「日本にいたい」
在留許可得られず 苦境「仮放免」の子どもたち
(東京新聞【こちら特報部】)2016年12月2日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2016120202000168.html
「どうして日本にいられないのでしょうか。僕が日本に生まれたことは罪なのでしょうか」-。「不法滞在」のタイ人母親(44)のもとで日本に生まれ育った甲府市の高校二年生ウォン・ウティナン君(16)が、強制退去処分の取り消しを求めた訴訟の控訴審判決が六日に東京高裁で言い渡される。ウティナン君のように退去命令を受けながら「仮放免」という不安定な状況に置かれ、将来の希望を抱けない子どもは少なくない。罪のない子どもたちには在留特別許可を与えるべきではないか。
(白名正和、安藤恭子)
退去撤回求め控訴審
母と別れ6日に判決
タイ語できず「ここが古里」
「こちら特報部」は、控訴審判決を控えたウティナン君に甲府市内で話を聞いた。
「高裁では勝ちたい。勝って日本で生活できるようになりたい。正直勝てるかどうかは五分五分だと思っているけど、みんなが支援してくれている。そのためにも勝訴したい」。表情は硬かったが、はっきりとした口調で決意を披露した。
ウティナン君の母親は一九九五年九月、タイ人のブローカーから「日本でレストランの仕事を紹介する」と誘われて入国した。ところが、来日すると「借金が三百八十万円ある」と言われ、不法滞在のまま、日本各地で意に沿わぬ仕事を強要された。ブローカーが日本で摘発された後に甲府へ移り住み、二〇〇〇年一月、タイ人男性との間にウティナン君が誕生した。
両親は結婚しておらず、ウティナン君が生まれてすぐに別れた。母親は不法滞在の発覚を恐れ、一人息子のウティナン君を連れて長野県や愛知県などを転々とした。家の中で隠れるよう
に生活するウティナン君は小学校に通えなかった。
「漫画もあったし友達もいたので寂しくはなかった」とウティナン君。だが、甲府に戻っていた十一歳の時、学校への思いが募る。「友達は学校に通っていた。行きたいと思ってお母さんに頼んだ」
当時のウティナン君は、日本語の読み書きや計算が小学校低学年の水準だった。母親から相談を受けた甲府市の「山梨外国人人権ネットワーク・オアシス」で基礎を学び、一三年四月、同市内の中学二年に編入した。「勉強は難しかったが隣の席の子がいろいろ教えてくれた。うれしかった」
母親とウティナン君は、日本で暮らし続けたいと一三年八月、東京入国管理局に出頭して在留特別許可を申請したが、仮放免となった。一年後の一四年八月、東京入管から強制退去を通告された。
ウティナン君は「急すぎて頭が真っ白になって、何の言葉も出てこなかった」と振り返る。そぱでは、めったに泣くことのない母親が涙をこぽしていた。
ウティナン君はタイ語の読み書きができず、当然日本を出たこともない。「日本が僕の母国だと思っている。タイに帰れと言われてもピンとこない。日本にいたい」。一五年一月、東京地裁へ強制退去処分の取り消しを求めて提訴した。
原告側は、母親はだまされて日本で働かされた「人身取引の被害者」であり、ウティナン君も学校に通うなどして「日本で生活の基盤を完全に築いている。夕イヘ送還されれば、生活の基盤はすべて奪われる」と主張。しかし、東京地裁は今年六月、「強制退去処分は適正」として二人の請求を棄却する判決を下した。
子どもに罪はない
就労できず・健保入れず・移動に制限
「司法も人道配慮を」
ウティナン君は七月、地裁の判決を不服として東京高裁に控訴した。母親は控訴せず、九月、成田空港からタイに飛び立った。母親が帰国したのは、地裁判決が「母が送還された後も母に代わって子の養育を担う態勢が築かれれば、在留特別許可を再検討する余地があり得る」と含みを残していたからだ。
ウティナン君は、空港で抱き合って母親との別れを惜しんだ。「悲しくてさみしい。ずっと一緒に生活してきたお母さんがそばからいなくなるのはつらい。本当は一緒に暮らしたい。でも、お母さんは僕のことを考えてタイヘ帰った。お母さんのためにも、日本で生きていきたい」
今回の裁判で忘れてならないのが、同級生や地元の支援だ。提訴前の一四年十二月四日、当時中学三年のウティナン君は同級生全員の前で、自分が強制送還されるかもしれない立場だと明かした。中学の有志三十人以上が、東京地裁に書面で「在留許可を認めてください」と意見した。
中学時代、同じバスケットボール部に所属していた竹本健志君(一七)は「練習でみんなについて行けなくても一人で練習し、分からないところは教えてほしいと積極的たった」。中学三年で同じクラスだった安田新君(一六)は「中学は卒業して離れ離れになったけど、日本に残ってほしいという気持ちは今も変わらない」と力を込める。
