさまざまな立場の見方を紹介して、幅広い議論を喚起することか必要なんじゃないですか。
-しかし、それすら大新聞はめったにやらない。何か安全保障の問題はタブー視されているような印象すらありますね。
なぜ、タブー視されるのでしょうか。9・11の直後、米国では国を守るためには団結しなければダメだという危機感がメディアの批判精神を鈍らせました。これは大きな失敗でした。あの時こそ、メディアは冷静になって、きちんとブッシュ政権に問うべきだったんです。本当にイラクに大量破壊兵器はあるのか。本当に、この戦争をしなければいけないのか。しかし、それをやらなかった。それと同じ失敗を日本のメディアは犯そうとしていますね。いま、日本の国家はどういう危機に直面しているのでしょうか?台頭する中国への不安や懸念ですか?イスラム国の脅威ですか?そんな小さなことでジャーナリズムが批判精神を失うのでしょうか。
-イスラム国の人質事件ではニューヨーク・夕イムズ紙に掲載された風刺画が非常に印象に残っています。「イスラム国は平和主義から逸脱する日本を後押しするか」というタイトルで、車夫(=日本人)の鼻先にイスラム国の旗をぶら下げ、「憲法改正」の車を走らせる安倍首相が描かれていた。キャプションには「安倍晋三”大統領”は復讐を呼びかけた」とあった。
ニューヨーク・タイムズの論評を扱う部署には複数の風刺画家がいます。そのうちのひとりがアイデアを提示した。私が関わったわけじゃありません。
政治利用されたイスラム国の人質事件
-ということは、米国人は一般的に安倍首相のことを、そういう目で見ているということですね
そうだと思いますね。ひとりがアイデアを出して、みんながそうだね、と賛同したわけでしょうからね。
-それなのに、日本の大メディアは風刺画どころか、安倍政権が人質救出に何をしたのか、しなかったのか。イスラム国と戦う国への2億ドル支援演説の是非もほとんど論じていませんね。
私は中東で調査をしたわけではありませんが、東京から見ている限り、安倍政権はあらゆるルートを駆使したわけではないでしょう。最初からあきらめていたように見えます。身代金の支払いにしても早い段階から拒否しているし、この事件を政治的に利用し、テロに屈しないと宣言して米英の一員であることを国内外にアピールするのが狙いだったように感じました。
-人質救出に全力を挙げると言っていましたけどね。
政治っていうのは、みんなそんなもんですよ。オバマ政権も一緒です。ただ違うのはメディアが政府の言い分をうのみにするかどぅかです。私は列強の仲間入りをしたいという安倍首相が悪いとは言いません。彼は素直に自分のやりたいことをやっている。それは就任前の言動から容易に推測できたことです。問題はそれに疑問も挟まず、従って何の質問もせず、説明も求めないメディアの方です。だから、安倍首相が積極的
平和主義を唱えれば、多くの国民が何の疑問も持たずに”そんなもんか”と思ってしまう。ここが危険なところです。
-積極的平和主義で、米国と一緒になって戦う。それが日本を守ることになる。こういう主張
の政治家、官僚、学者、評論家たちは、米国がやっていることが正義であるという大前提に立っていますね。ただし、そういう人々の多くは、アーミテージ元国務副長官に代表されるジャパンハンドラーと呼ばれる人としか付き合っていない。このほど、ファクラーさんが出された孫崎享さん(元外務省国際情報局長)との対談本、「崖っぶち国家日本の決断」(日本文芸社)の中には、こういうことが書いてあって、本当に驚きました。ハンドラーという言葉は[犬を扱う]ようなイメージだというし、そのジャパンハンドラーの人々が米国を動かしているわけでもない。これは非常におかしなことだと思います。
ジャパンハンドラーの人々は非常に保守的で、オバマ政権にも入っていないし、決して米国の意見を代表しているわけではありません。それなのに、自民党の政治家や外務省の官僚はジャパンハンドラーに頼ってしまう。
ごく一部の人が管理し動かしている日米同盟
-対談本でファクラー
さんは、「ジャパンハンドラーは『既得権益集団』で、コンサルティンググループなどをつくり、強欲な商売をしている」とおっしゃっていた。
鳩山政権の時に脱官僚を唱えた瞬間、日米関係かぶっ壊れたでしよ?あんなにすぐ壊れるものかと驚きました。このことは日米のパイプがいかに細いかの裏返しです。一部の自民党の政治家や官僚とジャパンハンドラーとの付き合いしかないのです。日米関係に関わっている人は非常に少数で、そういう人が同盟関係を管理している。だから、普天閧基地の移転問題にしても辺野古しかないという結論になってしまう。もっと幅広い人脈と付き合っていれば、さまざまな意見、
選択肢が出てくるはずです。
こんな民主主義国家見たことない
-集団的自衛権についても、それが日米同盟では当たり前ということになってしまう。
確かに戦後70年間、米国と一緒にやってきて、ある意味、安全だった過去の実績はあります。でも、今後もそれでいいのか。平和憲法を捨てず、平和主義を貫く選択肢もあるし、鳩山政権や小沢一郎氏か唱えたようなアジア重視の道もある。どちらがいいかは国民が考えた上で決めるべきです。
-ところが、日本人には、それを判断する情報すら与えられていないんですよ。新聞が選択肢すら報じないものだから。
日本のエリートの上の方で、物事が決まっている。大きな新聞はそちらの方を見て記事を書いている。そんな印象ですね。新聞社は読者の側に立って、権力を見ていない。権力者の側に立って、国民を見下ろしている。そんなふうに感じます。こんな新聞を国民は信じますか?
-このまま米国追随路線をエスカレートさせたら、この国はどうなっていくと思われますか?
イスラム国のような事件がまた起こりますよ。米英豪仏などと同じ一員になれば、彼らの敵か日本の敵にもなる。日本人はそこまでの覚悟をしているのでしょうか。いずれにしても、民主主義国家でこれほど異常な一党支配の国は私の知る限り、見たことがない。戦前と似ていると言う人がいますが、野党不在で政権と違う意見を許さないという雰囲気においては、似ているかもしれません。健全な民主主義に不可欠なのは議論なのに、それを忘れているとしか思えません。
米国は
①同盟国であっても政治・経済的秩序を覆す国の台頭を許さない
②必要ならば米国単独で軍事行動をとる
日米合同委員会とは
https://youtu.be/aPa90pTvDoo
これ本当なんでしょうか??↓
”お知らせ” と 第115回小出裕章ジャーナル
お知らせ
今月25日から一週間、奇跡的にお休みが取れましたので、広島と長崎に旅行してきたいと思います。この時期に休みを取って旅行するなんて学生時代以来ですよ~(^0^)
お金が無いので、青春18切符を使って”乗り鉄”してきます~!(^^♪疲れるでしょうね…(;^ω^)
本場の広島焼きと長崎ちゃんぽんを食したいと思います!(^q^)(^p^)
広島は過去に5回ほど訪問しています。長崎は遥か昔、一度だけ訪問しました。よって、今回は長崎メインで巡って行きたいと思います(^-^)/
長崎原爆資料館を始め、前回の長崎訪問では立ち寄れなかった山里小学校や永井隆記念館(如己堂)、城山小学校などを巡って行きたいと思います。
亀山社中記念館なども行きたいですね~(^^♪
龍馬のぶーつ像
しかし、体力が無いので無理かもですね…(;^ω^)
長崎ちゃんぽんは福山雅治がごひいきの思案橋ラーメンに行ってみたいな~(^q^)
ということで、メインブログと音楽ブログの更新をしばらくお休みしたいと思います。
旅行記はメインブログで発表したいと思いますので、良かったら観てくださいまし~(^^♪
昨年、秋の旅行記がその後のハプニングでお伝えできなかったので、併せて数回に分けてお送りしますね(^-^)/
東日本大震災4年を迎えた福島から伝えたいこと
(ラジオフォーラム#115)
https://youtu.be/7teLsv-yzGU?t=16m17s
16分17秒~第115回小出裕章ジャーナル
東日本壊滅を回避させた奇跡とは「定期検査の日程が遅れていて、まだその原子炉の真上のプールに水が入っていたということがまず第1の奇跡です」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no115/
石井彰:
実は、今日は普段の東京のスタジオとは違って、福島県郡山にあるコミュニティラジオ・ココラジから放送してるんですが、ココラジ代表の鈴木さんがぜひ、小出さんに質問をしたいということですので、鈴木さんにマイクをお渡しします。
鈴木則雄さん:
小出先生、こんにちは。
小出さん:
はい、こんにちは。
鈴木さん:
郡山という福一から約60キロぐらい離れてる所にある街なんですけれども、僕が聞きたいことは2点ありまして、1点目は福一が事故を起こした時に、あの事故は奇跡的な幸運によって、あの程度で済んだんであると。
もしかしたらば、東日本壊滅までいったんではないかという、そういう話をよく聞くんですが、それは果たして本当のことなんでしょうかということと、今どういう状態なのかよく分からない福一が今後、何かの拍子にまた放射能を大量に噴出するというような事故が起こる可能性というか、起こるかもしれないと心配してるんですけど、それは一体どんな場合にそういう事故が起こるのかということをちょっとお伺いしたいと思います。
小出さん:
1点目ですけれども当時、原子力委員会の委員長だった近藤駿介さんという方が4号機の使用済み燃料プールの中の燃料が溶けるようなことになると、東京すらがもう住めなくなるという報告書をまとめました。
今、聞いて頂いたように、4号機の使用済み燃料という燃料プールというのは、爆発で半分壊れた原子炉建屋の中に、宙吊りのような状態で存在しています。その使用済み燃料プールの底には、大量の使用済み燃料があって、私の試算によると、広島原爆に換算すると、1万4千発分もの核分裂生成物が貯まっているという状態だったのです。
それが、どんどんどんどんプールの水が減っていったわけで、燃料が水面から顔を出してしまうと溶けてしまうし、大量の放射性物質が何の防御もないまま噴き出してしまうという、そういう状況だったのです。
https://youtu.be/wwYk62WpV_s
そのため、国や東京電力もその危機を十分に承知していて、自衛隊がヘリコプターで上空から水をまいて、プールの中に水を落とそうとしたのですけれども、自衛隊員だって怖いので上空、高い所からしか水を落とせなかった。そのため、水は入らなかったのです。東京消防庁が行って、プールにめがけて放水銃で水を入れようとしたのですけれども、それも遠くからやった。近づけなかったので遠くからやったのですが、上手く水が入らなかったということになりました。
その間にも、どんどんどんどんプールの水が干上がっていったのですけれども、その時に、実に奇跡的なことが起こりまして、使用済み燃料プールと原子炉そのもの真上に、また別のプールというのがあって、仕切りがなされているのです。
4号機は定期検査というのをやっていて、定期検査が終われば、原子炉そのものの上のプールの水は本当は抜くはずなのですけれども、定期検査の日程が遅れていて、まだその原子炉の真上のプールに水が入っていたということがまず第一の奇跡です。
そして、第2の奇跡というのがあって、使用済み燃料プールと原子炉の真上のプールは本当は仕切り板でキッチリと仕切られていて、両方にどちらからも水は流れ込まないということになっていたはずなのですが、その仕切り板がずれていて、使用済み燃料プールの水がどんどん干上がっていったのですが、原子炉の真上のプールの方から、また水が流れ込んできてくれたということがありました。
その奇跡が重なって、使用済み燃料プールの水が最後まで干上がるということがなかったのです。ようやくにして、私達が「キリン」と呼ぶ高所コンクリートポンプ車をその間に連れてきまして、4号機のプールの中に水を入れることができたということで、最悪の事態を免れました。それが奇跡と、私達が呼んでいるものです。
それから今後、急な噴出が起こるかということですけれども、私はたぶん起きないと思います。私が何よりも心配していたのは、半分壊れた4号機の原子炉建屋が今でも続いている余震で、もし崩れ落ちるようなことになれば、今聞いて頂いた使用済み燃料プールの中の燃料が溶けてしまうし、そうなれば大量の放射性物質が噴出してきてしまうだろう。なんとかそれをその危機を防がなければいけないと思ってきました。
どうすればいいかと言えば、4号機の使用済み燃料プールが崩れ落ちる前に、そのプールの底に沈んでいた使用済み燃料を少しでも危険の少ない所に移すという作業だったわけです。そのことに関しては、国も東京電力も承知していて、一昨年の11月からようやくにしてその作業を始めて、昨年の11月にその作業をやり終えました。
私は、東京電力を犯罪集団だと国も犯罪者だと、私は言っているわけで、彼らとずっと戦ってきたつもりなのですけれども、この作業に関する限りは、何とか頑張ってやってくれと思って、東京電力にむしろエールを送ってきたのです。ようやくに、東京電力がその作業を昨年の11月にし終えてくれましたので、ほんとに私はほっとしましたし、これからは、突然大量に空気中に出てくるということは、多分もう起きないと思います。
あと残っている危機はいわゆる汚染水というか、溶け落ちた炉心がどこにあるか分からないのですが、それが今、水をどんどんかけているが故に、福島第一原子力発電所の敷地全体がもう放射能の沼のような状態になってしまっていて、それが、四六時中どんどん海へ汚染が流れ出ていってしまっているわけです。それを何とか防がなければいけないということが、これからの最大の課題になると思います。
鈴木さん:
はい。
石井彰:
鈴木さん、よろしいですか?
鈴木さん:
はい。
石井:
ありがとうございました。
鈴木さん:
ありがとうございました。
小出さん:
ありがとうございました。
石井:
今日は郡山のコミニティFM・ココラジの鈴木さんにも加わって頂いて、小出裕章さんとお話を伺いました。どうもありがとうございました。
鈴木さん:
ありがとうございました。
小出さん:
ありがとうございました。
【特別対談】「放射能と原発の真実」内海 聡氏 × 小出 裕章氏
https://youtu.be/RrMNva8G1MY
2015/02/27
【大阪】京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏、在職中最後のゼミ講演で「原子力廃絶」を力説──原発に警告を発し続けてきた半生を語る(IWJ)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/235922
大阪府熊取町にある京都大学原子炉実験所で、2015年2月27日、1980年から行われている自主講座「原子力安全問題ゼミ」の111回目があり、この3月に定年退職を迎える京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏が「原子力廃絶への道程」との演題で、退職前の最終講義を行った。
小出氏は、原子力の安全性に長年警告を発し続けてきた「京大熊取6人衆」と呼ばれる学者グループの1人。この日の講義では、原発再稼働の阻止が難しくなりそうな気配を憂い、「私の現役中に、原子力を廃絶できなかったことが無念」と何度か口にするも、自分の信念を曲げずに、原子力利用のリスクに関する研究に精一杯取り組んできた学者としてマイクに向かう姿からは、清々しさが伝わってきた。
原子力の危険性を従来以上に強く訴える、この日の講義は多角的だった。4年前に起きた福島第一原発事故が、いかに過酷なものであったかを、広島に投下した原発の脅威と比較しながら解説する場面では、「政府は、国民を(必要のある人間以外は立ち入れない)放射線管理区域に捨てたようなもの」との発言も飛び出した。
さらには、「核のゴミ(放射性廃棄物)」を生んでしまう点で、原発は、たとえ事故を起こさなくても問題があるとし、選択権のない将来の子どもたちに、人類が始末できない有毒物資を押しつける行為は「未来犯罪」だと主張した。
小出氏はこの日も、核兵器の開発技術を得るために原子力政策を推進してきた自民党と原子力ムラを厳しく批判したが、講義の終盤では、国民にも苦言を呈した。「(福島第一原発事故を受け)多くの日本人は、『自分は原発の安全性について、国にだまされてきた』と痛感したはずだが、そう感じるだけで終わらせていい問題なのか」との言葉は、今の日本人への、将来世代からの厳しいメッセージを先取りしたかのようにも感じられる。
記事目次
1970年代の伊方原発訴訟を振り返る
現実となった、伊方原発訴訟での危機感
核の平和利用に夢を馳せた高校時代
貧弱な埋蔵量のウランにエネルギーの未来を託す間違い
福島第一原発事故は収束などしていない
多くの住民が、放射線管理区域に捨てられた
高レベル放射性廃棄物の処理は「未来犯罪」
大飯原発訴訟の判決文は「大正論」
自治体に丸投げの避難計画──政府の無責任の象徴
将来世代から問われる「原子力政策にどう向き合ってきたのか」
https://youtu.be/Ta68VaWr2js
第111回原子力安全問題ゼミ 2015年2月27日(金)
原子力廃絶までの道程
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/No111/Koide20150227.pdf
定年退職する京大・小出裕章助教
「差別生む原子力許さない」
(東京新聞【こちら特報部】)2015年3月23日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015032302000180.html
京都大原子炉実験所の小出裕章助教(65)が、今月末で定年退職する。強大な「原子力ムラ」と対決し、四十五年。その歩みは負け続きだったという。大学で教授のポストに就くことはなかったが、自らの思いには誠実に生きてきた。それは夭逝(ようせい)した愛息に教えられたことでもあったという。福島原発事故の終わりが見えない中、定年後も、自分にしかできない仕事を模索していきたいと語った。
(榊原崇仁)
反原発私自身のため
今月十七日、大阪府熊取町の京大原子炉実験所にある小出助教の研究室。書棚にあった大量の本や資料などは、数えるほどになっていた。「廊下や倉庫の書棚にあった分を含め、拾てました。どれも実験所の仕事にまつわるもの。定年と同時にその仕事はなくなります。これからの私にとっては意味のないもの」
節目を迎える感慨についても「何もないです。定年は単なる社会的制度。雇用関係が切れるだけ」。あっさりした言葉だが、簡単に語り尽くせない半生の裏返しのように聞こえた。
小出助教の研究室。大量にあった本や資料は捨ててしまったという
一九四九年八月、東京都台東区の下町で生まれた。進学校の開成中学・同高校時代は一日も休まない「良い子」。盛んに宣伝された「原子力の平和利用」という言葉に感化され、担い手になることを夢見た。
都市化が進む東京を嫌って東北大ヘ。大学のある宮城県では、女川原発の建設計画が浮上していた。目にしたのは原発立地を都会ではなく、過疎地に押しつける差別の構図。大学三年の七○年、小出助教は反原発の立場に転じた。
「原発に反対するのは私自身のため。だまされた自分にオトシマエをつけるためです」。当人はこの姿勢を”徹底した個人主義” と名付けるが、独善とは一線を画す。「地球上の命は全て掛け替えのない存在と考えるのが、私の個人主義。誰かの命を犠牲にし、差別を生む原子力は許せない」
大学院修了を前に就職先として選んだのは原子力推進の研究機関、電力中央研究所だった。相手の土俵に乗り込み、原発をやめさせようとした。しかし、採用決定の寸前、女川原発の反対運動に参加していたことが伝わり、破談。その後京大原子炉実験所に応募し、四年に入所した。
愛息夭逝 自分に素直に生きよう
「熊取六人組」の1人で1994年に亡くなった瀬尾健さん。小出助教の研究室に写真が飾られていた=大阪府熊取町の京都大学原子炉実験所で
そこで出会ったのが「熊取六人組」の仲間たちだ。大阪・熊取の実験所に属しながら反原発を訴えた六人を指す。七0年代に始まった伊方原発訴訟で住民側の証人になったことから、彼らの存在が脚光を浴びるようになったという。
六人のうち、小出助教の先輩は瀬尾健氏ら四人、後輩は一つ年下の今中哲二氏だ。「入所した当時から既に知っていた仲。皆、原子力に抵抗していたから」
六人組は週一回の会議のほか、自主ゼミや和歌山県日高町で毎年営む合宿などで常時議論を交わした。
「原子力は複合領域。私は自分の仕事の社会的な意義を捉えたかった。そう考えたとき、六人組は大変ありがたい存在だった」
六人組は家族ぐるみで付き合うほど仲が良かったという。小出助教も三人の息子に恵まれていた。ただ、障害がある状態で生まれた次男は、半年でこの世を去った。「人間の運命が不条理で不公平であることを心深く感じた。人間はいつ死ぬか分からない。自分の思いに素直に生きるべきだと強く思った」
小出助教は全共闘世代でもある。向き合ったのは、大学当局や機動隊だけではない。学問や科学のあるべき姿も問い直した。
「人間には、未知の領域を知りたいという抑え難い欲求がある。研究者は国家や権力から独立し、真理の探究に専念すべきだ」
自身がたどり着いた真理は「原子力は危険で破滅的であり、犠牲を押しつける差別の問題でもある」だった。だが、こうした考えは圧倒的に少数派だった。「突き詰めれば原子力は軍事の問題。日本という国家は原子力を進め、核保有につなげたい。そのため、原子力研究は国家の思惑に左右される。研究者はこの状況を自覚して行動すべきだが、出世したい、給料を上げたいと考え、国家に抱え込まれていった」
福島 見続けなければ
事故は進行中
熊取六人組は原子力の危うさを研究、公表し、原子力の利用に歯止めをかけようとしてきた。しかし二○一一年三月、福島原発事故が起きてしまった。
「緊急事態を理由に、汚染地域に住民が捨てられている。捨てられれば、生活者として放射能を忘れ、復興を考えるしかない。『放射能を口にするヤツは復興を妨げる。黙ってろ』というのが、福島の現状だ」
一方、故郷を追われた人たちも数多い。そして、事故から四年たった現在、国は早々に生活支援を打ち切ろうとしている。「片や加害者の方は、誰も責任を取ろうとしない。異常としか言いようがない」
反原発運動も一時の勢いを失ったように見える。「いまは福島が忘れ去られる過程にある」。どうしたらいいのか、という問いには「分かりません」とだけ答えた。後継者を育てる余力もなかった。「いまとなっては手遅れ。仕方がないと思っています」小出助教は「負け続きだった」と語る。ただ、助教というポストについて「実験所で最下層の地位」と認めながらも「私には大変恵まれた立場。居心地がよかった」と話す。
実験所での仕事は所内で出る放射性排水などの処理だった。「自分の仕事をきちっとやる限り、上司は一切注文を付けず、自由にさせてくれた。私は最下層の職員なので、命令する人もおらず、自分がやるべきこと、やりたいことに集中できた。個性を重んじる京大の校風があったからこそで、反原発を訴え続けても最後の最後まで弾圧されることはなかった」
私でなければできない仕事があれば、引き受けます
反原発系市民団体のシンポジウムに参加した小出助教(右から2人目)=1999年2月、仙台市で(篠原弘典さん提供)
仙人になります
定年退職後、新たな定職には就かないという。がらんとした研究室で、小出助教は達観したように「仙人になります」と語った。
生まれ育った東京には戻らない。「信州で暮らします。暑いところが苦手ですし。妻と相談して、何年も前から決めていました」
しかし、俗世と距離を置くことは、そう簡単にできそうにない。「福島原発事故は、敷地の中でも外でも進行中です。完全に目をつぶることはできません」
実験所を離れれば、放射線関連の機器も使えなくなる。さらに自らの老いも実感している。しかし、淡々とこの先を見ている。
「定年なんて、本当に大したことじゃない。住むところは変えます。自分の人生設計を考えるよい機会だとも思っています。年を考えると、仕事はだんだん減らさざるを得ないですが、私でなければできない仕事があるのなら、引き受けようと思っています。ただ、半年先という範囲で。半年以上先は、生きているかどうか分かりませんので」
【デスクメモ】
「助教だから貧乏に違いないと同情する人が多くて。さらに酒好きも周知。薄給では酒も好きに飲めまいと、全国から銘酒が贈られてくる。助教の給与でも酒くらい買えます。でも、お断りするのも何なので、ちゃっかりごちそうに…」。数年前、酒席でそう笑っておられた。ちゃめっ気は厳しい人に映える。(牧)
なぜ警告を続けるのか~京大原子炉実験所・"異端"の研究者たち~
https://youtu.be/Vb6uH7-mMXE
2008年10月20日(月)大阪MBS関西ローカル
大阪府熊取町にある京都大学原子炉実験所。
ここに脱原発の立場から活動を続けている"異端"の研究者たちがいる。
原子力はわが国の総発電電力量の3割を供給するまでになったが、反面、去年の中越沖地震で柏崎刈羽原発が「想定」を上回る激しい揺れで被災するなど、技術的な課題を完全には克服出来ていない。
番組では、国策である原子力推進に異を唱え、原子力の抱えるリスクについて長年、警告を発し続けてきた彼らの姿を追う。
その言葉はエネルギーの大量消費を享受する私たち国民一人ひとりへの問いかけでもある。
この番組を放送した当時、大阪の毎日放送(MBS)は、関西電力から広告の出稿停止という恫喝を受け、また、該当番組ディレクターの更迭という圧力もかけられた。しかしながら、毎日放送はこれを断固拒否したといわれる曰く付きのドキュメンタリーである。また、こういう恫喝には政府・国も関わっているという噂もある。
○●○●○●○●
八紘一宇 - Wikipedia
「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを」
by 山田麗子(3年B組金八先生)
戦後七十年の「八紘(はっこう)一宇」
(東京新聞【こちら特報部】)2015年3月19日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015031902000173.html
戦後七十年の国会で、こうした言葉が飛び出すとは思いもしなかった。「八紘一宇(はっこういちう)」だ。自民党の三原じゅん子参院議員(50)が十六日、参院予算委員会で「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と紹介した。この言葉は戦前・戦中の日本のアジア侵略を正当化する標語として使われた。発言後、自民党内、国会でも大きな騒ぎにはなっていない。その静けさが問題の根深さを示唆している。
(篠ケ瀬祐司、林啓太)
「世界を一つの家と見立て天皇が統治」
「満州」支配で理念復活
まず、「八紘一宇」の意味と歴史を確認したい。
この言葉の源は八世紀の歴史書「日本書紀」の記述だ。初代天皇とされる神武天皇が即位直前に「八紘を掩(おお)いて宇(いえ)にせん」と抱負を述べたとある。
八紘は八方の地の果て、つまり世界のこと。宇は家のことだ。天皇が世界を一つの家と見立てて統治しようとの理念が示された。
ただ、これは日本書紀の編纂(へんさん)者による創作というのが通説だ。それ以前にあった「文選(もんせん)」など中国の書籍に類似した表現がある。
専修大の荒木敏夫教授(日本古代史)は「導入されたばかりの律令(りつりょう)制の下で、天皇の支配原理や正統性を証明するための理念として持ち出した。国を家にたとえるのは徳のある君主として人民を慈しまなければ、王朝が滅びるという思想に基づく。近代の平等で民主主義的な家族観とは異質の考えだ」と解説する。
律令国家のイデオロギーの「亡霊」が復活するのは近代になってから。日本書紀を基に「八紘一宇」を造語したのは日蓮宗系の宗教家、田中智学(ちがく)(一八六一~一九三九年)とされる。一九一三年、自身が主宰する信仰団体の機関紙に記した。
千葉大大学院の長谷川亮一特別研究員(日本近現代史)は「田中は日蓮宗の教義を独自解釈し、日露戦争前から天皇が世界統一の使命を負っていると主張していた」と説明する。
ただ、田中の思想は一部軍人らに影響を与え、三〇年代前半から軍部が八紘一宇を使い始めた。陸軍省のパンフレットや二・二六事件の青年将校の「蹶起(けっき)趣意書」にも引用された。
背景にあるのが、三一年の満州事変と翌三二年の満州国の建国だ。長谷川氏は「満州は朝鮮や台湾のように併合できなかった。第一次大戦後、民族自決の風潮が国際的に浸透していたためだ。そこで、日本が満州国に対して支配的な地位に立つことを正当化する狙いで、天皇の威光が世界を覆うという八紘一宇の理念を主張した」と語る。つまり、アジア侵略を正当化する理念だったといえる。
政府は三七年、戦意発揚のために「八紘一宇の精神」と題する冊子を発行し、四〇年にはこの言葉を含む「基本国策要綱」を閣議決定した。宮崎市に「八紘一宇の塔(現・平和の塔)」が建てられるなど、草の根にも浸透していった。
文部省が学校に配布した「大東亜戦争とわれら」(四二年)という冊子も「戦争完遂の大目的」が「万邦が各々(おのおの)その所を得て、あひともに栄えゆくやうにすること」で「八紘為宇」の精神に基づくと説いた。
やがて、敗戦。連合国軍総司令部(GHQ)は四五年、八紘一宇を「軍国主義、過激ナル国家主義卜切り離シ得ザルモノ」として公文書での使用を禁じた。
侵略戦争を正当化
戦後 中曽根氏ら否定
その後、戦後は一貫して時の閣僚たちが「八紘一宇」を否定している。
五三年八月七日の衆院文部委員会では、大達茂雄文部相が「八紘一宇などという歴史教育のやり方を復活する考えは毛頭ない。(略)やはり偏っていた」と明快に否定した。八三年三月十六日の参院予算委でも「八紘一宇を平和主義のシンボルと考えるか」。と問われた中曽根康弘首相が「(略)戦前の限定された意味が非常に強くあり、私自体はそういうものはとりません」と答えている。
三原議員は「こちら特報部」の取材に対し、文書で回答を寄せた。「八紘一宇という言葉が、戦前に他国への侵略を正当化するスローガンや原理として使用されたという歴史的事実は承知しているし、侵略を正当化したいなどとも思っていない。良くない使い方をされた経緯を認めた上で、この言葉は、戦争や侵略を肯定するものではないことを伝えたかった」と説明。(・3・)
さらに、この言葉との出会いは「一三年二月十一日の建国記念日に、神武天皇の『建国のみことのり』をブログで紹介するにあたって勉強した」際という。
一方、自民党の谷垣禎一幹事長は十七日の記者会見で、「必ずしも本来、否定的な意味合いばかりを持つ言葉ではないと思う」と、三原議員を擁護した。( ̄^ ̄)凸
しかし、党内には戸惑いの声もある。ある閣僚経験者は的をかわした麻生太郎副総理兼財務相の答弁を「バランスが取れていて良かった」と評価。別のベテラン議員も「普通なら三原議員の世代は使わない単語。誰かに知恵をつけてもらったのか」と苦笑した。
若手議員は党の印象悪化を心配する。「さすがに党が使うよう指示したとは思えない。仲間内では『元の意味は良くても、戦前、戦中の単語を持ち出すのは勘弁して』と話している」
三原議員は、委員会で清水芳太郎(故人)が書いた八紘一宇に関する抜粋を配布した。清水は戦前に国家主義思想団体を主宰した人物で「一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家」「世界で一番強い国が弱い国、弱い民族のために働いてやる制度ができた時に、世界は平和になる」などと記されている。
「アジア民衆の心を剌す」
「歴史的文脈無視は危険」
結局「一議員の発言で、表現の自由もある」(ベテラン野党議員)などの理由で、三原議員の質問は委員会理事会などでは問題化されていない。だが、参院予算委で質問を聞いた福島瑞穂議員(社民)は「上から目線の歴史修正主義だ。次々と類似の発言が出てきたら、大変なことになる」と警鐘を鳴らしている。
前出の荒木教授は「八紘一宇は侵略に苦しんだアジア民衆の心を刺す言葉。三原さんは政治家でありながら、他者の痛みへの想像力を欠いている」と話す。
長谷川氏も「歴史的な文脈を無視した安易な使用が一般化するのは極めて危険だ。八紘一宇の理念の下に推し進められた侵略戦争の正当化にもつながりかねない」と危ぶんだ。
長崎は今日は晴れだった~♪その1
みなさまご機嫌よう(#^.^#)
長崎から戻ってまいりました(^-^)/
今年の春の初め、年度替りはいかがお過ごしでしたでしょうか?
( ´・ω・`)_イカガ?
プロローグ
お伝えしていた通りに、年度末に奇跡的に休暇がとれたので思い切って長崎に行ってこようと決意しまして(笑)旅行計画の立案に思いを巡らしていたのです。しかし、なにしろ、月末でお金がないもので、お金を出来るだけかけずに長崎へ行くかで大いに悩みました(´・_・`)
新潟→博多直行便→長崎行き特急や新幹線を使いたおせば当日にも長崎に行けるのですが、こうみえても総合旅行業務取扱管理者の資格を持っていますので(資格取得は旅行業法改正前の一般旅行業務取扱主任者と呼ばれていたころです~^^)、そのメンツにかけても格安で長崎に行ってやる~ぅ(^^♪
第一候補 新潟→大阪夜行バス→関西国際空港→長崎行き格安航空
第二候補 新潟→敦賀新日本海フェリー→関西国際空港→長崎行き格安航空
第三候補 新潟→長崎 JR青春18切符(途中二泊)
こんな感じでしょうか~♪
では、実際に検討してみます。まず、新潟→大阪夜行バスですが全ての夜行バスの空席がありません(T▽T)大阪→新潟夜行バスは空席ありなんですが…これで、第一候補は×ですね…(・ω・`)
次に、新潟→敦賀新日本海フェリー、これはOK!\(^o^)/ うん?週一便…新潟港出航が29日敦賀到着が30日朝!Σ(゚д゚lll)関西国際空港→長崎行き格安航空に乗れても、これでは休暇が終わってしまうではありませんか━━━━!!
ということで、一番避けたかった第三候補JR青春18切符を使っての旅が決定です( ̄▽ ̄;)
次に経路選定ですが、JR青春18切符ですのでJR線しか使えないんですよね。3月14日に北陸新幹線が開業して在来線であった北陸本線が直江津-金沢間と直江津-長野間が第三セクター移管になったんですよ!(#゚Д゚)旧北陸本線経由だと当日の内に広島に到着できるのですが…困ったものです。(・ω・`)
岐阜、小倉に宿泊して、上越・高崎線、東海道本線、山陽本線経由で長崎に向かうこととします~(^-^)/
ハプニング!
「時間です!時間です!時間です!・・・」
目覚ましの音がやけに早い時刻に主張してます…そっか、長崎行きの初日だったのですね~(^。^;)
さっそく支度して新潟駅へ向かうことにします。
夜明け前の新潟駅
新潟駅万代口改札
青春18切符は自動改札ができないので、左側にある改札通路を通って、駅員さんにハンコをもらって改札します。
新潟5:17発長岡行普通電車
おお!乗車予定の電車がすでに入線してますよ~(^ω^)
これに乗っていざ長崎へ~
まずは最初の乗り換え駅の長岡へ出発
長岡での乗り換え時間が2分なんですが大丈夫かな??(・_・;)
写真は撮れなかったのですが、新津から乗車してきた女子大生位の女性が着席するなり、おもむろにバッグからバナナを取り出してパクついていたのが印象的でしたね(^0^)
私も負けじとミニチーズ3つとハイカカオのチョコレート五粒で朝食を済ませちゃいました(´▽`)
そうこうしているうちに長岡に到着。急げ、乗り換えだ!
6:32長岡駅にて
小出まで来ると積雪がぐっと増えますね。
小出駅にて
上の写真で積雪の状態がわかりますかね??
塩沢辺り 雪原の遠方に大源太山を望む
この時の塩沢辺りの積雪は1.5m~2m位あるのでしょうか?冬の日常生活が大変でしょうね…(・_・;)
思いをはせつつやがて次の乗り換え駅である越後湯沢に到着です。
越後湯沢駅
越後湯沢駅での乗り換え時間は21分あるので余裕ですよ~(^ω^)
おお!例のバナナ女性とすれ違いましたよ~♪彼女も乗っていたんですね!
越後湯沢駅の構内には温泉が湧いています!
越後湯沢駅構内に湧く温泉
さらに駅構内に入浴施設「酒風呂 湯の沢」があるんですね~時間があったら入浴したかったなぁ~(^0^)
乗り継ぎの列車がすでに入線しています。さっそく乗り込んで出発!
越後湯沢駅の次の駅は日本一長い駅名の「岩原スキー場前駅」です。
岩原スキー場前駅
かつては東京競馬場前駅・宇都宮貨物ターミナル駅などと並び、仮名書きの際に国鉄一駅名が長い駅として知られていた(13文字。長音・拗音の小文字=捨て仮名も1文字に数える)。特に東京競馬場前駅廃止後は、旅客扱いをする駅としては単独で最長となるが、「臨時乗降場だから対象外」とされることもあった。国鉄分割民営化後もJR最長のままであったが、1997年(平成9年)開業の上越国際スキー場前駅にその座を明け渡している。
wikipediaより
あ!そうなんですか!?現在で日本一長い駅名は「上越国際スキー場前駅」なんですね~間違っていました…ごめんなさい(;^ω^)
そうこうしているうちに上越線のハイライト、二つのループ線を通過します(^ω^)
松川・湯檜曽ループ線
松川ループ線はよくわからないのですけれど、湯檜曽ループ線はよ~くわかりますよ!
湯檜曽ループ線を上から湯檜曽駅を望む
上越線・湯檜曽のループ線を
通過中の長岡発水上行普通列車
今回はしっかりと湯檜曽のループ線を捉えることができて満足まんぞく(゚∀゚)
これで、今日は岐阜まで安泰じゃ!(笑)
そうこうしているうちに次の乗り換え駅水上駅に到着です。乗り換え待ち時間は6分です。
おお!またまた例のバナナ女性を発見!どこまで行くんですかね?(^^♪
水上駅
水上駅から次の乗り換え駅高崎駅まで鼻ちょうちんを膨らませようと目をつぶっていたのですが、徐々に標高が低くなってきたためか、寒冷地仕様の服装では暑くて汗だくになるは、お腹がすいてくるはで、ほとんど眠れなかったです…(´・ω・`)
そうこうしている間にあっという間に次の乗り換え駅の高崎駅に到着です。乗り換え時間は12分。
高崎駅改札口
トイレと着替えをして湘南新宿ライン特別快速に乗ります(^0^)
湘南新宿ライン特別快速
次の乗り換え駅の平塚駅まで2時間46分ありますのでしっかりと寝させていただきましょう?おやすみなさい(笑)
赤羽駅を過ぎたあたりで目覚めましたら、目の前に立って乗車している人が壁のようにいて、視界を塞がれちゃっています…少しでも東京を見たかったんですけれど…(;^ω^)しかし、池袋で大半の人が降りてしまって一気に視界良好(笑)さらにさらに、仁科亜季子さんを若くしたような美人の方が向かい席に座っているじゃあ~りませんか~(☆∀☆)渋谷でその女性は降りたのですが池袋から渋谷の間は景色どころではなかったです(笑)はい(^-^)/
そうこうしているうち電車は平塚駅に到着です。
平塚駅
ここから上野東京ラインに乗り換えて熱海駅に向かいます。
私は旅行好きな者ですから、友人から勧められて「ケータイ国盗り合戦」という位置情報ゲームをやっています。
ここから先、東海道で盗っていない国があるんです。この国盗りも楽しみの一つなのです(^^♪
携帯の電池容量が45%しかないですけれど、乾電池式の充電器を持ってきているので大丈夫のはずでした…なんと!充電コードが見つかりません!忘れてきたようです…ガビーンΣ(゚д゚lll)
ちょっと危ない感じです(T▽T)まあ、岐阜までもてばなんとかなるんですけどね…(;^ω^)
岐阜で充電コードを買うしかありません(;´д`)トホホ…
熱海駅に到着しました。乗り換え時間8分です。
熱海駅
熱海といえば熱海温泉、日本の三大温泉場の一つですよね~♨
バブル崩壊後に熱海冨士屋ホテルが倒産したのにはびっくりでした
(゚o゚;;
尾崎紅葉の「金色夜叉」の舞台ですよね~。「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」・・金権主義と恋愛の矛盾とでもいうのかな?(^┰^;)ゞ
小津安二郎監督作品の名映画「東京物語」で熱海が舞台の一部になっていましたよね?熱海の沖に浮かぶ初島が映っていましたものね?
小津安二郎 - 東京物語 (1953)
https://youtu.be/FQsLJqg_6cM
お時間がある時にごゆっくりご覧下さい(^ω^)
さらに、熱海は世界的なピアニストの内田光子さんの出身地ですよね~♪
今や世界の”Uchida”ですものね(^^♪
話を戻します。
熱海駅を出発するとすぐに色々いわくがある丹那トンネルを抜けて、三島・沼津を通過。吉原(田子ノ浦)で山部赤人が「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」と詠んだ富士山が見えてもいいのですけれどね~建物に遮られて全然見えまシェン(´・ω・`)
富士駅を通過してしばらくするとようやく富士のお山とご対面(笑)
/^o^\フッジッサーン
お次は東海道線のハイライト!薩埵峠ですよ~(^-^)/
しかし、撮られた写真は無残でございました(。-_-。)
薩埵峠付近
せめてもがな、伊豆半島が写っていたのが救いです(笑)
↓これを求めていたのですけどね…土台無理なハナスでしたね(^_^;)
薩埵峠 wikipediaより
やがて有名な三保の松原がある清水駅を通過して次の乗り換え駅静岡駅に到着です。
静岡駅での乗り換え時間12分です。
静岡は何回か来たことがあるので懐かしいですね~(´▽`)
静岡といえば、静岡おでん!(^q^)と安倍川餅!(^p^)
特に静岡おでんは味がしみていて美味いんだな~(^^♪駄菓子屋でも売っていて子供たちが食べるというソウルフードなんですね。
静岡おでん おがわ - 地域情報動画サイト 街ログ
https://youtu.be/THZ5hb3OqYE
話を旅に戻しまして次の乗り換え駅浜松駅を目指します。
静岡駅にて入線してきた浜松行普通列車
静岡駅を出発しますと、すぐに安倍川を渡ります。安倍川餅の名前の由来ですね(^p^)
やがて焼津駅です。
焼津と言えば何といっても第五福竜丸のビキニ環礁での米軍による水爆実験「キャッスル作戦」に巻き込まれて被爆した事件。つまり3・1ビキニデーですね。この日に久保山愛吉さんの墓参りをしたことがあるんです。懐かしいですね(´・ω・`)
みなさん?漫画「包丁人味平」というのをご存知ですか?主人公が全国各地でライバルと料理勝負していく漫画なのですが、内容がハチャメチャなのですが面白い漫画でした。その主人公味平がここ焼津で料理勝負する場面があったのですね。たしか、火薬を使ってマグロを解体する“地雷包丁”だったかな?詳しくはすっかり忘れましたが(^_^;)
捌(さば)いた魚を水槽に入れると……
骨泳がし
さすがにこれはないですよね??(;^ω^)
骨泳がし
https://youtu.be/g-hX2vSyEwU
さて、話を本題に戻しまして、焼津を過ぎてまもなく「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれた大井川を通過、掛川を通過してしばらく進むと今度は「暴れ天竜」の異名を持つ天竜川を渡ります。天竜川を渡ると今日の最後の乗り換え駅の浜松駅に到着です。ヽ(´ー`)ノバンザーイ
浜松といえば、浜名湖に楽器に餃子ですね~(^0_0^)
浜名湖はうなぎの養殖で有名なところです。そのうなぎパウダーをパイ生地に練りこんで焼いた洋菓子がかの有名な「うなぎパイ」ですね~(^^♪
「夜のお菓子」と書いてありますけれど決して精力増強のお菓子ではではありませんよ~(//∇//)
楽器については、浜松に本社を置く楽器メーカーがヤマハ株式会社、河合楽器製作所、ローランドなどなど、世界的な楽器製造地なんですね~♪
日本で唯一の公立楽器博物館である浜松市楽器博物館はぜひ機会があれば行ってみたいです!
