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第026回ライトアップジャーナル 小出裕章先生「子どもたちに原子力を暴走させた責任はない」

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自由なラジオ Light Up! 026回
「ベラルーシで甲状腺がんを治療しつづけた医師、菅谷昭・現松本市長と小出裕章さんとの特別対談! in 松本」


https://youtu.be/2-743egUy7w
第026回ライトアップジャーナル
ベラルーシで甲状腺がんを治療しつづけた医師、菅谷昭・現松本市長と小出裕章さんとの特別対談! in 松本
http://jiyunaradio.jp/personality/journal/journal-026/
チェルノブイリ 私はもうじき死ぬのチェルノブイリ
チェルノブイリ
おまえは不幸を持ってきた
わたしはもうじき死ぬの
まだこれっぽっちしか生きていないのに
チェルノブイリの子供たち

-前半-

いまにしのりゆき
今週は長野県の松本市からお届けをしております。ここからは、元京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さんにも入って頂きます。小出さん、よろしくお願いします。

小出さん:
よろしくお願いします。

いまにし:
小出さん、やっぱり松本市、暑い大阪から来たら、ほんと過ごしやすいですねえ。

小出さん:
はい。大変快適な街です。空気が美味しいし、まるじゅう山だし、街中にも温泉がある。こんなにいい街があったんだ。もっと前から住みたかったなと思うぐらいに、いい街だと思います。

いまにし:
なるほど。それで小出さんですね、この松本市を京都大学退官されてから移住の地に選ばれたということなんですけれども。やはり、菅谷市長の影響が大きかったんでしょうか?

小出さん:
はい。一番は、まず私、暑いのが大嫌いなので涼しい街に行きたいと。そして、東京とか大阪のような大都会はまっぴらごめんだと思っていました。そして、新幹線が通るようになってしまうと、みんな何かミニ東京のような街に変わっていってしまって、面白くない。だから、地方の小ちゃな都会で、それもちゃんと文化を大切にして、年をとっても健康に生きられるような街であって欲しいと。それで探しました。
そしたら、松本という街は本当に私の願ってる通りの街だったわけですし、そして、今、いまにしさんもおっしゃって下さったように、そこの市長が菅谷さんだということだったわけです。この菅谷さん、大変素晴らしい方なわけで、その菅谷さんが市長をしてくれている街に行きたいと私は思いました。ただ、それ以上にと言うか、その時に思ったのは菅谷さんを選ぶ市民がいるんだということで、私自身もその市民の一人になりたいという、そういう思いで松本を最終的に選びました。

いまにし:
はい。菅谷市長、今の小出先生のお話いかがでしょうか?

菅谷市長:
いやー、ありがたいですし、それに僕は本当にこういう巡り合いって言うんですかね、まさか小出先生が松本に住まれるなんて事は、もう考えたことなかったわけですから。

いまにし:
お二人はお知り合いになられてから、かなり長いんでしょうか?

小出さん:
私は、菅谷さんがチェルノブイリで子供達の治療にあたって下さってるということを大変ありがたいなと。専門的な知識を持ったお医者さんが、その知識を使って子供達を助けてくださるということは、大変ありがたいと思っていたのです。私もチェルノブイリに何度か行きましたが、97年の1月に私またチェルノブイリに行った時に、菅谷さんはもう既にベラルーシに住んでいて、そこで医療活動をされて。

チェルノブイリでの菅谷昭氏

菅谷市長:
ちょうど1年目ぐらいですよ。

いまにし:
なるほど、なるほど。そうなんですねえ。

小出さん:
それで、私、菅谷さんのアパートをお訪ねして、ご馳走になったという。それが初めて。

菅谷市長:
ご馳走ではないんですけどね。

いまにし:
はいはいはい。

菅谷市長:
本当にね、僕ね、ここにね、自分がつまらん本に書いてるんですけど。ちゃんと日記つけてるんですけど。ただね、ちょっと聞いて下さいよ。1月26日、日曜日なんですよ。

「零下10度、久しぶりに晴れ上がった青空を見る。午後、日本からの二人の訪問客あり。彼らは、某大学の研究スタッフ。軽く飲みながら歓談した。二人は、基本的には脱原発の立場にある。しかし、彼らの弁によると、単に原発に反対しても運動の発展性がない。現在の生活様式を含め、日本人自身の価値観を変えていく必要があると話してくれた。価値体系の見直し。なるほど。その通りかもしれない

という風に書いてある。

いまにし:
はい。それは、「チェルノブイリ命の記録」という菅谷市長の著書ですねえ。はい。

菅谷市長:
ですから、その時にやっぱりね、この後、私言ったんですね。「じゃあ、私がこの二人の研究者に対して、そのような市民運動をもっと広範囲に展開していけないものかと尋ねるも、明確な返答は得られなかった。彼ら自身、先頭を切って、そこまでやっていく気持ちはなさそうだ。その後、ソーメンを作って出すと、『これは上手い』と日本人らしく音を立てて食べてくれた」って書いてあるんですよ。

いまにし:
ソーメン美味しかったですか?