保護者有志も「裁判を支える会」を結成し、バザーやチャリティー落語会を開いて裁判費用の一部に充てた。町内会も署名用紙を回覧板で回す形で協力し、一万五千筆以上が集まった。母親が帰国した後、ウティナン君に弁当を差し入れてくれる人もいる。
「オアシス」の山崎俊二事務局長は「親が不法滞在でも、子どもは生まれ育った場所で生活する権利がある」と説く。
法務省入管によると、強制退去を命じうれながら仮放免となっている外国人は、昨年末現在で三千六百六人と過去最多。入管は不法滞在などの外国人を施設に収容し、処分を決める。帰国するまで収容されるのが原則だが、難民申請の手続きや訴訟などを理由に、身柄の拘束を解く仮放免が認められることがある。仮放免者は就労や国民健康保険への加入ができず、居住地の都道府県を出る場合には入管への申請が必要だ。
当事者や支援者でつくる「仮放免者の会」によると、仮放免の子どもは学校には通えるものの、移動の自由などが制限され、将来への不安から食欲不振や不眠に陥るケースもある。
例えば、ガーナ国籍の高校一年の女性は日本で生まれ育ちい母国に足を踏み入れたことがない。両親が働けず、生活は厳しい。「服は親族からのおさがり。食事もおなかいっぱいは食べられない。悪いことをしたわけじゃないのに、なぜ他の子と同じことができないのか」と悲しむ。
この舂専門学校に入ったブラジル国籍の男性は、奨学金の申請に住民票が必要だと知って大学進学をあきらめた。「借りられても高額で、働けない僕には返す見込みがない」と嘆く。
専門学校を出ても仕事はできない。「将来働けないと思うと、先の見えない不安がずっと続いている。帰る場所もないのに帰れと言われてつらい。在留特別許可を得て働き、僕が家族を支えたい」と切望する。
入管のガイドラインでは、「日本の小中学校に在学し相当期間在住している実子と同居し、監護養育している」場合などが、在留特別許可を出す「積極要素」として位置づけられている。なぜウティナン君たちに許可が下りないのか。
入管の担当者は「子どもの在留特別許可は、両親に対する強制退去の判断や保養の状況などもみて、総合的に判断する。長く日本に暮らす子どもであっても、許可しないという判断はあり得る」と説明する。(´・д・)」ナンデヤネン!
「親が不法滞在であっても、その子どもに罪はない。日本で暮らすことを望む仮放免の子どもには、親の事情にかかわらず、無条件で在留特別許可を出すべきだ」と指摘するのは、仮放免の問題に詳しい指宿昭一弁護士だ。 」
ウティナン君の一審・東京地裁判決については「母子の別れを促す踏み絵のようなもので、十六歳の少年にはあまりに残酷だ。国ばかりか、司法まで人道上の配慮に欠けた冷たい判断を下し、彼の心を傷つけただろう」と批判した上で、控訴審判決に注目する。
「彼が日本に生まれたことは罪じゃない。一審の誤りを認め、彼のような子が日本で生きていく権利を認める判決を願う」
ウティナン君訴訟、控訴棄却
それでも日本にいたい
(東京新聞【こちら特報部】)ニュースの追跡 2016年12月7日
「不法滞在」のタイ人母親(四四)のもとで日本に生まれ育った甲府市の高校二年生ウォン・ウティナン君(十六)が、強制退去処分の取り消しを求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は六日、再び訴えを退けた。ウティナン君は落胆の色を隠せなかったが、「最後まで日本にいたいという覚悟を持つ」と必死に前を向いた。
(佐藤大)
落胆も…「最後までの覚悟」
控訴を棄却する―。判決が言い渡されると、ウティナン君は硬い表情のままうつむいた。傍聴席を埋めた支援者からは「ひどいよ」「おかしいよ」と怒りの声が飛ぶ。法廷を後にしたウティナン君は、ショックからしばらくトイレにこもってしまった。
判決の一時間後の記者会見でもウティナン君は、憔悴(しょうすい)した様子でなかなか口を
開かなかったが、最後に記者団に促されて「判決まで待つ期間が長かったのに、判決言い渡しはこんなに簡単なのかと。悔しいし、とても悲しい」と涙を浮かべながら声を絞り出した。
高裁判決は、一審東京地裁判決をなぞったものにすぎない。ウティナン君側は、法務省が定める「在留特別許可に係るガイドライン」に照らせば、ウティナン君が日本に定着していることなどの「積極要素」がある一方、「消極要素」はないとして在留特別許可を認めるべきだと主張した。
しかし、高裁判決は、がイドラインは「判断の目安として例示したもの」にすぎず、「法務大臣等がその判断に際して、ガイドラインに拘束されることはない」と結論付けた。ウティナン君の代理人の児玉晃一弁護士は会見で「それでは何のためのガイドラインなのか。自己矛盾以外の何ものでもない。ひと言で言えば、法務大臣が偉いから、ということにすぎない」と判決を批判した。