餃子はここ浜松と宇都宮が日本一の餃子消費量でしのぎを削っているのですね~(^0^)
ここに、餃子消費量をめぐって焦っている人がいます(笑)ご覧下さい。
U字工事「栃木漫才4」
https://youtu.be/exG29byse2I
閑話休題。
岐阜に向けて最後の電車に乗り込むことにします。
浜松駅にて16:39発岐阜行普通列車
浜松駅を出発して二つ目の駅である舞阪駅に到着。ここから先から浜名湖が見えますよ~(^ω^)
あれ?なかなか出発しませんね(・3・)ホわっとはぷん??
しばらくして、車内アナウンス「この先の弁天島駅付近で自動車事故のために安全確認をしております。発車までもうしばらくお待ちください」
そうですか…事故なら仕方ありませんね…(。-_-。)
また、しばらくして、車内アナウンス「この先の弁天島駅付近で大型自動車が橋の欄干に接触事故のために安全確認をするために要員を派遣しております。ご迷惑をおかけしています。発車までもうしばらくお待ちください」
そうですか…事故なら仕方ありませんね…(。-_-。)
また、しばらくして、車内アナウンス「この先の弁天島駅付近で大型バスが橋の欄干に接触事故のために安全確認をするために要員を派遣して確認中です。ご迷惑をおかけしています。運転見合わせとなります」
工エエェェ(´д`)ェェエエ工この先いけないのですか~~~困った(´-ω-`)
この車内アナウンスをきっかけに電車内がざわめきたちてきて、あちらこちらで携帯電話で連絡をとる人の波~。私も今日の宿泊所に連絡を取りたいのですが…電池容量が10%を切っているらしく、全くいうこときいてくれません(T▽T)困った(´-ω-`)
こうなったら、「いつか発車するわい!」と腹をくくるしかありませんね(`・ω・´)シャキーン
しかし、人身事故や重大事故でなくてよかったですねε-(´∀`*)ホッ
舞阪駅停車後45分経った頃でしょうか、車内アナウンス「たいへんご迷惑をおかけして申し訳ございません。弁天島駅付近で大型自動車が橋の欄干に接触事故のために安全確認をしていましたが、安全確認がとれましたのでこれより発車いたします」ワーイヤッタネ(≧∇≦)b
車内アナウンス「たいへんご迷惑をおかけして申し訳ございません。弁天島駅付近で大型自動車が橋の欄干に接触事故のために安全確認をしていましたが、安全確認がとれましたので47分遅れで舞阪駅を発車しました。なお、東海道本線名古屋方面の大幅な遅れにより、この列車は豊橋行きとさせていただきます。ご理解の上ご協力お願いします」あら!岐阜まで行かないのですか~豊橋駅で乗り換えなのですね?まあ仕方ないですね…(´・_・`)
まもなく、豊橋駅に到着です。
どれどれ、次の乗り継ぎ列車はどんな感じでしょうか?
おお!8分後に大垣行き特別快速がありますよ~!これに乗れば岐阜到着当初予定時間と殆ど変わらない時間に到着できそうです!ラッキーヽ(・∀・)ノ
さっそく乗り込むことにします。
発車から約二十分、岡崎通過。岡崎といえば徳川家康の出身地ですよね?そして、日本の代表的作曲家の冨田勲さん、ピアニストの河合優子さんもそうですし、個人的に好きな俳優である平泉成さんの出身地ですよね~天野くん(^^♪
TOMITA 冨田勲 新日本紀行
https://youtu.be/Ia-ZL4XDgxY
それにそれに、全国的な八丁味噌の産地ですよね?(^ω^)
過去に出張で岡崎に来た時に仕事が遅くに終わったのですけれど、どうしても味噌煮込みうどんが食べたくて探し回ってようやく見つけて食べたことがあります。昔から食い意地張っていたのですね~(笑)懐かしいですね(^^♪
また来て食べるべし!(^-^)/
岡崎から約30分。名古屋駅到着。
名古屋に初めて来た時に、地下街の大きさにたまげました(゚д゚)!そして、道幅の大きさにもびっくりでしたね^^
そして、味噌カツが美味かった!(^q^)さらにコメダ珈琲店の名物シロノワールがインパクトありましたね~(^p^)現在はコメダ珈琲も新潟に進出してきていつでも食べられるようになりました~(^0_0^)
そうそう、餃子の王将もここ名古屋で初めて食べたのですね~コメダ珈琲同様に現在は新潟に進出していますよ~(^0_0^)
名古屋を出て約20分。ようやく今日の目的地岐阜に到着しましたよ~ヽ(´▽`)/
しかし、充電コードを買わないといけないのでしたね~20時前です。急がねば!けれど携帯の検索機能が使えないのですよね…どこへ向かったら良いの見当もつきません…とりあえず柳ヶ瀬方面に向かいます。トボトボと国道157号線を歩いていると案内地図がありました。それを見るとドン・キホーテ柳ケ瀬店の表示が目に飛び込んできましたよ~!ヤッタネ(*^^*)いそいそと向かうことにします(笑)ありました!ドン・キホーテ柳ケ瀬店!さて目的の充電コードはどこかな?(^^♪おお携帯アクセサリーコーナーがありましたよ~!しばらく物色中(笑)あれ?iPhoneやスマホ関連はたくさんあるのにFOMAのは見当たりませんね…(・3・)店員さんに尋ねると「取り扱いしていません」ですと!100円ショップに行ってくださいとのこと・・がっくり_| ̄|○ 広島で買うしかないですね…どっと疲れが出てきました~(T▽T)宿に行くことにします…
新岐阜駅前交差点
そういえば、柳ケ瀬といえば美川憲一さんのヒット曲「柳ヶ瀬ブルース」で一躍全国的に有名になった場所ですよね~(^^♪
柳ヶ瀬ブルース/美川憲一
https://youtu.be/xWV9OEMidmQ
柳ヶ瀬ブルースほどヒットしなかったようですけれど、姉妹曲に「新潟ブルース」かあるのですね~♪動画はこちら新潟ブルース
ちょっと一言。新潟ブルースは「霧の新潟」と頻繁に出てきますが新潟は滅多に霧が出ませんよ~(^-^)/(笑)
さて、岐阜駅構内を通過して約2分、今日の宿に到着しました…(;´ρ`)チカレタヨ・・・
チェックインを済ませてお部屋に入りました。夕食を摂らずにドン・キホーテで購入したポンジュースを一気飲み?で今夜の夕食終了~(;^ω^)
明日は広島に立ち寄り、小倉(北九州)まで行きます。
明日も早いのでもう寝ます~おやすみなさい(-.-)zzZ
長崎は今日は晴れだった~♪その2 へ続く
長崎は今日は晴れだった~♪その2
おはようございます(^_^)/
只今、5:25アラームが鳴る前に目覚めましたよ~(´O`)
「時間です!時間です!時間です!・・・」アラームが鳴りました。
もう起きてますよ~(^^♪
苦行の旅!?
さて、今日は広島に立ち寄って、小倉(北九州)まで行くのですね~(^0^)
身支度を済ませていざ出発~(^-^)/
駅員さんに青春18切符へ二つ目のハンコをもらって改札します。
朝の岐阜駅
岐阜駅06:09発大垣行普通列車に乗車します。
岐阜駅を出発して、しばらく行くと、北西方向に伊吹山が薄らと朝焼けしているのが見えました!綺麗ですね。
朝焼けの伊吹山
ここ濃尾平野で冬季に北西の方角から吹く季節風を「伊吹おろし」と言ってかなり冷えるそうですね?
この伊吹山は過去に何と!観測史上最大の積雪量11m82cmを記録して世界記録なんだとか!(゚д゚)
伊吹山といえば古事記や日本書紀に出てくるヤマトタケルの話や、清少納言と藤原実方との恋歌\(//∇//)\、松尾芭蕉が「おくのほそ道」で「そのままよ 月もたのまじ 伊吹山」と詠んでいるのですね~♪
「おくのほそ道」はこれから向かう大垣で終結しているのでしたね。
大垣駅に到着しました。乗り換え番線を間違えて大慌て(;^ω^)
それで、大垣駅の写真を撮ることが出来ませんでした…(^ω^;)(^ω^;)
大垣駅と米原駅は列車接続本数が少ないようで、この時間でも満席立ち乗りの人が多いのですね…私も立ち乗りになりました…(´ε`;)
大垣を出て約14分関ヶ原駅到着です。
関ヶ原といえばなんといっても天下分け目の「関ヶ原古戦場」ですね~(^^♪
関ヶ原古戦場 wikipediaより
実際に現地に行ってみると意外と狭いんですよ。
関ヶ原合戦図屏風 wikipediaより
この合戦図屏風ですと広い場所でやっている感じなんですけどね?(^O^)
ところで、この関ヶ原でプレミアムな醤油が造られているのを知っていますか~?その名も「関が原たまり」
かの料理の鉄人「道場六三郎」さんが紹介していたものです。関ケ原醸造株式会社というところが製造しているのですがめちゃくちゃ高価!!!自宅近くのお店でも売っているのですけれど、普通の醤油の5~6倍するでしょうかね?Σ(´∀`;)
旅に話を戻しま~す♪
関ヶ原から約20分で次の乗換駅米原駅到着です。
米原駅
ここ米原は交通の要衝ですよ~。古くは中山道と北国街道の分岐ですし、東海道本線と北陸本線との分岐ですものね~。それに、滋賀県で唯一の新幹線の停車駅があるんです。
将来、北陸新幹線が延伸して米原に接続するのですが金沢以西の北陸本線も3セク化するのでしょうかね??(・3・)
さて、米原より姫路まで新快速で一気に行けるのです。(^ω^)
すでに乗り継ぎの新快速が入線しているのですが、満車ですね…これは立ち乗りになりそう…(。-_-。)一本遅らせて、座りたいですもん(笑)
13分後、次の姫路行き新快速が入ってきました!アルェー(・3・)満車状態ではありませんか~~イヤーン(;_;)~そうなんですねこの新快速は長浜始発でした…立ち乗り決定です(T▽T)
米原駅を出てすぐ次の停車駅の彦根駅に到着。彦根といえば彦根城。彦根城は国宝で、国の特別史跡で琵琶湖国定公園第1種特別地域ですね~これは、旅行業務取扱管理者の試験に出題されるかもですよね~^^押さえておきましょう~(^-^)/(笑)
彦根も何回か訪問したことがあるのですけれど、ゆるキャラの元祖?「ひこにゃん」には一回も会えてないですね(笑)
天守石垣の前で愛想を振りまく、ひこにゃん
彦根を過ぎて、やがて電車は織田信長の最後の居城となった安土城跡がある安土駅へ到着。
安土城跡へ行くとなにか拍子抜けするんですよね…駐車場と案内看板しかなくて、ガラ~ンとしていて…(;^ω^)現在はどうなんですかね?
安土を過ぎてやがて近江八幡駅を通過です。
近江八幡は水郷で有名ですよね?「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定さたので、これまた試験に出るかもですよ~(^0^)
近江八幡から約20分で瀬田駅を通過です。
瀬田といえば日本三古橋の一つとされている「瀬田の唐橋」がありますよね。私が過去に行った時は祭りでもやっているかと間違えるほどの観光客の多さにびっくりでしたよ~(#^.^#)
連歌師、柴屋軒宗長の歌「武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋」これが、ことわざ「急がば回れ」の発祥なんですね~(^^♪
私は北陸新幹線開業のおかげで強制的に廻されてしまいましたが…(;^ω^)
ここまでは記憶がはっきりしているのですが、その後、立ちながら半分寝ていたようですね…(;^ω^)大津や京都など通過したはずなのですが記憶が曖昧です(笑)
大津は通過を含めると20回は来ている街です。けっこう個人的に因縁が深い街ですね。
京都!・・新潟県内の観光地を除いて、個人的には上高地に次いで(元山男・笑)訪れている場所ですよ~いいですね!一ヶ月でいいから住んでみたいです(^-^)/
さて、新大阪駅まで約1時間30分。立ちっぱなしは意識が薄くても疲れますね~( ´ω` )新大阪で乗客の7割位が降りましたよ。やれやれ、ようやく座れます(^^♪
大阪駅到着。ここは今回の旅でもう一回来ますので、往路で触れるのはパス(^┰^;)ゞ
大阪を出て約20分神戸三ノ宮駅に到着しました。ここ神戸はいろいろな名物なものがいっぱい!食い意地の張った私としては南京町の中華街ですかね(^q^)(笑)横浜中華街と比べると小ぶりなんですけどね?(^^♪神戸中華街はやっぱり豚まんですかね?(^p^)
関西圏で豚まんといえば551蓬莱が有名なんですが…(・∀・)
西日本において「肉」といえば一般的に牛肉なんですよね?だから、西日本で「肉まん」というと牛まんということになるそうですね~(∵`)
アニメ「ぶたまん大家族」パイロット版
https://youtu.be/oZebBjuE68U
女性の皆様には是非ともフロインドリーブのリーフパイが超オススメです!めっちゃ美味しい( ゚v^ ) オイチイ
三ノ宮から約15分ほど行きますと街が切れて瀬戸内海が見え出します(^ω^)
おお!遠くに明石海峡大橋が見えてきました!世界最長の吊り橋ですよね~(^O^)
明石海峡大橋
朝食を摂っていないもので…明石のたこ焼き(玉子焼)が食べたくなってきた~(笑)
明石といえば、東経135度日本標準時子午線が通っているのですね。
東経135度日本標準時子午線 遠くは明石市立天文科学館
wikipediaより
ちなみに現在の日本標準時を決めているのは東京都小金井市にある情報通信研究機構に設置されている12台のセシウム原子時計と水素メーザ原子時計だそうです…(∵`)
左:セシウム原子時計 右:水素メーザ原子時計
明石から約25分で御着駅通過。御着といえば、昨年放映していた大河ドラマ「軍師官兵衛」で播磨御着城主の小寺政職役を片岡鶴太郎さんが好演していましたね(^^♪
何で鼻を赤くしていたのでしょうかね?「ここが思案のしどころじゃのう」(笑)
御着駅の隣が今日3度目の乗り換え駅である姫路駅です。
乗り換え時間12分。
姫路駅
姫路といえばアナタ!やっぱり世界遺産の姫路城ですよね~(^0^)
姫路城は復路でお邪魔しますので、ここは別の話題で(^^♪
山陽新幹線の姫路を通過する「のぞみ」などは、先ほど通過した御着辺りから300km/h
へ加速してこの姫路を高速で通過していくとのことです。それを知っている外国人観光客がわざわざ姫路駅に来て新幹線の高速通過を楽しんでいるのですね~♪
以前にも、ご紹介した動画ですがご覧下さい(^ω^)
Excitement great to the Shinkansen!
https://youtu.be/JF-aKl7_gHg
Amazing~♪\(^^)/(笑)
このカップルが通過した列車が「のぞみ」なのか「ひかり」なのか、言い争う場面がおかしい(笑)正解は「のぞみ」なんですけどね(´▽`)実際は新岩国を通過する時が最も速いとの噂もあります。
現在でも、外国人観光客が見に来ているのかな??(^0^)
では、姫路城は復路に任せてここは先を急ぐことにしましょう!
姫路駅を出発して19分、次の乗り換え駅の相生駅に到着。乗り換え時間4分。( ´゚д゚`)アチャーすでに満車状態ではありませんか…嫌な予感…(>_<)(笑)次の乗り換え駅岡山駅まで立ち乗りの模様…(T▽T)後ろからどんどん乗車してくるので、すし詰め状態です。写真撮影どころではありませんよ~(ーー;)
果たして、岡山まで立ったままでした(;_;)
岡山駅
岡山といえばおとぎ話の「桃太郎」ですかね~(^^♪桃太郎のお話は色々な示唆に富んだ話ですね。一言で言えば少年が英雄体験を積んで大人の男に成長するというお話ですね?スタンド・バイ・ミーに通底するものがあるんですよね。可愛い子には旅をさせよとはまさにこのことですね?おじさんも旅をしてますけどね~(^-^)/(笑)
Stand by Me
https://youtu.be/GrPKk9sXhB0
桃つながりで忘れてはいけないのは、ここ岡山が白桃の原産地なんですね~(^q^)
それでそれで、フルーツの女王といわれるマスカット・オブ・アレキサンドリアの産地ですよね~(^p^)
フルーツ好きにはまさにパラダイス~(笑)
しかし、白桃もマスカット・オブ・アレキサンドリアもお高い~(/ω\*)
そして、岡山には日本三名園のひとつ「後楽園」がありますね。
後楽園から岡山城を望む wikipediaより
さて、話を戻します。
米原駅からここ岡山駅まで約5時間トイレに行く時間がなかったので岡山で用を足すしかなかったのですが、それがために次の福山駅行きの電車が満席状態…ε=(・д・`*)ハァ…立ち乗り決定です…(T▽T)
岡山駅から約20分倉敷駅に到着。
倉敷は「倉敷美観地区」として近江八幡の水郷と同様に重要伝統的建造物群保存地区に指定されているのですね~♪
倉敷美観地区
倉敷美観地区も観光客が多かったですね(^0^)
ところで、ここ倉敷は学校制服生産高が日本一だということをご存知ですか?(・∀・)
児島学生服資料館(日本被服株式会社敷地内)というのもあるくらいですよ。
参考に就職案内用の動画ですが( ^ω^)_凵 どうぞ
明石被服興業株式会社
https://youtu.be/-t2_DLHxx4I
さて、話を本題に戻します^^
倉敷の次の駅、新倉敷駅で半分ぐらいの乗客が降りました。ああ!これで座れる(^▽^)
やがて、30分くらいで次の乗り換え駅福山駅に到着です。福山はブログでお世話になっている「21世紀のケインジアン」さんの地元です。今度、お会いしたいですねm(_ _)m
乗り換え待ち時間は6分
なんとか座ることができました(0^□^0)発車しました。
おッと福山駅の写真を撮るのを忘れるところでした。
福山駅にて
あら~白飛びしちゃいました(^_^;)それに、外人女性も見切れちゃいました(笑)
徳山を出て約20分ほどで尾道です~(^ω^)
車窓から尾道市千光寺山を望む
尾道駅
前出の小津安二郎監督の「東京物語」の舞台にもなりましたね~♪
また、大林宣彦監督の「転校生」や「時をかける少女」「さびしんぼう」の舞台ですよね~(^ω^)
尾道ロケ地巡り ~ 転校生編 ~
https://youtu.be/GThRlh8o-oo
↑これは素晴らしい出来栄えです!一つの作品として十分に評価できますよ( ´∀`)
山陽本線から因島大橋を望む
う~ん~瀬戸内海はうららかな感じでいいですね~こういうところに住んでいると性格が明朗になりそう!??(笑)
さて、もうすぐ、次の乗り換え駅の糸崎駅です。
乗り換え時間4分…う~ん…またしても嫌な予感…(^^;
ああ…案の定…満車に近く、立ち乗り決定です…(T▽T)
広島まで1時間18分。広島まで一貫して乗車率は上がることはあっても下がることはないでしょうね…(´・ω・`)
もう、これは修行の旅ですね~(笑)
修行すること1時間18分?(笑)ついに広島に到着しました~ヽ(´ー`)ノバンザーイ
広島駅出口
広島カープ応援団の人たちがチラホラいますね。普段から広島駅前でミニ集会をしているのかな??あっそうか!!今日はプロ野球の開幕戦の日でしたね~!!(^0_0^)
さてと、広島に着いたらまずすべきは携帯の充電コードの購入ですな!岐阜で100円ショップの場所を調べておきました~(^-^)/
福屋広島駅前店の地下にあるんですね。ぱぱっと行ってぱぱっと買って来ますね(^^♪
おお~ありましたよ~充電コード~ヤッタネ(*^^*)
即、広島駅に戻って、手荷物をコインロッカーに預けて、さっそく平和記念公園へ向かいます!
広島駅前から広島電鉄の路面電車に乗ります(^ω^)
2号線「広電宮島口」行きか6号線「江波」行きに乗って「原爆ドーム前」で下車です。約20分くらいですかね?
広島電鉄広島駅
広島は何度となく来ていますが、この路面電車は風情があっていいですね~(^v^)
駅間の短さとスピードの遅さ?でけっこう時間がかかるのですが、そこがまたいいですね?(^0_0^)
路面電車は相生通りを広島の繁華街八丁堀
胡町電停付近から八丁堀交差点方面を望む wikipediaより
を過ぎてちょっと行くと目的駅の「原爆ドーム前」です。
あら~下車したのは私一人なの~ちょっと淋しいな(笑)
ついに、到着です!
原爆ドーム
おお!見えた~!!工事中ですね?
広島県物産陳列館(原爆ドーム)1915年4月5日に竣工したということは完成してからちょうど100年ということになるんですね。老朽化が進み耐震補強の調査をやっているとのことです。
さて、ここから先、原爆ドーム・平和記念公園・原爆資料館など沢山写真を撮ってきましたので、別に章を立てて、後日お送りしたいと思います。
原爆死没者慰霊碑
広島平和記念資料館
小鳥を狙う猫c(-。-,,)c)~ 平和記念公園にて(=‘x‘=)
では、広島駅に戻ります(^-^)/
広島電鉄紙屋町西駅
広島駅まで満席で立ち乗りでした(;_;)
広島駅前の野球観戦グッズ売り
広島駅に戻ってみると開幕戦観戦者でごった返していましたよ~(^0^)
さてさて、広島風お好み焼きですよ~(^q^)(^p^)ここまで食事を摂らないで備えていたのですもん(笑)やはり本場は「八昌」か「みっちゃん総本店」に行きたい!(笑)八昌はこの時間は営業していないのですよね…そうなると、みっちゃん総本店 広島新幹線名店街店に行くしかないでしょうね?(^0^)
しかし、詳しい場所が判らないです(ToT)携帯のナビ機能を使っているのですが要領を得ないです~(。í _ ì。)
え~い!面倒じゃ!駅ビルASSEの2階にお好み焼き屋さんが並んでいるそうで、そこに行っちゃお(^^♪階段を登るとおお!ありましたありました!しかし、「麗ちゃん」というお店にズラーっと人が並んでいますね…ここで食べるまでには1時間位かかりそうです。そのお隣の「紀乃国屋ぶんちゃん」はすぐ食べられそうです(^q^)二人の若い売り子さんが呼び込みをやっているのでそこにしましょう!とにかく腹減った~(笑)
なんにしましょう(^p^)紀乃国屋ぶんちゃんのベストセラーにイカをプラスした「C」にしましょう!さっそく、注文します。
紀乃国屋ぶんちゃん店内風景
お好み焼きソースに2種類ありましたよ~♪
左が有名なオタフクソース、右がカープソースですって。辛いらしいです(^O^)
紀乃国屋ぶんちゃんお好み焼きC
おお!旨そう(^q^)(^p^)さっそく、いただきます~( ゚v^ ) オイチイ
そうさ!空腹が最大のスパイスなのさ!!(@ ̄ρ ̄@)(^O^)(笑)
あっという間に完食!ご馳走様でした(^ω^)
満足満足(*゚▽゚*)
紀乃国屋ぶんちゃん売り子さん
お二人の笑顔に…鼻の下がビロ――(゚∀゚)――ン!
では小倉に向けて最後の踏ん張りです( `・ω・)
広島駅改札を済ませて次の電車を待ちます。
( ´゚д゚`)アチャー人が並んでる~(;_;)
広島駅発岩国駅行き普通列車
う~ん、この状態だと、また、立ち乗りですな…(´-ω-`)
廿日市駅で多くの人が降りました。ここから座れました(^ω^)
廿日市から3つ目の駅が宮島口駅です。
宮島とは言わずと知れた世界遺産、厳島神社のあるところですね~♪
厳島神社 大鳥居と社殿
厳島神社に行く宮島航路があります。この航路は全国でも珍しい青春18切符で乗れるのですね~(^0^)今回は時間が無くて行けませんが、青春18切符を使う時の大きなポイントですね?(^^♪
宮島口駅から22分で次の乗り換え駅の岩国駅です。
もう辺りは陽が落ちて暗いですよ。
ここ岩国は米海兵隊岩国航空基地があります。
その昔、米軍の核持ち込み疑惑が上がっていた時に、この岩国基地までそれを確かめるために来たことがありました。弾薬庫に掲げられている危険度表示の看板があるのですが、危険度が高い順に「1」から「4」まであり、「必ず大爆発、大被害になるので、消火作業を試みてはいけない、第一義的に避難せよ」が、八角形に真ん中に「1」と書いてあるものです、と説明を受けたときには戦慄したのを覚えています。
さてさて、物騒な話題はこれくらいにして、
岩国といえば日本三名橋や日本三大奇橋に数えられる錦帯橋がありますね~(^ω^)
錦帯橋
以前訪問した時に、川向こうに行こうと思いましたが、通行料取られるのでやめにしたっけな~(^^;
それにしても、美しい5連アーチですよね♪
葛飾北斎の錦帯橋
先を急ぎましょう。
岩国駅発下関駅着普通列車に乗り込みます。さすがにこの時間だと乗降客もグッと少なくなり余裕で座れます。(*^^)v
岩国から下関まで三時間位かかりますのでボーとしてよっと(笑)
ここで、居眠りしちゃうと夜寝れなくなるので…(^^♪
約三時間
ようやく下関駅に着きました。
下関駅
ここで小倉へ向かいます。いよいよ、九州上陸ですね~(^-^)/
関門トンネルの九州(門司駅)側口 wikipediaより
関門トンネル人道の県境
下関から約14分小倉駅に到着です!
祝九州上陸(笑)
改札を済ませて、駅前のコンビニでチキンと野菜ジュースを買って駅前の宿に向かいます。
白木みのるさんによく似たフロントの人にチェックイン(笑)
白木みのる
さてもさても、九州の夜は更けるのであった~(^O^)
明日はいよいよ、長崎ダス。お休みなさい(-_-)゜zzz…
長崎は今日は晴れだった~♪その3へ 続く
長崎は今日は晴れだった~♪その3
おはようございます(^_^)/
ここは小倉(北九州)、さすがに暖かいですね~(^v^)
今日はいよいよ最終目的地の長崎ですね~(*^^*)
((o(´∀`)o))ワクワク
思いのほか
「おはようございます」ホテルの白木みのるさん似のフロントの人にチェックアウトを済ませて、小倉駅前のコンビニでチキンと野菜ジュースを買いました。今朝の朝食であります(^^♪
駅員さんに青春18切符へ三つ目のハンコをもらって改札します。
小倉駅にて
駅名看板をよ~く見ると「小倉祇園太鼓」の絵が書いてありますね。芸が細かい~(笑)
小倉祇園太鼓どいうと「無法松の一生」の暴れ打ちをおもいだしますね~(^^♪
無法松の一生 予告篇
https://youtu.be/tAd6-pDjn6Y
三船敏郎がカコイイ~(^ω^)
小倉駅6:35分発博多駅行き快速列車に乗ります。
あの…小倉から博多まで途中の写真を一枚も撮れませんでした。実は寝っちゃった(-_-)゜zzz…(笑)もったいないことをしてしまいました…(T▽T)
博多駅待ち合わせ時間29分
博多駅
福岡・博多は食い倒れの町?美味しいものがいっぱいある街ですよね~\(^^)/
やはり麺食いの私としては博多ラーメンですね~♪
博多ラーメン
他に長浜ラーメンと呼ばれているのもありますが外来者の私には区別がつきませんよ~(^O^)
現在では博多一風堂が新潟に進出してきてますのでいつでも食べられるのですけどね~(^^♪
私が個人的に行ってみたいお店が実はあるんですね~(^0^)
その名も「パスタとピザの店 らるきい」
パスタとピザの店 らるきい 「ぺぺたま」
世界のホームラン王の王貞治さんがダイエー・ソフトバンク監督時代に足蹴なく通っていたんだとか!らるきいの「ぺぺたま」が食べた~い(^q^)(^p^)
さて、博多駅8:12分発大牟田行き快速列車に乗車します。
博多から17分で二日市駅到着です。
ここは太宰府天満宮へのJRの玄関口ですよね?
太宰府天満宮 wikimediaより
太宰府天満宮の主祭神は「菅原道真」です。菅原道真といえば……怖いですね?((((;゚Д゚))))
二日市駅から13分で次の乗り換え駅の鳥栖駅に到着です。
乗り換え待ち時間5分
鳥栖駅8:48分発肥前山口駅行きに乗り込みます。番線が離れていますので、連絡通路通って乗り換えですので時間がかつかつでした。ですから、写真は撮れなかったです。(´・ω・`)
鳥栖駅から15分で吉野ヶ里公園駅です。
ここはその名の通り、吉野ヶ里遺跡があるところですね(^^♪
吉野ヶ里遺跡 wikimediaより
1970年代の高度成長時代にこの地に工場団地造成計画が持ち上がって、造成工事にとりかかてすぐに遺跡の一部が壊されちゃったんですよね~(>_<)1991年にようやく特別史跡に指定されたのですよね~(^0^)
男はつらいよ第42作「ぼくの伯父さん」のロケ地になりましたね。
「国民的美少女」といわれた後藤久美子さん可愛かったですね~
(๑╹ڡ╹)╭ ~ ♡
現在はジャン・アレジと仲良く暮らしているようですね~(^0^)
車寅次郎らしさ 第42作 男はつらいよ ぼくの伯父さん
https://youtu.be/P4IOXO1r-6c
後藤久美子さんフルートを持って出演してます♪
鳥栖駅から32分で佐賀駅に到着です。
佐賀といえば、早稲田大学の創設者の大隈重信の出身地です。そして、俳優の村井國夫さんの出身地ですよね~渋い二枚目~(^O^)
ここ佐賀市には全国でも珍しい筑後川昇開橋があります。
筑後川昇開橋
国鉄佐賀線の廃線後も保存され現在は機械遺産に指定されています。
見てみたいですね~♪
そういえば、「のだめカンタービレ」のLesson 11でのだめが故郷の福岡県大川市に傷心の帰省をした時に、のだめが筑後川の河畔に佇むバックに昇開橋が映ってましたよね~♪
さて、佐賀駅から16分で次の乗り換え駅の肥前山口駅に到着です。
ここから長崎本線経由で長崎に向かうのが本来なんでしょうけれど、この時間帯は特急しかなくて普通列車は約2時間30分待ちなんですよ…(;_;)
ここから佐世保まで行って、佐世保から快速列車「シーサイドライナー」で長崎に向かうのが早いのですね~♪佐世保バーガーも食べられますしぃ~(^q^)(^p^)
それでは佐世保に向かいます。乗り換え待ち時間は17分です。
肥前山口駅
列車は有田焼の有田駅を通過。
有田焼で思い出しましたが、旅行業務取扱管理者の国内旅行実務試験になぜか焼き物の産地出題が多いようです。現在はどうなんでしょうかね?(^┰^;)ゞ
早岐駅でスイッチバックして、肥前山口駅より約1時間で佐世保駅に到着です!\(^^)/
佐世保駅
佐世保に来たど~(゚∀゚)!
佐世保駅
ここはさっそく、佐世保バーガーじゃネ(笑)
老舗の「ハンバーガーショップ ヒカリ」がいいのかな~?
佐世保バーガーMAPなるものを発見!
公式に認定されたお店「佐世保バーガーMAP」
おお!佐世保駅構内にハンバーガーショップがあるではないですか━━━━!!その名も「ログキット」。もうそこしかないでしょう~(笑)
佐世保駅を出たらすぐ脇にありました~♪
ログキット佐世保駅店
ログキット佐世保駅店の看板
え~、これがハンバーガーの正式な食べ方なんですか??(・・?ちょっと好きじゃないかな…(^◇^;)
スペシャルバーガー、約直径15cm・重さ約500g、これにしたいのですけれど…長崎ちゃんぽんが食べられなくなるのでSサイズします(笑)
購入までかなり待たされてしまいました…乗り継ぎの快速列車「シーサイドライナー」がもう出発しちゃいました…(; ̄ェ ̄)ま、次の「シーサイドライナー」でいいか(^O^)
佐世保バーガー
トマトがはみ出して見栄えが悪いですけれど、旨そう
(^q^)\(^^)/(^p^)
佐世保バーガー 佐世保駅をバックにして
美味し!旨し!アッというまに完食(^q^)(^p^)
さて、次の列車まで小一時間ありますよ~どうしましょう?市内観光するには時間がありません。客待ちのタクシーのドライバーに「佐世保を一望出来て、あまり観光客が行かない場所」はないかと尋ねてみると、「天神山」といういい場所があるそう。車で約8分、徒歩で約35分くらいだそうです。徒歩で往復は時間的に厳しいですね…行きはタクシー、帰りは徒歩がいいかな?そうしましょうそうしましょう~♪
さっそく、乗り込んで天神山公園へ向かいます。
住宅街の入り組んだ道を登っていきます。小学校の裏手をちょっと行くと駐車場があります。そこで降りて山道を2分位登るとジャーン!お目見え(笑)
天神山より_1
天神山より_2
天神山より_3
綺麗ですね~夜景もかなりいけそうです(・∀・)
桜が八分咲きくらいでしょうか~✿景色に花を添えてますよ~(^^♪
さらに奥の方に行くと展望台がありました。
(ノ゚ο゚)ノ オオォォォ-絶景ですね~(^0^)
天神山より_4
天神山より_5
天神山より_6
佐世保重工業のドッグと米軍佐世保基地がよ~く見えますね。あの大きな戦艦はドック型揚陸艦ですね?
ここ佐世保は軍港なんだと実感させられます。
しばし、風景を堪能して、佐世保駅に戻ります。
携帯のナビ機能をフル活用です(^-^)/
約40分で何とかたどり着きました(笑)
ああ、12時18分発の快速「シーサイドライナー」発車まであとわずか、際どかったです…(; ̄ェ ̄)
佐世保駅を出て18分ハウステンボス駅に到着です。
ハウステンボスはオランダの街並みを再現したテーマパークですよね。ちょっと入場料がお高い?(^_^;)経営に苦戦しているそうな…
ハウステンボスは佐世保市の正式な町名なんだとか。ハウステンボスの所在地の住所は「佐世保市ハウステンボス町1-1」だそうです(∵`)
ハウステンボス wikimediaより
ハウステンボスよりしばらく進むと、おお!大村湾が現れました~静かで麗らかな感じがいいですね~( ´∀`)
その昔、「鞭声粛粛夜河を過る」と詠んだ頼山陽が大村湾を「琴の湖」と詠んだのもよく判りますね~♪
西彼杵半島、長崎半島のランドサット衛星写真 wikimediaより
大村湾の右端の大きな島は長崎空港です。
大村湾はまるで、湖のようですね?大きさは琵琶湖を一回り小さくしたような感じですかね?本当に麗らかでいいです。荒海の日本海しか知らない者にとっては、まさに天国のよう(^^♪
大村湾沿いを大村線は長崎に向かって進んで行きます。
大村湾と大村線
ハウステンボス駅から約1時間、長崎県第3の都市である、諫早駅に到着です。
諫早と言えば俳優の役所広司さんの出身地ですね~(^0^)
その昔、個人商「多良見青果」が諫早市多良見町で産声を上げて、今や全国ブランドの「たらみ」に成長したのですね~!
ここ諫早には長崎にある眼鏡橋の兄弟橋があるのですね。
眼鏡橋 (諫早市)
石橋としては日本で初めて国の重要文化財に指定されたそうです(∵`)
さて、諫早駅から大村線に変わって長崎本線に換わります。長崎まであと少しです∠( ˙-˙ )
諫早駅から山の中を列車は走ります。13時59分長崎駅に到着です!ついに長崎に来たドー!!\(^^)/(゚∀゚)
長崎は今日も雨だった
https://youtu.be/MBfz_aVUWak
あなたひとりに かけた恋
愛の言葉を 信じたの
さがし さがし求めて
ひとり ひとりさまよえば
行けど切ない 石だたみ
あゝ 長崎は今日も雨だった♪
長崎は今日は晴れだった~♪(*^^)v
さっそく、長崎電鉄の系統番号1正覚寺下行きに乗って思案橋ラーメンへ向かいます(^q^)(^p^)
長崎電鉄も風情がありますね~♪
国道上を走る長崎電鉄路面電車 wikimediaより
長崎駅前から思案橋停留所まで約10分。
思案橋停留所下車、おお!すぐ思案橋ラーメン到着です\(^^)/
思案橋ラーメン外観
思案橋ラーメン
思案橋ラーメンメニュー
思案橋ラーメン店内メニュー
右下の方に福山雅治さんデビュー20周年ライブの長崎新聞の号外記事が貼ってありました。
思案橋ラーメン店内
注文はもちろん「バクダンチャンポン」(^q^)それに、牛スジも注文しましょう(^p^)
おでん鍋
サイン色紙
おお!さすがに福山雅治さんのごひいきの店だけあって、福山雅治さんのサイン色紙が6枚飾られてありました(^▽^)浅野ゆう子さんや安達祐実さんもご来店(^O^)何と!あの財津和夫さんも来店しているんですね~(^^♪
牛スジ
先に、牛スジおでんが来ましたよ~(^q^)
(´~`)モグモグ…ちょっとしょっぱいけれど味がしみて美味しいですね~♪酒の肴にはいいかもですね(^ω^)
バクダンチャンポン
待望のバクダンチャンポンが出来上がり(^p^)
美味しそうですね~(^q^)(^p^)
バクダン(爆弾)とはなんなのかとず~っと考えていたのですが、具の真ん中に鎮座しているのがバクダン(爆弾)でした~(^0^)これは、ニンニクをペースト状にしたものにラードを混ぜて調味料で味付けしたもののよう。
このバクダンをチャンポンに溶かし込んで食べる味は中毒性が高いかもですね~(笑)
息つく暇もなく食べこんで一気に完食!!( ゚v^ ) オイチイ
ご馳走様でした(^ω^)
次は眼鏡橋を観に行きます~♪ここ思案橋から徒歩で10分くらいだそうですヽ(´▽`)/
約3分位で眼鏡橋が架かる中島川に出ましたよ♪
約6kmの長さで26もの橋が架かる河なんですね~(^^♪
そういえば、1982年7月23日から翌24日未明にかけて長崎大水害が発生したのですよね。その時に1時間に187mmの雨量を観測して、日本における時間雨量の歴代最高記録になっているんですね(゚д゚)!長崎大水害で眼鏡橋が壊れちゃったのでしたね?
1982年(昭和57年)7月23日 長崎大水害記録
https://youtu.be/Vl2azVToRnc
この長崎大水害復旧対策で、氾濫防止と石橋群の保存のために中島川を拡張できないので、全国でも珍しいいバイパス水路が作られたのですね~。
中島川とその両岸のバイパス水路 wikimediaより
さてさて、携帯のナビで歩いてきました(*゚▽゚*)
眼鏡橋付近の堤防にハートの形をした石が20個前後はめられてそうで、それを見つけられると幸せになれるそう(^O^)ということで、探してみることにしました(^^♪
眼鏡橋
(・3・)アルェーなかなか見つかりませんね…(´・ω・`)石垣の石を一個一個を丹念に探したのに発見できないですね…眼鏡橋から下流側でなくて上流側なのかな?眼鏡橋をくぐり上流側へ…探すこと約20分、ありましたありました~(^-^)/
ハートストーン
一番有名で形のいいハートです。右上に「i」が埋め込んであって、二つ合わせて「アイ・ラブ」ということなんでしょうね~(๑╹ڡ╹)╭ ~ ♡ここでプロポーズすると叶うかもですね~(#^.^#)
これからプロポーズする方はぜひここで( ^ω^)_凵 どうぞ
ハートストーンと眼鏡橋
眼鏡橋を上流から眺める
眼鏡橋に別れを告げて、次は亀山社中跡に向かいます(^ω^)
亀山社中に行くには階段を登らないといけないんですよね…体力が持つかな?(^_^;)
とにかく、体が続くまで向かいます(^-^)/
亀山社中跡に向かう途中で偶然にも「長崎製麺所」を見つけました!