小出さん:
そうです。美味しかったです。

菅谷市長:
ですからね、向こうにいるからソーメンなんてないじゃないですか。

いまにし:
そうですね。はい。

菅谷市長:
で、食べてくれましてね。でも、その僕は小出先生がまさか松本においでになるって。今日もそうですけど、こうやって対談するこういう状況っていうのは、人生っていうのは、本当になんか深いものがあるなあと言うか、不思議だなあと思ってますがね。

いまにし:
なるほどねえ。そうなんですよねえ。それで、菅谷市長ですね、そのベラルーシにいらっしゃる時は、どういう地域で医療活動に従事されておられたんでしょうか?

菅谷市長:
そうですね、私、これ91年から95年までは現地7回入ってますが、これは、どちらかと言えば、大学に休みをもらいながら、比較的、汚染された地域で子供の検診をやってました。汚染検診を。それと併せて、やっぱりがんセンターを訪問しますと、手術した子供たち見てますけども、だんだん増えてきていますもんですから、「これはもう日本から来てちょっとやるっていうのは無理だなあ」っていうことで、私はちょうど生き方のことも出てましたから、96年からは2001年まで5年半は、現地で「やっぱり自分はそこでもってやるしかないなあ」と思ったもんですから、やってきました。

いまにし:
なるほど。いわゆる現地でもう住んで、ずっと医療活動に。

菅谷市長:
医療活動。
それは、ミンスクの首都で。ただ、私はその5年半の中には、ミンスクで3年半やった後、今度、一番汚染されたゴメリーの州立がんセンターに移って、そこで1年半やって、最後の半年は原発から90キロのモウゼリーっていう街へ行きまして、そこで検診をやったんですけども。「もっといて欲しい」って言われたんですけども、退職金があの時に1100万だったんですね。25年の。国家公務員の。
あそこに行くと、1年に200万使うんですね。やって行けたんです。200万で。そうすると、5年で1000万ですね。残り、あと100万あったから、残りはあとモウゼリーで6カ月いて、全部使い果たしたんです。

いまにし:
そうなんですか。全部使い果たしてご家族怒りませんでした?

菅谷市長:
いやー、もう全然なかったですね。そういう事は。

いまにし:
そうなんですねえ。

菅谷市長:
ええ。それはもう国で貰ったお金は国に返すっていうことでやりましたから。ええ。でも、ちゃんと神様は、また次の仕事見つけてくれたから。食べていけりゃあいいんですよ。

いまにし:
なるほどねえ。小出さん、そういう菅谷市長の医療活動に取り組まれる姿勢っていうのは、どのように現地で見られてましたでしょうか?お訪ねになられて。

小出さん:
普通ですね、日本で例えば、大学のお医者さんになるというような人は、功成り名を遂げてるわけですし、そのまま、その場で勤め上げれば、みんなから尊敬されるような存在であるはずなのですけれども、菅谷さんは全然違ったんですね。先ほど、ご自分でもおっしゃったけれども、死ぬ時に納得して死ねるのかということが、菅谷さんにとっての凄い大切なことだったわけで。
自分の地位も何もかも全部捨てて、今おっしゃったように、退職金も全部使い果たすという、そういう事でご自分が納得できるような生き方を選ぶということで、ベラルーシに行って下さったわけだし。まさに、菅谷さんは甲状腺のほんとエキスパートだったわけであって、ベラルーシの子供たちにとってはそういう人が来てくれる。そして、菅谷さんが本気でそこで自分の力を使おうとしたわけであって、素晴らしい巡り合いがそこで出来たんだと思いますし、ありがたいことだなあと私から見ると思いました。

いまにし:
はい、菅谷市長どうでしょう?日本にいらっしゃる時は、それまで原発の問題とか、なんかお考えになられる事っていうのはあったんでしょうか?

