東北旅行4日目
10月25日午前7時すぎ、≡(( ´Д`)/≡=地震!
大きな揺れではなかったのですけれど、いつもの携帯アラームに代わってこの地震が私を起こしてくれました・・今日は二度寝します(笑)
約一時間半ほど二度寝して、9時前に起床~(^ω^)
それにしても、二度寝ってなぜこんなにも気持ちいいのでしょうかね~(^^♪
では、車に飛び乗り、いざ出発!
国道398号線を女川へ向けて車を走らせます。
まず、旧北上川に架かる石巻バイパスの橋を渡った時の印象・・あまり津波被害がひどい印象が無いですね・・しかし、その印象は後で打ち砕かれるのでした・・(;´д`)
さて、女川は中村雅俊さんの出身地ですね。
海を抱きしめて 雅俊さん
http://youtu.be/Q9nw1iue3HQ
女川港で雅俊さんが歌ってます。
震災直後の女川
「女川」と聞いてピン!っときたあなた!そんなあなたは鋭い~(・∀・)
そう、女川から女川原子力発電所へ向けて県道41号線を進みます。
小出先生をはじめとする学生たちは朝早くに女川駅前から、この県道41号線を原発予定地に向かって横浦-大石原-野々浜-飯子浜-塚浜-小屋取と山道を歩いたそうです。
小屋取という集落まで15kmの道のりにビラを一軒一軒配りながら歩き、夕方また歩いて女川に戻ってくる・・若さだけではそこまで出来るものではありませんよね・・信念がなければ・・
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入江ごとに集落跡があり、ちょっとした高台に仮設住宅がありました・・女川から約15km進むと・・「東北電力専用道路 許可なく立ち入りを禁ず」の看板が・・正面には監視カメラがこちらを睨んでいます・・
ここから先には進まない方がいいですよね・・(^-^;
ここからUターンして、 女川原子力PRセンターに向かいますか・・
女川原子力PRセンター
女川原発遠景
線量計
女川原子力PRセンター前にあった線量計の数値は線量率記録計の値が約60nGy/h、線量率計が93nGy/h・・
うーん、この違いは何でしょうか・・( ̄◇ ̄;)
ちなみに、nGy/h × 0.8 × 0.001 = μSv/h です。
1/2サイズ原子炉模型
展示室に入ってから、ピッピッピッ・・と音がするんですけど・・何でしょう?
音のするところに行ったら・・ありました・・線量計。
線量計
数値が0.09μSv/hですから、外の線量計は93nGy/hが正しい値なのでしょうね?( ̄◇ ̄;)
東日本大震災の記録・女川原発は・・・
http://youtu.be/cGdhagahYHs
女川原子力PRセンター
http://www.tohoku-epco.co.jp/pr/onagawa/
なぜ女川原発は無事だった 津波の高さは福島と同程度(朝日新聞)
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103300517.html
9月13日 【文字起こしUP】小出裕章氏と語る、続・原発『安全神話』溶融【その①】(ぼちぼちいこうか。。)
http://bochibochi-ikoka.doorblog.jp/archives/3032401.html
より、小出先生の大学生時代のお話。
さて、県道220号線を経由して女川に戻り、国道398号線で石巻に再び向かいます。
お腹が空いたので、友人のオススメのお店に行きたいと思います(^-^)/
石巻 中国料理 揚子江
朝食を摂らなかったので凄くお腹減った~(^┰^;)ゞ
注文したのは・・(^q^)
天津飯
海鮮掛ご飯
これは珍しい!
石巻クジラ焼売
いや~!よせばいいのに3点も注文してしまいましたよ~(^0_0^)
旅先でちょっと抑制が効かなくなっているのか・・(^^;
美味しかった~!食った食った~(^^♪
ごちそうさまでした(^ω^)
レジに行って会計をしている女性が店長さん
震災大変でしたでしょう・・と声をかけたら優しいお言葉。
例によって鼻の下が・・
ビロ━(゚∀゚)━ン!!