長崎製麺所
ブログでお世話になっている「ウパくまこ」さんに長崎に行ったら地元で「チャンポン」の麺を入手するのがいいですよ!とアドバイスを受けていましたので、偶然に長崎製麺所を見つけてラッキーですよ~!(^ω^)
お店の張り紙に「小売」の文字を発見!これは地方発送もしてくれるのかとさっそくお店の人に聞いてみました。そうすると、何とネット通販しているそうですよ~!→HP
ウパくまこさんヤッタネありがとう\(^^)/グー(^-^)g""
長崎製麺所から30歩くらいの場所に案内看板が建ってました。
道案内
亀山社中跡まで600mですよ~(^-^)/
桜咲く長崎の坂
龍馬通りの入口
亀山社中跡まで210mです。ここから登りなんですね~(^^;
龍馬通りの坂
紙面(文字数制限)の都合により、
この後は「長崎は今日は晴れだった~♪その4」に続きます(^-^)/
長崎は今日は晴れだった~♪その4
長崎は今日は晴れだった~♪その3からの続き
龍馬通りの坂
ここから亀山社中跡まで210mですけれど、かなり急勾配ですね…(;^ω^)
頑張ります!(`・ω・)
この竜馬通りには亀山社中で活躍した志士たちの案内看板が掲げられています。
近藤長次郎
近藤長次郎は「龍馬伝」では現在、連続テレビ小説「まれ」でお父さん役で出演中の大泉洋さんが演じていましたね~♪
連続テレビ小説「まれ」父役に大泉洋さん
https://youtu.be/Vy_6ZozvYgc
竜馬通り看板
「リリーフ参上心機一転」って、何のことでしょうかね~(笑)
陸奥宗光
沢村惣之丞
亀山社中跡まで100m、近藤長次郎が教えてくれました(^-^)/
長岡謙吉
中島信行
中島信行の後妻は女性解放運動家の中島湘煙ですよ~。
宮本百合子著「女性の歴史の七十四年」に出てきますね。
おお!ようやく到着しましたよ~\(^^)/
亀山社中の跡_1
入口に子供たちが屯をしていました(笑)疲れ果てて座り込んでいる子?やマンガを読んでいる子…四者四様が面白いですね(ノ∀`)
亀山社中の跡_2
座り込んでいる子はやはり疲れ果てているみたい(笑)
さっそく入館することにします(^-^)/
亀山社中記念館パンフレットと入場券
亀山社中記念館パンフレット
受付の方に写真撮影はいいですか?と尋ねると、第一展示室はOKとのことでした。
龍馬の紋服とブーツのレプリカ
龍馬の刀とピストルのレプリカ
第二展示室には龍馬の直筆の手紙(複製)などが展示してありました(^ω^)
亀山社中記念館よりの眺め
亀山社中記念館の見学を終えて、門から東方にちょっと行くと「龍馬のぶーつ像」があります(^-^)/
龍馬のぶーつ像案内看板
龍馬のぶーつ像の前に行くと3人連れの女子大学生風の女の子達が猫と戯れていましたニャン~(=‘x‘=)
(ノ゚ο゚)ノ オオォォォ-!ウキペディアに載っていた写真通りですよ~(笑)
当たり前か…(;^ω^)
龍馬のぶーつ像_2
龍馬のぶーつ像から見た長崎市街
なかなか良い眺めですね~♪長崎駅方面を望んでいるのですけれど、よく判りませんね~(^0_0^)
長崎は土地が無いので上に伸びるしかないのですよね~?(^0^)
眠り猫
3人連れの女の子が戯れていたのはこの猫ちゃんですね~
この猫ちゃんいびきをかいて寝てます~(笑)撫でてもピクリともせずに眠ったままです~気持ちよさそうニャンc(-。-,,)c)~
さて、これからどうしましょうかね~?坂本龍馬像まで行くには時間も体力もありませんね…(;^ω^)長崎平和公園へ向かうことにします。
亀山社中跡から帰途中で眺める長崎市街
降ってくること約10分、中島川を越えて公会堂前停車場まで来ましたよ。ここから長崎電鉄第3系統赤迫行きに乗車します(^ω^)
長崎駅前を通過して約20分で松山町停留所に到着しました~(^-^)/
案内看板に従って永井隆記念館(如己堂)へと向かいます。
結構、急な坂道を歩くこと約2分、前方に長崎カステラの文明堂総本店岡町店が見えてきました~大型観光バスが停まって何やら賑わっていますね~♪
60s 文明堂 カステラ CM 1962年
https://youtu.be/l1JhXGA_HrA
文明堂といえばこのCMですね~(^0^)
さて、文明堂を過ぎてちょっと行くと、被爆者の店が見えてきました。この店は被爆者の方が経営されて、働いておられるお店です。外国人観光客で賑わっていました(^ω^)
被爆者の店
被爆者の店から後ろを振り返って見ると平和祈念像の後ろ姿が見えます。ここはまず如己堂を目指して進みます。
約5分位歩くと見えてきました。
如己堂への道標
如己堂案内看板
永井隆博士の生涯・個人観覧券
長崎市永井記念館
永井隆記念館の展示品の一部
原爆投下、そのとき…
私は研究室で長年取り組んでいた放射線の障害を受けて白血病にかかってしまった。余命あと幾年もないと診断された日、私は信頼している妻にすべてを打ち明けて、善後策を考えようと言った。そのとき妻は、ぎくりともせず聞いていた。
私の予期していたとおり妻がしっかりしているのでうれしかった。そんな運命はかねて妻も覚悟をしていたのである。この妻ならわが亡きあと、子供をりっぱに養育して、私と同じく放射線の研究に従う学究にしてくれるであろう。私は後顧の憂いなく研究の最後の仕上げに没頭することができた。妻はいよいよ深い愛情をもって私をいたわってくれた。病勢が自然に進行し、空襲警報が出て鉄かぶとの重いのをかむったりすると、足がよろめくほどであった。一度は妻におぶさって大学へ出勤したこともあった。
八月八日の朝、妻はいつものように、にこにこ笑いながら私の出勤を見送った。少し歩いてから私はお弁当を忘れたのに気がついて家へ引き返した。そして思いがけなくも、玄関に泣き伏している妻を見たのであった。
それが別れだった。その夜は防空当番で教室に泊まった。あくる日、九日。原子爆弾は私たちの上で破裂した。私は傷ついた。ちらっと妻の顔がちらついた。私らは患者の救護に忙しかった。五時間ののち、私は出血のため畑にたおれた。そのとき妻の死を直覚した。というのは妻がついに私の前に現われなかったからである。私の家から大学まで一キロだから、這って来ても五時間かかれば来れる。たとい深傷を負うていても、生命のある限りは這ってでも必ず私の安否をたずねて来る女であった。
三日目。学生の死傷者の処置も一応ついたので、夕方私は家へ帰った。ただ一面の焼灰だった。私はすぐに見つけた。台所のあとに黒い塊を。──それは焼け尽くして焼け残った骨盤と腰椎であった。そばに十字架のついたロザリオの鎖が残っていた。
焼けバケツに妻を拾って入れた。まだぬくかった。私はそれを胸に抱いて墓へ行った。あたりの人はみな死に絶えて、夕陽の照らす灰の上に同じような黒い骨が点々と見えていた。私の骨を近いうちに妻が抱いてゆく予定であったのに──運命はわからぬものだ。私の腕の中で妻がかさかさと燐酸石灰の音を立てていた。私はそれを「ごめんね、ごめんね」と言っているのだと聞いた。
ロザリオの鎖 より
「いとし子よ。
あの日、イクリの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一よ、カヤノよ。お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世に留めて、ついにこの世から姿を消してしまった。そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?――原子爆弾。・・・いいえ。それは原子の塊である。そなたの母を殺すために原子が浦上へやって来たわけではない。
そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。」
「戦争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこんな大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。そうして、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、―戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしよう!
そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくなってくるのである。どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?」
「私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。…
わが子よ!
憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。」
「しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。
日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出ないとも限らない。そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。」
いとし子よ より
うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、
「ああ、……お父さんのにおい……」
と言った。
この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!
母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?
枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私であっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども、私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか?
――私の布団を押し入れから引きずり出し、まだ残っている父のにおいの中に顔をうずめ、まだ生え変わらぬ奥歯をかみしめ、泣きじゃくりながら、いつしか父と母と共に遊ぶ夢のわが家に帰りゆくのであろうか? 夕日がかっと差しこんで、だだっ広くなったその日のこの部屋のひっそりした有様が目に見えるようだ。私のおらなくなった日を思えば、なかなか死にきれないという気にもなる。せめて、この子がモンペつりのボタンをひとりではめることのできるようになるまで……なりとも――。
――カヤノが遊びから帰ってきて、私の眠っているのを見定め、こっそり近寄って、お父さんのにおいを求めたのは、こんなわけがあるからであった。
私も……わが子のにおいを久しぶりに味わった。白血病といえば、なんだか真っ白い血が冷たく流れているような気がするが、その私の血管の中に久しぶりに熱いものが流れ始めた。私はぐっとこの子を抱きしめたくなった。親犬と子犬とが遊ぶように、どこでも構わず、かみついたり、なめたり、たたき合ったり、ゆさぶったり、思い切り体と体とぶっつけ合って、時のたつのを忘れてみたい。そうしたらこの子はうれしさに息もつまり、笑いが重なって身もだえするであろう。脾臓が裂けるなら裂けてもいいじゃないか。この子がほんのひと時でも私から父の愛を受けて悦んでくれたら……。だが、私にはそれが許されない。一月でも、一日でも、一時間でも長く生きていて、この子の孤児となる時をさきに延ばさねばならぬ。一分でも一秒でも死期を遅らしていただいて、この子のさみしがる時期を縮めてやらねばならぬ。
胸の中に桜島の煙のように時々ぐぐっと噴き上がる愛情をおさえ、私はことさら冷たく子供を遠ざけておらねばならぬ。ぐっとおさえると、かえって大きくたぎって噴き上げる、まくらもとの火鉢の湯沸しの湯気にも似た骨肉の情である。もう一人の親――母がおりさえすれば、この子も父をあきらめて、その母にとりすがるのであろうに、その母は亡く、母のにおいの残った遺品もなく、面影をしのぶ写真さえ焼けてしまって一枚もない。
私がやっぱり眠ったふりをしていると、カヤノは落ち着いて、ほほをくっつけている。ほほは段々あたたかくなった。
何か人に知られたくない小さな宝物をこっそり楽しむように、カヤノは小声で、
「お父さん」
と言った。
それは私を呼んでいるのではなく、この子の小さな胸におしこめられていた思いがかすかに漏れたのであった。
この子を残して より
筒井茅乃(旧姓長井)氏による被爆者証言
https://youtu.be/qvNnZ5YnjrM
この子を残して(予告)
https://youtu.be/hjF5prmbyLQ
如己堂 wikimediaより
朝の訪問 永井隆
http://www.nhk.or.jp/peace/library/program/19500809.html
長崎の医師・永井隆博士は、自らも被爆しながら被爆者の医療活動にあたるが、被爆の時には既に病に侵された身であった。病気と戦いながら、平和への思いを本に書き続け、被爆から亡くなるまでの6年間で長崎の被爆の状況を今に伝える貴重な記録である「長崎の鐘」「この子を残して」などの著書を世に送り出した。番組は、被爆から5年後に、永井博士と二人の子供たちが暮らすわずか2畳の間の「如己堂」(にょこどう)で収録された。インタビューで永井博士は、自分のことを支えてくれる子供たちへの感謝の気持ちや、この年の6月に朝鮮戦争が勃発し、世界から戦禍が絶えないことへの憤り、今後も平和のために書き続けていくという強い思いを語っている。
出演:永井隆
如己堂内部
長崎の鐘は鳴り続ける
http://www.nhk.or.jp/peace/library/program/20000807_01.html
被爆後の長崎で、白血病に冒されながらも平和へのメッセージを書き続けた医師・永井隆。その永井博士の50回忌にあたる2000年、相次いで未発表の書簡や原稿が見つかった。被爆地長崎のシンボルと言われる永井隆の人生と平和へのメッセージを見つめ直す。
如己堂より浦上天主堂を望む
永井隆記念館(如己堂)に来る前に永井隆博士の著作を読まれることをおすすめします。
さて、平和公園へ戻ります。
平和公園は「平和祈念像地区・願いのゾーン」「原爆落下中心地地区・祈りのゾーン」「長崎原爆資料館地区・学びのゾーン」と区分されていて、とても象徴的・教育的に配置され整備されているのですね。
長崎市原子爆弾被害区域図
爆心地周辺復元図
平和祈念像_1
垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命を表しているのだそうです。
平和祈念像_2
平和祈念像の周囲に水が流れているのは被爆当時に被爆者が水を求めていたことを意味しているそうです(´・_・`)
平和祈念像_3
平和祈念像のモデルはプロレスラーの力道山であるとの説が有力です(∵`)
平和の泉
のどが渇いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
―あの日のある少女の手記から
「原爆落下中心地地区・祈りのゾーン」へ来ました。
松山町交差点
被爆直後の松山町交差点
聖徳寺灯籠
1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により、総けやき造りの壮大な本堂は崩壊し、境内の石塔や墓石も爆風によりほとんどが倒れたが、この一対の灯籠は倒れず残った。
その後、この灯籠は原爆の惨状を伝えるものとして聖徳寺より寄贈を受け、1949年(昭和24年)2月にこの場所へ移設された。
原子爆弾落下中心地碑
長崎に投下された原子爆弾は、1945年8月9日、午前11時2分、長崎市松山町171番地の上空約500mで爆発しました。原子爆弾が爆発した瞬間の爆発点の温度は摂氏数百万度に達し、爆発からの1万分の1秒後には約30万度の火球を形成したと推定されています。また、火球は爆発1秒後には最大となり、半径約240mまで膨張し、爆発直後の爆心地の地表の温度は、約3,000~4,000度に達したと推定されています。
爆心地標識
原子爆弾落下中心地碑版
浦上天主堂遺壁
東洋一の壮大さを誇った浦上天主堂であったが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなった。この側壁は聖堂の南側の一部で、1958年(昭和33年)に新しい天主堂建設のためこの地に移築されたものであり、壁上の石像はザベリオと使徒である。
浦上天主堂遺壁銘板
被爆当時の地層_1
当時、松山町には、約300世帯1,860人余の一般市民が生活していました。町内にいた者は、偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き全員が即死しました。壊滅した松山町は想像に絶するような熱さの地獄と化し、むごたらしい被害の跡は黒こげの死体がいくつも荒れ果てた焼けた土に横たわり、まさにこの世の終わりを思わせるものでした。
地層の中には、家の瓦・レンガ・熱で溶けたガラス・茶碗・針金などを見ることができます。ここには、原爆によって壊された家の瓦やレンガ、熱によって焼けた土や溶けたガラスなどが現在でも大量に埋まっていて、被爆当時の悲惨な実相を示す資料として現地に保存しています。
被爆当時の地層_2
被爆50周年記念事業碑
平和の母子像
昭和62年8月1日設置
男たちが戦場に向かったとき、女たちもまた勝利を祈った。しかし、広大な大陸や、はるかな海の島々では、数知れない人々の血が流されていった。そして遂に1945年、沖縄での惨劇についで、8月6日広島、9日長崎への非道な原子爆弾攻撃に至った。
ああ、あの閃光の下で、数万もの男女、無数の母と子が灼かれ、
ひき裂かれ息絶えた。
あれから四十余年、いま第二の核戦争へとシグナルは点滅し、
地球は破滅の渕にある。
戦争も核兵器も許してはならない。命あるすべてのものが生きる、
この緑の大地を、地球を守ろう。
それぞれの「あの日」を生きつづける女たちの、たぎる思いをひとつにあわせ、再び、あの惨禍をくり返さぬ誓いをこめて、ここにこの像を建てる。
1987年8月1日
長崎平和の母子像を建てる会
「原爆落下中心地地区・祈りのゾーン」が終わり、いよいよ「長崎原爆資料館地区・学びのゾーン」へと進み長崎原爆資料館へ向かいます。階段を登って行くと入場口がありました。
長崎原爆資料館 wikimediaより
うん?(・3・)妙に静かですね…(*´ェ`*)…嫌な予感…閉館時間10分前!入館締切時間から20分後…(*ノω<*)アチャーやってしまった~(T▽T)夏場は2時間30分も遅くまでやっているのですか~(´・ω・`)
(;´д`)トホホ…_| ̄|○がっくり_| ̄|○
長崎に三度来るべし!(`・ω・´)シャキーン(笑)
さて、気分を換えて、浦上天主堂へと向かうとします(^^♪
現在の爆心地を望む
被爆直後の爆心地
林重男氏撮影
手前は山里町西部地区の一部。
下の川(右、上流)と県道(現在の国道206号。左、長崎駅方面~右、道ノ尾駅方面に至る)に、はさまれたところが爆心地。
爆心地付近の電柱と木立は、真上からの爆風と熱線のため直立したまま焼け残っている。
復旧した国鉄長崎本線の線路を長崎駅方面に向かって走る汽車が見える。
原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼_1
強烈な爆風により浦上天主堂北側の川床に吹き飛ばされた鐘楼ドーム(双塔の左側のもの)。
原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼_2
遺構の脇に猫が佇んでいます(=‘x‘=)
浦上天主堂_1
浦上天主堂の被爆遺構
浦上天主堂の前で瞑想する猫c(-。-,,)c)~
浦上天主堂内部の様子
浦上天主堂_2
夕方近くになって曇っていた長崎の空。雲間に一瞬陽が射し込んで浦上天主堂のバラ窓が紅に薄らと染まりました?(それともライト?)~幻想的です( ´∀`)
長崎大学医学部方向から浦上天主堂を見る
爆直後の浦上天主堂(医科大より)
小川虎彦氏撮影
長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)のグラウンドより天主堂南側を見る。
天主公園から浦上天主堂を見る
天主堂の見える丘から浦上天主堂を見る
ここでカメラのバッテリーが切れてしまいました(>_<)
やはり替えのバッテリーが必要ですね…(´-ω-`)
長崎の鐘
https://youtu.be/yzzF8QjMgq8
次はお土産のカステラを買いに福砂屋長崎本店に向かいます~(^q^)(^p^)
福砂屋長崎本店
携帯で撮影したのでブレまくっています(;^ω^)
カステラ購入!それではホテルに向かいます(^-^)/
今夜の夕食はカステラ!(笑)
長崎の夜は更けるのであった(^ω^)
「また会えたね(^ω^)」帰途の旅 へ続く
「また会えたね(^ω^)」帰途の旅 その1
おはようございます(^_^)/
今日は帰路途中で岡山県津山市に住む友人に会い、津山で宿泊。
翌、津山から大阪へ、大阪から深夜バスで新潟へ帰郷するプランです(^^♪
しかし、せっかく九州の長崎まで来たのですし、単純に山陽本線の往復では…(^┰^;)ゞ「ケータイ国盗り合戦」という位置情報ゲームでより多くの国を盗りたいですからね~(^0_0^)
無謀?な野望がむくむくと頭をもたげてきました…(  ̄ー ̄)ニヤッ
なお、都合により長崎駅より以降しばらく、自前の写真がございません(^_^;)
野望( ̄ー+ ̄)キラン!!
前日、バタバタして長崎駅を撮らず了いでした。
今朝はゆっくり長崎駅で長崎に別れを告げたいと思います (・ω・)
早朝の長崎駅_1
早朝の長崎駅_2
早朝の長崎駅は閑散としていました( ̄- ̄)
お別れとしてはちょっと寂しいですかね…(´・ω・`)
五木ひろし / 長崎から船に乗って
http://dai.ly/xctwas
おお、うかうかしていられません、列車発車時刻が迫ってきました(^-^)/
長崎駅6時26分発、博多駅行き「特急かもめ4号」です!
かもめ wikimediaより
この度初めての「特急」ですよ~(^-^)/
この時間の特急は日曜日ということもあってか思ったより空いています。
長崎…さようなら(ヾ(´・ω・`)また来るね~( ´ ▽ ` )ノ
さすがに特急は快適ですね~(^^♪早い~(・ω・。)ノ=з(笑)
約1時間40分で鳥栖駅に到着しました。待ち時間32分。
鳥栖駅ではある目的があるのです~(^0^)
それは、ここで朝食を摂ることですよ~(^q^)中央軒(^p^)
しかし、「かしわめし」にするか「かしわうどん」にするかどちらがいいでしょうかね~~~と、ずっと迷っていたのです(笑)
かしわめし wikimediaより
かしわうどん wikimediaより
あなたなら( ○ ´ ー ` ● )どっち?
私なら両方!と言いたいところですが…かしわめしに決定!(^-^)/
駅の構内でムシャムシャ(´~`)モグモグ
それにしても、列車車内や駅構内で食べる弁当はなんで美味しいのでしょうね~(^q^)(^p^)
ご馳走様でした(^ω^)
鳥栖駅8時42分発、荒尾駅行き快速列車に乗車します。
8時49分久留米駅に到着しました。
久留米といえばブリヂストンの創業地ですよね~。現在はフランスのミシュランを抜き世界シェアトップだそうです( ゚Д゚)!
そして、日本で最初に「アンパン」を考案した木村屋總本店からのれん分けした木村屋というパン屋さんがあるんですね~(^0^)
木村屋
さらに、何と!久留米は焼き鳥店数が人口1万人当たり約8軒あり、この値は日本一だそうですよ~~(^q^)(^p^)
久留米焼きとり文化振興会
さて、久留米駅9時6分発、日田駅行き普通列車に乗り込みます。
やがて、久大本線は筑後川を渡ります。
おお!大分県に入りました(*^^*)
大分県は人生で初めて来た県でございます(☆∀☆)
私個人としてはラムネ温泉に入ってみたいですよ~(^0^)
ラムネ温泉 炭酸温泉
さて、久留米駅から約70分で日田駅に到着です。
日田市豆田地区は重要伝統的建造物群保存地区に指定されています(^ω^)
豆田町(左は草野本家)
日田といえば筑紫哲也さんの出身地ですね~(^-^*)
筑紫哲也
それに山崎ハコさんの出身地でもあります♪
山崎ハコ 望郷
https://youtu.be/bpoLRvHCFMY
さらにさらに、「男はつらいよ 第43作 寅次郎の休日」のロケ地になりましたね~(^-^)/
男はつらいよ 寅次郎の休日
https://youtu.be/sbIODk6yXKg
ロケでは日田祇園祭が開催されていました。
日田祇園祭 wikimediaより
日田駅10時41分発、由布院駅行き「特急ゆふいんの森1号」に乗車です。
特急ゆふいんの森 wikimediaより
日田駅から約50分で由布院駅に到着です。
乗り継ぎ待ち時間8分
由布院とかの有名な由布院温泉があるところです~♨
由布院駅前から望む由布見通りと由布岳 wikimediaより
由布院温泉に来て温泉に入れないのは痛いですね~(´ε`;)
それに、由布岳が上半分雲に隠れて見えまシェン…(´・ω・`)
湯布院に温泉入りに来たわけではないんですが…(/ω\*)(笑)
由布院駅11時43分発、大分駅行き普通列車出発です!(^^♪
由布院駅から約1時間、大分駅に到着です。
大分市といえば、立川清登さんの出身地ですよ~(^^♪
この道・・立川清登
http://dai.ly/x26fxhl
さらに、南こうせつさんの出身地でもあるんです♪
そして、財前直見さんと深津絵里さんの出身地(^ω^)
そしてそして、「世界の車窓から」のナレーターを担当していた石丸謙二郎さんの出身地ですね~(^0^)
885系ソニックの車窓から別府~大分 一部
https://youtu.be/k-3JUX0c3r8
JR九州の企画でソニック号のナレーションを石丸謙二郎さんが担当しています♪
大分駅13時18分発、臼杵駅行き普通列車に乗車です(^ω^)
大分駅から約40分で上臼杵駅に到着(^^♪
臼杵に来たならば、国宝臼杵磨崖仏を見たかったですよ~(._.)
古園石仏群 wikimediaより
ここから超早足で、宇和島運輸フェリー乗り場に向かいたいと思います(^-^)/
上臼杵駅より約10分で臼杵龍原寺の三重塔が見えてきました。
臼杵龍原寺_1
臼杵龍原寺_2
なかなか見事な三重塔ですね~(^0^)
時間がありません先を急ぎますε≡≡((ε( o・ω・)o
おお!強烈な主張している工場が見えてきました!
フンドーキン醤油
醤油の生産量は九州第1位で、全国8位の生産量なんだそう。麦味噌の生産量は日本一なんだとか。東日本に住む私はちっとも知りませんでした…こちらでは一般的なのでしょうね?(;^ω^)それにしても強烈な個性を感じます~(^0^)
愛する人へ フンドーキン醤油CM
https://youtu.be/1hOg4Dotc1g
水木しげるさん / 岩下志麻さん
時間がありません先を急ぎますε≡≡((ε( o・ω・)o
臼杵城に脇を通過して
臼杵城 wikimediaより
大急ぎで宇和島運輸フェリー乗り場に到着しました!(o´Д`)=з
今回も佐世保と同様にきわどい感じでした(;^ω^)
宇和島運輸フェリー時刻表
へ~、臼杵港発0時55分・八幡浜港発23時50分という深夜フェリーがあるんですね~(∵`)
宇和島運輸フェリー運賃表
14時40分臼杵港出航です(^ω^)
臼杵港出航
マニラ船籍の貨物船が停泊していました。
臼杵港より外海に出る
船旅というのはいつもワクワクします(((o(*゚▽゚*)o)))
臼杵港を望む
臼杵湾を望む
フェリー車両甲板の様子
一通り撮影しましたので船室で眠りたいと思います(^┰^;)ゞ
船室に行くと熱心に読書をする少女がいましたよ~!
感心かんしん(^-^)
読書する少女
それでは八幡浜港到着まで、しばし眠ることにします。
おやすみなさい(-_-)゜zzz…………………
「もうすぐ八幡浜港到着」の船内アナウンスで目が覚めました。
( ´O)η ファ~
さくら丸船内配置図
フェリー乗船印を発見!(^ω^)
ハンコを押す適当な紙がありませんね…脇にあった船酔い用の袋の裏に押しましたが…何だかな~?(笑) おお!メモ用紙がありました!そこに押捺!(^^♪
臼杵-八幡浜フェリー乗船印
愛顔の海旅キャンペーン
フェリー乗船印は右のスタンプ押印欄に押して、懸賞応募に出すためのモノのようでしたね…(;^ω^)
そうそう、ここは伊方原発から20km圏内なのですよね…
三 (lll´Д`)佐田岬半島の向こう側で見えません。どうしても意識しちゃいます…( ゚д゚ )
八幡浜港
八幡浜港到着ですヽ(*´v`*)ノ
四国上陸~~~(^ω^)
八幡浜といえば…いや、南予地方といえば「じゃこ天」ですね~(^q^)
じゃこ天 wikimediaより
そして、八幡浜ちゃんぽん!(^p^)
八幡浜ちゃんぽん
長崎ちゃんぽんは豚骨と鶏がらでとったスープですけれど、八幡浜ちゃんぽんは和風スープなんですよね?”はまぽん”!(^^♪
はまぽん
そして、何気なく購入した柑橘類「せとか」。手で皮をむくと指が果汁でべしょべしょになりますが、美味かったです!( ゚v^ ) オイチイ
せとか
八幡浜港から徒歩にて八幡浜駅に到着しました。
八幡浜駅
八幡浜駅17時42発、松山駅行き「特急宇和海22号」に乗車です。
特急宇和海 wikimediaより
八幡浜駅より12分で伊予大洲駅に到着です(^ω^)
大洲といえば、連続テレビ小説「おはなはん」の舞台になりましたね~(^0^)
おはなはん 樫山文枝
しかしわたし的には「男はつらいよ第19作 寅次郎と殿様」推しです~(-^〇^-)
男はつらいよ 寅次郎と殿様
https://youtu.be/ZZJYW5I6mkU
藤堂宗清(殿様)役の嵐寛寿郎と吉田六郎太(執事)役の三木のり平と寅さん(渥美清)がトリオ漫才のように掛け合うのがおかしかったヽミ ´∀`ミノ<
さて、伊予大洲駅より、約40分で松山駅到着です。
乗り換え待ち時間は8分です。
ここ松山訪問は二回目ですよ~♪
詳しくは下記↓に譲りたいと思います。↓
ただいま!ヾ(〃゚ω゚)ノタダィマ☆出張遠征、立ち寄り紀(^ω^)
http://ameblo.jp/m08068469/entry-11388547531.html
「清まる」は健在でしょうかね??(^^♪
松山駅18時41分発、岡山駅行き「特急しおかぜ30号」に乗車します。
特急しおかぜ
松山駅から約40分で観音寺駅に到着です(^0^)
ここ観音寺には「銭形平次」のタイトルバックに使われた銭形砂絵がありますね~(^0^)「銭形を見たものはお金に不自由しない」という言い伝えがあるそうで、是非見たいのですけどね~(笑)
銭形砂絵
銭形平次 オープニング(大川橋蔵版)
http://nicoviewer.net/sm20333371
銭形砂絵が出てくるのは後期版なのですが、見つかりませんでした(;_;)
観音寺駅より約20分、宇多津駅に到着です。ここから瀬戸大橋線に入ります(^-^)/
すっかり暗くなって何が何だかよくわかりません(^_^;)
南備讃瀬戸大橋 wikimediaより
このような感じで列車は走行しているのですね~(ノ゚ο゚)ノ
瀬戸大橋 鉄道部
宇多津駅より約35分で岡山駅に到着しました!
岡山は二日ぶりですね~(^0^)
乗り換え待ち時間は6分です。
岡山駅21時34分発、津山駅行き普通列車に乗車です。
岡山駅から約1時間30分で津山駅に到着です。来━(゚∀゚)━た!津山!
さっそく、友人のH氏の元に向かいますε≡≡((ε( o・ω・)o
おお!玄関の灯りをつけて待っていてくれました!
(*・ω・)ノ*・ω・)ノ*・ω・)ノドモドモ、ありがとうございます(=^0^=)
H氏は明日は仕事があるということなので、お土産の長崎カステラと「せとか」を手渡ししたらホテルに向かいます…え?せっかくだから寄っていけとのこと…(=^0^=)優しい方です(´ω`*)では、せっかくなので短時間にお邪魔します(^-^)/
一別以来、半年ぶりですね~!
杜甫
贈衛八処士 衛八処士に贈る
人生不相見 人生、相見ざること
動如参與商 動(やや)もすれば参(しん)と商の如し
今夕復何夕 今夕(こんせき)、復(また)何の夕べぞ
共此燈燭光 此の燈燭の光を共にする
少壮能幾時 少壮、よく幾時ぞ、
鬢髪各已蒼 鬢髪(びんばつ)、各(おのおの)、已に蒼たり
訪舊半為鬼 旧を訪(と)えば、半ば鬼(き)と為(な)る
驚呼熱中腸 驚呼して中腸が熱す
焉知二十載 焉(いずくん)ぞ、知らん、二十載
重上君子堂 重ねて君子の堂に上がらんとは
昔別君未婚 昔、別れしとき、君は婚せざるに
男女忽成行 男女、忽ち行(こう)を成す
恰然敬父執 恰然として父の執(ともがら)を敬し
問我来何方 我に問う、何れの方より来たれる、と
問答未及已 問答、未だ及ばざるに
驅児羅酒漿 児を駆りて酒漿を羅(つら)ぬ
夜雨剪春韮 夜雨、春韮を剪(き)り
新炊間黄粱 新炊に黄粱を間(ま)じう
主稱會面難 主は會面の難(かた)きを稱し
一舉累十觴 一挙に十觴を累(かさ)ぬ
十觴亦不酔 十觴も亦(また)酔わず
感子故意長 子(し)の故意の長きに感ずるなり
明日隔山岳 明日、山岳を隔たなば
世事両茫茫 世事、両(ともに)茫茫たらん
(現代語訳)
人生において、一度別れた友と再会するのは難しい。
ともすれば、夜空の参星(オリオン座)と商星(サソリ座)のように、遠く隔たったきり会えないままになってしまうことだってあるのだ。
それなのに、今夜は何と素晴らしい夜だろうか。
君と、この明るい燭台を挟んで相向かい合えるとは。
それにしても、青春時代は何と短いことだろうか。
お互いに髪の毛にも鬢の手にも、だいぶ白髪がまじってしまった。
旧友たちの消息を尋ねてみれば、半ばは、もう死んでしまったという。
私は驚きのあまり、嘆声が出てしまい、胸のうちが熱くなってしまった。
誰が予測することができたであろうか、二十年の歳月を経て、私が再び君の家にお邪魔することになるとは。
昔、別れたとき、君はまだ結婚していなかった。
それが今は、子供たちがぞろぞろと列をなして私の前にやってき、笑顔でもって父の友をもてなしながら尋ねてくる。
どちらからいらっしゃったのですか?と。
そのやりとりが終わらぬうちに君はお子さんたちに酒肴を並べさせた。
夜の雨のなかを、やわらかい春ニラを摘んできてくれ、炊きたてのご飯に香ばしいアワが混ぜてあった。
君はしみじみと再会の難しさを嘆き、私は立て続けに十杯もさかずきをかさねた。
十杯かさねても私は酔えない。
なぜなら、君の変わらぬ友情の長さに感動するからだ。
明日、ここを辞してひとたび遠く山々に隔てられたなら、お互いの消息は茫々たる彼方に失われてしまうことだろう。
ああ、杜甫の世界観そっくりな情景ですね(*´;ェ;`*)
明日、お仕事があるので私はこの辺で失礼します(・ω・`)
どうかお元気で、また逢いましょう(^-^)/
ホテルに向かう途中でコンビニに立ち寄って、今日の夕食に津山ホルモンうどんとチキンと野菜ジュースを購入。
そうして、津山の夜は更けるのであった…(^ω^)
「また会えたね(^ω^)」帰途の旅 その2 へ続く
「また会えたね(^ω^)」帰途の旅 その2
「また会えたね(^ω^)」帰途の旅 その1 より続き
おはようございます(^_^)/
昨夜は友人H氏の再会を果たして心は満足の朝です(^ω^)
しかし、ホテルに着いて、テレビを何気なしにつけたらNHKでNHKスペシャル「"あの日の映像"と生きる」の再放送を見入ってしまって、深夜2時近に入眠(;^ω^)ちょっと寝不足です…(´O`)
また会えたね(^ω^)
昨夜はバタバタして、津山駅の撮影をしていませんでしたので、今朝撮りましたよ~(^-^)/
津山駅
明後日(4月1日)から「津山さくらまつり」が始まるのですね~(^ω^)
津山さくらまつり_1
津山さくらまつり_2 津山観光マップ
津山城備中櫓周辺の桜は見事だそうですよ~✿
備中櫓と桜
津山といえば、津山ホルモン焼きうどんが2011年度第6回B-1グランプリで第2位(シルバーグランプリ)を獲得しているのですよね~(^q^)(^p^)
2年半前に津山に訪問した時に食べたのは実に旨かったでしたよ~( ゚v^ ) オイチイ
津山ホルモンうどん地図_1
津山ホルモンうどん地図_2
津山ホルモンうどん研究会
津山ホルモンうどん地図
津山駅前には箕作阮甫の像があります(^-^)/
箕作阮甫の像
箕作阮甫は現在の東京大学の前進である蕃書調所の首席教授(大学総長)に任じられた人ですね~!
津山はB'zのボーカル・稲葉浩志さんの出身地です。
さらに、大河ドラマ第52作「八重の桜」で新島襄役で出演していたオダギリジョーさんの出身地ですね~(^0^)
そして、男はつらいよの最終作となった「男はつらいよ 第48作 寅次郎紅の花」のロケ地になりました~(^ω^)
男はつらいよ 第48作 寅次郎紅の花
https://youtu.be/gRMb740LLZw
寅さんの甥・満男(吉岡秀隆)が泉(後藤久美子)の結婚を辞めさせるために津山に行き、結婚式直前に、自分が運転するレンタカーで泉の乗った車を後退させた。この地方では車を後退させる事は縁起が悪い事とされていたため、式は即時中止となってしまう。と、いうエピソードがあります。
男はつらいよ 寅次郎紅の花
結婚式を阻止する満男:吉岡秀隆
友人H氏に尋ねたところ、そうだとのことですよ!(∵`)
さて、帰途の旅を始めるとしましょう(^-^)/
津山駅改札口
津山駅9時58分発、佐用駅行き姫新線普通列車乗車です(^0^)
津山駅より約20分で林野駅到着です。
ここ林野は美作市の中心地です。美作といえば、(`・ω・´)シャキーン!かの剣豪「宮本武蔵」の生誕の地ですね~(^0^)お通さん(笑)
第三セクター鉄道の「智頭急行」には宮本武蔵駅がありますよ~(^0_0^)
枯木鳴鵙図 宮本武蔵作
林野駅から約30分で佐用駅に到着です。
乗り換え待ち時間10分。
佐用は「上月城の戦い」があった上月城が近くにあるのですね。
さて、佐用駅11時3分発、播磨新宮駅行き普通列車に乗車です。
佐用駅から30分で播磨新宮駅に到着です。
ここの乗り換え待ち時間は何と1分!(ーー;)
⊂('ω'⊂ )))Σ≡急げ~~!
何とか乗り込めました(^^♪
播磨新宮駅11時33分発、姫路駅行き普通列車乗車です。
播磨新宮駅から9分で本竜野駅に到着です~(^ω^)
たつの市といえば、そうめん「揖保乃糸」ですね~(^q^)(^p^)
田中好子・揖保乃糸 12本
https://youtu.be/rSIVqq6-_yM
童謡「赤とんぼ」の作詞者、三木露風の出身地ですよ~♪
赤とんぼ ハーモニカ演奏
https://youtu.be/guYf4SsOaCo
夕焼けこやけの赤とんぼ
負おわれて見たのはいつの日か
山の畑の桑の実を
小籠こかごに摘んだはまぼろしか
十五で ねえやは嫁にゆき
お里の便たよりも絶え果てた
夕焼けこやけの赤とんぼ
とまっているよさおの先
三木露風作詞
そして、ここたつのは哲学者三木清の出身地です。
三木清は「旅について」こんなことを書いています。
「 ひとはさまざまの理由から旅に上るであらう。或(あ)る者は商用のために、他の者は視察のために、更に他の者は休養のために、また或る一人は親戚の不幸を見舞ふために、そして他の一人は友人の結婚を祝ふために、といふやうに。人生がさまざまであるやうに、旅もさまざまである。しかしながら、どのやうな理由から旅に出るにしても、すべての旅には旅としての共通の感情がある。一泊の旅に出る者にも、一年の旅に出る者にも、旅には相似た感懷がある。恰(あたか)も、人生はさまざまであるにしても、短い一生の者にも、長い一生の者にも、すべての人生には人生としての共通の感情があるやうに。
旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な關係から逃れることである。旅の嬉しさはかやうに解放されることの嬉しさである。ことさら解放を求めてする旅でなくても、旅においては誰も何等か解放された氣持になるものである。或る者は實(じつ)に人生から脱出する目的をもつてさへ旅に上るのである。ことさら脱出を欲してする旅でなくても、旅においては誰も何等か脱出に類する氣持になるものである。旅の對象としてひとの好んで選ぶものが多くの場合自然であり、人間の生活であつても原始的な、自然的な生活であるといふのも、これに關係すると考へることができるであらう。旅におけるかやうな解放乃至脱出の感情にはつねに或る他の感情が伴つてゐる。即ち旅はすべての人に多かれ少かれ漂泊の感情を抱かせるのである。解放も漂泊であり、脱出も漂泊である。そこに旅の感傷がある。」
略
「人間到る處(ところ)に青山あり、といふ。この言葉はやや感傷的な嫌ひはあるが、その意義に徹した者であつて眞(しん)に旅を味ふことができるであらう。眞に旅を味ひ得る人は眞に自由な人である。旅することによつて、賢い者はますます賢くなり、愚かな者はますます愚かになる。日常交際してゐる者が如何なる人間であるかは、一緒に旅してみるとよく分るものである。人はその人それぞれの旅をする。旅において眞に自由な人は人生において眞に自由な人である。人生そのものが實に旅なのである。」
人生論ノート 「旅について」より
う~ん(-.-;)!私はこの旅で賢くなれたでしょうか~(;^ω^)
それともますます…(あ´ⅴ`ほ) ㌧
ここ、たつのは「男はつらいよ 第17作 寅次郎夕焼け小焼け」のロケ地なりましたね~( ´∀`)
男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け
https://youtu.be/7apeNau2Cg8
宇野重吉の名演が光ってますね~(#^.^#)
本竜野駅から徒歩で約10分、龍野橋東詰に到着です(・∀・)
龍野橋東詰と鶏籠山(けいろうざん)
男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け ロケ地
男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け シーン1
鶏籠山
男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け シーン2
左 観光課長:桜井センリ 右 観光係員:寺尾聰
揖保川と鶏籠山
たつの市立龍野歴史文化資料館の方まで行きたいですが、ここは堪えて、次回にゆずることにしましょう~(^0^)
本竜野駅12時14分発、姫路駅行きの普通列車乗車です。
本竜野駅から20分で姫路駅に到着です
姫路に来たなら、姫路城はもちろんなのですが、ある場所に行きたかったんです~(^q^)
その名も「赤心 本店」!(^p^)
そこの「トンカツSet」に付いてくる豚汁がとてもうまそうなんですよ~(^q^)(^p^)
……しかし……しかし……月曜日は定休日でした……(T▽T)
そんなこともあろうかと、あらかじめ第二候補を決めていたんです(^^♪
そのお店の名は「いわしろ」!(^q^)「赤心 本店」から至近距離なのがいいですね~(^0^)
ここ「いわしろ」のユニークなネイミングの一番人気メニュー、「三角物語定食」を食べたいと思います~♪
いわしろ 三角物語定食
お昼時ということもあって、結構、順番待ち人が多いですね…(-.-;)
でも、せっかく来たのですからね?(^┰^;)ゞ(^q^)(^p^)
「いわしろ」のメニューはみんなユニークな名前ですよ(^ω^;)
「三角物語定食」を筆頭に「お祭り物語定食」や「失恋物語定食」、「乙女物語定食」などなど…物語が好きなようです~(^0^)
「他では食べられない やみつきになる味」…って(笑)
やみつきになる味…それほどでもないですけれど…例によって「空腹は最高のスパイスだぁ~」てね(^O^)
ご馳走様でした(^ω^)
腹ごしらえも整えて、さっそく、姫路城に向かうとします!(^-^)/
駅前町から大手前通りに出ると、おお!姫路城が遠くに見えています~♪
姫路駅前から北望 かなたに姫路城を望む wikimediaより
すたこらスタコラ歩くこと約25分(((((*´・ω・)トコトコ、姫路城大手門前に到着しました!o(^o^)o
「国宝姫路城大天守保存修理工事」が終わったばかりで、その姿の眩(まばゆ)いこと~(☆∀☆)
前回、姫路城に来た時はすでに見学時間外で入城できなかったのですよ…仕方なしに、姫路城をぐるっと歩いて一回りして終わったのです(;^ω^)ですから、今回は楽しみですよ~(^0^)
修理のため覆われた姫路城
姫路城_1
家老屋敷跡公園の土産物店
城周辺観光ループバス
姫路城銘石
姫路城大手門と桜門橋
大手門前の桜門橋を渡ると…そこには酷たらしい光景が…(笑)
姫路城 見学待ち時間
工エエェェ(´д`)ェェエエ工 姫路城の見学待ち時間が1時間、見学には2~3時間。それで、閉門時間は午後4時ですと~!現在、14時40分。実質、ほとんど見学はできませんね…がっくり_| ̄|○ (´・ω・`)
姫路城_2
おお!それにしても美しい城郭ですなぁ~(^ω^)
姫路城_3
桜は五分咲きといったところでしょうか?(#^.^#)
姫路城_三の丸広場より
姫路城_4
姫路城_5
城入口の前で入場整理券を配布していました。
姫路城大天守登閣整理券 裏
姫路城入場口
入場券購入でごったがえす姫路城入場口。さて、どうしましょう…?せっかく来たのですよね~しかし、待たされた挙句にゆっくり見学できない…(。-_-。)
ここは諦めて、次回まで宿題としましょう~(^0_0^)
姫路城天守から西の丸を望む wikimediaより
では、ぶらぶらしながら、戻るとしましょう(^^♪
姫路城_6
この写真が一番型ちがいいでしょうかね~(^ω^)
姫路城_7
大手門近くの堀塀の上から撮影しました。
大手門を出て、桜門橋を渡ると、内堀に観光客を乗せた舟がやってきましたよ~♪
姫路藩和船
姫路藩和船と姫路城
いや~風情があっていいですね~(^^♪
宮本百合子
播州平野 より
「 案内の若い者につれられて、三人は白鷺城の濠(ほり)について、人通りのない雨の道を、旧城下町へ入って行った。白鷺城は、遠目に見る天守閣の姿が空に浮きたって美しく、往復の汽車から眺めて通るひろ子の目にのこった。古い濠の水は青みどろに覆われていた。濠端の古い柳が、しずかに雨にもまれている。」
さて、姫路駅に戻って帰途の旅を続けましょう(^ω^)
姫路駅16時16分発、大垣駅行き快速列車に乗車です。
姫路駅始発なので余裕で乗車できました~♪
姫路駅より約1時間40分で大阪駅到着です(・∀・)
久しぶりですね~~(^0^)
大阪ステーションシティ
どことなく、雰囲気が変わったような??(・ω・ )?