菅谷市長:
実際、そういうメカニズムっていうのは、一応、話は聞いております。例えば、甲状腺のガンになるメカニズムとか。でも、そういう事よりも、やっぱり本当にガンになってる子供を前にしますと、これはほんとに罪もないと言うか。そういう人に対してこういう事をするっていうのは、いかに放射線物質っていうのは大変な物だ、エラいもんだなあっていうのはやっぱり思いますからねえ。こういうのを実際見てると、これはもう変な話ですけど、やっぱり無くさなきゃいけないなあっていう風には思いますよねえ

いまにし:
なるほどねえ。分かりました。その辺のお話ですね、また後半戦に続けていろいろ伺いたいと思います。前半戦そろそろお時間となりました。この後ですね、お知らせと音楽の後に続けまして菅谷市長、そして小出さんに話を伺っていきたいと思います。

-後半-

いまにし:
今回は長野県松本市からジャーナリストの私、いまにしのりゆきがお届けをしております。ゲストはお二方、松本市長の菅谷昭さん、そして、小出裕章さんにもおいで頂いております。菅谷さん、今年の7月に、またベラルーシの方へ行かれたということなんですけれども、何日間ぐらい行ってらっしゃったんでしょうか?

菅谷市長:
実質的には5日間でしたね。これは、やっぱり行くのに往復でも4日かかる。2日、2日ですから。ですから、大変厳しい日程で行って参りました。

いまにし:
具体的に、ベラルーシ共和国のどちらに行かれたんでしょうか?

菅谷市長:
首都のミンスク、それからあとゴメリー州へ行きまして、ゴメリー市から少し離れた所にある高度の汚染地域です。ホットスポットエリアの方へ行ってきました。

いまにし:
それで、チェルノブイリの原発事故からちょうど30年になるわけなんですけれども。今回、実際に行かれまして、昔、菅谷市長が向こうで医療活動されておられた時と比較してどうでしょうか? 状況は。

菅谷市長:
チェルノブイリの原発から30キロゾーンっていうのは、もう相当高度に汚染されて、今でも居住禁止区域になってますね。ところが、こういう所はあちこちにホットスポットエリアっていうことであるわけですね。あちこちに。ゴメリー市から近くのそのホットスポットエリア前も行ってましたから。4年前に行ってました。今回もどうなってるかっていうことで行ってきました。150キロぐらい離れてたんですよ。

チェルノブイリ原発事故による放射能汚染地図

いまにし:
150キロ離れた所にもホットスポットがある。はい。

菅谷市長:
それは、福島も同じなんですよ。だから、局所的にやっぱり放射能の雨とか雪とかなって、ポンポンとあちこち落ちるもんですから。そうすると、放射性物質のエリアだけ汚染されると。
その所へ行ってきましたけど、結論は、結局、30年経ってももう除染してるんだけども除染しきれない訳ですよね。もう諦めてるわけですよ

ですが、そこはもう相変わらず、国からは住んじゃいけないと。居住禁止区域なんで。ただ、そこにはお年寄りがやっぱり戻って来てますね。もうね。自分のもう汚染地でもいいから、そこで死にたいと。最後は。あるいは、お墓守りたいっていう。そこのおばあちゃんにお会いしましたんですけれども、結局、そこのエリアは3つの老夫婦が住まわれてるんですけど。

いまにし:
3家族。はい。

菅谷市長:
3家族ですねえ。亡くなると、多分そこの村はなくなっちゃうんです。もう除染しきれないんです。

いまにし:
小出さん、今、除染の話が今出ました。今、福島第一原発の事故の後、もう除染をせなあかんということで、あっちこっち除染してます。帰りましょうということを国が呼びかけ始めましたけど、大丈夫なんですかねえ。今の話伺ってて。

小出さん:
まず、今、いまにしさんも除染という言葉を使われましたけれども、相手にしてるのは放射能なんですね。
除染地域
人間には、放射能を消すという力がありません。ですから、言葉の本来の意味で言えば、汚れを除くということは出来ないのです。ある特定の場所にある汚染を別の場所にどっかに移動させるということしか出来ないわけで、今、止む無くそれをやっている。
放射性物質移染
でも、消したわけではありませんから、移動させた放射能のゴミがもうそこら中に積み上がってしまっていて、それをどうしていいか分からないという、そういう状態になっているわけです。そして、今、菅谷さんもお話下さったように、30年経っても除染というか移染がなかなか効果が上がらないというような現実もあるわけであって、福島の場合も、事故から5年経ちましたけれども、まだまだ厳しい状況にある。私達が今、向き合っている一番重要放射性物質はセシウム137という名前の放射性物質で、それが半分に減るまで30年かかる。福島からまだ5年しか経っていないわけで、汚れ自身はまだまだほとんど減っていないという状況なわけですね。
そして、これ皆さんほとんどお気づきになっていないというか、忘れさせられてしまっているのですが、福島第一原子力発電所の事故が起きた当日に、“原子力緊急事態宣言”というものが宣言されました。その為に、今、日本は緊急事態下にあるのだから、これまでの法律を守らなくてもいいということで、様々な特殊法というのが出来て、従来の法律が反故にされてしまったわけですが、その原子力緊急事態宣言は、事故から5年半以上経ってる今も、実は解除されていないのです。
ですから、日本というこの国は緊急事態宣言下にある国なわけですが、この緊急事態宣言は、ではいつ解除できるのかと言えば、先ほど聞いて頂いたように、汚染が半分に減るまで30年もかかるというそういう事なわけで、実は、この緊急事態宣言は今後何十年も解除できない、そういう国だということを私たち日本人はきちっと知らなければいけないし、本当であれば住んではいけない所にたくさんの人々、子供達も含めて捨てられてしまっている緊急事態だという理由で捨てられてしまって、それが今後、何十年も続いていくしかないという、そういう国なのです