東京地裁で六月、母親とウティナン君の請求が棄却された後、ウティナン君が判決を不服として控訴する一方、母親は控訴せず、九月にタイヘと向かった。一審判決が「母が送還された後も母に代わって子の養育を担う態勢が築かれれば、在留特別許可を再検討する余地があり得る」と含みを持たせたことから、泣く泣く親子は離れ離れになったのだった。
ところが、高裁判決はこの点に全く触れていない。(#ノ`皿´)ノ
ウティナン君を支援する「山梨外国人人権ネットワークーオアシス」の山崎俊二事務局長は会見で「ウティナン君はお母さんの思いも受けて裁判を闘ってきたのに、このこと(母親が夕イに向かったこと)について何も触れられていない。不当な判決としか言いようがない」と憤った。
ウティナン君は今後について「いったん甲府に帰って、少し気持ちを落ち着かせてから考えたい」と話すのが精いっぱい。上告するかどうかは決まっておらず、児玉弁護士は「あくまで目的は彼が日本に滞在すること。どの手段が一番いいのか、本人と支援者と相談して决めたい」と説明する。法務省入国管理局(入管)に強制退去処分の再考を求める「再審情願」の手続きは進める意向だ。
ウティナン君のように退去命令を受けながら「仮放免」という不安定な状況に置かれた子どもは少なくない。当事者や支援者でつくる「仮放免者の会」の宮廻満事務局長は「ウティナン君の母親が帰国することまでして『譲歩』していたので、絶対に司法で救済されると思っていた。他の子どもたちのことも考えれば、あしき前例だ」と嘆いた上で、「入管はせめて再審情願で在留特別許可を認めるべきだ」と強調した。
自衛隊体験入隊中高生 毎年5000人超
高校の4割で説明会
(しんぶん赤旗)2016年12月11日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-11/2016121101_03_1.html
全国の高校の約4割で自衛隊勧誘の説明会が開かれ、自衛隊の体験入隊に参加した中学生・高校生は過去4年間で毎年5000人超にのぼっていたことが分かりました。防衛省が本紙の取材に回答しました。安保法制=戦争法の具体化により任務と危険が拡大する自衛隊。志願者数が減る中、教育現場では自衛隊による中高生への勧誘の動きが強まっています。その実態は―。
(吉本博美)
「危険なことはない」「いつでも辞められる」「運転免許がタダで取れる」「大学にも通学できる」―。青森県のとある高校。生徒たちにふりそそがれる自衛隊のリクルーター(地方協力本部の募集担当者)の言葉に、現役教員の酒田孝さん(54)は「彼らは甘言をうのみにしてしまう」と危機感を抱きます。
高校の就職の取り決めでは、企業の学校訪問の解禁は7月1日ですが、リクルーターは4月から盛んに学校を訪問します。校長や進路指導部長などとの接触をはじめ、生徒向けに「採用試験対策講座」と称して毎週勉強会を開くことも。
青森県は人口10万人あたりの入隊者数が全国1位(2015年度789人)。「農業以外に地場産業がなく、県民所得も少ない。大学進学はハードルが高い。安定的に収入がある自衛官は、地元ではいわば“憧れの職業”です」。男性教員の高校では、男子生徒の約5人に1人が自衛隊に入隊しているといいます。
11月20日、青森空港から青森市の陸上自衛隊第9師団を中心とするPKO(国連平和維持活動)部隊が南スーダンに出発しました。「母子家庭で育った教え子が部隊の中にいます」。男性教員の知人の、ある中学校教師は話しました。
当時中学生だった教え子の夢は「体育教師」。しかし金銭的な事情で大学進学をあきらめ、自衛隊に入隊しました。母親は、「あの時、借金をしてでも進学させてあげれば」と、声を詰まらせていたといいます。
酒田さんの高校では1、2年生の自衛隊希望者は極端に減少しました。しかし、強い懸念は払しょくできません。
「南スーダンで隊員が犠牲になれば、希望者はさらに少なくなる。そうなれば、アメリカのように大学奨学金などの手段を使って隊員を募集することになるでしょう。貧しい家庭で育った若者が海外の紛争地域でたたかう。そうした現実が目の前にきているのではないでしょうか」
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「日本にいたい」…子供に罪はない!…全ては戦争する国へ…何という冷たい国か…(・ω・`)
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