大阪に来たらですね~是非とも行きたいお店があるんです!!!
その名も「きじ」
かなり昔、大阪出張の度に通いつめたお店でございます(^▽^)
店のマスターと顔なじみなったのですけれども、覚えていてくれていますかね~?
二年5ヶ月前に来た時は定休日だったのですよ~(;_;)
2012年10月の時の「きじ 本店」
( ;∀;)
「きじ」は新梅田食道街の中にあるのですが…今日はやっているかな?(*´ェ`*)ドキドキ(笑)
オオオオォォォォォォ~やっていましたよ━(゚∀゚)━!!
モダン焼きが食べられます!!(^q^)\(^^)/(^p^)
きじ 本店 外観_2
これでモダン焼きが食べられたなら5年ぶり位になるのですね~♪
開店しているときはいつも待ち人で列をなしているのですけれども…今日は空いていますね??と思ったら、やはり並んでましたよ…(;^ω^)
きじ 本店 内観
きじ 本店 メニュー
何を食べましょうかね~♪モダン焼きは必ず食べましょう(^q^)今回はプラス豚玉も注文しよっと~(^p^)
モダン焼き 豚玉
きじ 本店 マスター_1
モダン焼き キタ━(゚∀゚)━!!(笑)
モダン焼き
おお!久しぶりです<(_ _*)>また会えたね(^ω^)旨い、美味しい( ゚v^ ) オイチイ
大阪で何軒かモダン焼きを食べ歩きしましたが、ここ「きじ」が一番( ゚v^ ) オイチイ
また食べられてありがとうございます(=^0^=)しばし、満喫(^ω^)
おお!豚玉が来ましたよ~♪
豚玉
あまりにも美味くて二つ、ペロッと食べちゃいました(^^♪
もう一枚モダン焼き食べようかな~なんてネ/(^o^)\
お会計を済まそうとレジの前に進むと、マスターが近づいてきました。「お久しぶりです」オオオオォォォォォォ覚えていてくれたのですね~( ;∀;) 私:「覚えていてくれてありがとうございます(=^0^=)」マスター:「もちろんです。最初に挨拶できなくてすいませんでした…」私:「また来ます!お元気で!」また来るね☆⌒ヾ(・ω・*)
次の来店を誓って「きじ」を後にしました~(^ω^)
新梅田食道街を出るとすっかり日は暮れています。
ここより、あちらこちら立ち寄りながら、大阪シティエアターミナルに向かいたいと思います。
ここから夜になりましたので、自前の写真はございません(;^ω^)
人形浄瑠璃の曽根崎心中で有名な露天神社(お初天神)に到着です(^0^)
露天神社表参道 wikimediaより
「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」
露天神社にある「お初と徳兵衛のブロンズ像」 wikimediaより
現代では考えられない封建制度の中で、その当時は来世で二人の愛が結ばれることを誓った心中事件が多発したそうですよ~( ;∀;)
露天神社から少し南下すると北新地に入ります。大阪の代表的な歓楽街ですね~(^^♪
北新地 wikimediaより
大阪しぐれ 都はるみ
https://youtu.be/yc9b-fi_nDI
北新地(曽根崎新地)を抜けると中之島に出ます。中之島は細長い中洲ですね。ここには大阪の政治・経済の中心地ですよ~(^0^)さらになんかすると、船場に入ります。
船場といえば個人的に好きだったドラマ「あかんたれ」の舞台です(^ω^)
あかんたれ
https://youtu.be/r2JLPWd-dtY
志垣太郎さんの出世作ですよ~(^0^)
さて、今回は到達できなかったですけど、ここ船場には「適塾」跡がありますよ~(^^♪
適塾といえば緒方洪庵ですね!
船場をグ~っと南下すると、ここは心斎橋です(^ω^)
心斎橋筋商店街 wikimediaより
いや~心斎橋はいつ来ても人でごった返していますね~(;^ω^)
心斎橋を南下していくと道頓堀に着ます(^ω^)
道頓堀 wikimediaより
「と~れとれ、ぴ~ちぴち、カニ料理~♪」(*゚▽゚*)の本店があります(^^♪
そして、大阪に初めて来た時に「くいだおれ太郎」を発見した時には妙に感動したのを覚えています!(笑)
くいだおれ太郎 wikimediaより
道頓堀には大阪のシンボルの一つともいえる「戎橋」のネオンサインがありますよね~♪
道頓堀川左岸、戎橋付近の夜景 wikimediaより
さすが!大阪道頓堀~派手ですね(^O^)
さらに、千日前通を横切ると、そこはなんば千日前ですよ~(^0^)
千日前といえば、B級グルメの元祖ともいえる「自由軒」があります♪
自由軒 外観
大阪名物・自由軒の「インディアンカレー」
自由軒 インディアンカレー"
美味しいかどうかは…ご自分の舌で判断して見てくださいね(^ω^;)
では、大阪シティエアターミナルに行きます。
なんばOCAT 20時35分発、新潟行き夜行バスに乗り込みます。
約10時間半後には新潟の人となるのであった。
めでたし、めでたし~(^ω^)
完
被爆70周年に被爆の実相を感ずる … 広島平和記念資料館
この度、長崎旅行で立ち寄った広島。撮影した写真の一部ですが、広島平和記念資料館訪問記をおおくりします。
広島訪問はこれで6回目です。被爆70周年の年に訪問できたのはとても意義のあることです。学生時代に初めて広島に訪問して被爆の実相に触れたことが、その後の私の思想形成に極めて大きな影響を与えることになったのです。原爆許すまじ。
広島原爆投下
https://youtu.be/7OCkNa41A6g
原子爆弾リトルボーイ(実物) wikimediaより
リトルボーイの構造。赤がウラン235。
広島駅から広島電鉄系統番号2番に乗車して約10分、原爆ドーム前停車場下車すると、目の前に原爆ドームが見えてきます。
広島電鉄「原爆ドーム前電停」と原爆の日にすれ違った被爆電車
wikimediaより
2015年3月28日現在、原爆ドームでは原爆ドーム健全度調査が行われていました。
原爆ドーム慰霊碑
大正期の広島県商品陳列所 wikimediaより
1919年(大正8年)3月4日から物産陳列館で開催された「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」では、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われたそうです。
原爆爆発の後、原爆ドームには衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風が襲ったとされています。なぜ、広島県産業奨励館(原爆ドーム)が吹き飛ばされなかったのか?その理由は
1、衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと。
2、窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったこと。
3、ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと。銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったこと。
ということだそうです。
原爆ドームと原爆ドーム銘石
相生橋銘石
相生橋
被爆間もない相生橋
原爆ヒロシマ 相生橋
https://youtu.be/tI5H2Wp69dg
相生橋から見る原爆ドーム
平和の鐘
毎年8月6日の広島平和記念式典で鳴らされる鐘ではありません。
原爆死没者慰霊碑
原爆死没者慰霊碑石碑
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
以前設置されていた慰霊碑碑文の説明板 wikimediaより
「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。過去の悲しみに耐え憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」
オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1 二つの世界大戦と原爆投下
U.S. and Japanese apologies for war crimes could pave way for nuclear disarmament
(THE JAPAN TIMES)February 5, 2014
http://www.japantimes.co.jp/community/2014/02/05/voices/u-s-and-japanese-apologies-for-war-crimes-could-pave-way-for-nuclear-disarmament/#.UvRCMK
原爆投下は米国の戦争犯罪および日本の戦争責任の隠蔽に使われた
Atom bomb of Hiroshima
https://youtu.be/qmB1QcI57O8
広島平和記念資料館
広島平和記念資料館入場口
昔は広島平和記念資料館本館から入場していました。この広島平和記念資料館本館は国指定の重要文化財なのだそうです。
今回は東館は現在改修工事のために閉館となっていました。
広島平和記念資料館入場券
原爆キノコ雲写真
広島に投下された原爆によって巨大なキノコ雲が生じた(米軍機撮影)キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾 wikipediaより
生死をさまよう
原子爆弾は、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放ってさく裂れつし、爆心地から半径2キロメートルに及およぶ市街地の建物が跡形もなく壊わされ焼きつくされました。人が身につけていた衣服は、強烈な熱線によって焼け焦げました。ほとんどの人々は、血みどろになったポロポロの衣服を、わずかに身にまとい、瓦れきの街を逃げ惑どったのです。
原子爆弾の炸裂
1945年(昭和20年)8月6日、原子爆弾がさく裂れつしたとき、広島にいた人たちを直接被爆者といい、その数は35万人前後と考えられています。この直接被爆者のなかには、数万人にのぼる朝鮮の人たちが含くまれていました。この人たちは日本国内の労働力の不足を補なうため、朝鮮から強制的に徴用され、軍需工場などで働いていた労働者とその家族の人たちなどです。
そのほか、中国・東南アジアからの留学生やアメリカ軍の捕虜などの外国人も含くまれていました。
遺品は語る
女学生の制服
女学生の夏服とシュミーズ
寄贈者:大下 定雄 氏
被爆場所:土橋付近
爆心地からの距離:800m
県立広島第一高等女学校1年生の大下靖子(おおしたのぶこ)さん(当時13歳歳)は、土橋地区の建物疎開作業に動員され、被爆しました。同級生と2人で己斐に避難して夕暮まで民家にいたのち、己斐国民学校に収容されていたのを発見され、大竹から入市した救援隊によって大竹の両親のもとに運ばれました。その時はまだ息があり、その日の様子を両親に語り、水を欲しがりましたが、その日の深夜、12時前に死亡しました。
弁当箱
寄贈者:折免 シゲコ 氏
被爆場所:中島新町(現在の中島町)
爆心地からの距離:600m
県立広島第二中学校1年生の折免滋(おりめんしげる)さん(当時13歳)は、中島新町の建物疎開作業現場で被爆しました。母親のシゲコさんは、破壊街を必死で捜索しましたが、なかなか発見できず、知人からの情報でようやく8月9日早朝、滋さんの遺体と、遺体に抱かかえられた真っ黒に焼けたお弁当箱と水筒を発見しました。滋さんは、出征中の父と兄に代わって、シゲコさんのために山や竹やぶを開墾して畑を作っていました。その日のお弁当の中身は、その畑から初めて収穫した作物でつくったおかずで、喜んで持っていったものでした。シゲコさんは、それを食べることなく死んでしまった滋さんが不憫でなりませんでした。
帽子・ゲートル・学生服
寄贈者:津田 蔵吉 氏
被爆場所:小網町(こあみちょう)
爆心地からの距離:900m
市立中学校1・2年生は、小網町の建物疎開作業現場で被爆し、多くの犠牲者を出しました。平和記念資料館では、亡なくなった3人の生徒が身につけていた衣服を一体にして展示しています。このうち、帽子は1年生の津田栄一(つだえいいち)さん(当時13歳)のものです。栄一さんは、7日に天満橋付近で死亡しているのを父親に発見され無言の帰宅きたくをしました。顔は赤くふくれ、何かの破片があたったのか喉と胸に大きな穴があいていました。
放射線測定のために採取された被爆の砂
寄贈者:岡野眞治
大本営調査団の仁科芳雄(にしなよしお)博士の指示により広島市内で採取され、東京の理化学研究所に送られた被爆の砂です。8月10日、この中に入っていた銅線から初めて放射線が検出されました。
広島爆撃調査報告書の草案(複製)
寄贈者:新妻清一
大本営調査団は、8月10日、陸海軍や京都帝国大学などの調査隊とともに、それぞれの資料をもち寄って会議を開き、広島に投下された新型爆弾が原爆であることを確認しました。
報告書には「判決」として「原子爆弾ナリト認ム」と公式に記されました
人影の石
寄贈者:住友銀行広島支店
被爆場所:紙屋町(現在の紙屋町1丁目)
爆心地からの距離:260m
銀行の入口の階段に腰かけ、銀行の開店を待っていた人が、原爆炸裂の一瞬の閃光を正面から受け、大火傷を負い逃にげることもできないまま、その場で死亡したものと思われます。強烈な熱線により、まわりの石段の表面は白っぽく変化し、その人が腰かけていた部分が影のように黒くなって残りました。
献花台(花崗岩)
被爆場所:材木町(現在の中島町)
爆心地からの距離:400m
爆心地近くの伝福寺の観音像の前にあったもので、熱線を受けた面の石英はこまかくはがれて、白っぽくなりました。このような現象は、爆心地から約1キロメートル内の地域で見られました。
ガスタンクに残ったハンドルの影
Flash burns and shadows at Hiroshima, nine months later
https://youtu.be/sHF5y-lI2jw
火傷した女学生
「体内から取り出されたガラス片」と「異形の爪」
寄贈者:高橋 昭博 氏
被爆場所:中広町
爆心地からの距離:1,400m
市立中学校2年生の高橋さん(当時14歳)は、朝礼のため集まっていた校庭で被爆し、後頭部から背中、両手・両足に火傷を負い、皮ふが垂れ下がりました。右手人指し指のツメの根元にガラス片へんが突立ち、その後異形(いぎょう)の黒いツメが生えつづけています。
ガラス片が突き刺ったままの壁
寄贈者:鈴木 盛久 氏
被爆場所:南段原町(現在の段原南)
爆心地からの距離:2,500m
比治山の南東の山すそに位置していた家の階段の2階へ上がる階段部分西側の壁です。爆心地側には比治山があり直接の爆風が届どかなかったにもかかわらず、巻こんで吹いてきた強烈な爆風のために割れた窓ガラス片が飛び散り、突き刺さりました。
倒れた家の下敷きになった人々
倒れた家に閉込められ、炎に巻れて助けを求める母と子
「赤ちゃんを抱き、走る姿のまま焼死した母」
「火災に包まれ、赤々と夜の闇に浮かぶ広島の街」
杭のような棒が目の辺りに突き立ったままの真っ黒になった女性
溶けたガラス小瓶のかたまり
寄贈者:藤塚 実 氏
被爆場所:的場町
爆心地からの距離:1800 m
藤塚さんの家は全壊・全焼し、外で被爆した忠くん(当時4歳)は全身に火傷を負い、翌日亡くなりました。9月に復員した実さん(当時19歳)は弟の死と変わり果てた広島のありさまにぼう然となりました。その後、自宅前にあったインク工場跡からガラス小瓶が掘出されました。小瓶は、火災の熱で溶けてくっつき、かたまりになっていました。これを見た実さんは「熱かったじゃろうなぁ」とつぶやきました。
白壁に残った黒い雨の痕
寄贈者:八島 秋次郎 氏
被爆場所:古田町高須(ふるたまちたかす)
爆心地からの距離:3,700m
原爆が投下されたとき、寄贈者の八島秋次郎さん(当時36歳)は自宅で朝食をとっていました。爆風で自宅の屋根がずれ、屋根と壁の間にすきまができ、そのすきまからドロドロとした黒い雨がふりこみ、その跡あとが壁かべにくっきりと残りました。この黒い雨は、爆発後、市街地が大火災になるとともに、強烈な火事あらしや竜巻が起こり、爆発の20~30分後ころから市域の北西部地域に降ふったものです。この雨には爆発による誘導放射能を受けたすすやほこりなどの放射性降下物が多量に含くまれていたため、遠隔地にまで放射線の影響が及ました。
( 幅:970 mm×高さ:800 mm)
「抜けた頭髪」
寄贈者:山下(旧姓 吉田)博子 氏
被爆場所:大手町7丁目(現在の3丁目)
爆心地からの距離:800m
博子さん(当時18歳)は、被爆から15日後、母親が髪をすくと3回櫛を入れただけで、はえぎわの一筋を残してすべての髪の毛がすっぽりと抜けてしまいました。
「出血斑のある舌(複製)」
提供者:広島大学原爆放射能医学研究所
爆心地からの距離:1,000m
22歳の兵士は、屋内で被爆し、背中と頭に負傷しました。8月20日に脱毛し、全身に点状出血が出ました。9月1日から歯茎がはれ、3日には口内炎になり、のどもはれて高熱が続き、8日午前9時20分に死亡しました。この標本の舌の中央部の黒い点は出血斑です 。
「ケロイド」と「急性白血病となった骨髄」
提供者:広島赤十字・原爆病院
被爆場所:平塚町
爆心地からの距離:1,700m
9歳の少女は木造家屋の中で被爆しましたが外傷や火傷もなく、元気に成長しました。被爆から約14年後の1959(昭和34)年6月、突然、倦怠感、めまい、歯茎からの出血などが続くようになり入院しました。翌年6月下旬から足のはれが引かず、やがて出血するようになり、7月下旬に亡なくなりました。
白血病の少女の死——佐々木禎子さん
佐々木禎子さん(当時12歳)は、2歳の時に被爆しましたが外傷もなく、その後元気に成長しました。しかし、10年後の小学校6年生の秋に突然白血病を発症し、翌年2月に入院しました。回復を願ねがって包紙などで鶴を折り続づけましたが、8か月の闘病生活の後、亡なくなりました。禎子さだこさんの死をきっかけに、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰さめ平和を築くための像を作ろうという運動が始まり、全国からの募金で平和記念公園内に「原爆の子の像」が完成しました。その後この話は世界に広がり、今も「原爆の子の像」には多くの折り鶴が寄せられています。
きんちゃくとぞうりとこけし
佐々木繁夫氏・雅弘氏寄贈
禎子さんが長くても一年の命と聞かされた両親は、禎子さんを喜ばせようと、絹の反物を買って手縫いで晴れ着を作りました。禎子さんは生まれて初めての晴れ着に感激しました。きんちゃくとぞうりは晴れ着にあわせて買ったものです。禎子さんは、病院でもぞうりを愛用していました。
柩に眠る禎子さん
袋町国民学校の壁に書かれた伝言
爆心地から460m 袋町
1945(昭和20)年10月
袋町国民学校の火災でまっ黒になった壁に、教師や生徒の消息がチョークで走り書きされています。市内のあちらこちらには、家族の生死や生き残った被爆者の消息を知らせる伝言が見られました。肉親や知人の消息をたずねる人びとは、こうした伝言を探さがし求めて、救護所などをたずね歩きました。
広島平和記念資料館から原爆死没者慰霊碑を見る
原爆の子の像
原爆の子の像_2
佐々木禎子の像
つるにのって-とも子の冒険-
https://youtu.be/TvWC4QFQ8Eo
原爆の子の像と折鶴
元安橋から見た原爆ドーム
動員学徒慰霊塔
慟哭の証言
http://www.douingakuto.com/db/_SWF_Window.html
原爆投下前の広島市中央部
同心円の中心が爆心地。すぐ左上に目標の相生橋。画面右上の矩形は広島城
広島原爆の爆心地 wikimediaより
原爆投下後の広島市中央部
Nuclear Explosion One Millisecond After Detonation
http://www.buzzfeed.com/donnad/nuclear-explosion-one-millisecond-after-detonation#.atEzr54gj
核爆発 1/100,000,000秒後
はだしのゲン
https://youtu.be/0gZd-0QMeWQ
原爆投下・10秒の衝撃
https://youtu.be/UkllhZ1aF5U
原発震災発生・講演会 2011年7月3日(日)
福島原発震災から原子力の終焉に向けて
京都大学・原子炉実験所 小出 裕章
http://labor-manabiya.news.coocan.jp/shiryoushitsu/koide_kouen_iken/koide_hiroshima_20110703.pdf
より
原爆を許すまじ
https://youtu.be/zq9pXGShrHk
116~119回小出裕章ジャーナル 「原子力」は「差別」の問題
元朝日新聞記者・植村隆、
日本軍慰安婦問題の真実を語る
(ラジオフォーラム#116 )
https://youtu.be/TO5nqw7AgKc?t=16m33s
16分33秒~第116回小出裕章ジャーナル
プルサーマルの危険性「プルトニウムを混ぜるというようなことをすれば、より危険が増えてしまう。そのことはもう争う余地がなく当たり前のことです」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no116/
西谷:
今日は、「今一度、原発再稼働とプルサーマルを問い直す」ということでお送りしたいと思いますが、とんでもない内閣ですね、小出さん。
小出さん:
ほんとに呆れ果てた内閣です。
西谷:
川内原発、そして高浜原発、これ福井県の高浜なんですが、ここは、プルサーマルができる原発ですよね?3号機、4号機。
小出さん:
そうですね。
西谷:
今一度、このMOX燃料というのをちょっとお聞きしたいのですが。
小出さん:
普通の原子力発電所はウランを燃料にしているのですが、そのウランにプルトニウムも混ぜて燃料にして使うという、そういう燃料のことです。
西谷:
単純に疑問なんですが、普通のウラン燃料棒でも非常に危ないと思うのですが、このプルトニウムを混ぜたMOXの燃料棒というのは、通常の燃料棒として大体何倍ぐらい危険性があるんでしょうか?
小出さん:
倍率で聞いて頂くのは大変難しいと思いますが、例えばそのウランが持っている放射線の毒性とプルトニウムが持っている放射線の毒性を比べれば、約20万倍危険。
西谷:
20倍じゃなくて、20万倍?
小出さん:
そうです。
西谷:
20万倍も危険な物なんですか?
小出さん:
はい。
西谷:
これを例えば、関西電力の高浜原発では使おうとしてるんですね?
小出さん:
はい。
西谷:
今ですね、核のゴミが問題になってるじゃないですか?
小出さん:
はい。
西谷:
普通のウランの燃料棒の使用済みの燃料棒とMOXの使用済みの燃料棒で言えば、大体どれぐらいの期間、よく言いますよね、10万年~100万年とか言いますが、MOX燃料の場合はウラン燃料棒よりも、さらに長い期間置いとかないと安全にならないんでしょうか?
小出さん:
はい。原理的にはもちろんそうなります。ごく短い間の保管ということに関しても、日本の普通の原子力発電所でできてきた使用済み燃料というのは、数年後には再処理工場に運べるという、その程度の発熱だったのですが、MOX燃料の場合には、ウラン燃料に比べて発熱量が高いので、おそらく数年ではなくて、数十年間は原子力発電所の敷地から動かせなくなると思います。
玄海3号炉 使用済燃料崩壊熱曲線
西谷:
ということは小出さん、今回の福島事故で明らかになったように、燃料プールってものすごく危ないじゃないですか?
小出さん:
そうです。
西谷:
通常でも数年置かないといけない物をMOXの場合、数十年ですよね?
小出さん:
そうです。
西谷:
福井県って地震起こるじゃないですか?
小出さん:
そうですね。
西谷:
かなり高浜って危ないですよね?そしたら。
小出さん:
はい。もともと普通のウランを燃やす原子力発電所でも危ないと思いますし、それにプルトニウムを混ぜるというようなことをすれば、より危険が増えてしまう。そのことはもう争う余地がなく当たり前のことです。
西谷:
なんかもう正気の沙汰とは思われないんですけどもねえ。この輸入したMOX燃料というのは、通常のウラン燃料の9倍も高いって聞きましたが、これ本当でしょうか?
小出さん:
本当です。
西谷:
なんという…
小出さん:
ですから、やればやるだけ電力会社は損をするのです。
西谷:
しかし、やるわけでしょう?
小出さん:
はい。
西谷:
これ総括原価方式やから、燃料の一部は電気料金に転嫁するんですよね?
小出さん:
もちろんです。電力会社としては何の損もしないのですけれども、その分、私たち消費者が負担させられるということになります。
西谷:
この普通のウラン燃料よりも9倍も高いというのは、やっぱりこの造るのにものすごい技術がいるからなんでしょうか?
小出さん:
はい。プルトニウムという物質というのは、天然には全くなくて、原子炉を動かして造らなければいけないのですが、それを再処理という所で取り出すという作業も、もちろんしなければいけないのです。
西谷:
本来、日本では六ヶ所村でやるということになってますよね?
小出さん:
取り出そうとしていたのですけれども、六ヶ所村の再処理工場はトラブル続きで、まだ動いていないのです。とても難しい技術ですし、大きな危険を伴う技術ですので、なかなか上手くいきませんし、何とかやったとしても、膨大なお金がかかってしまって、そのプルトニウムを使うと燃料代が上がってしまうということになります。
西谷:
何も良いことないですね。
小出さん:
はい。何も良いことないのですけれども、この日本という国ではプルトニウムを取り出して、未来の原子炉でそれを燃やして燃料にすると言ってきたのです。その未来の原子炉というのが高速増殖炉という名前の原子炉でして。
西谷:
破綻してますよね?
小出さん:
日本ではもんじゅというちいちゃな実験用の原子炉を作ったのですが、全く動かないのです。そのため、高速増殖炉で燃やすと言って取り出してきたプルトニウムが、使い道のないまま余ってしまっています。そのプルトニウムというのは、長崎に落とされた原爆の材料でして、今現在、日本は高速増殖炉の燃料に使うとして、47トンのプルトニウムを保有しているのですけれども、それで長崎型の原爆を造ってしまうと、4000発分もできてしまう。
西谷:
4000発?
小出さん:
はい。そんなプルトニウムを使い道のないまま持っておくということはもちろん、他の国から見れば大変な脅威になるわけで、日本というこの国は、使い道のないプルトニウムを持たないと国際公約させられているのです。でも、もんじゅを含めて高速増殖炉が全く動きませんので、とにかく何としても燃やしてしまわなければいけない。そのためには危険を承知で、そして経済性も全くないことを承知の上で、普通の原子力発電所で燃やしてしまうということになってしまったのです。
※我が国におけるプルトニウム利用の基本的な考え方について
平成15年8月5日(原子力委員会決定)
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/iinkai/teirei/siryo2003/kettei/kettei030805.pdf
西谷:
今ですね、青森県でですね、大間原発というものが造られようとしてますが。
小出さん:
そうです。
西谷:
ここは、フルMOXと言われてますが、これは本当でしょうか?
小出さん:
本当です。現在、プルサーマルと呼ばれてるような計画で、高浜原発であるとか玄海原発であるとか、あちこちで、そのプルトニウムを燃やそうとしているのですけれども、それでも、今現在は炉心の中の全部の3分の1までしかプルトニウムは入れてはいけないということでやっているのです。
西谷:
3分の1まで。はい。
小出さん:
はい。そうなると、燃やせるプルトニウムの量が限られてしまいますので、なんとか大量に燃やせる原子炉を造らなければいけない。
西谷:
危ないこと考えて…
小出さん:
はい。ということで、大間という所の原子炉が生まれたのです。
福島の人達は大変な苦難の底に沈められたままなわけですけれども、大間の原子力発電所で同じような規模の事故が起きる。あるいは六ヶ所村の再処理工場では、さらに大きな事故が起きる可能性もあるわけです。そういう事故のことはあまり想像したくありませんけれども、でも、人間が望もうと望まざるとに関わらず事故は起きるわけですから、覚悟はしておかなければいけないと思います。
西谷:
はい。止めさせなきゃいけませんね。絶対に。
小出さん:
はい。
西谷:
なんとか頑張っていきたいと思います。
小出さん:
そうですね。
西谷文和: 今日はどうもありがとうございました。
小出さん:
はい。ありがとうございました。
住民投票で市民の声を届ける
(ラジオフォーラム#117)
https://youtu.be/xL0OBz9HPeY?t=15m2s
15分2秒~第117回小出裕章ジャーナル
原子力研究の人材育成について「必ず必要な仕事ですのでそういう学問の分野は残してほしいと思います」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no117/
湯浅誠:
今日は、「原子力研究の人材育成について」っていうテーマなんですけど。今年3月、小出さんは京都大学原子炉実験所を定年退職、退官されました。お疲れ様でございました。
小出さん:
はい。
湯浅:
41年間ですか?
小出さん:
そうです。
2015/03/26 反原発の旗手 京都大学 小出裕章助教 定年退職へ
https://youtu.be/MUj4UMm4faM
湯浅:
原発の危険を訴え続けてこられたということなんですけど、小出さんが大学から退かれるということで、今後の研究者、小出さんみたいな研究者って言うかな? あるいは、廃炉もいろいろ進みますんでね、そういう人材とか、もちろん福島原発の処理もありますが、そういうもろもろ担う原子力人材、原子力研究の人材っていうのが気になるところなんですけど。その現状と未来について、小出さんのご意見を伺いたいですが。
小出さん:
はい(笑)。とってもなんか難しい問いで、私が答えるべき筋合いではないと思いますが。
湯浅:
まあまあ、贈る言葉みたいな感じで。
小出さん:
はい。いくつか、ではお答えします。
湯浅:
お願いします。
小出さん:
もともと日本での原子力というのは、化石燃料が無くなってしまうから未来のエネルギー源だと言われたわけですし、原子力ができれば、電気代の値段が付けられないぐらい安く発電できるというように、私は聞かされましたし、原子力発電所に関しては決して事故を起こさないんだというようなことも聞かされて、今日まで来たわけです。
そのために大学という所でも沢山の学生を集めて、原子力を進めようと教育をしてきたわけですが、今となってしまえば、全てが間違っていたということがハッキリしています。原子力の燃料であるウランは化石燃料に比べれば、はるかに貧弱な資源でしかありませんでしたし、原子力発電所というのは巨大な事故を起こすということが、もう福島第一原子力発電所の事故で示されてしまいましたし、原子力発電の発電単価が事故と無関係でもなおかつ、火力や水力に比べて高かった。
事故の補償費用を考えれば、もうとてつもなく高い。さらには生み出した放射性廃物の始末、今後100万年かかるわけですけれども、そのお金を考えればもう途方もないくらい高いということが分かってしまっているわけです。もういい加減にもう目を覚まさなければいけないと思いますし、今後も原子力を進めようとするような人材は一切不要だと私は思いますし、大学での研究もやらない方がいいと思います。
湯浅:
そうなんだ…
小出さん:
はい。ただしですけれども、残念ながら私達が原子力に夢を託してこれまでやってきてしまったがために、膨大な放射性物質を既に生み出してしまいました。残念ながら、それを無毒化するという力が現在の科学にはありません。なんとか環境に漏れないように監視を続けるということしかできないわけですし、そのための専門家というものはどうしても必要だと思います。
ただし私自身は原子力にまだ夢があった時代に、その夢のために自分の人生をかけようとしたわけですけれども、これからの人達は、私達の世代が生み出したゴミの始末をとにかくやれということ、そういうことにほんとに夢がかけられるのだろうかと思うと、私自身は不安があります。
でも必ず必要な仕事ですので、そういう学問の分野は残してほしいと思いますし、若い人にもそういう所で働いてほいしいと、希望はしています。
湯浅:
廃炉含めてやる後始末をする人がどうしても必要だというふうなことであれば、どういう人、どういう知識、知見を持った人を育てていけばいいんですかね?
小出さん:
もともと私が原子力に夢を託した時代というのは、昔の大日本帝国時代に日本には7つの帝国大学がありました。北から北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州ですけれども、その7つの帝国大、元の帝国大学の全てに原子力工学科、あるいは原子核工学科というのがあって、がんがん原子力を進めようとしたのですが、時代がどんどん移ってきまして、原子力にかけた夢が次々と敗れていく中で、7つの帝国大学から既に原子力工学科も原子核工学科もひとつもないのです。ですから、もう原子力に関する学問自身が崩壊してしまっているのですけれども。
湯浅:
そうなんですか?
小出さん:
はい。今、聞いて頂いた通り、その愚かな夢をかけたがために生み出してしまった放射能のゴミが大量に残っていますので、それをなんとか始末をつけるという仕事は残っています。始末のつけ方としては、放射能そのものを消すという方法がひとつです。ただ、その事は大変難しくて、70年以上研究を続けてきたのですけれども、未だに実現できないという困難な研究です。
でも、それもやはり続けるべきだと私は思います。もうひとつは消すことができないなら、なんとか閉じ込めるという方向の研究で、今現在、世界は消すことができないからどこかに閉じ込めよう、大半は地下に埋め捨てにしようということになってるわけですけれども、本当にそういう方法が安全かどうかということをきちっと考える学問は、やはりつくらなければいけないと思います。
湯浅:
なるほどね。今後ですね、おっしゃられたようなことをやってく人がどうしても好むと好まざるとに関わらず必要だということになると、何らかの、それが大学なのか研究所なのか、そうした研究を進める場所は必要なんだと思いますが、どこにあるのが一番いいんですかね?
小出さん:
まあ、非常にファンダメンタルなことからやらなければいけないわけですから、もちろん企業が金儲けのためにそういう研究をするとかいうことは実情はないと思いますので、やはり大学というような所でやるしかないと思います。
湯浅:
どこかいろいろその分野にお詳しいと思うんですけど、この大学、この研究機関でやってる人達は可能性を感じるというか、面白いんじゃないかという所はありませんか?
小出さん:
残念ながらありません。
湯浅:
えぇ、ないんだ…
小出さん:
これまでの原子力という世界はですね、いわゆる巨大なその国、国策の下で全てが動いてきたわけで、大学という所も原子力を進めるという国策に協力してやってきたのです。ですから、ほとんどの学者もみんな原子力の旗の下に集まって原子力を推進してきた人達なのです。私は、もうそういう世界から足を洗わなければいけないと、先ほどから聞いて頂いてるわけですし、これまで原子力を担ってきた人達は、綺麗さっぱり皆さん引退すべきだというぐらいに思っています。
湯浅:
なるほど。一からやり直さないと難しいということですね?
小出さん:
と思います。
湯浅:
はい。どうもありがとうございました。
小出さん:
はい。ありがとうございました。
“死刑弁護人”と呼ばれて
(ラジオフォーラム#118)
https://youtu.be/qPylqDvdlQY?t=17m38s
17分38秒~第118回小出裕章ジャーナル
東電の隠蔽体質「情報の全てを握らせたままきちっと報告してくれると期待する方がむしろ間違えているんだと、皆さんにも考えて頂きたいと思います」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no118/
今西憲之:
今日は、東京電力の福島第一原発で放射能に汚染された汚染水が、海に流れ出てた。それを東京電力は、なんと1年間も隠していたという、とんでもないことがあったのですが、その原子力ムラにつきまとう隠ぺい体質について、お伺いしたいと思います。小出さん、汚染水が海にずっと漏れ続けていたということを知った時のご感想というのは如何だったでしょうか?
小出さん:
特にありません。というか、皆さんは何か、今回初めて汚染水が外洋に漏れたというふうに思われてるのかもしれませんが、そんなことは全くないのです。
2011年3月11日に福島第一原子力発電所は地震と津波に襲われて、原子炉が溶け落ちてしまうというほどに破壊されてしまいました。原子炉建屋もタービン建屋もそれらを結んでいる地下のトンネルのような構造物も、いたる所でもうひび割れていたはずなのです。そして、そういう所に放射能で汚れた水が溜まっていましたから、その時点からすでに海に向かって汚染水というものは流れ出ていたのです。
福島第一原子力発電所2号機取水口脇ピット 撮影日:2011年4月2日
今回の場合は、2号機の屋上に溜まっていたものが、雨が流れてきて海へ流れたということなのですけれども、そんなものは言ってみれば些末な話なのであって、私自身は改めて驚くとかいうことは全くありませんでした。
今西:
東京電力ですね、この事を1年以上前から分かっていながら公表しなかった。もう相変わらず隠し通す隠ぺい体質、変わりませんねえ。
小出さん:
これも特別改めて考えはありません。東京電力という会社は、元からそういう会社でした。東京電力だけでなくて、他の電力会社もそうですし、原子力全体が隠ぺい体質の下で動いてきました。
今西さんご自身が、『原子力ムラの陰謀』というような本をお書きになって、その中でこと細かく彼らのやり方というのを書いて下さっているわけで、ほんとに驚き、呆れるほどに隠ぺい体質の強い世界でした。それは、福島原子力発電所の事故以降も変わっていませんし、今現在、それが続いているということだと思います。
もともと私は、東京電力は福島第一原子力発電所の事故を引き起こした重大な責任がある会社なわけですし、むしろ犯罪者だと、ずっ発言を続けています。その犯罪者に、情報の全てを握らせたままきちっと報告してくれると期待する方がむしろ間違えているんだと、皆さんにも考えて頂きたいと思います。
今西:
日本人はとかく悪い人はいない性善説的な考えをするのですが、やはり私も今回のことを見てて、東京電力ですとか原子力ムラというのは性善説ではあかん、性悪説ということで、悪いことをしてるという前提で考えなあかんなあと思うんですが、そんな中、地元の住民の方々とか漁師さんなんかの信頼も失ってしまいましたよね。
小出さん:
もちろんそうですね。ただ今回、それが初めて信頼が失われたということとは、私は違うと思います。これまで東京電力は、福島第一原子力発電所も含めて、原子力発電所は大きな事故を起こさないとずっと言い続けてきたわけですし、
漁業者の方もなんとかそれを信じようとしながらここまで来たわけですけれども、残念ながら、すでに4年前に福島第一原子力発電所の巨大な事故が起きてしまったわけですし、もう漁業者の方から見れば、信頼は完璧に失われたという、そういう事態になっているはずだと私は思います。
週刊女性自身 (2015年3月24日号)より
今西:
今回の汚染水の海への漏出、これは法的に問題になる、違反するというところはないんでしょうか?
小出さん:
完璧に違反します。ただし2011年3月11日に、原子力緊急事態宣言というものが出されたのです。今は緊急事態なので、これまでの法律というものは守ることができないと、政府自体が宣言をしているわけです。その宣言は、4年経った今も撤回されていませんので、政府の方は法律を守る気がさらさら初めからないという、そういう状態になってしまっているのです。
なんか日本の皆さんは、福島の事故がどんどん収束に向かっているというふうに思われるかもしれませんが、全くそうではなくて、政府自身が自分が出した緊急事態宣言を未だに撤回できないという、そういう危機が続いているのです。もう法律なんかもうこの分野では全く守ることができないという状態に、今現在もなってしまっています。
今西:
なるほど。分かりました。小出さん、ありがとうございました。
農業だけじゃない! 危ないTPPの罠
(ラジオフォーラム#119)
https://youtu.be/TMQhbd3LRNw?t=16m46s
16分46秒~第119回小出裕章ジャーナル
核のゴミをどうするか「原子力を進めてきた人達は、いつか何とかなるさと思い続けて、ここまで来てしまったのです」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no119/
石井彰:
今日のテーマはですね、「核のゴミ対策が再稼働の条件」ということなんですけれども、経済産業省は核のゴミを地中に埋めても、将来掘り起こすことができるようにするということなんですが、これは一体どういうことを意味しているんでしょうか?
小出さん:
はい。核のゴミというのは消せないのですね、人間の手で。だから仕方ないので、いわゆる私達の生活環境から隔離しようということになっているわけです。そのため、300メートルあるいは1000メートルのような深い穴を掘って、その底に埋めてしまおうという、そういうのが今、日本の国の計画なのです。
しかし埋めてしまって、一体何年間そこの場所にじっとしていてくれればいいのかと言うと、100万年という時間なのです。そんなものは、現在の科学で保証できる道理がないわけであって、本当は埋めるなんてことはやってはいけないわけです。
私も国の方とずっとそういう喧嘩を続けてきたわけですけれども、彼らとしても100万年はやはり保証できないだろうということで、上手くいかなくなったら、やはり掘り出せるということにしなければいけないと、彼ら自身が思い始めたというか、やはりそうしないと、住民を説得できないというところに来たのだと思います。
石井:
国の対応は今後どういうかたちで、まず場所をどこにするかという選定が難しいと思うんですが。
小出さん:
はい、そうです。日本全国には17ヶ所、原子力発電所は建てられてしまったわけですけれども、建てられた所というのは、地域の経済が崩壊して、もうどうにもならなくなって、原子力発電所を受け入れてしまうということが、原子力の歴史でした。でも、この核のゴミだけは、どこも受け入れ手がないということで、ずっと探してきたのです。
調査さえさせてくれるならば、10億円あるいは20億円やるから、とにかく手を挙げてくれということをやってきたのですが、このゴミに関する限りはどこも引き受け手がないという状態が、今日まで続いてきてしまいました。
石井:
小出さんね、世界中でこういういわゆる、核のゴミの最終処分場というのが、立地が決まっている国ってあるんですか?
小出さん:
基本的にはないと思ってください。一応、フィンランドとスウェーデンで立地が決まったということになっていますけれども、本当にこれから上手くいくのかどうかということは不透明です。
スウェーデン核燃料廃棄物管理会社(SKB)
石井:
とするととりあえず、世界中で核のゴミが宙に浮いているって言ったらいいでしょうか? 変な言い方ですが。
小出さん:
そうです。もともとは、核のゴミをいつか消せるだろうと、科学が何とかしてくれるだろうという期待のもとに、原子力発電というものを進めてきたのですが、70年ぐらい核のゴミを消そうという研究を続けてきたけれども、やはり消せない。
そうなると、どっかに隔離するしかないということは、もう世界中が覚悟はしているのですけれども、でも、その隔離する場所がないということで、どこも決定的な作業が始まっていないということになっています。
石井:
もうすでに出てしまっている核のゴミがたくさんありますねえ?