ここ揚子江も津波被害に遭って再建に苦労したそうです。
被害状況がHPにアップされているのでご覧くださいとのこと。
揚子江さんからお借りしました。
中国料理 揚子江
http://youtu.be/O1smd0RXiGQ
中国料理揚子江
http://www.yousuko.jp/
石巻市立門脇小学校
揚子江から旧北上川の右岸を海の方に進み、石ノ森萬画館の脇を通過して、旧北上川河口付近に来ました・・
そこにあった光景は田老や鵜住居、陸前高田のような建物跡が一面に広がる荒地でした・・
石巻市門脇
石巻市立門脇小学校
震災遺構として保存が決まったのか?工事中でしきりに遮られて見えませんでした・・
間一髪津波脱出 児童、親と抱き合う 石巻・門脇(河北新報)
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110316_11.htm
校舎が津波に襲われ、火事も起きて全焼した石巻市門脇小(児童300人)は多くの児童が石巻高など市内4カ所で避難所生活を送っている。ほとんどの児童は学校の誘導で高台に避難し、無事だった。地震発生2日後の13日、児童は別の場所に身を寄せた親らと再会した。
鈴木洋子校長(60)によると、地震直後の津波警報を受け、下校した一部児童を除く約275人を誘導し、高台の日和山公園に避難させた。「ゴーという音がして、遠くを見ると住宅が流されていた」と振り返る。
校舎には、学校に避難して来る住民のために佐藤裕一郎教頭(57)ら4人が残った。教頭の話では、津波が電柱をなぎ倒しながらすごい勢いで接近。住民約40人と校舎裏側から間一髪で脱出した。校舎に自動車がぶつかる音が響き、ガソリンに引火したとみられる火災が起きた。
佐藤教頭と住民は公園で児童と合流し、数カ所の避難所に分かれて夜を過ごした。避難所生活が始まっても、すぐに保護者と会える児童ばかりではない。物資が不十分で不安を募らせる児童に担任が目を配った。
◇児童、親と抱き合う◇
6年佐藤真歩さん(12)は一つ下の弟と石巻高に身を寄せた。避難生活の3日目、東松島市に避難した母陽子さん(46)が2人を捜し出し、再会して抱き合った。
真歩さんは「昼間はみんながいて寂しくなかったが、夜は泣いた。母に会えた時はうれしかった」と声を詰まらせる。
同小は、避難した全児童が親族と会えたことを確かめた。避難前に保護者に引き渡した児童ら9人の安否は確認できていない。
火が校舎に燃え移り、裏山へ逃げた/小笠原夕子さん=石巻市門脇町4丁目・主婦(河北新報)
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1074/20110603_01.htm
地震の後、会社が休みで家にいた夫(40)と三男(5)と一緒に、門脇小に3年生の次男(8)を迎えに行きました。
高台に避難しようと校庭で近所の人と話していたら、教頭先生が「津波が来た! 早く校舎に上れ!」と叫びました。
海沿いの雲雀野公園の方を見ると、遠くの電柱が次々となぎ倒されるのが見えました。
走って3階の屋上に上り、下を見てあぜんとしました。既に校庭は家と車の海でした。
屋上に50人ほどいましたが、皆、言葉が出ませんでした。
家や車の隙間に見えた水はどす黒く、いつもの海の色と違いました。
流れてきた家に火が付き、次々と校舎にぶつかりました。
ドーン、カシャカシャと大きな音が響き、校舎が崩れるかもしれないと思いました。
「ここで死ぬんだ」とぼうぜんとし、パニック状態にもなれませんでした。
火は校舎に燃え移り、皆で2階の窓から板を渡して裏山へ逃げました。
昨年2月にチリ大地震で大津波警報が出た時は皆すぐ避難したのですが、被害がなかったため、今回は避難しない人もいたようです。
私も半信半疑でした。地域で大勢の人が亡くなってしまいました。
門脇小学校 地図
http://www.geocities.jp/aikawatetuya/tizu/kadowakishou.html
長渕剛 ひとつ
http://youtu.be/B9uSRgibBww
紅白歌合戦 2011.12.31 長渕剛 ひとつ 石巻 門脇小学校
旧北上川河口域の津波被害状況
http://www.michinoku.ne.jp/~kappa/tunami/tunami1.htm
石巻市立大川小学校
県道33号線・県道30号線と乗り継ぎ、到着しました。
ここは遺族感情に配慮して、また、気持的にも写真を撮る気になれなくて、一枚も撮りませんでした・・(´;ω;`)
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大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻
http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_okawa.html
山の陰から濁流急いでUターン/武山晃一さん=石巻市長面江畑・建築業(河北新報)