小出さん:
はい。
石井:
それの行き場が決まらないということは、これ以上、核のゴミを出してはならない、増やしてはならないというふうに僕らは素直に思うんですが。
小出さん:
私も素直に思います。自分で始末の付けるやり方も分からないようなゴミは、まずは生まないということにしなければいけないのですが、原子力を進めてきた人達は、いつか何とかなるさと思い続けて、ここまで来てしまったのです。
日本という国では、1966年から原子力発電というものを始めたのですが、今日までに広島原爆に換算すると、120万発から130万発という核のゴミをすでにつくってしまっているのです。
トイレのないマンション 小出裕章さん NO NUKES
https://youtu.be/RyiedwjGoKM
石井:
ただし現実に、もうすでに出てしまっている核のゴミをどうするかという大変難しい問いをですね、小出さんに答えろというのは酷なんですけれども、どうすべきだとお考えですか?
小出さん:
基本的には、私は、どうしたらいいかが分からないから原子力はやめるべきだという立場ですので、まずは、これ以上はやらないということはもちろんです。
つくってしまった物に関しては、現在の科学では解決策が見つからないので、仕方ないので私達の黒い目で監視ができるような場所に、保管を続けるしかないだろうと、私は思っています。
石井:
となると、当然、地上で?
小出さん:
そうです。地上に保管施設を造って、そこで、これもおかしいですけれども、科学がもう少し発展することを待つということしか多分できないと思います。
石井:
なるほど。ありがとうございました。
小出裕章講演会@石垣島2015/3/21
https://youtu.be/WZR2JTODb5Q
「原発事故から学ぶ~万一の台湾原発事故にどう備えるか~」
京都大学原子炉実験所助教 小出裕章氏講演会
2015年3月21日(土) 石垣市民会館中ホール
<台湾の原子力発電>
~もし台湾で原発事故が起きたら~
小出裕章氏3/21石垣島講演(文字起こし)
(みんな楽しくHappy♡がいい♪)2015/04/21
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-4208.html
元京都大学原子炉実験所助教小出裕章氏・外国特派員協会記者会見
https://youtu.be/DrLFNQpsv_g
<福島原発事故>今も緊急事態宣言は解除されていない~
「もし、私が安倍さんであれば、まず真っ先にやることは子供たちを汚染地帯から避難させるということです」
小出裕章氏4/25日本外国特派員協会(全部文字起こし)
(みんな楽しくHappy♡がいい♪)2015/04/27
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-4220.html
小出裕章先生:権力者はそこまでやるんだな…ひどい…実に理不尽…
ひきこもりは自己責任なのか?
(ラジオフォーラム#120)
https://youtu.be/qvm5MQW5_os?t=15m56s
15分56秒~第120回小出裕章ジャーナル
【公開収録から】伊方原発反対運動について「住民自身が調査をするということで、初めて電力会社にプレッシャーをかけて放射能を出させないようにできたというそういうことだと思います」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no120/
景山佳代子:
今回は公開収録ということで小出さん、よろしくお願いします。
小出さん:
よろしくお願いします。
景山:
今回のテーマでこちら伺いたいのが、四国愛媛の伊方原発との小出さんの関わりについて、今日は伺っていきたいなと思ってるんですけれども。1973年8月27日に、実は日本で初めての原発の設置取消許可を求める住民訴訟というのが、これが起きたわけですが、こちらの原発の行政訴訟に、小出さんの所属される京都大学の原子炉実験所のメンバーの方もすごい全面的なサポートをされて。
小出さん:
そうです。はい。
景山:
こちらがですね今、見るとですね「今日の原発の安全性論争の原点を作った」というふうに書かれて、紹介もされていたんですが。
小出さん:
はい。自分で言うのも変ですけれども、そうだと思います。
司法が行政に従属 ( ̄^ ̄)凸
景山:
はい。ただ残念なことに、こちら敗訴というふうになったわけですが。
小出さん:
そうです。
景山:
今日の質問、まず最初なんですけれども、1978年に松山地裁では、この住民からの原発の設置許可を取り消してくれっていう、この請求は棄却されたんですが、これをきっかけに実は地元、近隣住民の方達がこの磯津公害問題若人研究会ですね。
小出さん:
そうですね。
景山:
これを起ち上げて、そこの地元の方達がいろいろその原発が立地されてからどんな問題があるのか、これ調査されていたっていうことを伺ったんですけれども。この調査の目的とか、あと小出さんなんでここに関わるようになったのかとか、その辺りの経緯とかをちょっと伺ってみたいなと思ったんですけど。
小出さん:
はい。私は、74年の4月に原子炉実験所に就職しました。今おっしゃって下さった通り、73年の8月から裁判が始まっていたわけで、私は就職したその時から、その裁判に関わるようになりました。世界で初めて、原子力発電所の安全性を全面的に争う裁判だったと。
景山:
世界最初ですか?
小出さん:
はい、と思います。徹底的に戦って、私から見ると、もう圧勝したと、科学論争で言えば。と思ったのですけれども、敗訴しました。
そういう中で、住民達もさんざん苦しんだ。裁判というのは、皆さんあまり関わってないと思いますが、大変です。もうお金もかかるし、労力もかかるし、みんなもう疲労困ぱいしながら戦ったわけですけれども。それでも、いくらやってもやはり勝てないということになったわけです。そういうことを見ながら、磯津という小ちゃな町の若人、私も当時まだ20才代でしたし。
景山:
若人ですね?
小出さん:
若人です。
景山:
はい。
小出さん:
その磯津という、その原子力発電所のごく近くに住んでいる若人達が、なんか自分達ができることをやろうということで集まってくれていたのです。その前からも、ずっと彼らは原子力発電所の建設に対しても抗議行動をするなりして、警察に捕まったりしながら戦いをずっとしてくれていました。その中で現地の人間として、やはり自分達の住んでいる海がどんなふうに汚れるかということを自分達で調べて公表したいと言い出したのです。
その中には漁民もいました。つまり、自分が生活してる基盤がどんなふうに汚れてるかということを自分で調べて公表するというようなことを選ぶという人達が生まれてきたのです。私はもちろん協力したいということで、1977年あるいは78年だったかもしれませんが、その頃から伊方原子力発電所の前面の海の放射能汚染を調査するという仕事を始めまして、確か去年までだったと思いますが。
景山:
そうですね。私、映像観させて頂いたんですけど。
小出さん:
はい、続けてきました。ただし当時20才代で若人と言っていた連中が、みんな老人になってしまいまして、私も含めて。今、伊方の原子力発電所も全て止まっているわけですから、とりあえずこれで調査も終わりにしようということで、一応報告会をやって終わりにしたということになりました。
景山:
その33年間にわたってずっと調査してきたことから明らかになったこととか、この成果というものがあれば。
小出さん:
調査を始めてすぐに、伊方原子力発電所の前面の海が放水口側の湾の方に、放射性物質が溜まってくるということがわかりました。すぐに、それを彼ら自身が自分達の生活している海が汚れてるということを公表するようにしたわけです。
彼らにとっても苦しい公表だったと思いますけど、四国電力も証拠を突きつけられてしまいましたので、たぶんそれ以降、放射性物質をなんとか流さないようにしようというような工夫をだんだん強化していくということを四国電力の方もやったのだと思います。ですから調査をしていくと、当初の頃は、結構汚れていたものがだんだんだんだん汚れが少なくなって。
景山:
コバルト60ですよね。
小出さん:
30何年も調査してきましたけれども、もう最近はほとんどその私が測定しても海の汚染が見つからないというぐらいまで減ってきてくれました。それは、ですから今聞いて頂いたように、住民自身が調査をするということで、初めて電力会社にプレッシャーをかけて、放射能を出させないようにできたという、そういうことだと思います。
景山:
裁判では、確かに負けたんですけど、負けた後に、こうやって科学的な調査を継続することによって、これ明らかに抑止力になったということ…
小出さん:
はい。環境汚染ということに関しては抑止力になったと思います。
3月27日に開かれた「ラジオフォーラム感謝祭2015」での、
小出裕章ジャーナル公開収録の模様
景山:
っていうようなお話をちょっとまた伊方の、私は実は小出さんのお話を聞くまで全然知らなかったんです。原発の問題っていうのは。ただこうやってお話聞くようになってから、本当にいろいろ調べるようになって、その中で見た最初の映像が、実はこの伊方の映像で、非常に印象に残りました。
小出さん:
はい。
景山:
それがなぜかと言うと、小出さんのご著書の中に、マハトマ・ガンジーの7つの社会的罪という言葉があって、それを紹介されてるんですけど、その中のひとつが理念なき政治っていうのと、道徳なき経済、それと最後にもうひとつあったのが、人間性なき科学というのがあった。
小出さん:
そうです。
景山:
これは、本当に福島原発事故のなんか集約してるなあと思って、同時に小出さんは人間性を土台にした科学というのを実践されてるなあというふうに思いました。
小出さん:
はい。そうしたいと願ってはきましたけど。はい。
景山:
小出さん、どうもありがとうございました。
小出さん:
ありがとうございました。
2014.5.25 伊方原子力発電所周辺の汚染
小出裕章(京都大学原子炉実験所)
https://youtu.be/7cwBX2Up6fo
公害研究団体、伊方原発沖調査に幕 八幡浜
(愛媛新聞)2014年05月26日(月)
http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20140526/news20140526394.html
2014/05/24 【愛媛】小出裕章氏講演会「原子力発電所という機械」
http://youtu.be/B_EVQSCyqVw
松山市に隣接する愛媛県伊予郡松前町の松前総合文化センターで、小出裕章氏(京都大学原子炉実験所)講演会「原子力発電所という機械」が行われた
斉間満著『原発の来た町 原発はこうして建てられた 伊方原発の30年』
(南海日日新聞社、2002年発行)
http://www.hangenpatsu.net/files/SaimaIkataBook.pdf
より
伊方原発 問われる“安全神話”
http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=eichieichi&skey=Wave&prgid=43697837
"フクシマ"によって崩壊することになった原発の安全神話。その神話が形作られていくきっかけとなったのが、四国電力の伊方原子力発電所の安全性を巡って30年近く争われた裁判である。当時、四国電力で原発設置を担当したある技術者は、裁判後、徐々に社内で蔓延していく「絶対安全」に対して、異論を訴えたが黙殺され続けてきた。裁判資料を読み解くと、地震のリスクなど専門家の調査結果が無視されている部分も多い。第2のフクシマは防ぎたいと、今でも原発の危険性を訴える技術者の思いを軸に、現在でも"安全神話"が続く原子力発電の現場を見つめる。
伊方原発訴訟判決の問題点
(磯野弥生)
http://www.nippyo.co.jp/download/SHINSAI/PDF2/jihou_50_7_p68.pdf
伊方原発訴訟判決の科学・技術的問題点
<その二>生物・医学的問題点
(市川定夫)
http://www.yuhikaku.co.jp/static_files/shinsai/jurist/J0668028.pdf
七 むすび
以上述べてきたように、今回の判決は、原告、被告両者の主張を、予断なく真剣かつ綿密に対比したうえで判断するのではなく、最初から国の主張を相当と認定すべく、提出された諸証拠を都合よくかつ予断を持って取捨選択した結果なのである。裁判所は、伊方原発がこの行政訴訟にかかおりなくすでに運転に入っているという既成事実と行政におもねり、その重責を放棄したのである。「原子炉設置許可処分は、高度の専門的知識と高度の政策的判断を必要とし、国の裁量行為に属すると断じながら、裁判所自身が「安全」問題に深く立ち入り「安全」との結論を出した矛盾は、その何よりの証拠であろう。
かかる「安全」判決には、行政におもねる裁判所の姿は顕著に見られても、国内外の注目に応えうる説得力は、何ら見出しえないのである。
「安全審査における地震問題…伊方訴訟の経験から…」
2003.12.12 荻野晃也(電磁波環境研究所)
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/No95/ogino031212.pdf
伊方3号炉 西日本全域がほぼ危険地帯に!
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/No90/P8.pdf
「原発事故後の日本を生きるということ」
小出裕章、中嶌哲演、槌田劭 著
農文協ブックレット(2012/11/20発行)
http://shop.ruralnet.or.jp/b_no=01_54012165/
より
巨大科学技術は"想定外"のすきまだらけ
―伊方原発裁判という経験― 小出裕章、槌田劭 対談
槌田
短い期間のあいだに学園紛争の影響と女川の原発という現実に出会って、小出さんは大きく脱皮した。そして、京大に来られて伊方の裁判。伊方の裁判で、僕との関わりでいうと、当時、私は原子炉の「げ」の字も知らんぐらい。ほんと、そうなんですよ。沸騰水型、加圧水型、そういう言葉は知っていたと思います。それがどういうことなんかということが本当にわかっていたか、という程度なんですよ。
ですので、荻野さんや久米さんが、なんで僕のところに言ってきたかっていうのは全くわからない話でした。ただ、僕が科学文明社会に疑問を持ち始めているということについては、もちろん知っておられたんでしょうね。
来られたときに、ぽくは知識もなく、責任をもてんから、と辞退することになりますよね。にもかかわらず、裁判を始めた住民には、いわゆる専門家といわれる人を応援団にもつことのできない現実がありました。
小出
原子力を専門にする人で、反原発に協力する人がいるはずがないです。
槌田
いるはずがないね。いるはずがないという事実は、知らないわけではなかった。研究費を出してくれるスポンサーにさからう人はいない。御用学者ばかりになっていたんですね。
「協力する人がいないから協力しろ。専門でなくても、化学と金属のことをやっているのだろう」という説得ですね。
ノーと言ってしまえば、こんなふうにならなかった。結局、いろんなことを皆さんに一から教えてもらいながら、反対の論理、理屈を僕なりに立てて、裁判にお手伝いさせてもらうことになったんです。
伊方の裁判は勉強になりましが、何よりもおもしろ かった。
小出
私がおもしろかったのは、1979年にスリーマイル鳥の事故が起きで、何か起きているかということを、伊方の弁護団が倹討会をしましたね。
槌田
事故発生の直後に技術的検討をやりました。
小出
みんなで、ああだこうだと言いなから。最後に、槌田さんが炉心の絵を描いたんです。絵を描いて、ここの真ん中の部分かメルトしているんだ、と。
槌田 もう溶けているのは確実だ。炉心の構造と制御棒の性質を考えると論理的に当然のことだ、と言いましたね。
小出
そういう絵を槌田さんか描いて、マスコミに向けて発表したんですね。国のほうは、そんなことはない、溶けてないと、ずうっと言い張っていました。
槌田
私たちの記者発表は無視されました。朝日新聞も地方面の一部に載りましたが、途中で消えました。その筋からの圧力があったのでしょう。
小出
事実はスリーマイル島の事故が起きて6年たってふたを開けてみて、少しずつ調べてみたら原子炉はもう半分溶けてしまっていました。それが最終的にわかったのは7年半後です。それを私たちと伊方の弁護団は事故の直後にちゃんと言い当てたわけです。そういうのは、たいへんおもしろい。
隣接領域がわからないから事故の進展もわからない「専門家」たち
槌田
伊方の裁判で、炉心燃料の危険性を論証したのですが、国側の証人は東大の三島良績さん。有名な燃料の専門家、国際的な権威者ですよね。私はずぶずぶの素人。もう勝負は、名前を聞いただけでついているわけですよね。
小出
肩書と名前だけならそうです。
槌田
ここが、科学技術というか、とくにこの危険な科学技術、巨大な技術の核心に触れてくる点だと思うんです。
だけど、裁判の結果はおもしろかったですよね。三島さんは弁護士さんの質問に答えられず、恥をかき続けました。他方で、ぼくは鈍感だったからかもしれんけれど、答弁に窮したことはなかったです。
小出
こちら側の、住民側の証人は誰も答弁に窮しないし、国側の証人はみんな突っ伏してしまっていました。
槌田
10組余りのペアの対決だったと思うんだけれども、どのペアでもそうでしたね。
小出
痛快でした。裁判は全体的に圧勝でした。
槌田
伊方の裁判のときにね、炉心燃料のところだけで言うと、ぼくが直接関係したから強く思うんです。一流の炉心の専門家が、なんと何も知らないのかって思いました。
狭い狭い専門の研究分野については、ものすごくよく知っているかもしれないけど、それの意味するところとか、それに関連する隣の領域のことにつなぐと途端に何もわからない。
小出
それは、いわゆる専門バカだから。燃料のことはわかるけれども、他の、全体の炉心の構造に関してはわからない。事故のシナリオに関しても多分わからない。
槌田
燃料を入れる鞘の材料となるジルコニウムは、高温の水蒸気と接すると、何が起こるかということについては、知らないはずはないんですが、考えていない。
僕たちは誘導尋問的に、質問を重ねたのですが、三島教授は最後はもうしどろもどろになりましたね。要するに、安全審査の基準とまるで矛盾することを言わざるを得なくなってしまった。
小出
安全審査の基準では燃料棒の破損はあってならぬことであるのに、40%壊れたって大丈夫だ、というような発言に結局なってしまった。彼は燃料の専門家であっても、40%壊れたときの炉心の状況、そして、事故の進展ということに関しては多分知らないんです。
槌田
高度な科学技術は巨大になりすぎて、科学技術の粋を集めても「想定外」のすき間だらけなのです。専門バカによる穴が科学技術の危険となるのです。伊方裁判ではその危険が炉心燃料だけでなく、全面的に暴露されました。
伊方裁判は、原発問題の基本を限りなく明快に浮き彫りにした
小出
裁判は内容的にいって負けようがありませんでした。
槌田
負けようがなかったです。国策だからという心配だけでした。証人調べが終わって結審したときに、「こんなおもしろい裁判やったことがない」というのが、弁護士さんの感想でした。ただ弁護にさんは「国策だからどうかなあ」と言ってましたが。
その直後に裁判官が入れ替わったのです。こんな難しい技術問題が絡んでいる裁判を、証人調べもしない裁判官にやらせてよいのだと考える最高裁人事は露骨な政治的介入です。その犯罪はものすごい。司法の放棄、三権分立、民主主義の死です。
小出
そうです。向こうは、それをあえてやったわけですから。ひどい。
槌田
証人調べした裁判官だったらね、内容がわからなくってもあの風景を見ているだけで、どちらが形勢有利かというのは見えたでしょうね。
小出
そうですね。権力者はそこまでやるんだな、と思いました。判決は住民原告側の全面敗訴。実に理不尽…。
槌田
それで、私は科学者を辞める決断をするわけです。論理的な科学論争だけでは出口がない。一般市民の生活レベルの言葉で生きようと思ったのです。科学者としては戦線の離脱で申し訳ない。
小出
わたしから見れば、槌田さんに残ってほしい思いは、もちろんありました。でもそれは、人生なんて一回しか生きられないわけですから。槌田さんは槌田さんなりの強い意志で今日まで生きてこられたわけ だし、別に科学者辞めたからって、槌田さんがいなくなるわけではないし…。槌田さんはもっと活躍の場 を、ご自分でつくっていったわけだから。
槌田
そんなことで、伊方の裁判への関わりから、 原発の恐ろしさというのは、非常に明快に見えた。も っと言うと、伊方の裁判ってね、原子力問題の基本は かなり明快に浮き彫りにしましたね。
小出
もうあれ以上、何をやる必要もないぐらいにやったと思います。
偽証と裁判長更迭で作った伊方原発 ETV特集より
http://youtu.be/TtLPmETfOO8
最高裁事務総局が「原発訴訟」を歪めている!
司法トップとエリートが原発推進をハ・ックアップ !?
(取材 口文・撮影/西 島博之)週刊プレイボーイ2013年4月16日号
http://civilopinions.main.jp/items/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4.pdf
そして、裁判長は飛ばされた 高浜原発再稼働「差し止め仮処分はけしからん」 最高裁・高裁のお偉方は原発が大好き(上)
(週刊現代)2015年04月28日(火)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/43092
「歴史に残る」決断だった
「日本の原発再稼働の流れを食い止める画期的な決定です。大飯と今回の高浜。歴史的な判決、決定を出してくれ、僕らは大変感謝しています」
こう語るのは、原告側弁護団長を務めた河合弘之弁護士だ。
4月14日、福井地裁は、関西電力高浜原発3、4号機の再稼働差し止めを認める仮処分を決定した。今後、関電側の不服申し立てが認められるまで、2基の再稼働はできない。
今回、裁判長を務めたのは福井地裁の樋口英明氏(62歳)。大飯原発3、4号機の運転差し止め訴訟も担当し、昨年5月には、福島第一原発事故後初めて、原発の運転を認めない判決を下し、注目を浴びた。その際、
〈人の生存そのものに関わる権利と、電気代の高い低いの問題を並べて論じるべきではない〉
〈豊かな国土とそこに国民が生活していることが国富であり、これを取り戻せなくなることが国富の喪失だ〉
と、人格権を尊重し、住民の思いに寄り添った判決文を読み上げた。その判決から1年経たずして、再び画期的な判断が下されたのだ。
元裁判官で明治大学法科大学院教授の瀬木比呂志氏が語る。
「今回の決定は非常に踏み込んだものだと思います。『新規制基準は緩やかにすぎて合理性を欠く』と、新規制基準に適合していても危険な場合があると認定しました。原子力規制委員会がゴーサインを出した原発の再稼働についても厳密に審査するという考え方をはっきりと打ち出し、地震国日本の原発の危険性に警鐘を鳴らしているといえます」
これまでの原発行政の常識を打ち破り、「歴史に残る」決定を下したと言っていい樋口裁判官。だが、本来であれば、樋口氏は今回の仮処分を決定することはできなかった。なぜなら4月1日付けで、同氏は福井地裁から名古屋家裁に異動。「左遷」されていたのだ。
一体何が起きていたのか。実は今回の裁判を巡っては、さまざまな紆余曲折があった。3月11日に行われた第2回審尋で、関電側は学者や専門機関による意見書の提出を要求したが、樋口氏は「結審します」として認めなかった。すると、関電側がその場で裁判官の交代を求める「忌避」を申し立てた。
そのため、名古屋高裁でそれが棄却されるまで、一時的に裁判は中断、そうこうしている間に4月を迎え、樋口氏は「定期異動」という名目で、名古屋家裁に異動となっていたのだ。
最後の意地を見せた
だが、裁判所法28条には「裁判官の職務の代行」というものが存在する。前出の瀬木氏が解説する。
「職務代行とは『裁判事務の取扱上さし迫つた必要があるとき』に、ほかの裁判所の裁判官が代理で裁判官の職務を行うことができるというものです。
このケースだと、樋口さんが『これは自分でやるから職務代行にしてくれ』と強く主張されたのでしょう。これまでも彼が審理してきたわけですから、強く希望したのであれば、裁判所としても代行を拒否するわけにはいかないはずです」
つまり、関電サイドの「忌避」申請などが時間稼ぎになり、樋口氏は異動、本来は今回の決定を下す役目を担うのは、別の裁判官になる予定だった。これに対し、飛ばされたはずの樋口氏が「職務代行」を使うことで、最後にして最大の抵抗を行い、意地を示したのだ。
樋口裁判官とは、一体どんな人物なのだろうか。
同氏は京都大学法学部を卒業後、'83年に福岡地裁の判事補に任官し、裁判官としてのキャリアをスタートさせる。樋口氏と同期で、同じ弁護士事務所で研修をしていた弁護士が語る。
「司法修習生時代から、裁判官になりたいという気持ちが強い人でした。何事にも真剣で、研究熱心。裁判官になってもそれは変わらないようで、両方の意見をよく聞き、常に原理原則に従い、平等に徹しているようです。少し偏屈に見られることはありますが、それも彼の持ち味なんですよ」
また、樋口氏の素顔を知る福井の別の弁護士によれば、会ってみると非常に社交的な人物だったという。
「小さな事件ではありますが、何度か担当判事として法廷でお会いしたことがあります。今年の3月のことですが、まもなく異動されると聞いたので、福井地裁で偶然出会ったとき挨拶をさせていただいたんです。樋口さんは『福井はいいところでした。皆さんにお世話になりました』と言い、にっこり笑っていました。法廷に臨んだ弁護士からすれば厳しい裁判官に見えていましたが、私にとっては優しい紳士的な方という印象です」
これまでに、静岡、宮崎、大阪など各地の地裁を経て、'12年に福井地裁判事に任官した樋口氏。実は原発訴訟以外にもいくつか社会の注目を浴びる判決を下している。
'14年、福井県内の会社に勤務していた男性(当時19歳)が自殺した原因が上司のパワハラにあるかどうかが争われた裁判を担当し、遺族である原告側の訴えを認めた。未成年者へのパワハラと自殺の因果関係を認めた判決は、全国で初のことだったという。
「樋口さんがこの事件で証拠として採用したのが、男性の遺したメモです。そこに書かれていたのは、上司から男性へ向けた『死んでしまえばいい』『うそを平気でつく』といった辛辣な言葉でした。
樋口さんはこの言葉がパワハラにあたると認定したんです。それまではどういった行為や言葉がパワハラに当たるのか、基準が定かではなかった。この裁判は、今後その一つの指標になると法曹界で言われています」(前出・福井の弁護士)
一方で、同氏は政治家や行政サイドに対しては、原理原則に基づいた厳格な判断を貫く裁判官としても知られている。
「県議会議員の海外視察が年度末に集中していることを受け、市民オンブズマンが政務調査費の返還を求めた訴訟でのことです。
樋口裁判長は、視察そのものの意義を認めつつも、ホテルの食事代は視察目的には認めないとし、返還を言い渡しました。関係者からは『視察すれば食事くらいするだろうに』と言われていましたが、堅実で誠実な判決をする裁判官という印象がより強まりましたね」(福井在住のジャーナリスト)
「原発に触れるな」という空気
仕事に熱心で、裁判官としての誇りを持った樋口氏。法の番人として、厳格かつ公正な判断を下すことを第一とし、前例や組織の思惑には縛られることはなかった。
だが、そのような振る舞いはときに反感を買うこともある。組織に属しながらも、組織の意にそぐわない行動をする異端者への風当たりは強い。それがたとえ公正中立を謳う司法の世界だとしても同じことなのだ。
今回の樋口氏の人事異動に「違和感」を持つ司法関係者は……
そして、裁判長は飛ばされた 高浜原発再稼働「差し止め仮処分はけしからん」 最高裁・高裁のお偉方は原発が大好き(下)
(週刊現代)2015年04月28日(火)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/43093
私(日本)は、あなた(米国)のものよ♡…??(’◇’)アホか!! ( ̄‥ ̄)=3
戦争に協力するのに なぜ「国際平和支援法」なの?
(東京新聞【こちら特報部】)2015年4月23日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015042302000155.html
新たな安全保障法制についての与党協議が事実上終わり、来月にも、国会に関連法案が提出される。その中で、他国軍支援のための新法の名称を、「国際平和支援法」と名付けようとしていることが、特に引っかかる。自衛隊を戦場に近づける恒久法なのに、なぜ「平和」なのか。「積極的平和主義」と同じで、先には「戦争」がある。どんなに良い印象を与えようとしても、ごまかされるわけにはいかない。
(榊原崇仁、三沢典丈)
自衛隊他国軍に給油、輸送…
安倍政権が自衛隊海外派遣の恒久法を検討し始めたのは、昨年七月。だが、名称については何の言及もないまま突然、今月十四日の与党協議の場で、「国際平和支援法」と示された。
恒久法のため、自衛隊の海外派遣に際し、これまでのような有効期限を定めた特別措置法は不要となる。国会の事前承認は必要だが、法案審議をしなくてもよい。
国連決議を求めているほか、戦場での活動を禁止するなどの制限を設けてあるが、国際平和支援法ができれば、自衛隊による軍事行動中の他国軍への給油や輸送、医療が認められるようになる。こうした活動は「平和」とは、かけ離れたものになりかねない。
明治大の西川伸一教授(政治学)は「実際は戦争する国をバックアップするということだ。『国際平和支援法』という名称は本質を隠している。『国際戦争支援法』『外国戦争支援法』と呼ぶ方がふさわしい」と指摘した。
今月一日の参院予算委員会では、社民党副党首の福島瑞穂氏が、今国会に提出予定の国際平和支援法案を含む安保関連法案を、「戦争法案」と呼んで追及した。安倍晋三首相は強く反論した。「われわれが進めている安保法制にレッテルを貼り、議論を矮小(わいしょう)化している。断じて甘受できない」┐(´д`)┌
ただ、十七日になって委員会理事の自民党議員が福島氏を訪ね、1戦争法案」から「戦争関連法案」への表現の修正を求めている。
重要影響事態?
こうした自民の動きについて、西川氏は「法案の本質をオブラトトに包もうとしているのが分かる。一方で、法案が戦争と深く関連していることを、自民自身が認識していることもよくうかがえる」と分析した。
関連法でもう一つ引っかかるのが、「重要影響事態安全確保法案だ。周辺事態法の内容を変え、名称も改める。こちらも国際平和支]援法と同様ヽ自衛隊派遣の一
条件が緩和され、戦争に近づくというニュアンスは法律名からはうかがえない。
周辺事態法の「周辺」は朝鮮半島有事を念頭に置一き、米軍の後方支援を想定していた。新たな法案は、地理的な制約を取り除くことに主眼を置いている。
重要影響事態法が制定されれば、「わが国の平和および安全に重要な影響を与える事態」であれば、地球の裏側にも自衛隊は出向く。さらに、米軍以外の他国軍にも弾薬提供などの支援を行えるようになる。
西川氏は「『重要な影響を与える事態』必定義は曖昧。解釈次第でどんな状況でも、そうなり得る」と言う。地理的要因をふまえ、「『地球の裏側派遣法』がこの法の正体だ。国民の反発を招かないための仕掛けなのだろうが、あまりに卑怯(ひきょう)な手法というほかない」。
巧妙な名称本質包む
安倍政権による「平和」という言葉を用いた印象操作は、いまに始まったことではない。専修大の山田健太教授(言論法)は「安倍政権はメディア対策の一環として巧みに言葉づくりを行っている」と指摘する。
二〇一三年九月、安倍首相が訪米中にスピーチで言及した「積極的平和主義」もそうだ。帰国直後の所信表明演説で、「わが国が背負うべき二十一世紀の看板」と強調し、安全保障戦略で「国際平和と安定、繁栄確保にこれまで以上に積極的に寄与する」ことを表明した。
この「積極的平和主義」も、「平和」とは裏腹に、集団的自衛権を行使し、自衛隊が米軍などと共に国際紛争などの解決に当たるという意味が込められている。つまり、「積極的紛争介入主義」と呼んだ方が実情に近い。
昨年四月に閣議決定した「防衛装備移転三原則」にもごまかしがある。字面からは、自衛隊の装備品を国内で移す際の原則のように読めるが、違う。武器輸出を制限してきた方針を百八十度転換し、原則として認める「武器輸出促進三原則」にほかならない。
山田氏は「国際支援や平和など、誰もが賛成しやすい言葉を盛り込み、そこに別な言葉を加えることで新味を感じさせ、プラスの意味を作り出す狙いだろう」と指摘する。「行政・政治の言葉にこうした新しい言葉を組み込むことで、安倍首相は自分がやりたい政策を国民に浸透させようとしている」
原発事故関連でも 最終処分場を長期管理施設に
原発事故関連でも最近、名称変更があった。望月義夫環境相は十四日、東京電力福島第一原発事故で飛散した放射性物質を含む指定廃棄物を保管するための施設名を、「最終処分場」から「長期管理施設」に変えると発表した。最終処分をやめ、年月を経て廃棄物の放射線量が下がった後、廃棄物を搬出したり再利用したりするという。
永久に廃棄物を受け入れることに候補地の住民が反対し、受け入れ先が見つからないことが、背景にある。しかし、「長期」が何年なのか説明がない。
中間貯蔵施設の想定が三十年以内だから、それ以上なのは間違いない。結果として「半永久」の可能性も抬てきれず、住民からは「まやかしだ」と反発が出る。地方紙の河北新報は今後も「最終処分場」の名称を使い続けるという。
ほか、「高度プロフェッショナル制度」もそうだ。勤務時間ではなく、仕事の成果に応じて賃金を決める新しい労働制度というが、実態は「残業代ゼロ制度」で、「過労死が増える」と危ぶむ声が絶えない。
関東学院大の丸山重威教授(ジャーナリズム論)は自民と公明両党の安保法制協議について、「自公で対立点があるようなムード作りにすぎず、政府の方針を貫くためのパフォーマンスだ」と指摘した上で、マスコミ報道を批判した。
「安保法制では昨年の閣議決定の時点で、集団的自衛権に基づく武力行使は憲法違反との論点が既に示されている。にもかかわらず、与党がその後、出してきた新しい言葉に振り回されている。ほとんどの新聞、テレビ局は本質を報道できていない」
丸山氏は「何か問題なのか、論点を明確にして報道していくことが必要とされている」と訴え、国民も表面上の名称にだまされないように求める。「安倍政権による計算ずくの言葉は耳心地がよいかもしれないが、惑わされてはいけない。自分自身の頭で、個々の政策がどういうものなのか、判断しなければならない」
「普通の国」ってなんだ?
(東京新聞【こちら特報部】)2015年4月24日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015042402000168.html
安保法制をめぐる与党協議がおおむね決着し、来月には国会論戦が始まる。安倍政権下、国家安全保障会議(日本版NSC)設置、特定秘密保護法制定と続いた「普通の国」化は安保法制整備でほぼ完成する。これらは侵略戦争の反省と非戦の誓いを柱とした「戦後レジーム」からの脱却として位置づけられてきた。だが、そもそも普通の国とは何か。いまの政権の動きは、そのせりふとは逆行していないか。
(沢田千秋、林啓太)
与党いわく…集団的自衛権行使すれば
普通の国…でも本音は改憲
安保法制整備大詰め
「普通の国」という言い回しを最初に使ったのは、現在「生活の党と山本太郎となかまたち」の共同代表を務める小沢一郎氏だ。
一九九三年に出した「日本改造計画」に登場し、「憲法九条に『平和創出のための自衛隊や国連待機軍の保有、さらに国連指揮下で国連待機軍が活動することは妨げない』との条項を加えるべきだ」と説いた。
その後、国連の枠を超えて、この言葉はタカ派の決まり文句になる。
「集団的自衛権についての解釈を変える方法は、簡単である。誰か、法制局官僚でない政治家か有識者を法制局長官に任命し、(中略)国際関係が大きく変わったので、見直すこととすると宣言すればよい」
これは安倍政権のプレーンの一人である北岡伸一・東大名誉教授(日本政治史)が二〇〇〇年に出版した「『普通の国』へ」の一節だ。この手法は安倍政権下で実施された。
普通の国という言葉は最近も、しばしば登場している。一三年十一月の特定秘密保護法案を扱った衆院国家安全保障特別委員会で、辻清人衆院議員(自民)は「ようやく日本が普通の国になるための始まりの終わり」と法案を賛美した。
元陸自幹部の佐藤正久参院議員(自民)は一四年十月、参院外交防衛委員会での安全保障法制の議論で「普通の国は、集団的自衛権とか個別的自衛権とかあまり分けて書く国は少ないように思う」と発言した。
しかし、普通の国とはどういう国を指すのか。「世界の警察官」を自任する米国は到底、普通とは言えない。中東の独裁国家もあてはまらないだろう。
英紙デーリー・テレグラフ日本特派員のジュリアン・ライオール氏は「英国には『普通の国』という言い方はない。第二次世界大戦の戦勝国で、軍隊を持つべきかどうかという議論もなかったから」と話す。
イタリアのニュース・チャンネル「スカイTG24」極東特派員のピオ・デミリア氏は「常備軍を廃止した中米のコスタリカは、特殊な国だろう。しかし、素晴らしい国だ」と、普通か否
かにこだわらない。
たしかに戦力放棄を憲法に掲げる国は類いまれだといえる。だが、この点について、ライオール氏は「日本は戦後の七十年間、平和主義で他国を侵略しようとしなかった」と、その精神の結果を肯定的にみる。
一方、デミリア氏は「日本は事実上の軍隊である自衛隊を持っている。半世紀以上も前から、とっくに普通の国だ。わざわざ、普通の国を強調する意味が分からない」と皮肉る。
「普通の国になりたかったら、まず米国のみに依存する政策はやめるべきだ。とりわけ、現政権の中国への強硬姿勢が気になる」
国際紛争で軍事参加しないと…安倍政権いわく
特殊な国…でも70年間平和
現在、政府与党は「普通の国」を掲げ、集団的自衛権の行使が可能な解釈改憲に乗り出している。
この必要性を説く際、登場するのが「湾岸戦争のトラウマ(心的外傷)」という物語だ。クウェートを占領中のイラクを多国籍軍が攻撃した一九九一年の湾岸戦争で、日本は百三十億ドル(当時のレートで一兆七千億円)を供出。これがクウェートに認められず、人的な派遣抜きには国際的な評価は得られないという「教訓」にされている。
供出資金の大半はクウェートの復興資金ではなく、米国など多国籍軍の戦費に回されたのが真相だが、これ以降、自衛隊の海外派遣が本格化していった。
それでも憲法九条が歯止めになり、本格的な軍事行動への参加はなかった。
現政権はこうした在り方を「特殊」とみて、他国と、軍事行動に参加できるように集団的自衛権を行使できる「普通の国」化を進めている。だが、集団的自衛権を行使する国が果たして、普通の国といえるのか。
元防衛官僚の柳沢協二氏は「歴史上、集団的自衛権の論理は大国が他国に軍事介入する際に利用されてきた」と語る。「他国を守るために軍隊を送ることは普通の国ではやらない」
だが、集団的自衛権の行使容認抜きに、朝鮮有事や中国の脅威には対応できないという主張も根強い。この種の議論について、柳沢氏は「そうしたケースは個別的自衛権の範囲で対応できる」と切り捨てる。
一方、対中脅威論と絡んで、自衛隊が米軍に「サービス」しなければ、日本は米国に見捨てられるという不安も語られる。これについても、柳沢氏は「価値ある国なら、米国は見捨てない。米国への依存を強くしながら、米国と対等な関係を目指すこと自体、矛盾している。米国の意に沿った集団的自衛権の行使容認は一層の対米従属を招く。この結果、主権国家として日本は何ら普通の国には近づかない」と断言する。
むしろ、日本が特殊だとすれば、それは敗戦後の歩みではそういえそうだ。
第二次世界大戦で敗れた枢軸国側の日本、ドイツ、イタリアの中で、戦前の指導層が戦後もほぽ生き残ったのは日本のみだった。
ドイツの場合、ナヂは崩壊し、懲罰に近い形で東西に分割された。イタリアでは敗戦前に王党派がファシスト勢力を打倒し、連合国に降伏している。
日本は東西冷戦の激化を背景に、米国の戦略拠点として、分裂を免れ、指導層も残った。懲罰的な措置の代わりに、侵略戦争を反省し、非戦の誓いを前面に押し出すことで、国際社会に溶け込んできた。
だが、こうした「戦後レジーム」からの脱却を掲げる安倍首相は、例えば戦後七十年談話について「植民地支配」や「心からのおわび」の文言を盛り込まない可能性を示唆している。
これは敗戦後、七十年かけて築いた「普通の国・日本」としての認知をゆるがせ、「やはり特殊な国だったのか」という警戒心を国際社会に招きかねない。
筑波大元教授(現代史)の千本秀樹氏は「安倍首相は、戦後の日本は占領軍によって弱い国にされてしまったという認識を持っている。ゆえに、求める普通の国とは強い国を指す。経済的に衰退してきた現在、軍事的プレゼンスを高めることで、その目的を果たそうとしている」とみる。
「安倍さんには、歴史や他人から学ぶ力が欠けているのではないか。政治家なら、戦前の大日本帝国の負の側面について、事実だけでなく、責任を語り継ぐことが必要だ。いま、日本は普通の国からかけ離れつつあるのかもしれない」
首相の「戦後談話」って何だ?
(東京新聞【こちら特報部】)2015年4月28日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015042802000165.html
安倍首相は二十九日、日本の首相では初めて米上下両院合同会議で演説する。その内容が注目されているのは、八月に発表する戦後七十年談話の伏線とみられているからだ。過去の村山談話や小泉談話にある「侵略」「植民地支配」「おわび」の表明が焦点になるが、そもそも首相の戦後談話とは何か。誰に対し、誰を代表し、何のために表明するのか。過去の談話の経緯を含めて、検証してみた。
(沢田千秋、三沢典丈)
「侵略と反省」
政府正式見解
最初の戦後談話は戦後五十年を迎えた一九九五年八月十五日、村山富市首相(当時)が発表した。先の大戦でのアジア諸国に対する「植民地支配と侵略」を認め、「痛切な反省と心からのおわび」を表明した。
その十年後、小泉純一郎首相(同)は村山談話を踏襲しつつ「中国や韓国」と具体的な国名を入れた談話を発表。村山談話は小泉内閣以外の歴代内閣でも引き継がれ、日本政府の正式な見解となっている。
二つの談話は、単に敗戦から切りのいい年を理由に出されたわけではない。
村山内閣で蔵相を務めた武村正義氏は「東西冷戦の間、日本の戦争責任は米ソ対立に隠れ、国際社会であまり表面化しなかった。しかし、冷戦の終結後、中韓両国で戦争貴任を問う声が高まり、責任の明確化が迫られた」と回想する。
村山首相は国会決議に着手。植民地支配や侵略の反省を盛り込んだ決議案を可決したが、多くの保守系議員が欠席した。「これでは不十分と、村山さんを軸に政府談話を発表することになった」(武村氏)
さらに、そこには前段があった。前々任の細川護煕首相は七党連立内閣の合意事項に「かつての戦争に対する反省」を記し、自らも「侵略戦争」と発言。九三年の日韓首脳会談で、植民地支配を謝罪した。当時、首相特別補佐だった田中秀征・福山大客員教授は「細川首相が突破口を開かなければ、村山談話もなかったかもしれない」と語る。
二〇〇五年の小泉談話にも表明しなければならない背景があった。小泉首相は靖国神社参拝を強行し、近隣諸国から厳しい批判を浴びていた。田中氏は「小泉さん自身の考えは村山談話に近く、独自の談話発表は不必要だった。だが、靖国参拝による批判から、自身の歴史認識を明言する必要に迫られた」と振り返る。
安倍首相の場合、従来の談話を踏襲する限り、独自談話の発表を迫られるような特別な事情はない。
それでも出すと决めたのはなぜか。逆に国際社会は首相の歴史認識を疑っている。というのも、かねて首相の歴史認識をめぐる発言
がぶれているためだ。
○六年に発足した第一次政権では、村山談話の踏襲を明言。だが、第二次政権の一三年、国会で「村山談話をそのまま継承しているわけではない」「侵略の定義は国際的にも定まっていない」と発言した。( ̄^ ̄)凸
これを米議会調査局が「歴史修正主義にくみしている」と問題視すると、「歴代内閣の立場を引き継いでいく」と修正した。
首相は自らの談話について、「(歴史認識は)全体として引き継ぐ」と話す一方、「引き継いでいくと言っている以上、これ(侵略や反省)をもう一度書く必要はない」としている。(゚д゚)
ぶれる安倍発言
歴史認識に疑念
踏襲なら発表する必要なし
背景に表明の必要があった過去二回の首相の戦後談話だが、そもそも首相談話とは何なのか。誰に向かって、誰を代表して、何のために発表するのか。
総理が国民に語りかける
内閣府総務官室の担当者によると、首相談話は国民全体に対して発表されるものだという。「内閣を代表して、総理が国民に語りかけるのが首相談話」(担当者)なのだという。
厳密には閣議決定が必要な「首柑談話」と必要のない「首相の談話」の二種類がある。「首相談話」は天皇陛下の外国訪問の際などに出され、震災犠牲者への哀悼の意などには「の」が入るケースが多い。
どちらにするかは首相自身が決める。内閣府総務官室の担当者は「これまでの五十年、六十年談話は中身の重さにかんがみて、閣議決定した」と説明する。
国民向けという位置づけでも、実際にはそうはならないと、京都産業大世界問題研究所長の東郷和彦教授(国際政治学)は話す。
「戦後談話は国の内側だけに向けたものではない。中国や韓国、欧米諸国も注目する。閣議決定されなければ、安倍談話は村山、小泉談話よりも、軽い談話と判断されるだろう」
菅義偉官房長官は今月二日、閣議決定のメリット、デメリットについて「両方ある」としつつ、最終決定は首相の判断とした。
閣議決定する場合、連立パートナーの公明党の承認が欠かせない。だが、見解は自民党内でも分かれる。二階俊博総務会長は「各党と調整を図ることは当然」と発言。一方、萩生田光一総裁特別補佐は「一言一句、与党の了解を取って出す性格のものではない。首相が専権事項としてやったらいい」と反論している。
元内閣法制局長官の阪田雅裕弁護士は「戦後談話は閣議決定を経て、内閣の意思として示すべきだ。閣議決定抜きなら、首相の私的見解となるのか。きちんと説明すべきだ」と説く。
談話の価値を高めるならぱ、国会決議も無視できない。五十年と六十年の首相談話では、ほぽ同内容の国会決議も議決された。
阪田弁護士は「決議は国会の意思表明なので、本来は各党の一致が基本。七十年談話の場合、野党の反発から、国会に決議案が提出されないかもしれない」とみる。現に自民党の谷垣禎一幹事長は先月、「国会決議をする必要は必ずしもない」と話し、杏定的だ。
閣議決定や国会決議を欠くとなれば、何のための七十年談話かは一段と見えにくくなる。「日本が苦悩の末に到達した最高の歴史認識」(東郷教授)である村山談話の継承ならば、首相の固執する「未来志向」を加味しても、閣議決定や国会決議を得ることはさほど難しくはないはずだ。
ただ、その際は「村山談話を引き継ぐと言うだけでは、心がこもっていないと受け取られる。明確に植民地支配、侵略、おわびの三つの言葉を入れないと、世界からはねつけられる」と東郷教授は指摘する。
首相は慰安婦問題で、中国や韓国のみならず、女性の人権の観点から、米国議会からも「歴史修正主義者ではないか」という疑問のまなざしを受けている。
三つの言葉を無視することになれば、その評価は決定的になりかねない。談話内容を助言する私的有識者会議「21世紀構想懇談会」のメンバーも、多くは首相に近い人物。強い助言は出てきそうにない。
東郷教授は米上下両院合同会議での首相の演説に注目する。「リビジョナリズム(歴史修正主義)は欧米では、とても否定的な言葉だ。世界が安倍さんをいかにうがって見ているか、よく分かる機会になる」
首脳会談 対米従属、きわまる
国民無視の暴走政治約束
(しんぶん赤旗)2015年4月30日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-04-30/2015043002_01_1.html
「戦後70年を機に日米同盟をいっそう強化する」との意義付けがなされた安倍晋三首相とオバマ大統領との日米首脳会談。これに先立つ27日、両首脳はリンカーン記念館を訪問しました。リンカーン大統領は「人民の人民による人民のための政治」という演説フレーズでも知られています。しかし、首脳会談での合意は、このフレーズとは裏腹に日本人民をことごとく無視したものとなりました。
TPP交渉
国民不在 妥結まい進
日米両国首脳は、「日米共同ビジョン声明」で、環太平洋連携協定(TPP)交渉における日米協議の「大きな進展」を強調しました。首脳会談直前に行われた甘利明TPP担当相とフロマン通商代表の閣僚級会合は、交渉の具体的内容を日本国民にいっさい明らかにしませんでした。国民を蚊帳の外に置いたままで、首脳間で「大きな進展」を誇示するのは、国民の「知る権利」をないがしろにするものです。
国民の反対世論を踏みにじり、TPPへ突き進めば、日本の農業が破壊されるだけでなく、経済主権さえ奪われてしまいます。オバマ大統領は共同記者会見で、「米国では、多くの日本車が走っている。日本でももっと多くの米国車が走るのを見たいものだ」と強調し、米国の多国籍企業のために日本市場をいっそう開放するよう求めました。「(TPPは)米国企業に現在、十分に開かれていない市場を解放する」とも述べました。
日米首脳は、米国基準に基づく経済圏の構想を目指すTPPを日米同盟の戦略目標の一角に位置付け、日米同盟に依拠して12カ国のTPP交渉を推進する姿勢をあらわにしました。
オバマ大統領は会見で、「米日がTPP諸国の二大経済大国として、達成した進展を基に、より広い交渉の迅速で成功裏の妥結へTPP諸国をいかに導くかを話し合った」と述べました。安倍首相も、「私はバラク(米大統領)とリーダーシップを発揮して早期妥結を目指していきたい」と強調しました。
オバマ大統領はさらに、TPPによって米国基準を国際基準としていっそう広く各国へ押し付ける意図を次のように述べました。
「(TPPは)次へと進むわれわれのより広範な経済課題の重要部分となるものだ。世界市場の95%が海外にあり、向こう側でわれわれが競争していくことを確実にしなければならない。われわれが競争できると確信している」
安倍首相も会見で、「TPPは多くの国々からみて、模範となるようなもの、中国にとっても模範となるような新たな経済圏をつくるという野心的な試みだ」とし、「TPPに入っていない国々にとっても、こうしたしっかりとしたルールをつくって自由な経済圏をつくっていくことこそが繁栄につながる」と強調しました。
日本でも米国でも、TPPに反対する国民の根強い運動が続いています。国民を置き去りにして、首脳間の確認で交渉の早期妥結へまい進する両国政府の「暴走」が際立っています。
(北川俊文)
「戦争立法」
“精力的に作業”説明
「安全保障法制の整備について、精力的に作業している」―。安倍晋三首相は28日の日米首脳会談で、オバマ大統領に「戦争立法」の推進を誓いました。
会談に先立つ27日には、両国の外務・軍事担当相の会合(2プラス2)で新たな日米軍事協力の指針(ガイドライン)を決定しました。新指針は、自衛隊が地球上のどこでもいつでもあらゆる事態に米軍を支援し戦争に参加できるようにするもの。両首脳は会談後に発表した「日米共同ビジョン声明」で、「同盟を変革し」「日本が地域の及びグローバルな安全への貢献を拡大することを可能にする」ものだと誇りました。
「戦争立法」はこの新指針を法制化するものです。安倍政権が諸法案を国会に提出するのはこの5月中旬。国会ではまだ何も審議していません。国会審議よりもまず米国に約束するというのは、国民無視の最たるものです。
しかも世論調査では「戦争立法」(安保法制)に反対が賛成を上回っています(共同通信、「朝日」、いずれも3月)。首脳会談後の共同記者会見で「日本がアメリカの戦争に巻き込まれるとの懸念が出ている」との質問が出たのも、その反映です。
ところが、首相はこれに対して「レッテル貼りだ」と強い口調で反論。1960年の日米安保条約改定の際も同様の議論があったものの、「その間違いは歴史が証明した。安保条約で日本の平和は守られた」と述べました。
しかし、「戦争立法」は、日本が「巻き込まれる」どころか、自ら海外へ出て行って米軍の戦争に参戦するものです。「巻き込まれ」論を持ち出すこと自体、話のすりかえです。
何より、首相の態度からは、“米国と約束したことに文句を言うな”という民意じゅうりんの姿勢が垣間見えています。
「2プラス2」の閣僚会見では、自衛隊派遣先の想定として南シナ海やホルムズ海峡に言及がありました。発表された首脳会談の確認事項(ファクトシート)は、アフリカで武装勢力と対峙(たいじ)する国連平和維持活動(PKO)分野での協力を明記しました。
アフリカの南スーダンのPKOにはすでに自衛隊が派遣されています。「戦争立法」で武器使用や任務が拡大されるなら、自衛隊員が「殺し殺される」危険が現実のものとなります。
(小玉純一)
辺野古新基地建設
沖縄の民意を足げに
「オバマ大統領へ沖縄県知事はじめ、県民は、辺野古移設計画に明確に反対しているということを伝えていただきたい」
安倍晋三首相の訪米を目前に控えた17日、沖縄県の翁長雄志知事は首相との会談で、沖縄の民意を伝えるよう強く求めました。
首相は「伝える」と約束。翁長氏の要望を受け入れざるをえなくなったのは、沖縄県民の約8割が新基地建設に反対しているという圧倒的民意に加え、全国的にも辺野古への新基地建設を推し進める政府の姿勢への批判の声が高まっているからです。
最近の世論調査を見ても、「反対」が53%(「毎日」20日付)、辺野古「移設」を「見直すべきだ」が47%(「日経」同)となり、いずれも、「賛成」「計画通りに」を上回っています。「朝日」21日付では、辺野古をめぐる政府対応を「評価せず」が55%となり「評価する」の25%を大幅に上回りました。
ところが、27日の日米外交・軍事閣僚による2プラス2共同声明で、辺野古「移設」が、普天間基地(沖縄県宜野湾市)問題の「唯一の解決策」だと明記。首脳会談が始まる前から、民意無視の姿勢を鮮明にしました。
首相は会談で、「翁長知事が(新基地に)反対している」と言及しました。ところが、民意をオバマ氏に“伝えた”直後に「辺野古移設が唯一の解決策としての立場は揺るがない」と自身の考えを言明。一方、オバマ大統領はこれに関して何の言及もせず、完全に無視しました。さらに、会談後の共同記者会見でも、共同声明でも、「沖縄の民意」についての言及はなく、米軍新基地建設推進の「互いの決意をあらためて確認」(安倍氏、共同会見)し合いました。
首脳会談が行われたその日、沖縄では県庁前や新基地建設が強行されている米軍キャンプ・シュワブゲート前、辺野古・大浦湾海上などで、「もう基地はいらない」「新基地建設を断念させよう」との抗議の声が終日、上げられました。
4月28日は沖縄にとって、1952年のサンフランシスコ講和条約発効で日本本土から切り離され、米軍の占領支配が継続した「屈辱の日」です。
その日にあわせた首脳会談で、沖縄の民意をまたしても踏みにじったことは許されません。
日米首脳会談を受けて翁長知事は29日の記者会見で、5月下旬に自ら訪米して、「新基地反対」を訴える考えを示しました。米政府は、真に民意を反映している翁長知事の言葉に、耳を傾けるべきです。
(山田英明)
小出裕章先生:そもそもそんな道(集団的自衛権・戦争加担)に行くのが間違えてるとは思います
ゴールデウィークで遊び呆けて、
更新が滞りました~(;^ω^)
ごめんなさい~(・ω・`)
『みんなの学校』から考える公教育のあり方
(ラジオフォーラム#121)
https://youtu.be/Ff0-JvzIPjo?t=15m3s
15分3秒~第121回小出裕章ジャーナル
原発攻撃被害報告書が明るみに「原子力に対する、やはり危機感というものが広がってしまうことを恐れたということが多分本音なんだろうなと私は思います」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no121/
湯浅:
先月から新居に移られ、信州の方に移られましたが、住み心地はいかがでしょうか?
小出さん:
快適です。
湯浅:
快適ですか?
小出さん:
はい。私は暑いのがとことん苦手でしたので長い間、大阪という本当に暑い場所で生きてきましたが、私にとっては随分辛かったし、信州は快適です。
湯浅:
寒い方が肌に合ってるんだ?
小出さん:
はい。寒いのは、もう全然なんともないのですけれども、暑いのがとことん苦手でした。
湯浅:
では、今日はその小出さんに伺うテーマはですね、原発攻撃被害報告書っていうやつですが、外務省が国内の原発が戦争やテロ等で攻撃を受けた場合の被害予測を1984年、もう30年前に極秘に研究していたってことが発覚した、わかったっていうことなんですが。
小出さん:
だそうですね。
湯浅:
東京新聞が外務省に対して情報公開をして、コピーを入手したということで。今日はちょっとこれについて伺いたいと思うんですけれども。
小出さん:
はい。
湯浅:
まず、この報告書は小出さんご存知でしたか?
小出さん:
東京新聞の報道があるまで知りませんでした。
湯浅:
噂も聞いたことがなかった?
小出さん:
はい。
湯浅:
これ、中身はご覧になられました?
小出さん:
本文そのものをまだ見る機会がないのですけれども、あちこちの東京新聞も含めた情報は目を通しました。
湯浅:
ポイントはどういうところにあったんですかね?これ。
小出さん:
まあ、当たり前のことなのですけれども、原子力発電所というのは運転してしまいますと、膨大な放射性物質を原子炉の中に溜め込んでしまう機械なわけです。それが、もし破壊される、あるいは自分で事故に突入することになれば、大変なことになるということは、もちろん原子力の研究者みんな知っていたわけです。
核戦争というのがあってですね、原爆を落とされて、あちこち壊されるということももちろんあるわけですし、一番手っ取り早いのは、むしろその原子力発電所を壊してしまった方が早いんではないか?ということは、もう原子力研究者の中では常識であったわけです。
たびたびそれに関してのどんな被害が出るかということは、例えば米国などでは研究されてきていたのです。ですから、日本でも当然そのことを心配して、どんな被害が出るか。そして、対策が取れるのかどうかということを検討しておかなければいけなかったのですけれども、日本の場合には、いわゆる核という軍事的な問題と原子力の平和利用、原子力発電所というものは全く別なものなんだという宣伝が行き渡っていたために、敵国からの攻撃で破壊されるというようなことは、全く考えてはいけないというようなことに多分なってきたんだと思います。
でも1981年に、実際にイスラエルがイラクの原子炉を破壊したことがあったのです。もちろん国際的にはそういう事が想定されるわけですから、外務省としてはやはりやらざるを得ないし、やってみたと。その結果があまりにも酷かったので、秘密にしてしまったということだと思います。
湯浅:
この報告書によると、原子炉格納容器が破壊されて放射能物質が大量に漏れ出した場合に、最悪のシナリオとしては、急性被ばくで1万8000人が亡くなって、原発の約86キロ圏が居住不能になるという想定をしていたということで、まあ当然ながら、我々は4年前の事故を思い出すわけですが、公になって真剣に対応されていれば、原発事故を防げたっていう面はあるんですかねえ?
小出さん:
今、湯浅さんがおっしゃって下さった被害の規模はですね、原子炉格納容器という放射能を閉じ込める最後の防壁が攻撃で破壊されたという時のシナリオの結果なのですけれども、他にもいろいろな想定をしていまして、全部の電源が失われる。つまり、福島第一原子力発電所で起きたような事故シナリオというのも、実は検討されていたのです。
もし、そういう報告書がキチッと報告されて、みんながそれを読むことができていたのであれば、発電所が全部の電源を失う、私達ブラックアウトと言っていますけれども、そういう場合に、どんなことができるかということをもっと真剣にたぶん考えたでしょうし、住民を避難させるためにどんな手立てができるかということも多分、その時点で考えられたはずですので、こういうある意味、貴重な研究だったわけですから、それをどうして公表しないのかなと、やはり私は思ってしまいます。
湯浅:
何でなんですかね?これ。
小出さん:
何でなんですかね。
湯浅:
やっぱり、小出さん達みたいなって言うか、反原発運動が盛り上がることを恐れたんですかね?
小出さん:
まあ、その原子力発電所というものが、非常に弱い部分を持っていてですね、例えばその電源を破壊してしまったら、もう手の付けようがなくなるという、そういう機械なわけですから、そのことを一般の人達にはやはり知られたくない。原子力に対する、やはり危機感というものが広がってしまうことを恐れたということが、多分本音なんだろうなと私は思います。
湯浅:
しかし、この2年後にはチェルノブイリもあるわけですよねえ?
小出さん:
そうです。
湯浅:
その時に考え直すってことも無かったかなあ。まあ。
小出さん:
湯浅さんの方が私よりはよくご存知だろうけれども、官僚という人達の体質というのは、やはりどうしても自己保身というかですね、自分の都合が悪いものは、できる限り出さないということをこれまでもずっとやってきたわけですし、これもひとつの例なんだろうと私は思います。
湯浅:
まあ、国際平和支援法ですか? アメリカ軍を中心に事実上、戦争中の軍隊にも武器を後方支援というかたちで供給するっていう話が出てますからねえ。
小出さん:
はい。
湯浅:
いよいよもって、まあやられる側からすれば、ある種のテロを考えるような状況は強まるということにも。
小出さん:
はい。もちろんこれまで日本という国は、外国には出て行かない。まあ基本的には、軍隊を持たないという国だったわけですけれども、でも実際には自衛隊を持っていたけれども、それでも外国には出かけない、実際の戦闘行為には参加しないと言っていたわけですけれども、その垣根がどんどん撤廃されていってしまってるわけですし、武器は輸出するわ、集団的自衛権も認めて、戦争に加担していくということを表明してしまっているわけですから、そうなれば敵からも攻撃を受けるということは当然のことなのであって、もちろんそういう道を歩むのであれば、さまざまなことを考えておかなければいけないはずだと、私は思います。
私は、そもそもそんな道に行くのが間違えてるとは思いますけれども、今の安倍さんのような路線を行くなら、きちっと原子力に関しても考えなければいけないということだと思います。
湯浅:
この報告書のシナリオが、何と言うか怖いことにリアリティを増してきているっていう感じがしますよねえ。
小出さん:
そうですねえ。はい。
湯浅:
今日もありがとうございました。
小出さん:
はい、こちらこそありがとうございました。
「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。(中略)しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。(中略)とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。」
Hermann Wilhelm Göring
「原発 炉心崩壊後は内部は調査が不可能」
1984年,報告書:安倍政権 立地自治体へ配布拒否
(エコニュース)2014年11月2日
http://echo-news.net/japan/infamous-abe
誰にとっても、頭の中では目に見えていた発表が先日、新聞各紙の一面を飾った。「福島第一原発の廃炉作業で、東京電力は30日、1号機の核燃料取り出し時期を見直す方針を公表した。使用済み燃料は2年遅れて2019年度開始、溶け落ちた燃料の取り出しは5年遅れの25年度開始」(10/31日付け朝日新聞)のだ。
日本政府もこれまで、燃料棒の取り出しが困難であることは確かに認めてきた。しかし、「原子炉破壊後に、内部の調査が不可能」であることが30年前の政府秘密文書「原子炉施設に対する攻撃の影響に対する一考察」の時点で指摘されていたことは、今まで公表されてこなかった。つまり今日まで誤った前提の元で30年前から原子力政策が続いてきたことになる。もちろん原発再稼働についての世論調査の中身も、これまでずっと誤った前提に基づいた意見の反映でしかない。
この「黒い歴史」は当時の中曽根内閣から始まり、福島事故後の民主党政権、そして現在、原子力発電所の再稼働を進めようとする安倍政権まで変わっていない。
にわかには信じられないことに、原発の立地自治体にも政府はこの文書を共有していない。じつは今年の上旬、ある原発立地自治体から、(この文書の一部を報道した弊社に)「原子炉施設に対する攻撃の影響に対する一考察」を貸し出してくれないかという問い合わせが、あったのだ。
依然として事情は同じだ。10月15日、柏崎刈羽原子力発電所の立地する新潟県の泉田裕彦知事に、外国特派員協会の会見で直接確認したところ、中央自民党政権は新潟県へこの文書を提供していない。泉田氏は(ヘタに原発の危険性を示す文書を出してしまうことによって)「寝た子を起こさないようにしているのだろう」という。
なお、筆者はこの文書を裁判で入手して、2011年9月から保有している。かつて、2012年に私が外国特派員協会でスピーチしたときにも、あえて近藤俊介氏の作成したとされるシナリオがもっとも機密性の高い文書であるかのように「みせかけて」語り、よりこの文書がはるかに危険なことは申し上げなかった。
そういう意味では、私も政府と同罪と言えるだろう。しかし軍事研究というセンシティブな性格とのバランスから3年以上まよいつつ、これまでこの箇所の公表を控えていた。ひょっとすると「国家の安全保障に関する情報を無責任に公表した国賊」のような誹りを受けることを怖がっていたのかもしれない。
そのことを、1国民、あるいは1人の人間としてお詫びしたい。しかし、もしこのまま原子力発電所の再稼働が行われれば、文書の他の部分についても、さらに公開の必要が生じてくると考える。
原子力発電所が軍事攻撃、その他の有事の際に持つ脆弱性とその際の危険性は極めて明らかである。そして1984年文書は「被害状況の調査さえ不可能」と、お茶を濁すことなく断言している。福島の現状はその裏付けをするものであり、調査が不可能ならば、その結果として生じる経済的な損害の調査予測も言うまでもなく、不可能に近づく(もっとも仮に技術の進歩によって内部の十分な調査が可能になるかもしれない。しかしそれでも、原子力発電所の稼働に不都合な情報を恣意的に共有せず、逆に都合のよい情報のほうのみを政権が出していたという恣意的な政策を行っていたという問題点は依然として残る)。
安倍政権が本当に抱えるアキレス腱は閣僚の政治資金問題だけではない。もしも、本当に原子力発電所の再稼働にこだわるならば、史上最悪の宰相は、間違いなく安倍晋三氏だったと歴史が評価するだろう。
原発がテロ攻撃された場合の被害予測 2015.04.08
http://dai.ly/x2m786m
東京新聞が今日(※2015年4月8日)、大きく報じたニュースなんですが、原発がテロなどで攻撃を受けた時、の、被害予測なんですけれども、「最悪の場合、18,000人が急性被曝で亡くなる」という試算がなされていたという事なんです。
これ、1984年にまとめられた報告書なんですけれども、研究をしてきた外務省は公表してきませんでした。
朝日新聞が、2011年7月に報道。そして今日(※2015年4月8日)、東京新聞が「原発攻撃被害 84年に極秘研究」の記事。
我々の取材によると、日本にある原発が攻撃を受けた場合の被害予測を、外務省がひそかに研究し報告書にまとめたのは、1984年2月。イスラエル軍が、イラクの原子力施設を攻撃したことを受け、外郭団体の「日本国際問題研究所」に研究を委託し、63ページの報告書を作った。
その中では、原子炉格納容器が攻撃で破壊された場合、大量の放射性物質が漏れ出たことによる急性被曝で、最大18,000人が亡くなると試算。風向きで被害はかわるが、平均で3600人死亡と試算した。
また、原発の周辺地域の土壌汚染が深刻化し、住めなくなる地域は、平均で30キロ圏内、最大で87キロ圏内とはじき出していた。
だが、当時の関係者によると、この報告書が原発の警備強化などの対策に活用されることは無かった。そもそも公表されていないのだ。
当時は、70年代の石油危機を受け、国は原発建設を積極的に推進。各地で反対運動が巻き起こっていた。結局、報告書は、外務省の担当課長が「機微な性格及び関係方面への影響」を理由に部外秘とした。
今日(※2015年4月8日)、外務省に問い合わせたが、「今後も公表する予定はない」としている。
元東電社員木村俊雄氏:原発再稼動 わたしはこう思う
https://youtu.be/AgUz0G00e2w
<ナレーション>
「原発再稼動 わたしはこう思う」今日は東京電力の元社員の木村俊雄(きむらとしお)さんです。木村さんは社員時代には福島第一原発の原子炉の運転などを担当され、今は高知県で自給自足の生活を送られています。
<木村さん>
(停止中の原発は)まだ運転できる段階にないと思う。ほとんどの重要機器が格納容器の中に入ってるわけだから、その中がまだ近づけない状況において、その故障原因も、どれがどのぐらい壊れたのかさえも、まだ洗い出してないのに。
格納容器の蓋さえも開いてない状況で「安全だ」「妥当だ」って、よく言えるもんだよね。
<ナレーション>
福島第一原発の原子炉の運転や、制御棒などの管理をしていた木村さん。当時から、原発を規制する政府側に対し、様々な“ごまかし”を行っていたと証言する。
<木村さん>
発電所の運転管理する上では、たとえば運転日誌書き換えたりだとか、そういうことはやってましたよね。都合が悪い時は、もうコンピューターにアクセスして、書き換える? でも、書き換えても分かんないだよね、技術力がないから。もう東京電力に手玉に取られてますよ、規制側は。
91年のね、10月30日に、福島第一の一号機で海水漏洩があり、タービン(建屋)の地下1階にある非常用ディーゼル発電機が水没して、機能を喪失しましたと。「津波が来たら大変じゃないか」と、「メルトダウンするんじゃないか」って言ったら、その、上司は「いやその通りだ」と、「鋭いよね」って褒めてくれました。
で、これは安全審査やってる裏方の中では「津波を過酷事故の中に、盛り込むのは、実はタブーなんだ」と。 その言葉を僕は聞いたときに、愕然としたし、ま、そんなもんなんだなって思った。
耐震の指針とかも、きちんとね、その、世界の地震学の定説に、え~っとフィット、え~フィッティングさして作った時には「日本の国土には原子力発電所は作れません」と、知ってるのに知らないふりしてるんです。少なくとも電力会社の人間は知ってるはず。
<ナレーション>
東電の体質と原発の実態に嫌気がさし、10年前に退社した木村さん。福島の事故後、業界の現実を語る決意をした。
<木村さん>
(保安院などの規制側は)原子炉理論 とかに関しては、その原子炉工学部でてれば、それは詳しいかもしれないけど、「実物」は、もう「実物を動かした、見た人間」じゃないと分かんないわけだから、そういう意味では、もうまったくの「ずぶの素人」。
ストレステスト自体の評価手法も、はなはだ漫画のような世界だし、保安院がどのぐらいの技術力を持っているか、本当にはなはだ疑問だし、そういった人間たち、しかも政治家も一緒になって、その判断してること? それは、もう原子力安全委員会だって、本当はまだダメだよって言ってるわけじゃないですか。
だから、それが一番もっともたる答えであり、さっきも、最初に言った通り、理屈抜きに、再稼動っていうのは、もう、あり得ない。
イラク原子炉爆撃事件 - Wikipedia
バビロン作戦戦闘爆撃機の飛行進路
イスラエルによって破壊される前のイラク・オシラク研究用原子炉
イラクは核兵器不拡散条約(NPT)加盟国であり、所有する3基(実質2基)の研究炉は国際原子力機関(IAEA)による査察を受けており、その際には核物質への転用は認められなかった。
イスラエルによるオシラク研究用原子炉の爆撃は大きな国際問題となり、これのIAEAでの取扱いをめぐって、アメリカのIAEAに対する分担金支払い停止の事態を一時もたらした。しかしイラクは、この原子炉を用いてかなりのプルトニウム239を生産しようとしていたことは確かなようである。
原子力百科事典 ATOMICA 「イラクの原子力開発と原子力施設」より
原発向けサイバーセキュリティシステムを提供へ、
WestinghouseとMcAfee
(ITmedia)2012年10月25日
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1210/25/news024.html
米原子力大手のWestinghouse Electricと米McAfeeは現地時間の10月24日、原子力発電所の制御システムのセキュリティ対策ソリューションを提供することで提携すると発表した。協業ソリューションを世界各国で展開する。
今回の協業は、WestinghouseがMcAfeeの企業向けセキュリティ製品をユーザー企業向けに提供するというもの。McAfeeのセキュリティ情報・イベント管理(SIEM)システムやIPS(不正侵入防御)などのネットワークセキュリティ機器、ホワイトリスト式のアプリケーション制御製品、セキュリティ統合管理製品を組み合わせる。既に原子力発電所の制御システムにおけるこれら製品の動作検証も終えている。
協業によるセキュリティソリューションのイメージ
McAfeeが米国ラスベガスで開催中のカンファレンス「McAfee FOCUS 2012」で行われた記者会見には、WestinghouseやMcAfeeと協業するセキュリティ企業WaterfallやEmersonなどの関係者も出席し、社会インフラの制御システムにおけるセキュリティ対策の必要性を説明した。
社会インフラの制御システムでは従来、クローズドなネットワーク環境による独自技術のシステムが利用されてきた。だが、近年はコストダウンや情報系システムなどとの連携よるオープン技術の採用やネットワーク接続が拡大。システムの複雑化にもつながり、これらがマルウェア感染といったセキュリティリスクをもたらす要因になるという。McAfeeによれば、大企業の3分の1がDoS(分散型サービス妨害)攻撃を経験し、64%の企業では運用に支障が出るなどの被害実態があるという。
原子力施設を狙ったサイバー攻撃は、2010年にイランの原子力関連施設の破壊を狙ったとされる「Stuxnet」事件が発生している。Stuxnetのマルウェアは欧米の制御システムでも発見されており、翌2011年にもStuxnet由来とみられるマルウェア「Duqu」が出現。重要インフラの制御システムにおけるセキュリティ対策が急務になっていた。
Westinghouseの担当者は、「サイバーセキュリティの必要性が高まる中で当社にはこのノウハウが無く、専業ベンダーとして実績のある企業とパートナーシップを結べた意義は大きい」と語る。またMcAfeeの担当者は、「Intelとハードウェア支援型セキュリティ技術の開発に取り組んでおり、その成果が社会インフラを支えるシステムの安全性向上に役立つことを期待したい」と述べた。
重要インフラシステムのセキュリティ対策におけるパートナー
今回の提携についてマカフィー サイバー戦略室兼グローバル・ガバメント・リレイションズ室の本橋裕次室長は、「米国では重要インフラの供給を中小企業が担う場合も多く、セキュリティ対策が急務。国内では大企業や自治体が社会インフラの提供を担っているが、エネルギー政策をめぐる動き次第では米国と同様に制御システムのあり方が変わるだろう。実際に国内でもATMでのマルウェア感染が起きており、重要インフラを支えるシステムのセキュリティ対策が今後急務になる」と語っている。
SIEM solution over multiple security levels
原発へのサイバー攻撃は、日本では「想定外」になっているそうです…
…出ました「想定外」アホか!( ̄‥ ̄)=3
福島第一原発にイスラエルの会社の「謎」
(週刊現代)2011年05月22日
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/4639
4月下旬、福島第一原発1号機原子炉建屋の立面図がネット上に流出し、世界中に晒された。安全管理の脆弱さは津波対策だけに止まらないようだ。そしていま、またも気になる話が持ち上がっている。イスラエルの主要紙2紙が次のように報じたのだ。
〈防衛会社マグナBSPが福島第一原発内に設置した監視カメラは、問題が起きている炉心を内部当局者の視点で撮影し続けている〉(エルサレム・ポスト紙)
〈約1年前に導入されたマグナ社の警備システムは、(中略)放射性物質を入手しテロに利用しようとする敵対分子から発電所を守るため設計された〉(ハアレツ紙)
記事によれば、福島第一原発の警備システムの一部を日本の企業ではなく、イスラエルの会社が請け負っているという。マグナ社は10年ほど前に設立された社員十数名の会社で、昨年から東京電力と技術導入のため協議していたとのこと。同社トップのハイム・シボーニ氏は、エルサレム・ポスト紙の取材に「このカメラは放射性物質を感知することができる」と話している。
ではなぜ機密性の高い原発の警備システムの一部を外国の企業が請け負っているのか。原子力安全・保安院は、「福島第一に限らず、どんな機器を採用しているかは保安院に報告の義務はないため把握していない」とする。東電は「セキュリティに関しては一切お答えできません」とノーコメント。
たしかに外国製機器を採用してはいけない、といった規定はない。ただ、シボーニ氏は、「カメラの映像を受信するシステムに遠隔アクセスの設定もできるが、その許可は下りていない」と明かしている。安全保障・危機管理専門家の古川勝久氏はこう話す。
「これが事実であるなら、原子炉建屋内の重要な装置や機器の場所に関する情報等、核物質防護関連の機密情報が外部に漏洩するリスクが考えられる。外国企業とシステム運用ルールをしっかり決めて、契約履行の着実な管理が必須です」
原発に対する不安は消えるどころか、増える一方だ。
(・3・)
世界の科学者は予見する・核戦争後の地球
第1部:地球炎上
http://dai.ly/x269oem
世界の科学者は予見する・核戦争後の地球
第2部:地球凍結
http://dai.ly/x26blak
小出裕章先生:原子力というのは造るというその時から、村自身がズタズタに引き裂かれてしまう
藤井聡&西谷文和、大阪都構想・住民投票を解剖する
(ラジオフォーラム#122)
https://youtu.be/XN-6JozeIUQ?t=15m5s
15分5秒~第122回小出裕章ジャーナル
【公開収録から】原発誘致を阻止した日高町「はね返したんですけれども、非常に突発的な出来事で、ようやくはね返したんです」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no122/
和歌山県日高郡日高町小浦
西谷文和:
今日公開収録ということで、和歌山から来られてるんですが、今日私のテーマはですね、「原発誘致を阻止した町・日高町」ということですね、お聞きしたいのですが。和歌山の日高という所にですね、小出さん達は熊取6人衆と呼ばれてたのを皆さんご存知でしょうかね、6人衆の皆さんが、日高で合宿しはるわけですね。毎年。これはなぜなんでしょうか?
小出さん:
ご存知と思いますけれども、関西電力は若狭湾という所に原子力発電所を林立させたのです。でも計画としては若狭湾だけではなくて、紀伊半島の方にもたくさんの計画を持っていました。私の職場、京都大学原子炉実験所というのは、大阪府泉南郡熊取町という所に。
西谷:
和歌山に近いですねえ。
小出さん:
もうすぐ和歌山という所にあったわけです。ですから、和歌山の人達が原子力発電所の立地に対して戦っている時に、私達も自分の問題のように、やはり関わるようになりまして、和歌山の原子力発電所の反対運動に関しては、そこらじゅうに出掛けて行くように。
和歌山県原発立地計画地点
西谷:
日置川町とかもそうでしたもんね、はい。
小出さん:
勝浦もそうですけど、向こう側も含めて行くようになりました。中でも一番近かったのは、やはり日高という所だったわけで、暇さえあればビラを持ってビラまきに行くなり…
西谷:
熊取から電車に乗って行ってはったわけですね?
小出さん:
はい、をしていました。
西谷:
そういうその住民のその生活ぶりを見てですね、よく言われるのは住民が二分されていくでしょ、誘致派と反対派。そのあたりの見られてどうでした?やっぱり悲惨なことになってましたか?
小出さん:
そうですね。ですから原子力というのは今、西谷さんがおっしゃって下さったけれども、造るというその時から、村自身がズタズタに引き裂かれてしまう。
西谷:
そうですよねえ。沖縄の基地も同じですけどねえ。
小出さん:
そうです、はい。何にもできない前から、もう住民自身の心がもうボロボロにされてしまって、親族でもなんかもう口もきけなくなる。あるいは、ずーっと続いてきた祭りすらが維持できなくなるという、そういうことになってしまう。
西谷:
あの人、お金貰ったんちゃうかとかね、そういうことの話になっていくんですよねえ。
小出さん:
そうです。はい。
原子力PA*方策の考え方
(日本原子力文化振興財団原子力PA方策委員会報告書)
http://labor-manabiya.news.coocan.jp/shiryoushitsu/PAhousaku.pdf
「繰り返し繰り返し広報が必要である。新聞記事も、読者は三日すれば忘れる。繰り返し書くことによって、刷り込み効果が出る」
「事故時を広報の好機ととらえ、利用すべきだ」「事故時の広報は、当該事故についてだけでなく、その周辺に関する情報も流す。この時とばかり、必要性や安全性の情報を流す」「夏でも冬でも電力消費量のピーク時は話題になる。必要性広報の絶好機である」
えげつない… ε=ε=えげつな~(´口`メ)━━!!!
西谷:
そういう日高やその和歌山の所がずっと行かれておられたんですが、ここがですね、福井と違ってはね返せた理由というのは、小出さんから見てどういうふうなものだったんでしょうか?
小出さん:
一言ではたぶん言えないと思いますが、例えば、日本海側と太平洋側で言うと、太平洋側の方がちょっと豊かだったということはあるかも。海とか。
西谷:
ああ、なるほど。経済的にちょっと豊かだった?
小出さん:
はい。ただし日高という所もようやくにしてはね返したんですけれども、非常に突発的な出来事で、ようやくはね返したんです。だんだんだんだん電力会社、あるいは国の方から真綿で首を絞めるようにして住民が苦しめられていって、どんどんどんどん誘致の側に移っていくという人達が増えていくわけです。最後に、その漁業協同組合が漁業権の放棄をするというような所まで追い詰められて、総会を開いたんです。
西谷:
組合ですからね、総会になりますねえ。
小出さん:
そうです。その総会で決議を挙げて、漁業権を放棄するということになっていて、県の役員なんかも漁業組合の総会に県の役員なんか…
西谷:
和歌山県がね、推進側として入ってきてね。
小出さん:
そうです。来ているわけで、監視に来ているわけですね。それでちゃんと決議を取ってしまうと、たぶん漁業権は放棄されてしまって、それによって原子力発電所が建てられてしまうと。
西谷:
もっとも危ない瞬間ですよね、それはねえ。
小出さん:
そうです。その時に、漁民のひとりが県の役員の椅子をバアーっと引っ張った。要するに、実力行使をしたわけですね。
西谷:
カッコよろしいなあ。
小出さん:
「県の役人なんか、なんでこんな所にいる」と言って、県の役人の座ってた椅子をそのまま取り上げて、県の役人がひっくり返るというようなことをやったわけです。それで総会が大混乱に陥って、流会してしまった。
西谷:
よかったですねえ。決議やらなかった?
小出さん:
そうです。ですから、それで、ようやくにして決議が上がらなかった。それで、皆さんも「もう嫌だ」と「こんなそんなお互いにいがみ合うようなことは止めよう」ということで、漁業協同組合の組合長も「もうやめた、もう原発のことは」ということになって、ようやくにして止まったんです。ですから、本当の個人ひとりの漁民の突発的なギリギリの思いが日高の原発を止めたという。
西谷:
私も日高行きましてね。その反対運動されてる方に本を読ませてもうたんですが、ずるいんですよねえ、関西電力ってね。その土地を買う時に、「この木材の貯木場にするから、この土地を売れ」とか。あるいは「ここを国定公園にするから、ここを売れ」ということで売ったのに、それが転売されて原発予定地になる。
小出さん:
みんなどこでもそうです。
西谷:
六ヶ所村もそうですよねえ。
小出さん:
はい。
西谷:
あれ、もともと工業予定地として。
小出さん:
そうです。石油基地コンビナートになる予定だった。それができないからと言って、原発になってしまった。
西谷:
この事情を知らない方はね、「お前らはその土地売って儲けたんやろ」みたいに言う人いるんですよ、原発の立地の方にねえ。あれ、最初は騙されてるんですよ。騙されてるというか。
小出さん:
みんなそうです。
西谷:
「原発やったら売らない」と言う人多かったでしょ?おそらく。
小出さん:
はい。
西谷:
だから、それを例えば、貯木場だということで売ったけども、その貯木場の会社がちょっと悪い奴らにね。そっと、こう関電に売ると。だから、本当にずるいなあと思うんですけど。これね、福井県に集中してしまったのは、やっぱりなぜでしょうか? この関西の場合は。
小出さん:
先程聞いて頂きましたけど、日本海側と太平洋側で、やはりその経済的な強さっていうのがあったんだろうと私は思いますし、太平洋側で止めることができたら、もう非常に偶然的なことも左右していたので、歴史というのは全部解説することはできないわけですし、かなりのいろんな偶然的な成り行きがあったんだろうなあと思います。
西谷:
ちょうどですね、この反対運動が危ない時に、スリーマイルが起こって、助かったと。またやられて危ないなあ思う時に、チェルノブイリが起きた言うてました。だから、そういう偶然も重なったわけですね?
小出さん:
そうです。
西谷:
そういうことで私、日高に行きますとね、未だに日高の町の人は話ができないような状態になってるって聞きました。もうだいぶ、その傷が癒えたと言いますか。
小出さん:
そうですね。はい。当初は、本当にその親族でもお互い口を利かないというような所まで追い詰められていましたけれども。でも、まあそういうのを止めようということで、町長も決断したわけですし、最近は随分良くなったと私は思います。
民宿「波満の家」にて
西谷:
今ね、福島でね、逃げた人と逃げなかった人の分裂なんかもありますけど、ちょっと時間がだいぶかかりますね。その町が癒えるまでねえ。
小出さん:
すごい時間がかかります。
西谷:
はい。本当に罪深いということですね。原発の計画を立てた時点で、もう罪深いことやってるということですね?