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1074/20110516_21.htm
仕事先から帰る途中に地震が起き、自宅に向かおうと、2トントラックを走らせました。新北上大橋を石巻市北上町側から釜谷側に渡った後に津波が橋に迫り、後続の車は引き返しました。
そのまま釜谷の中心部を通りすぎたころ、200メートルほど先の山の陰から津波が見えました。泥色で住宅の2階くらいの高さだったと思います。濁流は家を丸ごと乗せて迫ってきました。
「ためらったらのみ込まれる」。Uターンし、一気に釜谷を走り抜けて橋のたもとまで戻り、そのまま左折し石巻市雄勝町方面に車を進めました。後続の車はなかったので、集落を抜けて車で逃げられたのは自分が最後だったと思います。
Uターンする時刻が数秒遅ければ津波と鉢合わせしていました。幸運なタイミングでした。雄勝町方面の峠の手前にトラックを止め、津波が6回押し寄せてくるのを見ました。
当日の夜は車、翌12日は近くの集会所で過ごしました。仕事で雄勝町にいた妻や、津波の直撃を受けた自宅から避難した中学生の長女らと3日目に再会しました。「みんな駄目かな」と思っていたのでうれしかったです。
目撃場所イラスト地図
http://www.kahoku.co.jp/img/news/201105/tunami0514_zu.jpg
石巻市立大川小学校の近くに押し寄せた津波
http://youtu.be/DW0dqWR4S7M
東日本大震災 宮城県石巻市大川小の被害状況
http://youtu.be/HNJWV0pmUcc
大川小学校事故検証委員会
http://www.e-riss.co.jp/oic/
では、先ほどきた県道30号線を戻り、国道45号線に入ります。ちょっと行くと道の駅上品の郷が見えてきました。ここに立ち寄って休憩したいと思います。
おお!偶然にも津波被災モニュメントが駐車場前にありました。
道の駅大谷海岸
津波被災モニュメントの展示
http://www.joubon.com/home/modules/tinyd/05.pdf
道の駅上品の郷をあとにして、国道45号線から河北I.C.で三陸自動車道に乗り一路南下します。
やがて、常磐自動車道に入ります。この周辺はこの道の海側は水田がほとんど耕作されていなく、山側は稲刈りが終わった様子・・自動車道を堺に明暗を分けているところですね・・(つд⊂)
山元I.C.から国道6号線をひたすら南下して行けるところまで行ってみたいと思います。
相馬に入った頃か黄昏て来ました。さらに、台風27号の影響で雨が降っています。相馬の市街地は人々の営みが平常に行われているようです。やがて南相馬に入ってきました。南相馬は震災と縁が深く、関東大震災の第一報を世界に無線発信したのが南相馬にある原町無線塔だったそうです。
原町無線塔
南相馬からやがて浪江に入ってくると道路両側の家屋の灯りが全くついていなく、まるでゴーストタウンのよう・・(´ε`;)。
それでも結構、上下線とも交通量はあるのですね~。
福島第一原子力発電所へ通勤する原発作業員が乗った車や資材搬入のトラックなのでしょう。
ついに来ました・・。
検問所
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ここから先は通行許可書がないと先に進めません・・ので、ここからUターンしますね。
Uターン後、気づいたのですが、国道6号線から交差点の辻つじに警備員が配置されていて帰宅困難区域に侵入しないように見張っているのです。暗くてよくわかりませんでしたが、タイベックスを着ていたような・・(^^;
では、相馬まで戻り、国道115号線で福島へ。福島市街に入る前に空間放射線量計の電光掲示板の値が0.44μSv/hと表示されていました・・ちなみに、浪江町では0.2~19.2μSv/hだったそうな・・(´ヘ`;)
福島から国道4号線で郡山で行きます。郡山でファミリーレストランで遅い夕食です。
ここから磐越自動車道で一気に新潟へ・・おお!新潟へ戻ってきたど━━━━!!
と、うまいこといかないもので、途中で猛烈な眠気に襲われ・・仕方なく上川PAで仮眠をとることにしました。
うん?揺れている・・震度3くらいかな?またしても地震で起こされちゃった・・それにしても長いな・・これは遠くの大規模地震ではないかな?と思ってラジオをつけたら案の定、太平洋でM7の≡(( ´Д`)/≡=地震!
そこからほうほうのていで逃げ帰る私でした(笑)
大きなトラブルもなく無事に帰ってくることが出来ました~(^-^)/
良かったよかった(´∀`)
東北旅行 完
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東北・震災のつめあとを辿る・・明暗を分けた門脇と大川・・旅行その4
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