小出さん:
はい。
西谷:
はい。小出さん、今日はどうもありがとうございました。
小出さん:
ありがとうございました。
西谷:
今日は、公開収録でお送りしました。
「原発反対、正しかった」日高町の町長ら安堵
(橋本新聞)2011年4月15日
http://hashimoto-news.com/news/2011/04/15/2066/
和歌山に原発がない理由 反対運動の記録出版
(和歌山新報)2012年06月11日
http://www.wakayamashimpo.co.jp/2012/06/20120611_14541.html
野田佳彦首相が関西電力大飯原子力発電所3、 4号機(福井県おおい町)の再稼働を表明し、 原発の是非をめぐる関西住民の関心は大きく高まっている。 関西電力の原発は福井県の日本海沿岸に集中し、 太平洋側の紀伊半島には一つもない。 その理由に迫る一書 『原発を拒み続けた和歌山の記録』 (汐見文隆監修、 「脱原発わかやま」 編集委員会編)が発刊された。
同書は、 日高、 旧日置川、 那智勝浦、 旧古座の県内4町にかつてあった原発建設計画の発端から、 住民の反対運動の展開、 計画の終息に至るまでの経緯を詳しく記録している。
反原発を掲げ、 保守系候補が旧社会党と共産党の支援を受けて当選した昭和63年の旧日置川町長選など、 異例の展開となった興味深い歴史も紹介。 各地の反対運動を担った中心者の地道な行動や発言、 人物像に光を当てた章もある。
当時の資料や報道、 関係者の聞き書きなどから描き出される推進派と反対派の激しい戦いの様子は、 福島第1原発や大飯原発をめぐる現在の情勢と重なる部分が少なくない。
現在 「国論を二分している」 (野田首相)と言われる原発をめぐる問題に対し、 同書は 「原発を再稼働させてはならない」 「これからは脱原発社会しかない」 (あとがき)と強く訴えている。
◇
【原発を拒み続けた和歌山の記録】平成24年5月11日発行 監修・汐見文隆 編者・ 「脱原発わかやま」 編集委員会 発行所・寿郎社 252㌻ 定価・1500円(税別)
原発の火種消した町 漁師、医師ら40年のたたかい 和歌山県 日高町
(全日本民医連)
http://www.min-iren.gr.jp/?p=15676
関西南部の紀伊半島では過去に、関西電力が五カ所で原発建設を計画しましたが、住民運動で一基の建設も許していません。紀伊水道の穏やかな海に面した和歌 山県日高町もその一つ。「日高原発」の建設を巡り、人口七〇〇〇人の小さな町を二分した熾烈なたたかいがありました。関電が一九六七年に同町阿(あ)尾 (お)で、続いて小(お)浦(うら)に建設をもくろみます。「豊かな海を守ろう」と漁師や町民、三〇キロ圏の周辺住民、そして医師が立ち上がります。巨額 の補償金で住民分断を図る関電。建設まであと一歩と追い込まれながら、押し返した住民。約四〇年のたたかいを経て、ついに原発の火種を消しました。
(新井 健治記者)
「板子一枚下地獄」
「漁師の世界では『板子(いたご)一枚下地獄』と言ってな、お互い助け合わないと生きていけない。町長、この気持ちがわかるか」―。漁師の濱一己さんの叫びが、議場にこだまします。壇上には二〇年にわたり原発を推進してきた一松春(はじむ)町長(当時)の姿が。
板子とは舟底に敷く揚げ板のこと。板子の下には危険な海が広がります。漁師は命がけで漁をし、いざという時には身を投げ打っても仲間を助けます。原発はこの人間関係をずたずたにしました。
関電は一九七五年、小浦崎の突端を埋め立て一二〇万キロワット二基の原発建設を計画。約七億円の漁業補償金を提示し、漁師は推進派と反対派に二分されま した。方杭(かたくい)浜の濱さん(62)の自宅から、小浦崎までわずか八〇〇メートルです。
「親からもらった海を子どもたちにつないでいくには、原発で海を汚したらあかん」と濱さん。「日高町原発反対連絡協議会」事務局長として反対派を引っ張りました。
濱さんが町長に訴えたのは、一九九〇年の比井崎(ひいざき)漁協総代会。同漁協は阿尾、小浦など日高町沿岸九漁港の漁師が会員です。世論に押された漁協 は建設拒否を決定。直後に原発反対の町長が当選し、建設は事実上ストップします。ただ、ここまで来るのは長い道のりでした。
アカのレッテルで分断
日高町で原発建設の話が持ち上がったのは一九六七年。関電はまず阿尾で計画。住民の反対で頓挫すると、小浦に持ちかけます。最初に動いたのは女性たちでした。
「男は黙って働いて、しゃべるのは女に任せたんやな」と振り返るのは「原発に反対する女の会」のメンバーで元教師の鈴木静枝さん(93)。今は阿尾港の見える高台の特別養護老人ホームに入居しています。
鈴木さんの反対の原点は戦争です。「人を殺していいと教育した。もう、騙されたないわ、お上の言うことは信用できへん、との思いがあった」と言います。
原発も突如、“お上”から。「『原発さえできれば豊かになれる』という、ありがたい話なので疑った」。直感でその危うさを見抜きました。
「難しいことは分からんが、お上の言うことは聞かんと」と推進派からは言われました。原発反対はお上に反対すること。「わたしらは『アカ』ということになってね」と笑います。
同町は関電とともに、建設を推進。反対だった住民も、関電の接待攻勢や就職斡旋で賛成に転じます。漁協も理事の大半は推進派に。親兄弟、親戚でさえ賛成 派と反対派に分かれ、漁船の進水式や結婚式にも呼ばないなど狭い町内が険悪なムードに包まれました。
阿尾港の漁師として建設に反対し、今は比井崎漁協組合長を務める初井敏信さん(63)は、「周囲の漁師が次々に切り崩されていく。本当に阻止できるのか、不安とのたたかいだった」と振り返ります。
立ち上がった周辺住民
一九八一年、関電は原発建設に必要な環境アセスメントの陸上調査を開始。後は漁協が海上調 査に同意すれば、建設が始まることになっていました。調査を巡り、漁協は何度も総会を開きます。理事会が受け入れ議案を提案しても、反対派の組合員が激し く抵抗して紛糾、総会は流会、散会を繰り返しました。
ぎりぎりの状況の中、一九八六年にチェルノブイリ原発事故が起きます。事故では原発から三〇キロ圏が立ち入り禁止区域に。この事故に危機感を深めた日高 町と周辺自治体(御坊市と八町)の住民が翌八七年、「日高原発反対30キロ圏内住民の会」を結成します。「原発は一自治体だけの問題ではない」との結成呼 びかけ文は、福島原発事故にも通じる先駆的な視点でした。
同会事務局長で元中学教師の橋本武人(たけんど)さん(御坊市)は「授業が終わってからビラを配り、学習会を開き、それこそ東奔西走の毎日だった」。
同会は建設反対の世論づくりに尽力。日高郡市で一七の住民の会を組織し、署名を集めました。日高町と隣接するすべての自治体(五市町)で、有権者の過半数が署名し、推進派を包囲しました。
「会ができる前は『建設を阻止できないのでは』という気持ちも。ところが、運動を始めると圧倒的に反対世論が強い。場さえ作れば住民は立ち上がると肌で感じた」と橋本さん。
医師31人が意見広告
激しいせめぎ合いが続く中、医師たちも立ち上がります。一九八八年三月、日高医師会(日高郡市)の医師三一人が、連名で新聞に意見広告「恐ろしい原発はいらない」(写真左)を出したのです。
日高町で唯一名前を連ねた古田医院の古田浩太郎院長(71)は「住民の健康を守る医師にとって、その対極にあるのが原発」と言います。
病院勤務医から一九七五年に開業した古田さん。「帰郷した時、息子と見た紀伊水道の夕日が忘れられない。この海を守りたくて反対した」。
住民の信頼が厚い医師の意見広告は、世論づくりの弾みに。橋本事務局長は「医師の意見広告は署名集めに大きな効果があった」と指摘します。
原発から福祉の町へ
反対世論が高まっても、一松町長は建設に固執しました。30キロ圏内住民の会は「町長を変えるしかない」と「新しい日高町をつくる会」を結成。同会は一九九〇年の町長選で「原発に頼らない町政」を掲げた志賀政憲さんを擁立、当選させます。
町議の大半は推進派。志賀さん(74)は議会対策で苦労しました。「建設に反対すれば国から交付金が来ない」と攻撃されましたが、周辺自治体に先駆け福 祉センターを造り、中学までの医療費無料化を実現。原発に代わり福祉の町づくりをすすめました。その結果、過疎化がすすむ県内では珍しく、日高町はここ二 〇年、人口が増えています。
紀伊水道は数少ない天然の高級魚クエで有名。同町はクエを観光資源化、観光客も大勢訪れるようになりました。前出の濱さんもクエ漁師です。
「今は近隣自治体や大阪からも感謝の電話が来る。在職中は悩んだが、判断は正しかった」と志賀前町長。
八期にわたり原発反対を貫いた一松輝夫町議(62)は「私が反対した一番大きな理由は、関電に田舎の良さを破壊されたこと。札束で頬を叩くような仕打ち への怒りだった」と言います。「どちらかと言えば、右翼なんだけどね」と笑う一松町議。「甘言に惑わされず原発を許さなかった地域を誇りに思う」。
隣市で核燃施設の計画
志賀さんを継ぎ、二〇〇二年から町長を務める中善夫さんも原発反対です。関電は建設をあき らめませんでしたが、二〇〇五年に国が小浦の「開発促進重要地点」(現在は重要電源促進地点)指定を解除、実質的に建設は不可能になりました。一九六七年 以来、約四〇年くすぶり続けた原発の火種は鎮火しました。
ただ、油断はできません。二〇〇三年、使用済み核燃料の中間貯蔵施設を日高町隣の御坊市に建設する計画が明らかに。30キロ圏内住民の会は「日高原発・ 核燃施設反対30キロ圏内住民の会」と名称を変え、活動を続けています。
古田さんらは「使用済み核燃料中間貯蔵施設建設に反対する医師の会」(深谷修平会長)を立ち上げました。日高医師会の会員九〇人に呼びかけたところ、六〇人が会の趣旨に賛同しました。
同会事務局長で龍神医院(美浜町)院長の龍神弘幸さん(58)は、「医療従事者の良心にかけて反対を貫く」と言います。龍神さんは民医連の和歌山生協病院を経て、一九九六年に開業。「核燃施設は今でこそストップしているが、全国に原発がある限り、いつ再燃するかわからない。火種を消すには、原発を止める しかない」。
原発で二分された町内も、月日が経ち修復されたかに見えます。福島原発事故で、反対運動の意義は明らかになりつつありますが、濱さんは「自分たちが正し かった、とは強調しない。逆に『もともと同じ漁師やないか』と、こちらから推進派だった人に声をかけている」と気を遣います。初井組合長は言います。「国 や関電が人間関係を壊したのは大きな罪。反省してほしい」。
日高原発建設を巡る動き
1967年 町長が阿尾に原発誘致表明。町議会が誘致決議
1968年 阿尾区及び比井崎漁協が反対決議
町長が原発誘致の白紙撤回を表明
1975年 関電が小浦での環境調査を町長に申し入れ
1978年 小浦区と比井崎漁協が環境調査受け入れを決議
1979年 スリーマイル島原発事故。町長は環境調査を凍結
1980年 町長が環境調査凍結を解除
日高町原発反対連絡協議会結成
1981年 関電が陸上調査開始
1984年 海上調査受け入れを巡り比井崎漁協総会が流会
1985年 比井崎漁協総会は紛糾の末、継続審議
1986年 チェルノブイリ原発事故
1987年 日高原発反対30キロ圏内住民の会結成
1988年 医師31人が新聞に意見広告を発表
比井崎漁協総会で海上調査の議案が廃案
1990年 比井崎漁協理事会が「原発にとりくまない」と決定
原発反対派の志賀政憲さんが町長当選(3期)
2002年 原発反対派の中善夫さんが町長当選(3期目)
2005年 国が開発促進重要地点の指定を解除
(民医連新聞 第1515号 2012年1月2日)
映画「シロウオ~原発立地を断念させた町」紹介
https://youtu.be/A6MZ7JLlfOI
小出裕章先生インタビュー動画~原発を問う
https://youtu.be/YdrC0H_UmqQ
映画「シロウオ」~原発立地を断念させた町~
http://www.kasako.com/eiga1.html
故郷を、自然を、仕事を、そして家族を守りたい――
原発反対運動を成功させた人々の証言ドキュメンタリー
迫害され続けた京都大学の原発研究者(熊取6人組)たち
危険性を訴えたら、監視・尾行された
(週刊現代)2011年04月30日
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2462
「原発の開発には胡散臭いところがあった。モノは必ず壊れる。でも東電など電力会社は、絶対に壊れないと本気で思っているように見えた。チェルノブイリ事故があったとき、日本では『ソ連の安全に対する意識が遅れていたのが原因だ』なんて言われたけど、日本のほうがよほどひどかったね」
落ち着いた口調で語るのは京都大学原子炉実験所の今中哲二助教(60歳)だ。
原発を推進してきた学者たちが「想定外」という言葉を繰り返すのとは対照的に、今日の福島第一原発のような大事故がいつか起きると警告を発し続けてきた学者グループがいる。
彼らはこれまで「異端の研究者」と見られ、テレビや新聞でもほとんど紹介されることがなかった。それどころか、学会では長く冷や飯を喰わされ、研究費や昇進でも明らかな差別を受けてきた。
遅きに失した感は否めないが、今回の事故で、そんな彼らにようやく注目が集まりつつある。原発関係者たちは、推進、批判の立場を超え、彼らのことを「熊取6人組」と呼んだ。
「熊取」とは、京都大学原子炉実験所の所在地である大阪府泉南郡熊取町に由来する。つまり、「6人組」はいずれも京都大学の原発研究者として一緒に働いた仲間である。
いまも同実験所に在籍しているのは冒頭の今中氏と、小出裕章氏(61歳)。二人とも肩書は助教。'01年から'03年に相次いで定年退職したのは、海老澤徹氏(72歳、助教授)、小林圭二氏(71歳、講師)、川野真治氏(69歳、助教授)。そして、1994年にがんで亡くなった瀬尾健氏(享年53、助手=現在の助教)。本誌は今回、存命中の5人すべてのメンバーから話を聞いた。
「すでに引退した身だから」と控えめな口調ながらも、川野氏はこう断じた。
「我々は今回のように一つの事象で原発全部がやられてしまうような事故があり得ると指摘していたけど、推進派の人々は何重にも防護しているから安全だと耳を貸さなかった。今はともかく起きている事態に対処するしかないけれど、いずれ責任ははっきりさせるべきでしょうね。これまでは事故があってもうやむやにしてきたわけですから」
原発の危険性を無視し、今回のような事態を招いた原発推進派の人々はいま、どんな思いで彼らの言葉を聞くのだろうか。
この「熊取6人組」を詳しく紹介する前に、なぜ、彼らが関係者の間で「異端の研究者」と見られ、ニックネームまで付けられる存在になったかを説明する。
研究費もつかない
原発研究者の世界は「原発ムラ」などと呼ばれ、基本的に原発推進者ばかりである。電力会社は研究者たちに共同研究や寄付講座といった名目で、資金援助する。その見返りに研究者たちは電力会社の意を汲んで原発の安全性を吹聴する。
原発を所管する経済産業省と文部科学省は、電力会社に許認可を与える代わりに、電力会社や数多ある原発・電力関連の財団法人などに天下りを送り込む。さらに、研究者たちは国の原子力関連委員を務め、官僚たちとともに原子力政策を推進していく。
簡単に言えば、原発ムラとは、潤沢な電力マネーを回し合うことでつながっている産・官・学の運命共同体なのである。テレビに出て、どう見ても安全とは思えない福島第一原発の状況を前に、しきりに「安全です」「人体に影響はありません」などと語る学者から、原子力委員会、原子力安全委員会、経産省外局の原子力安全・保安院、東京電力も、それぞれ立場は異なるものの同根だ。
経産省OBが語る。
「京大の原子炉実験所も、基本的には原発推進派の人物が多い。現在の原子力安全委員会でも、会見で話す機会が多い代谷誠治氏は、京大原子炉実験所の所長でした。ただ、京大は『熊取6人組』のように、反原発の立場から原発を研究する人も受け入れている。原発ムラの中心にいる東大には反原発の現役研究者は皆無です」
この経産省OBが言うように、原発ムラの頂点に立つのが東京大学大学院工学系研究科のOBたち。たとえば、原子力委員会委員長の近藤駿介氏、原子力安全委員会委員長の班目春樹氏は、いずれも同研究科OB。NHKの解説でおなじみの関村直人氏、さらに実質的に日本の原子力政策を決めている資源エネルギー庁原子力部会部会長の田中知氏は、同研究科のOBにして、現在は同研究科教授といった具合だ。
こうした原発ムラにあって、真正面から異を唱え、原発の危険性を叫び続けてきたのが「熊取6人組」なのである。反原発の立場で研究を続けていくことは楽なことではない。彼らのうち誰一人、教授になっていないという事実が、学内での微妙な立場を物語っている。現在、実験所には約80人の研究者がいるが、瀬尾氏が亡くなり、3人が定年を迎えたことで、反原発の立場なのは小出氏と今中氏の二人だけだ。小出氏が苦笑しながら言った。
「同僚から異端視されることはないけど、京大も国・文科省の傘下にある。その国が原発推進というのだから、傘下の研究所で国に楯突くのは好ましくないという事情はあるでしょうな。嫌がらせを受けたと感じたことはないけど。
私もかつては研究費をもらおうと文科省に申請したことがあるけど、審査がまったく通らない。なぜ通らないかは何とも言えませんが(笑)。ああいう研究費って、力を持った教授のお手盛りで決めるからね」
他のメンバーに「反原発」で不自由を感じたことはないかと尋ねたところ、次のようなエピソードが並んだ。
・メディア関係者の取材に同行し、原発関連企業を訪れたが、自分だけ門前払いを喰った。
・科学技術庁(当時)に実験装置設置の認可を得るべく折衝したが、反原発訴訟に関係していることがわかった途端に申請を受け付けてもらえなくなった。
・上司が会合で他大学の教授から「あの6人組はなんとかならんか」と言われた。
そして、出世について聞くと、「今の立場のほうが快適」「昇進できないのは覚悟していた」「気楽にやれるのが一番」などという答えが返ってきた。彼らの口調は淡々としていて、苦労を笑い飛ばすような雰囲気があった。ただ、実際には「ムラの掟」に逆らって生きていくには、相当の覚悟がいるに違いない。
ずっと助手のまま
立命館大学特命教授の安斎育郎氏は、原発ムラのエリートコースである東大大学院工学系研究科の博士課程を修了した後、反原発の立場で東大医学部に残ったが、助手のまま17年間を過ごした経歴を持つ。安斎氏の証言。
「原発推進派と批判派の溝は深いと思います。原発に批判的な発言をする反体制派だと見なされると、学内でも様々なアカデミックハラスメントを受けた。講演に行けば、電力会社の人間が尾行につく。同じ電車に乗ってくるし、だいたいいつも同じ人間だからわかるんです。講演内容を録音して、私の主任教授などに届ける係の人までいましたから。そうなると研究室でも安斎とは口を利くなということになる。京大の小出さんや今中さんたちのグループも同じような経験をしているはずです。
僕は電力会社から留学を勧められたこともありました。『3年間アメリカに行ってくれ。全部おカネは出すから』って。それほど目障りだったんでしょう。さすがに命の危険を感じることはなかったけれど、反原発で生きていくというのは、そういうことなんです」
「6人組」のメンバーと取材や反原発イベントを通じて交流のあるジャーナリストもこう語る。
「イベント会場に行くと、なかに明らかに雰囲気の違う黒服の人がいたりすることは頻繁にあります。小出さんや今中さんたちはもう慣れっこなのか、現在進行形だから話せないのかはわかりませんが」
原発ムラからの圧力は彼らのような研究者たちだけでなく、メディアにも加えられるという。たとえば、'08年10月、大阪の毎日放送が「6人組」を追ったドキュメンタリー番組を放送した。その後の騒動について、民放労連の関係者が言う。
「番組放送後、関西電力からは『反対派の意見ばかり取り上げるのは公正ではない』という申し入れがあり、局側は『番組の最後で推進派の教授と討論する場面を入れている』と反論したそうですが、関電は納得しなかったのでしょう。その後、しばらくCMを出さなかったと聞いています」
この後、毎日放送では、関西電力の社員を講師として、原発の安全性についての「勉強会」も開かれたという。関西電力サイドは、この件について「放送された番組の内容を受けてCMの出広量を減らした事実はない。講師派遣についても、先方の要請で行うことはあるが、こちらがねじ込んだりしたという事実はない」と否定する。
いずれにせよ、今回の事故が発生するまで原発ムラの産・官・学連合は利権を分け合い、好き放題やって「熊取6人組」など反対派の研究者を虐げてきた。
何言ってるの? 関村教授
しかし、いまや原発ムラはバラバラだ。彼らがムラを守るために主張してきた「安全神話」は、誰の目から見ても、完全に崩壊した。
「6人組」の一人、海老澤氏はNHKの解説で一躍有名人となった「あの人」の発言にこう苦言を呈した。
「あまりテレビは見ないんですが、3月12日に枝野(幸男)官房長官が記者会見で『1号機の水位が下がった』と言い、重大な事態だという認識を示した。ところが、その後のNHKで東大の関村教授が出てきて、『原子炉は停止した。冷却されているので安全は確保できる』というようなことをおっしゃった。唖然としましたよ。
炉の冷却ができなくなってから100分くらい経つと水位が低下しはじめ、その後20分位で燃料棒を覆う被覆管が溶けて燃料が顔を出す。やがて炉心溶融に向かうというのはスリーマイルの事故報告書を見るとはっきりと書いてある。研究者なら当然知っているはずなんです。関村さんの話を聞いて、『この段階で何を言っているのか』と思いました。隣のNHKの記者もさすがに怪訝な表情をしているように見えましたね」
本誌は関村教授にもインタビューを申し込んだが、多忙を理由に断られてしまった。
前原子力委員会委員長代理で、別項で紹介した緊急建言の16人の起草者の一人である田中俊一氏が語る。
「いまの状況で『安全だ』という学者は曲学阿世の人ですよ。NHKにしても『安全だ』と繰り返すから、取材に来たときに『そんなに安全だと言うなら、あなた方は(高い放射線量が検出された)福島県の飯舘村に引っ越せますか』と聞いたんですよ。『できません』と答えていた」
田中氏のように原発を推進してきた研究者たちでさえ、いまの原発ムラの状況には違和感を覚えているのだろう。世間も原発ムラの人々の発言の胡散臭さに気付き始めている。
対照的に、これまで「6人組」の言い分をほとんど取り上げてこなかった朝日新聞も、原発事故以降、小出氏や今中氏の分析を掲載するようになった。それでも、彼らが原発の危険性を訴え続けていく姿勢は変わらない。
「照明はほとんど使わないんですよ。夜でもね。エアコンももちろんなし。パソコンの画面が明るいから、仕事には支障がない」
そう語る小出氏には仕事をしながらの話でもよければ、ということで京大原子炉実験所研究室で話を聞いた。午前10時なのに薄暗い。
「東北電力が女川に原発を作るというのを聞いて、本当に原発が安全なら、なんで電気を一番使う仙台の近くに建てないのかと思ってね。それでいろいろ調べたら、原発はもともと危険を内包していて、都会では引き受けられないから、わざわざ過疎地に作るんだという結論に達したわけ。そうなったら、選択は一つ。反対するしかないと」
福島県飯舘村の放射線量調査から戻ったばかりの今中氏にも、実験所の研究室で向かい合った。
「僕は明確に反原発というわけでもない。東京の人が東京湾に原発を作ろうというなら、反対はしないでしょう。
それから、6人組という呼び方は嫌いなんです。同じ原子力安全研究グループでいまも活動していますが、思想信条だって違う。ただ、一緒に研究している仲間だと認識してます」
悲しき御用学者たち
もちろん、彼らはそれぞれに専門を持ち、独自に活動を進めている。それでも、原発ムラに安住し、いまだに根拠なく安全だと繰り返す人々に辛辣なのは変わらない。
「みんなおかしくなっているんじゃないか。ただちに健康に影響がありませんというけれど、それは煙草を100本吸ってもただちに影響がないというのと一緒ですよ。基本的に放射線の影響には急性障害と晩発性障害(被曝後、何十年と経ってから影響が出てくる障害)がある。だから、100ミリシーベルトの放射線を浴びても、すぐに死なないというのは正しい。ただ、晩発性障害をどう考えるのか。それをまったく抜きにして専門家が解説している」(今中氏)
「最近の学者には、国の研究機関から大学に天下ってきた人も少なくない。そういう人は、国の代弁しかしない。原子力というのは巨額のカネがかかる分野で、国の関与がなければ成立しません。だから、この世界でメシを食おうと思ったら、御用学者になるのは必然とも言えます。一般の方は、学者だからそれぞれの考えで発言していると思うかもしれませんが、原子力分野はそうではないんです。
それと原子力安全委員会は何をしているのか。委員長の班目さんはすっかり後ろに引っ込んでしまった。彼には無理だったということでしょう」(小林氏)
「推進派は頭を丸めろということですよ。これまで主張してきたことをどう思っているのか、表明してほしい。何人か謝罪した人もいるみたいだけど、原子力委員会の近藤駿介委員長みたいに、謝罪もせず逃れようとする人もいる。みっともないね。原子力安全委員会にしたって、こんなときこそ仕事をしなきゃならんのに、何してるのか全然見えてこない」(小出氏)
最後に、今後の福島第一原発についての見通しを小出氏に聞いた。小出氏は、
「うまくいっても、安全と言える状態になるまでは最短で年単位。数ヵ月では無理でしょう」
と答えた。
---小出先生のところに「原発をどうすればいいか」という相談はないんですか?
「ありませんねえ。私が答えるにしても、原発をやめなさいとしか言えないし、意味がない。原発を生き延びさせるための提言なんてないんです」
照明が消された薄暗い研究室で、小出氏はきっぱりとそう言い切った。
不埒(ふらち)な悪に「不屈」で応える!( *`ω´)
戦場近づく自衛隊 いま、隊員の胸中は?
(東京新聞【こちら特報部】)2015年4月8日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015040802000167.html
政府は連休明けにも、他国軍を後方支援する「恒久法」法案や「国連平和維持活動(PKO)協力法」など安保関連法の改正案を閣議決定する。各法案が成立すれば、治安維持や駆け付け警護といった危険な任務に道が開かれ、他国の戦争を担う態勢も整う。政府与党での立法作業が進む中、その主人公たる自衛官らの声を聞くことはまれだ。一部の隊員たちが匿名で、胸中を語ってくれた。
(沢田千秋、田原牧、林啓太)
戦争想像してません
専守防衛考えたことない
下士官である海上自衛隊の二十代の海曹は高校卒業後、十八歳で入隊した。
入隊の動機は「スーツ着たくなかったし、資格とれるって聞いたから」。その後、「身をなげうってでも任務に専念できるか、みたいな誓約書に署名させられた」と振り返る。
「でも、十八歳で戦争なんて想像してない。学校・部活、バイト、恋愛とかで忙しいし。(無料通信アプリの)ライン返すのも大変で。新聞なんか見ないし、専守防衛とか安保とか考えたこともなかった」
周囲も同様だった。頭髪が長く、金髪のホスト風の合格者二人は「筆記試験は名前書いただけで入ってやったわ」と豪語。ただ、このうち一人は丸刈りがイヤで入隊を辞退した。
入隊から数年間は「死ぬほどつらかった」と話す。四六時中、揺れる船の中でしごかれ、上官に「ゴミ」とののしられ、何度も失神した。「これ以上つらいことはないと思えた」
だが、次第に責任のある仕事を任されるようになった。「最初は体つくって金ためて資格とったら、辞めようと思ってたけど、いまは重宝されているから、当分は辞めないかな」
隊内では「国の動きに興味がない人が多い。警察官や消防士は普段から市民と触れ合う機会が多いから自覚のある人も多いだろうけど、自衛隊は外の世界を知らないから、戦争するなんて意識も希薄」と語る。
安保法制の整備については「賛成」と言う。「アフガニスタンやイラクに行った隊員はホネがある。一緒にがんぱりたいと思える人たち。自衛隊はもっと緊張感と責任感を持って仕事を
するべきでしよ」
戦死なら集団除隊
3分の1も残らないよ
ただ、「『戦争になったら辞める』つて言う人はけっこういる」と明かす。
「海外出た自衛官が死んだりしたら、三分の一も残らないんじゃない? 楽だから自衛官やってる人はみんな辞めちゃうと思う」
隊員の意識の低さについては「まったく思想教育してないから。余計なことを考えないよう教えないのかなって思うぐらい」。
自衛隊を「わが軍」と表した安倍首相については「民主党の時よりも、自衛隊が大事にされてるって思える」と評価する。その首相が改正を目指す憲法九条をどう考えているのか。
「九条はすばらしいと言う隊外の友だちはいる。でも、僕の意見が隊の意見になるから、そういう話を外部にするのは禁じられている」と前置きしつつ、「専
守防衛でも、たくさん武器を持つ自衛隊は既に九条に反している。九条はすでに現実に則していない。僕らの仕事の否定になりかねない」と改憲に前向きだ。
海外派遣の指令があったらどうするか。「危険でも行かなきゃいけない。仕事に対する誇りを持ちたい」
危険増すのに自覚ない
防弾チョッキ着て射撃訓練
三十代の陸自一尉(旧軍では大尉)は「戦争に行くなんて正直、考えていなかった」と打ち明ける。
大学卒業後、三尉以上の幹部自衛官を養成する「一般幹部候補生」の試験に合格、入隊した。「自衛隊でしか知り得ない国際情勢について見聞を広められる、厳しい環境で心身を鍛えられると漠然と考えた」
安保法制をめぐる動きについては「あれこれ変われば、組織体制や装備品の変更業務で忙しくなるんだろうな、と感じるくらい。海外の戦闘で自分や同僚が命を落とすかもしれないというところまでは、想像力が至らない」と語る。
ただ、漠然とした不安を感じなくはない。「時の政権の解釈次第で恣意(しい)的に運用されてしまう可能性はあるだろう。後方支援が前線と一体化しているというのは常識。安全な場所はない」と危ぶむ。
訓練内容も実戦を意識したものに変わりつつあるという。「射撃訓練はここ一ー二年、防弾チョッキを着てやるという決まりになった。戦場と同じ条件に慣れさせる狙いがある」
隊内の秘密保全が強まって、息苦しさを感じることもある。「最近になって、携帯電話の通話記録や海外の渡航記録を詳しく調べられるようになった。アジアの国に無断で渡航して処分を受けた人もいる。おそらく、個人的な旅行だったとは思うのだけど」
特に「フェイスブックやツイッターなどは、やらないように、という強い指導がある」と明かす。「これらによる秘密漏えいで処分される隊員は結構いる。情報保全隊などがネットを監視しているのだろう」
総じて安保法制をめぐる情勢について、曹長以下の下工官や一兵卒の隊員は関心が薄いという。
一尉は「安保関連の新書などを読んで勉強するのは百人のうち数人。酒やギャンブルとかの方が関心が強い。難しいことは考えていない」と苦笑する。
ただ、安倍首相の「わが軍」発言には上級幹部は敏感に反応していたという。「首相の発言があった直後の朝礼で、幹部の上司が『自衛隊を評価していただいている』といった趣旨の話をしていた」と漏らす。
いま首相に直接、もの言えるとしたら何を訴えたいのか。「首相の判断で隊員の血が流れる。安全保障のリアルなところを、しっかり考えていただきたい」
戦地拒む隊員想定軍法会議も復活?
ベテランの空自幹部は「自衛隊が自ら戦場に就くことはないと勧誘され、自衛隊に入った。専守防衛の志はあったが、こんな時代が訪れるとは思いもしなかつた」とため息をついた。
「客観的に見れば、自衛官の危険は格段に増す。ただ、問題は一般の隊員にその自覚がないことだ。政治の話は口にしないし、そうした教育もしていない」
この幹部は「個人的な感想」と断った上で「意図的にそうした教育を避けているのでは」といぶかる。
「だから、若い隊員にはこのまま、自衛隊にいてよいのかという迷いもない。ただ、いざ危険な任務を命じられれば、絶対行かないだろう。誰かが死傷するような前例ができた後は、集団で辞めるような事態も生まれるのではないか」
だが、この幹部は政府や自衛隊の最高幹部はそうした事態を想定しているとみる。自民党の石破茂幹事長(当時)が一昨年四月に発言した「軍事法廷(軍法会議)」による規律維持の想定も、その一環とみる。
「やがて、軍法会議や憲兵隊の復活という話も出てくるだろう。ただ、約七年で合格しないと除隊させられる三曹への昇任試験の倍率が最近は増している。不景気で、大卒や大学院卒の人たちも入隊するためだ。政府には辞める人間がいても補充できる、という算段があるのかもしれない」
2015/04/23
そもそも新・安保法制は 自衛隊員の “戦死” を想定しているのだろうか?
https://youtu.be/BeNyf-iPOhA
安倍壊憲政権に立ち向かう
”戦争はごめん”心の底からの決意
いまこそ憲法の初心に立って
憲法学者 森英樹さん
(しんぶん赤旗)焦点・論点 2015年5月3日
68回目の憲法記念日にあたり、憲法をめぐる状況について、憲法学者の森英樹さんに聞きました。
(佐藤高志、中祖寅一)
4月27日に日米新ガイドライン(軍事協力指針)を政府間合意し、日米が世界中で切れ目のない軍事協力を進めることが確認され、これと並行して与党幹部内では大筋合意された「戦争立法」の法案化作業に日本政府は正式に突入しました。
この容易ならざる事態の中で迎える今年の憲法記念日は、例年と質的レベルを異にするといわざるを得ません。「戦争立法」=壊憲の先に、文字通りの改憲を公言する安倍政権のもと、それこそ「壊憲から改憲へ」という「切れ目のない」憲法敵視策のただなかで迎えることになるからです。
戦争への道が焦点に
深刻なめぐり合わせ
しかも、戦争への道が、あろうことか「戦後70年」の今年の政治的焦点になる深刻なめぐり合わせです。
安倍首相は今でも自身のホームページで、「憲法を頂点とした行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的枠組み」を「戦後レジーム」と呼び、そこからの「脱却」を叫び、「脱却を成し遂げるためには憲法改正が不可欠」とほえ続けています。憲法が命じた尊重擁護義務違反にほかなりません。
政府は昨年7月の「閣議決定」で、長年、「憲法上許されない」としてきた集団的自衛権の行使について、その限定を破り容認に転じました。
とんでもないのは、それだけではありません。これまで武力行使になるとしてきた「戦闘地域」での「後方支援」に、自衛隊が踏み込みます。さらに「戦闘現場ではやらない」という新
しい地域制限にも「例外」を設け、ここで「捜索・救助」活動も行うと言い出しています。これは昨年の「閣議決定」を早くも「乗り越え」るものです。
明文改憲がなかなかできない中で、憲法9条と国民の運動が、自衛隊のあり方や、活動にさまざまな限定を押し付けてきました。
いま安倍首相が明文改憲を迂回しつつ、そうした「限定」を次々と壊す勳きの中で、私たちの「批判・対抗の基軸」をどこに置くかが重要です。
ここで私たちは憲法の初心に立ち、戦争と武力行使、武力による威嚇と軍事力の保持を根底から否定する構えに立つことが必要だと思うのです。その初心こそが政府の動きに「限定」をもたらしてきた根源だからです。
正しいことぐらい
強いものはない
憲法9条の根底にあるのは、戦争に明け暮れた国民の被害体験と、アジア諸国民への深刻な加害への反省から、もう戦争はごめんだという心の底からの決意にほかなりません。憲法の制定過程には紆余曲折がありますが、この9条を受け取った国民は「これでもう殺し合うことはない」と心底から安堵したのです。9条はすべての「戦争、武力行使、武力による威嚇」を「永久に放棄」し、そのためにすべての「戦力」の不保持と交戦権の否認を決めています。
どう読んでも「丸腰でいこう」という高貴な決意です。9条制定当時から「丸腰ではどうも」という懸念の声はありました。
しかし当時の、自民党の先輩たちによる政府は「みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」と説いていました(文部省『あたらしい憲法のはなし』1947年)。
これがぐらつくのは50年の警察予備隊設置からです。この再軍備が54年の自衛隊設置に及ぶや、政府は、わずか7年前に「正しいこと」と断言した見地を捨てて、憲法を変えようとしました。しかし国民の反撃にあって55年総選挙でも56年参院選でも、護憲の声が両院ともに3分の1を超える議席として結実し、改憲は失敗します。すると今度は解釈を変えて「必要最小限の個別的自衛権」保持・行使なら憲法に違反しない、と言い始めました。
いま、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を合憲にしようとする「解釈改憲」が問題になっていますが、実はもう前科があるのです。ただ、9条があり、「正しいこと」と言い切った最初の解釈があるので、これを気にして、せめて海外に出て戦争することはしない、という「専守防衛」の「歯止め」を維持してきました。
ここを崩そうとするのが今の解釈改憲です。その意味では、1月末に急逝された「九条の会」呼びかけ人で憲法研究者の奥平康弘さんが、生前最後の対談で指摘したように「九条は自衛隊設置を許した『個別的自衛権』で歪められ、『集団的自衛権』で無くされようとしている」(『季論21』26号での堀尾輝久氏との対談)のです。
安倍首相は、9条を壊すのに「積極的平和主義」なるものを持ち出しています。平和学では、戦争のないことを消極的平和と呼び、戦争の原因になる貧困や差別や搾取などの構造的暴力をなくした状態を「積極的平和(positive peace)」と呼んできました。ところが、言葉は同じでも安倍さんの「積極的平和主義」はまるで違います。安倍流[積極的平和主義]は、対外的には首相の米議会演説でもそうだったように「Proactive Contribution to Peace」と発信しています
ので、訳せば「平和のために先手を打って貢献すること」と言ったほどの意味合いですが、これは、湾岸戦争(91年)あたりから盛んに言われた「一国平和主義」批判のなかから登場した軍事的「国際貢献」の発想です。
ここには構造的平和という発想がありません。国際紛争は何らかの構造的理由で起こるのですから、それをひたすら軍事力で「解決」しようとしても真の解決にはなりません。憲法前文の言うように、「全世界の国民が恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」という構造的平和をつくりだすことこそが「積極的」な紛争解決の道なのです。
外交をはじめ努力を
9条が要求している
こうした姿勢に対しては、最近の北朝鮮の核開発の動きや中国の軍備拡大など東アジアの情勢の展開の中で、再び「理想に過ぎる」という批判が絶えないのも事実です。
これに対しては、昨年の本紙(9月18日付)で、憲法学界のオピニオンリーダーである樋口陽一さんが語っていた、「攻められることはない、絶対に安全だという論証はできません。絶対安全という論証ができないことを国是とし、それほどの決心を求めたのが9条」であり、「他国から攻められることのない、外交をはじめその前提をみたす努力を要求しているのが9条」という視点が、いま、とりわけて必要でしょう。9条が選び取った、重いけれども高貴な、大いなる努力を求める道です。
アフガン、イラク戦争に見られた、米国による単独行動主義は大破綻を遂げました。「武力で平和はつくれない」ことに、現実の共感が広がっていることも事実です。IS問題はじめ、困難もありますが、その中で、9条が選び取った大いなる努力の道を進むことに大きな確信を持つことが大事なのです。
国民より米国大事の政府はダメだ
(日刊ゲンダイ)2015年5月13日
首相や大臣が会談をするごとに沖縄知事の言い分の正義正統がますます明確になり、日本政府の権柄尽く、理不尽が国民の目に赤裸々になる皮肉、天網恢々疎にして漏らさずということか
マトモな国民はまさか信じはしないだろうが、在日に対するヘイトスピーチさながら、翁長知事に対する誹謗中傷悪口雑言があふれ出したイヤな国情もある
沖縄知事への支持支援が急速に広がっている
安倍政権がゴリ押しする米軍普天間基地の辺野古移設は、新展開を迎えるのか。沖縄県の翁長知事が、米政府に計画断念を直接求めるため、今月27日から訪米すると発表。知事はきのう(11日)、沖縄県庁で会見し、「これまでも安倍総理らに沖縄側の気持ちを伝えてきた。アメリカでも、辺野古に基地は造らせない、できないということを前提に物事を考えてもらいたいと、生の声でしっかり伝えたい」と話した。ワシントンでは、国務・国防両省の次官補との会談を求めているほか、アメリカ議会の議員やシンクタンク研究者との会談も調整中だという。
沖縄の基地移設問題を取材し続けているジャーナリストの横田一氏が言う。「米国の世論に直接訴えかければ、風向きが変わるかもしれません。米国内でも基地問題が正確に報道されてきたとは言い難く、辺野古移設に地元が反対しているとは思っていない米国民は少なくない。安倍政権が米国に隷従し、基地運用について何も言えないのなら、辺野古移設は米国政府と沖縄県民の閧の問題ともいえる。日本政府が民主主義を踏みにじって移設を強行しようとしていることを訴えれば、国際的な批判が殺到し、安倍政権は身動きが取れなくなる可能性もあります」
安倍首相が沖縄の民意を無視し、4月の訪米で辺野古移設を勝手にオバマ大統領に確約してきたことで、政府と沖縄の溝はますます深まっている。9日には、中谷防衛相が就任後初めて沖縄を訪問し、翁長知事と会談したが、双方の主張は平行線のままだ。
翁長知事は、中谷が3月の記者会見で、知事との会談について「対立が深くなるとしたら会っても意味がない」「もう少し日本の安全保障などの点を踏まえて考えてほしい」などと言っていたことを「高飛車な発言に聞こえる」と批判。
「会えなかったことが、さらに政府と沖縄の溝を深くした」と指摘した。正論である。
さらに翁長知事は、「2年前に来県した自民党議員か『本土が嫌だと言っているのだから沖縄か受けるのは当たり前だ』と発言したことに絶望感を覚えた」と話し、政府・自民党の居丈高を嘆いていた。
「県民に寄り添って」は口先だけ 《゚Д゚》
安倍政権の閣僚は囗では「県民に寄り添ってご理解いただけるよう努力したい」と言うのだが、実際にやっていることは正反対で、県民の声に耳を傾けようともしない。常に上から目線で、政府が決めたことには黙って従えという態度で知事との会談は「努力」のアリバイづくりでしかない。実際、中谷の沖縄訪問について、政府高官はオフレコで「あれは儀式だから」などとフザけたことを言っ。ていた。
そういう傲慢な態度が透けて見えるから、首相や大臣と会談を重ねるごとに、翁長知事サイドの正義が明確になる。聞く耳を持だない政府の権柄尽く、沖縄に負担を押し付ける理不尽が赤裸々になってくる。だから、どの世論調査でも、辺野古への新基地建設については「反対」が「賛成」を上回っている。基地問題について、これだけ国民の関心が高まっているのは、県外移設が取り沙汰された鳩山政権以来だろう。
「翁長知事か政府の圧力にもブレない姿勢を貫いていることで、全国からの支援が拡大しています。移設計画に反対する県議会の与党会派が中心となって設けた『辺野古基金』には、先月の設立から約1ヵ月で1億4000万円余りの寄付が集まった。銀行振り込みの約7割が本土からの入金だそうです。これは、国民の声を無視して米国に隷属し、基地移設をゴリ押しする安倍政権の横暴を食い止めたいと願う民意が集結した結果です」
(横田一氏=前出)
辺野古基金の共同代表には、映画監督の宮崎駿氏やジャーナリストの鳥越俊太郎氏らか就任する。宮崎氏は「沖縄がそういう覚悟をするなら、支援するしかないと思いました」とコメントを出した。集まった寄付金は、米国メディアに意見広告を出す費用などに充てるという。世界的にも著名な宮崎氏の共同代表就任飃辺野古問題への国際的な関心を高めそうだ。
いざとなれば「わが軍」の砲口を自国民に向ける倒錯政権
急速に広がる沖縄知事への支持に焦った政府は、ロコツな利益誘導策を進めている。普天間基
地の跡地へのユニバーサルースタジオ・ジャパン誘致を「政府として支援」と菅官房長官が明言。沖縄を訪れた中谷防衛相は、名護市の辺野古と、隣接する豊原、久志の3地区
の区長と面会して、地元振興策を協議する懇談会を設置すると表明した。今月末に初会合を開くという。懇談会を通じて、移殷容認の地元住民と協議を進め、懐柔の足掛かりにする算段である。
同時に、翁長知事に対するネガティブキャンペーンもあふれ出した。菅との会談について、読売新聞は「疑問なのは、翁長知事が激しい政府批判に終始したことだ」と翁長知事の態度を批判した。産経新聞は「敵意むき出し」と書いていた。さらには、「翁長知事は娘が中国人と結婚していて、中国寄りで反日思想を持った危険人物だ」という噂が、自民党議員や政治記者の間で一気に広まった。それを報じた週刊誌もある。「官邸筋からのリーク」(大手紙記者)とされるが、これに反応したネトウヨによる翁長知事への誹謗中傷はすさまじいものがある。マトモな国民はまさかうのみにはしないだろうが、「在日」だの「売国」だの、ヘイトスピーチさながらだ。
「本人に確認しましたが、娘さんが中国人と結婚しているというのは、まったくのデマでした。知事の主張は理路整然としていて、沖縄の民意を背負って体を張っている。それに対し、政府は『なぜ辺野古か』という理由も合理性も明確に説明できない。ただひたすら『辺野古が唯一の解決策』と言うだけで、代替案を提示することもできない。翁長知事は保守本流の政治家として、格の違いを見せつけています。議論では歯が立だないので、官邸はメディアを使って情報工作を仕掛けているのでしょうが、それに協力するメディアも情けない。民主主義はメディアから腐るといいますが、まさに今の日本はそういう危機的状況にあります」(沖縄国際大教授の前泊博盛氏)
「第2の安保闘争」の絶望シナリオ
クリントン政権で普天聞飛行場返還の日米合意を主導したジョセフ・ナイ元国防次官補も「辺野古移設は長期的には解決策にならない」と言つているし、アーミテージ元国務副長官も「日本政府が別の案を持ってくれば米国は耳を傾ける」と言っている。長年、基地問題を見てきた米国の当事者は、辺野古移設は無理だと分かっているのだ。しかし、安倍はお構いなしで移設を強行する。それがオバマ大統領との約束だからだ。米国への忠誠心が自分の政治生命なのである。
これは第2の安保闘争と言うべきものだ。民意を無視して強行すれば、沖縄に血の雨が降るのは必至だが、それでも大マスコミは安倍政権を擁護し、沖縄は捨て石にされてしまうのだろう。「強固な日米同盟」〔中国の脅威に対する抑止力〕といった言葉が(バを利かせ、「強い日本」を夢見て軍事強化に走り、国民の右傾化はますます進む。そんな絶望のシナリオか見えてくる。
「安倍首相は第1次政権の時に辺野古の環境現況調査に住民か反対した際、海上自衛隊の掃海母艦を出そうとして物議をかもしました。今回も、いざとなれば自衛隊を使うことに決めている。市民の反対を弾圧するために自衛隊を使うなんて、安保闘争の時に祖父の岸信介でさえできなかったことです。それを安倍首相は平気でやる。他国の軍隊の基地をつくるために、自国民に砲口を向けようというのです」( ̄^ ̄)凸
(前泊博盛氏=前出)
この倒錯ぶりには眩暈(めまい)がしてくる。国民より米国が大事という政府で本当にいいのか。沖縄の基地問題は、この国の民主主義の根幹をわれわれに問いかけている。
<不屈の詩 沖縄編> 辺野古の抗議船「不屈」船長
(東京新聞【こちら特報部】)2015年5月3日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015050302000132.html
圧倒的な目力(めぢから)を備えた男が出迎える。那覇市の「不屈館」。沖縄の米軍基地反対闘争や本土復帰運動に尽力した瀬長亀次郎の遺影だ。瀬長が好んだ言葉が館名の「不屈」である。
その不屈を名乗る船が、沖縄県名護市辺野古の新基地反対闘争の列に加わっている。船長は、牧師の金井創(はじめ)(60)だ。
皆が立ち上がるきっかけに
昨年八月、沖縄キリスト教学院大の平和研究所が抗議船購入の募金を呼び掛けた。小型船舶の免許を持つ金井が船長を務める予定だった。約一ヵ月で五百万円ほどが寄せられた。
「フェイスブックに募金のことを書くと、五分後に『振り込んだ』と連絡がきた。『募金を始めてくれてありがとう』とも言われた。それほど反対の意思を示したい人が多かった」
船名を考えていた昨年九月上旬、新基地に反対する稲嶺進名護市長と翁長雄志那覇市長(当時)の街頭演説を聞いた。
「革新と保守の政治家が並んで演説をしている。こんなことがあるのか」。感動に包まれた金井の心に「弾圧は抵抗を呼ぶ 抵抗は友を呼ぶ」との瀬長の言葉が浮かんだ。瀬長と言えぱ「不屈」だ。「『不屈』。これこそ新しい船の名前にふさわしい」
瀬長の次女で不屈館館長の内村千尋(七〇)は、「不屈」の使用を快諾した。
「沖縄が永久に基地の街になるとの危機感が広がっている。瀬長なら『立ち上がろう』と訴えただろう」。内村は瀬長の時代と今を重ね合わせる。
進水式は昨年十一月。名前に「号」も「丸」も付けなかった。「海上保安庁がこちらを呼ぶ時『不屈の皆さん』と言わせたかった」
金井は最近、危機一髪の事故に見舞われた。四月六日午後二時四十分ごろ。
「不屈」が海保の船に追突されたのだ。
新基地建設工事のために設けられた「臨時制限区域」に入った市民の抗議カヌーが海保に拘束された。
「不屈」は現場に急行したが、途中で海保が停船を要求。減速したところ、海保の船が左舷後方に乗り上げるようにぶつかった。
第十一管区海上保安本部は「ボートを横付けしようとした。動揺(揺れ)の中で接触した」(広報担当)と説明する。
「接触」にしては損傷は激しい。操舵(操舵)室の鉄枠扉はひしゃげ、乗組員は砕けた
ガラスを浴びた。金井は「激しい衝撃だった。当たりどころがずれていたら、操舵室ごと海に持って行かれたかも」と振り返る。
「不屈」は修理中だ。それでも金井は別の船で海に出続けている。
「日々目立った成果が上がるわけでもないが、私たちは現場に居続ける。新基地に反対する人たちの象徴として皆が立ち上がるきっかけになるために」
黙っているのは無言の賛同
金井は、沖縄とは真逆の北海道出身だ。牧師として長く東京都内で活動してきた。辺野古との縁は一九九七年にさかのぽる。日米特別行動委員会(SACO)は九六年に米軍普天間飛行場の返還で合意。翌九七年、代替施設の建設候補地と目された辺野古沖合で調査が本格化した。
「反対する地元住民の話を聞いて、何か関わりを持ちたいと思った」。金井は、時間を見つけては辺野古を訪れ、抗議の座り込みに参加した。
二〇〇六年に沖縄県南城市の教会に赴任すると、「県民、当事者として」運動に関わった。しかも最前線の海上で体を張る、最初はカヌー、やがて抗議船で乗り出していった。
「宗教者は課題のあるところに行き、課題に取り組んでいる人とともにあるべきだと考えている。遠くで『ありがたい話』をしているのではなく、現場に身を置きたい」
そして「新基地に反対するのは命の問題だからだ」と力説するのだ。
「沖縄の米軍基地は住民にとって事故や騒音をもたらすだけではない。出撃した米軍がベトナムや中東で罪のない住民の命を奪った。中東での戦闘後、帰還した米兵の自殺も多い。新基地ができたら、さらに命が失われる。これ以上だれも殺してはならないし、死んではならない。黙っているのは無言の賛同だ」
時には自らも、臨時制限区域に入る。日米地位協定の実施に伴う刑事特別法(刑特法)で処罰される可能性もある。
「米軍の活動を妨害する目的での立ち入りを禁じるのが刑特法の趣旨だ。今回の臨時制限区域は工事のために広く設けられた。ここでの抗議行動に刑特法を適用するのは無理がある。私たちは、新基地を造らせないという正義のために制限区域にも入る」
とはいえ、海上保安官へのまなざしはやわらかい。
「中には荒っぽい人もいる。でも相手も人間だ。毎日顔を合わせているうちに、言葉を交わせるようになる。屈することができないのは、民意を無視して新基地建設を進める政府の大きな力だ」
船長仲間からの信頼は絶大だ。相馬由里(三七)は「頼もしい兄貴」と呼ぶ。「普段は穏やか。事があれば前面に立ってくれる」
名護市でエコツアーガイドの経験もある仲宗根和成(三六)も尊敬と感謝の言葉を贈る。「これまでの運動があったからこそ、自然が残された。その種をわれわれ地元の若手が引き継ぎ、花を咲かせたい」
安倍政権は、夏にも辺野古埋め立て工事に着手する構えだ。金井は、瀬長の不屈の精神にあらためて思いをいたす。
「瀬長は『一人が叫べば五十メートル先まで届く。沖縄の人民が声をそろえて叫べばワシントン政府を動かすことができる』と言った。昨年の知事選や衆院選で、保革の壁を乗り越えて辺野古に反対する『オール沖縄』が実現し、勝利した。この動きを『オール日本』に広げたい。そのためにも、圧力には屈しない」
(篠ケ瀬祐司、文中敬称略)
瀬長亀次郎(せなが・かめじろう)1907~2001年。沖縄県豊見城(とみぐすく)村(現・市)生まれ。54年に沖縄人民党弾圧事件で懲役2年。出獄後の56年那覇市長選で当選するが、翌年に米軍布令により失職した。70年に戦後初の国政参加の衆院選で初当選し、7期連続当選。沖縄人民党委員長、共産党副委員長を歴任した。2013年に瀬長と民衆の戦いを伝える「不屈館」が那覇市内に開館した。
1954年9月、アメリカ軍の沖縄人民党弾圧で逮捕された瀬長亀次郎は、1年8ヶ月の獄中闘争のすえ出獄を勝ち取った。
小出裕章先生:未来の子供達から、福島の事故が起きた後、どうやって生きたんだというふうに問われる
公開録音「リスナーとパーソナリティ 明日の集い」
オンエア
(ラジオフォーラム#123)
https://youtu.be/fqmZdx-BANQ?t=26m2s
~第123回小出裕章ジャーナル
【東京での公開収録より】「まず一番には原子力を始めた一番の理由はエネルギーじゃなかったんです。核兵器を持つ能力を持ちたいというのが根本の理由で始まっていました」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no123/
※2015年4月25日(土)、東京・東中野のSpace&Cafeボレポレ坐で開催された、公開録音「ラジオフォーラム リスナーとパーソナリティ 明日の集い」から、小出さんの講演「ラジオフォーラムという希望」を、小出裕章ジャーナルスペシャル版としてお送りします。
小出さん:
皆さん、こんばんは。今日はたくさんの方、ありがとうございます。今から「ラジオフォーラムという希望」というタイトルで話をさせて頂きます。先程から谷岡さんが宣伝をして下さっていましたけれども、『ラジオは真実を報道できるか』という本がついこの間、岩波書店から出ました。そこに私も一文書かせて頂きましたので、今日は、その内容に沿ってお時間を頂こうと思います。
かつての戦争。日本だけで200万人、アジア全体あるいは日本を含めたアジアという、そういう所でも2000万人もの人が死んだという戦争がついこの間、何十年か前までやっていたわけです。日本では、現人神の天皇がいて、戦争になんか絶対負けないとずっと言われてきました。マスコミは大本営への発表だけ流しましたし、多くの国民はみんな日本は勝つんだと思って戦争という時代は過ぎていきました。原子力も戦争中の大本営と本当に一緒だと思います。巨大な権力が一体となって、嘘の宣伝をずっと流し続けてきました。
人間宣言
原子力発電は絶対に安全で事故なんか起こさないと言われていたわけですけれども、本当に残念なことに福島第一原子力発電所の事故は起きてしまいました。しかしこれまで原子力が絶対安全だ、良い物だと言ってきた人達、政治の場の人達もそうだし、東京電力にしてもそうだし、誰1人として処罰されていないということが続いています。なぜこんなことになったかと言えば、権力犯罪というのは、より巨大な権力によってしか処罰されないということなのだと思います。かつての戦争の時もやはりそうだった。日本の権力よりも巨大な米国という権力が、どういう形で処罰するかということを勝手に決めていったわけですし、今の原子力発電の事故という、私は権力犯罪のひとつだと思っていますが、誰も処罰されないで、のうのうと生き延びていくという形になっているんだと思います。
仏ルモンド紙「フクシマ、沈黙の有罪」
一体彼らが原子力にどんな期待をかけてきた、あるいは、国民に期待をかけさせようとしたかというひとつの宣伝を今から見て頂きます。1954年という日本で原子炉建造予算が初めて国会を通過した時、その頃のこれは毎日新聞ですが、他の新聞もほとんどみんな同じようでした。こんなふうに宣伝していたのです。
「さて原子力を潜在電力として考えると、全くとてつもない物である。しかも、石炭等の資源が今後、地球上から次第に少なくなっていくことを思えば、このエネルギーの持つ威力は、人類生存に不可欠な物と言ってよいだろう」と言われていました。もうこの会場の方はご存知かもしれませんが、原子力の資源である燃料であるウランというのは、非常に貧弱です。それが発生できるエネルギーに換算して、石油の数分の1しか地上にはないし、石炭に比べれば数十分の1しかないというまことに馬鹿げた資源だったし、そんな物に未来のエネルギー源の夢を託すという、そのこと自身が間違えていたのです。さらにこの新聞記事はこう続くのです。
「電気料は2000分の1になる』。なるわけないわけですし、さらにこうです。「原子力発電には火力発電のように大工場を必要としない。大煙突も貯炭所もいらない。また毎日、石炭を運び込みたきがらを捨てるための鉄道もトラックもいらない。密閉式のガスタービンが利用できれば、ボイラーの水すらいらないのである。もちろん山間へき地を選ぶこともない。ビルディングの地下室が発電所ということになる」という、こんな期待だったんです。
これ、みんなもう分かって頂けると思いますけれども、幻の夢をかけていたということで、もう本当にいい加減に気がついてくれよと、私は思います。しかしそれをやってきた、原子力を進めてきた人達、私は最近、原子力マフィアと呼ぶようにしてるんですけれども、その人達はどういう人達だったのかと言うと、まず一番には原子力を始めた一番の理由はエネルギーじゃなかったんです。核兵器を持つ能力を持ちたいというのが根本の理由で始まっていました。
http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ref=em_over&ch_userid=5555656555&prgid=39595820&linkskip=
「核武装賛成論者(彼等の多くは、低学歴者ないし老人であり核戦略の問題をほとんど理解しない単純なナショナリズであるように思われる)の増加は、必ずや核武装反対論者の政治行動を尖鋭化させ、国内的政治不安を高める結果となるだろう。」
「日本で現在開発中のロケットを軍用に転用することは、技術的問題さえ克服できればあながち不可能ではないが、核弾頭だけは、外国からもらいうける以外に方法はない。しかし、核拡散防止条約成立の過程から考えれば、その可能性はほとんどないといってよい。」
そのため国は電気事業法で、電力会社が原子力発電をやれば、どんどんどん儲かるという仕組みをまず作って、電力会社を原子力に引きずり込みました。そして、原子力損害賠償法という途方もない法律をつくって、どんな事故が起きても電力会社は責任を取らなくてもいいというような法律の仕組みまで作ったのです。そして、国策民営という名前の下、原子力の暴走が始まってしまいました。その暴走の中には、巨大な原子力産業、ゼネコン、下請け、孫請けの中小・零細企業、それに学者、マスコミ、労働組合までが、それぞれの権益を求めて集まってしまうという形になりました。
かつての戦争の時とよく似て、挙国一致で反対する者はブルドーザーでひき殺すように潰していって、原子力発電所を日本中あっちこちに造るということをやってしまったのです。
今日はこの話はきちっとできませんが、これが事故を起こした福島第一原子力発電所です。
1号機、2号機、3号機、この3つは2011年3月11日に運転中でした。そして、地震と津波に襲われて、炉心と呼ばれてる部分が溶けてしまって、その過程で水素という爆発性のガスが発生するという物理科学的な理由があって、水素が爆発して建屋が吹き飛んでしまうということになりました。
事故を起こしたのは火力発電所なら、すぐにでも現場に行って調べることができるのですけれども、こと原子力発電所の場合には、4年経っても現場に行かれないという、そういう過酷な事故が今での続いているわけです。人が行けば即死です。そのためロボットを行かせようとしていますが、ロボットも放射線に弱いのです。そのため送り込んだロボットはみんな討ち死して帰ってこれないという状態になってしまっていて、現場がどうなってるか全く分かりません。
そのためどうしてるかと言うと、これ以上炉心を溶かしたらいけないということで、ただただ水を送るということをやってきたわけです。しかしそれをやってしまえば、送った水が放射能で汚れた放射能汚染水になるということが当たり前のことなのであって、どんどんどんどん汚染水が増えてきてしまうということに、今なっているわけです。
凸(゚Д゚#)
それが環境に漏れていってるわけですけれども、それを防ごうとして、たくさんの労働者が今現在も何千人というような労働者が現場で働いています。ただしその労働者は、東京電力の社員ではありません。東京電力の下請け、そのまた下請け、その下請け、孫請けというように、8次9次10次というような下請け関係で働いてる労働者達、本当に底辺の労働者達で、下請けに行くたびに企業がピンはねをしていく。実際に、労働者の手に賃金が渡る時には、最低賃金にも満たないというような賃金の下で、底辺の労働者達が働いてるということになっています。
今現在、7000人と言われていますが、これから本当に日本という国で、そういう労働者をいつまで確保できるのだろうかと、私はずっと不安に思っていますし、すでにたくさんの外国人労働者が駆り集められてきて、福島の発電所の敷地の中では、言葉すらが通じないという、そういう状況で働いている労働者達が今いるわけです。
何とか放射能の放出を少しでも減らさなければいけませんけれども、でもすでに大量の放射性物質が放出されてしまっています。
そのため、たくさんの人達が今現在も被ばくをするしかないという状態になってしまっているわけです。福島第一原子力発電所の事故が起きた今、原子力に対してどう向き合うかということを私達きっちりと考えなければいけないし、騙されたんだという言い訳だけは、やはり私は通じないだろうと思います。きっと、私達は未来の子供達から、福島の事故が起きた後、どうやって生きたんだというふうに問われるんだろうと思いますので、それに答えるように生きたいと私は思っています。
今、憲法が変えられようしている瀬戸際にあるわけですけれども、日本国憲法というのは、先の戦争の反省を踏まえて書かれました。もちろん憲法9条もそうで、戦争はもうしないと、軍隊を持たないということをはっきりと書いたわけですし、大変素敵な憲法だと思っています。私が一番素敵なのは、この憲法前文だと思っています。今からここに、憲法の前文を皆さんにお見せしますけれども、これを全部読む時間はありません。ただ、憲法前文の一部にはこう書いてあるんです。
「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言する」と書いてあるんです。政府なんかに任せておいたら、また戦争してしまう。だから、自分達がそれを防ぐんだ。そのためにこの憲法を確定するということを書いてる。自分達がやるんだと、一人ひとりが大切なんだということを憲法の前文が言っているわけです。大きな流れというのは確かにありますけれども、でも一人ひとりがきちっと決意をして、これからの日本をつくるという、その宣言になっているわけです。でも残念ながら、今の日本というのはそのようには動いていないように、私には見えます。どうでもいいようなことと、この世界には本当に大切でみんなが気を付けなければいけないと思うことが、私はあると思います。
2011年3月11日に事故が起きて、原子力緊急事態宣言というのが出されました。それを根拠にして日本政府というのは、本来なら放射性管理区域にしなければいけないような場所に、子供も含めて捨ててしまっている。
今現在、被ばくが続いているんです。でも、先程聞いて頂いたように、原子力マフィアはそれを忘れさせようと画策しているわけですし、その時に彼らがやろうとしていることは、別のことに目を向けさせて、それを忘れさせようとしているわけです。
今は、もう日本国中がオリンピックだというような所にどんどん引きずり込まれようとしていて、オリンピックに反対すると、今度はまた非国民であるかのように言われてしまうという、そんな時代に向かっているんだと思います。
はだしのゲン より
でも今なすべきことは、本当であれば、福島第一原子力発電所の被害者達をきちっと救済しなければいけないし、原子力発電所の事故を収束させなければいけないということだと思うし、オリンピックなんかに浮かれてる時ではないと私は思います。
私たちの東京五輪は1000年は延期しないとダメです
谷岡理香:
それでは、皆さんからの質問を。小出さんへの質問からです。「実際のところ、福島第一原発を廃炉にする作業は可能なのでしょうか? ?労働者の被ばくを抑制するには、どんな方策があるのでしょうか? そして、日本に安全な最終処分場は、地理的にあり得るのでしょうか?」というたくさんの質問です。
小出さん:
全てのご質問に対して、ノーです。
谷岡理香:
以上ですね? はい。
小出さん:
はい。
谷岡理香:
極めてシンプルで、はい。次に「福井地裁の判決と鹿児島地裁の判決の違いをもたらしたものは、何でしょうか?」と、小出さんへの質問なのですがよろしいですか?
小出さん:
はい。皆さん、裁判官という人達は、どういう人達だと思いますか? 非常に正義の味方で、良い人達だと思うでしょうか? 私は、全然そう思わないのです。学者という人間もそうです。学者にしても裁判官にしても、非常に上昇志向の強い人達で、「出世しろよ、出世しろよ」と言って、人生を走らされて、名誉も欲しいというような人達が、学者や裁判官になっているのです。
そういう人達にとっては、国には絶対楯突かないと。それが一番の不文律になっているわけであって、少なくとも原子力に関する限りは、国が原子力を進めるということをやって、巨大な権力機構がもうすでにできてやっているわけですから、それに楯突くようなことをすれば出世できないわけで、裁判官とか学者とかいう人は、決してそんな立場にならないのです。
だから私は原子力に関する限り、裁判には一切期待をかけないということをずっとやってきました。私も若い頃は、裁判できちっとやってくれるんだろうと期待をかけたことがあって、私自身が裁判に関わって、証人になって出廷したこともありますけれども、この国では絶対ダメだということになって、以降裁判には一切の期待をかけなかったのですけれども、去年の5月の21日に、福井地方裁判所という所の裁判官が、大飯原子力発電所の3号機と4号機の原子力発電所を再稼働させてはならないという判決を出したのです。私は本当にびっくりしました。素晴らしい判決なのです。
そして「あ、こんな裁判官がまだ日本の国にいてくれたんだな。ほんとにありがたい」と思いました。そしてそれを支えてるのは、福島第一原子力発電所の事故が起きたという、何よりその事実がその裁判官を支えていると。これから少しでも多くの裁判官が事実をきちっと踏まえて判決を出してくれるようになってほしいと願いましたけれども、ついこの間、九州電力の川内原子力発電所の判決に関しては、決定と言うんですけれども、仮処分の決定の場合には、全く逆戻りしてしまって、国がやってることは全て正しいと。原子力発電所を動かしていいというような判決になってしまったのです。言ってみれば、私は裁判官という一人ひとりの個性というか能力というか、それの違いがこの判決を分けたんだろうと思います。もっともっときっちりとした人間、一人ひとり自立した人間、裁判官もそうですけど、そういう人間が育たない限りは、やはりまだまだダメな時代が続くんだろうなと思います。
谷岡:
はい。ありがとうございます。「時々、3か月や半年に1回ぐらいでいいので、番組全部でオール小出裕章ジャーナルをやってほしいです」って。
石井彰:
小出さんさえよろしければ、スケジュールが合えば、いつでもやらせて頂きます。
谷岡:
如何でしょうか?小出さん?
小出さん:
今のけぞって、椅子から落ちそうになりましたけれども。まあ、私は3月に京都大学を定年退職をしました。要するに、京都大学と雇用関係が切れるということになったわけで、私としては定年とかいうのは、単なる社会的な制度に過ぎないと、十分認識しています。ただしそれと、また別の方で生き物というのは、どんな生き物も老いていく。そして、いつか死ぬということは仕方のないことなのであって、私も生き物として老いていくんだと。老いてきたし、老いていくんだということは避けられないわけです。そういうことを自覚しろよという、ひとつの一里塚だろうと私は思っています。
1988年
これまでも私は愚かにも原子力に夢を持ってしまった人間として、その場所で、私にしかできないことだけに自分の力を集中して原子力に抵抗しようと思って生きてきましたし、これからもそうしようと思いますが、だんだん年老いていくということを自覚しながら、私にしかできないという仕事をこれまで以上に厳選して、少しずつ減らしながら、やはり退いていくしかないんだろうなと私は思っていますので、もちろんラジオフォーラムという皆さんに、今日聞いて頂いたように希望を持っていますし、なんとかずっと続いて欲しいと願ってはいますけれども、基本的には私自身は少しずつでも退かせて頂きたいと思っています。もし長い時間、私に与えて下さるというような機会があるのであれば何回かお受けできるかもしれませんが、でも基本的には私も生き物として少しずつ退いていくんだということだけは認めて頂きたいと思っています。
谷岡:
はい。次の質問は繋がっています。「喉もと過ぎれば、原発事故も忘れさせようという国です。小出先生は、私達一般人ができることはどのようなことだとお考えですか? 私達も専門ではないけれども、後継者にどっかでなることができるでしょうか?」
小出さん:
私は専門的な立場から、原子力に抵抗するという特殊な役割を負った人間だと思っていますし、その特殊な立場にいる人間として、できることをやってきたつもりです。ただし、私が原子力に抵抗しているということは、原子力発電という技術が危険を抱えているとか、そんなこととは違うのです。
原子力というのが徹頭徹尾差別的で、他の人達に犠牲をしわ寄せするという、そのこと自身に私は抵抗してきたつもりなのです。そのことを私は、一言で言うと差別ということに抵抗するというふうに表現しているのですけれども、私の場合はたまたま原子力だということであって、皆さんの周りにも、きっと差別というようなものが多数存在していると思います。そういうことに、皆さん自身が本当に自分の身の周りの切実な問題に、皆さんが関わって下さるのであれば、その関わりは私が今、原子力に対して関わっている関わりと通底していると思います。
全ての差別に抵抗して、差別を少しでもなくしていけるということができるのなら原子力もなくなっていくでしょうし、差別がなくせるのであれば、原子力なんて簡単になくなるんだと私は思っていますので、皆さんが、私と同じように原子力に対して戦うということはなかなか難しいと思いますけれども、皆さんの身の回りの本当に切実な問題に、皆さんおひとりおひとりが関わって下さるということが、私にとっては一番ありがたいことだし、それをやれば、きっともう少しましな社会になるだろうと思います。
谷岡:
はい。ありがとうございます。さてもう残り時間が、というかないですね、残り時間。ないのですが、せっかくなので最後に一言ずつ、もう一度皆さんへのコメントを頂けましょうということでしたので。だとしたら、石井さんからいってよろしいですか? はい。
石井:
はい。いつも言うんですが、私達は無力ではありません。微力ではありますが、決して無力ではありません。皆さんの力をお借りしながら、ラジオフォーラムを続けていきたい。
谷岡:
湯浅さん、お願い致します。
湯浅誠:
はい。ありがとうございました。あの、活動してると、まさかこんなことをやるはめになると思わなかったっていうことばっかりなんですけど、今回の件もそういう展開になって、なんだか分かんないけど、パーソナリティをやってるぞっていう状態が、もうまる2年も経ってしまいまして、なんとか3年はと思ってやってきましたので、これからももう少しいろんな方、私は特に若い人ね、学生さんとかにも電話出演とかして頂いてるんですが、そういう方に出て頂いたり、そういう方に届くような話ができればなと思っていますので、今後ともよろしくお願いします。ありがとうございました。
小出さん:
一部の時に、湯浅さんが若者達に希望があると言って、未来にかなり希望があるというふうに、湯浅さんは思われてると発言をされたんですけれども、私はどうも悲観主義者なのかもしれませんが、かなり悪い方向に今、転げ落ちていってるんではないかと、私は思います。大きな流れが作られてしまうと、どんな抵抗も無駄になってしまうということもあると思います。そんな中で、今日の私の話のタイトルにあったように、ラジオフォーラムというこの番組が、希望のひとつだと私は思いますので、なんとかこれからも支えて頂きたいと思います。今日は本当にご参加ありがとうございました。
小出裕章氏講演会(本編)2015.4.19九条の会 刈谷
https://youtu.be/DNguYDu5jW8
小出裕章氏講演会(質疑応答)2015.4.19九条の会 刈谷
https://youtu.be/HSouiQ-fBMk
それでわかるの?(;゙゚'ω゚')
自民 漫画で押しつけ憲法論
(東京新聞【こちら特報部】)2015年5月8日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015050802000174.html
自民党が作成した「改憲推進漫画」は、「押しつけ憲法論」を前面に打ち出している。憲法が連合国軍総司令部(GHQ)の草案に沿っているのは事実だが、憲法価値の定着ぶりをみれば、復古主義的な発想と言わざるを得ない。報道各社が3日の憲法記念日を前に実施した世論調査では、改憲の是非は依然として拮抗(きっこう)している。戦後70年の歩みを冷笑するかのような安倍晋三首相らの改憲論は必ずしも奏功していない。
(沢田千秋、白名正和)
自民党の改憲推進漫画は「ほのぼの一家の憲法改正つてなあに?」と題したA5判、六十四ページ。憲法記念日を控えた先月二十八日に発表された。党憲法改正推進本部の船田元本部長は記者会見で「若者世代をはじめ、より多くの国民に憲法改正の意義を理解してもらいたい」と強調した。
ほのぼの一家の家族構成は二歳男児の両親に六十四歳の祖父。祖母がいない代わりに、九十二歳の曽祖父がいる。「押しつけ憲法論」は冒頭から登場する。
母親らが「憲法って変な日本語が多い」と雑談していると、それまでおとなしかった曽祖父が突如、「日本国憲法の基を作ったのがアメリカ人だからじゃよ」と言い放つ。そして一九四六年二月、GHQ最高司令官マッカーサー元帥の執務室の場面から憲法草案ができるまでの経緯が、曽祖父の昔話として描かれている。GHQ幹部が「我々の目的は日本の無力化だ」と宣言し、職員に八日間で草案を作るよう指示。職員は「専門家じゃないし日本の文化や歴史についても詳しくない」と動揺する。
曽祖父の話を聞いた母親らは改憲に傾く。曽祖父は物語の最終盤で、ひ孫にこんな言葉を贈る。「敗戦した日本にGHQが与えた憲法のままでは いつまで経(た)っても日本は敗戦国なんじゃ」
「押しつけ憲法論」は、安倍首相もかねて言及している。二〇一三年四月、産経新聞のインタビューで「(現行憲法は)GHQの憲法も国際法も全くの素人の人たちが、たった8日間で作り上げた代物だ」と発言した。安倍首相らが「押しつけ憲法論」に執着する背景に何があるのか。
渡辺治・一橋大名誉教授(憲法)は「押しつけ憲法論は一九五〇年代の復古的改憲論を正当化する主力イデオロギーだったが、次第に主流でなくなった」と説明する。「憲法制定時、手続き的には確かに瑕疵(かし)があり、イニシアチブもGHQにあったが、戦後七十年、自民が繰り返し改憲を提案しても実現しなかった。現行憲法が七十年間守られてきた事実こそ、押しつけ論への一番の批判だ」
では、なぜ再び声高に叫ばれるのか。渡辺氏は「○九年の政権交代で野党に転落した自民党では、安倍首相ら夕力派が巻き返し。押しつけ論を表明しやすくなった」と推測する。
だが、いまさら漫画で「押しつけ憲法論」を説かれても、ターゲットの若者層にそっぽを向かれるだけではないのか。渡辺氏が注視するのは、日本最大規模の右派運動体「日本会議」などの動向だ。
「改憲の国民投票を成功させるには社会運動として盛り上げなければならない。自民党がアテにする日本会議などを引きつけておくには、押しつけ論を漫画にも盛り込まざるを得なかったのではないか」
世論は冷静 賛否拮抗
「改憲反対=感情的」と印象付け?
インターネット上では早くも、自民党の改憲推進漫画への批判が渦巻く。
例えば、弁護士有志でつくる「明日の自由を守る若手弁護士の会」のブログ。漫画の中身も問題だが、改憲に反対する母親だけが感情的に表現されている点を疑問視する。「『改憲に前向き=きちんと考えている』『改憲に反対=考えていない』みたいに描き出されてますね」
その母親が「日本じゃ国の安全に反してもワガママOKつてこと?」と慌てる場面には「今の日本国憲法は基本的人権を手厚く保障しすぎている(中略)という自民党さんの主張が伝わってきます」。
同会では一三年ごろから、国民ではなく権力者を縛るという立憲主義や、憲法が変わったら社会がどうなるかなどを解説した紙芝居風の動画を製作。憲法についてリラックスした雰囲気で話し合う「憲法カフェ」も、女性層を中心に人気を博してきた。
同会の太田啓子弁護士は「自民党の漫画は、憲法をわかりやすく親しみやすくと取り組んできた私たちの活動内容と路線が似ている。若者・女性層を狙った草の根の動きに脅威に感じて、同じ方向に来たのではないか」と話す。
安倍政権のもと、最近は改憲派の勢いばかりが目立っていた。
衆院憲法審査会は七日、昨年十一月以来、半年ぶりに実質的な討議を実施した。自民党が、大規模災害に備える「緊急事態条項」や環境権について「優先的に議論してはどうか」と呼び掛けたところ、公明党、次世代の党が賛成した。自民党は、他党も乗りやすい環境権などを導入する改憲を先行し、二度目の改憲で本丸の九条改正を目指す「二段階論」を思い描いている。改憲漫画でも、緊急事態条項や環境権の説明にページを割いている。
ところが、国民の改憲機運は高まらない。憲法記念日前に各社が実施した世論調査を見ると、共同通信は改憲賛成46・7%、反対42・3%、改憲に前向きな産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)では、改憲反対(47・8%)が賛成(40・8%)を上回った。
憲法記念日の集会では、護憲派の人の多さが際立った。横浜市では護憲派集会に三万人(主催者発表)が参加。一方、民間憲法臨調などが都内で開催した改憲派集会の参加者は約九百人(主催者発表)だった。
なるほど、ここに来て改憲派が伸び悩んでいる。
首都大学東京の木村草太准教授(憲法)は「自民党の漫画は最後に『日本っていい国よね』という言葉で終わる。ここで言う『日本』は現行憲法によってつちかわれてきた秩序のことだ。この場面からは、漫画を作った自民党も心の底で、現行憲法の良さを実は分かっていると読み取れる。自民党でも内心がこうだから、一般の国民を相手にした世論調査では、賛否が拮抗することになる」とみる。
護憲派 多彩なメッセージで対抗
護憲派は、自民党のプロパガンダを押し返すことができるのか。
横浜の護憲派集会で登壇した作家の落合恵子さんは「自民党の漫画は若い人を狙っている。私たちも若い世代を引き寄せるために、漫画が有効なら漫画、歌が有効なら歌と、さまざまな分野でメッセージを発信していかないといけない」と指摘する。
太田弁護士も、地道な活動の大切さを訴える。「私は市民の良識を信頼している。今後も王道である草の根の活動を続け、憲法に関心がない人を中心に、対話を続けていきたい」
http://jimin.ncss.nifty.com/pdf/pamphlet/kenoukaisei_manga_pamphlet.pdf
憲法が変わっちゃったら、どうなるの?
~ 自民党案シミュレーション ~
https://youtu.be/V7EcIEdNZ4A
ごあいさつ
みなさん、はじめまして☆
私たちは、自由民主党の「日本国憲法改正草案」の内容とその怖さを、広く知らせることを目的とする、若手弁護士(弁護士登録期が51期以降=登録から15年以内)の有志の会です。
現在、当会で作成したパンフレットや紙芝居を使って、全国各地(?)で講演(憲法カフェ、ランチで憲法など)を行っています!
また、イベントや集会に参加したり、声明を発表する、書籍を出すなどもしています。
こういった活動は、FacebookやTwitterでも発信しています ご注目ください!
なお、お問い合わせは、peaceloving.lawyer@gmail.comまで!
明日の自由を守る若手弁護士の会
自民党改憲案の粗悪な人権感覚
https://youtu.be/1cKaTZ6JKbc
人権問題の専門家らが2月21日、都内で会見し、自民党の憲法改正案が、これまで人類が築いてきた国際的な人権の基準から大きく離脱しているとして、その危険性に警鐘を鳴らした。
明治大学のローレンス・レペタ教授(人権法)は、自民党の改憲案が基本的人権の尊重を謳った97条や、同じく基本的人権に触れている前文の削除を求めていることなどを指摘した上で、自民党案は「これまで人類が培ってきた人権の理解からの離脱を意味する」と、これを厳しく批判した。
自民党の改憲案は、基本的人権の概念が削除されている他、表現の自由や結社の自由なども「公の秩序を乱さない限りにおいて」などの制約条件が設けられている。また、その際の公が何を意味するかも不明確であるため、レペタ教授らは基本的な人権への制約が拡大解釈される恐れがあるとの懸念を表明している。(後略)
『あたらしい憲法のはなし』予告編
http://youtu.be/adCo0ZkeuIw
戦後60年が経過し時代は大きく変わりました。
60年前に廃墟の中で未来を拓くために固めた不戦の決意。
その決意は、もう時代に合わなくなってしまったのでしょうか。
このDVDは、新しい時代に生きる私たちがどんな決意を持ってどんな憲法を選びとるべきがを問い直します。
詳しい情報・ご購入はコチラへ
http://www.ndn-news.co.jp/shop/pickup/05.4.5-2.htm
あたらしい憲法のはなし
オーディオブック あたらしい憲法のはなし サンプル
http://youtu.be/4gHlL9Bw5jI
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自民党が教員「国家免許」提言
「国好みの先生」増える?
(東京新聞【こちら特報部】ニュースの追跡)2015年5月14日
自民党の教育再生実行本部が、小中学校や高校の教員免許を国家による免許とする提言を安倍晋三首相に提出した。国家試験や研修を新たに導入し、教員の資質向上を図るのが目的とするが、「国家免許化」には、学校教育に対して国家統制を強めたいという思惑がにじみ出ている。
(榊原崇仁)
教育統制戦前の反省どこに…
今の制度では、大学で教員養成課程を修了すれば、卒業時にその大学のある都道府県教育委員会から教員免許が与えられる。その後、都道府県・政令市教委がそれぞれ実施する採用試験に合格することで、学校の教員として勤務できるようになる。
自民党の提言は、大学の教員養成課程を修了した後、全国共通の国家試験を受け、合格者が一~二年、学校現場での研修(インターン)を経た上で、国から免許が交付される制度を想定している。医師免許の仕組みを参考にするという。
提言を受けた十二日、菅義偉官房長官は記者会見で「教師の役割は学校教育の中で極めて重要だ。文部科学省で検討することになるだろう」と述べた。
安倍政権は、教育の国家統制を強めてきた。第一次政権時代の二〇〇七年には、教員免許を終身制から十年ごとの更新制に変える関連法が成立。○九年の施行後、更新するには国が認定した講習を三十時間以上受けなければならないようになった。
今年四月施行の改正地方教育行政法では、国の関与を強め、いじめなどで教育委員会の対応が不適切と判断すれば、文科相が是正を指示できるようになった。教科書検定でも、歴史や領土問題で日本政府の統一見解を盛り込むよう求めた新検定基準を昨年一月に策定した。
教員の「国家免許化」の動きについて、立正大の金子勝名誉教授(憲法学)は「教科書検定とともに、学校教育の国家統制の両輪になりかねない」と警戒する。「国家試験や研修の中で『時の政権の意向に沿わない』と判断されたら、免許が交付されないこともあり得る。逆に言えば、政権に迎合する教員ばかりになってしまう」
現在、教員免許を地方の教育委員会が交付しているのは、戦前の反省があるからだという。「国が教育に介入して戦争賛美をすり込み、戦場に向かわせた。その結果、多くの若い命が犠牲になった。苦い過去を繰り返さないように『教育は国家から独立すべきだ』とされた。しかし安倍首相の志向は逆。『戦争できる国』にしたいし、若者が喜んで戦場に行く意識を植え付けたい。そのために『政府のための先生』を量産しようと考えている」
教員の資質向上にもメリットはないと切り捨てる。
「いじめによる自殺など、確かに学校絡みの問題は目に付くが、それは現場の教員が自分の出世や校長の顔色ばかりを考え、子ども本位になっていないのが原因。国の統制が強まっても今の状況が悪化するだけだ」
共栄大の藤田英典副学長(教育社会学)も「教員の国家免許化は、子どもたちにとってマイナスにもなり得る」と指摘する。
「免許を取るためのハードルが上がれば、教員志望者は減るだろう。免許取得に専念できるだけの経済的な余裕が必要になるため、経済力の弱い家庭からは教員が生まれにくくなるかもしれない。教員はさまざまな事情を持った子どもを相手にする。裕福な家庭で生まれ育った先生ばかりで、子どもたちの心情が分かるだろうか」