いまにし:
はい、分かりました。それでですね、今回、菅谷さん、チェルノブイリ行かれまして、なんかこういう点が今までと変わったなあとか、なんか印象深いような所がもしありましたら、教えて頂ければと思うんですけども。

菅谷市長:
健康に関してですね、向こうでは保健省って言ってます、こっちでは厚生労働省みたいな所ですね。そういう所の国の役人さん、あるいはまた私のお世話になってたがんセンターのドクター達、それから、また一番汚染されてるゴメリー州の州の保健局にも行ってお話を伺いました。国の行政関係の人っていうのは、もう今は汚染の状況も影響も心配ないぐらいなことを言われるんですけども。

いまにし:
なんか日本とよく似てますねえ。小出さんねえ。

菅谷市長:
現地行って、そして保健局の局長さんは前から知ってるもんですから、正直なことを話してくれます。やっぱり、この汚染されたゴメリー州の中でいくと、例えば、大人も含めた方々の4割から6割はもう健康状態が悪いんだと。慢性的疾患があるとか。それから、またある所に行くと、子供達が大変ある意味で元気がないということで、その具体的に、例えば免疫能力が落ちちゃっているから、非常に上気道感染って風邪引きやすいとか治らないとかって、
こういう事があるとか。あるいは、また周産期医療の問題、産婦人科医に聞きますと、やっぱり早産とか死産。あるいは、また先天異常も増えてるとか、こういうのの問題があるとか。

いまにし:
そんな中で、ご専門の甲状腺の方はいかがでしょうか?

菅谷市長:
でね、甲状腺に関しては、子供はもうないわけですよね。基本的には。放射性ヨウ素自身が8日ぐらいでもって半減期が。そうすると、半年ぐらい経つと、その影響力が無くなりますから。甲状腺がんに関しては、子供はもう影響ないと。ところが、今、大人が増えてるんですね。
これは2通りあって、1つはもともとの自然発生ガン。我々でもなるガンはいくらでも起こりますから。自然発生がんと。もう1つが、小さい頃にわずかな被ばくを受けてる子供達が大人になってから徐々にそれがガン化して増えてきている可能性ってあるもんですから。だから、放射線誘発性の甲状腺がんっていう表現しますけれども、それが健診対策しっかりしてくると、やっぱり見つかってくるわけですよね。だから、そういう意味でも今、大人のガンが増えてるんですね。これが、どちらかっていうのは証明できないもんですから。
少なくとも甲状腺がんに関しては、子供は15歳未満の子供はないという。但し、もっと大きな今の20代、30代、40代っていうのは、こういう方々のガンが増えてきてる。ガン、甲状腺はね。でも、それ以外のガンは、他にもいくらもあるわけですから。そういうものが増加してる。でも、本当にこれが放射線の影響がどうかっていうのは、そこの証明がつかないから。あとは疫学的に、今後ずっとしばらく見ていかなきゃいけない。そうすると、向こうのドクター達も言ったのが、「ナガタブレイミアって。時間が必要なんだよ」って言うんですよね。

事故当時14歳以下の子供の甲状腺がんの症例数

いまにし:
ナガタブレイミアっていうのはロシア語ですか?

菅谷市長:
ええ。ブレイミアっていうのはタイムなんですよ。ナーダがニードなんです。ですから、時間が必要なんですよ。「これからもずーっと継続して見るしかない」って言ってますね。

いまにし:
小出さん、これ日本でも福島の事故があって、これ低線量被爆については、これから大きな問題、大きな課題になってくると思うんですけれども。そんな中、さっきも申し上げたようにですね、「いやいや、地元の人にはそろそろ帰りましょう」みたいな呼びかけが始まってる。いや、こんなんで大丈夫なんかなあと本当にヒヤヒヤするんですが。

小出さん:
ヒヤヒヤどころか、本当にひどい国だなあと私は思います。もともとその被ばくというものが危険を伴うということは、もう学問の常識なのです。その為に、世界中で法律で被ばくの限度を定めるというような事をやって、人々をできる限り、被ばくをさせないようにしようということでやってきたわけですけれども、福島の事故が起きてしまった途端に、日本というこの国では、先ほども聞いて頂いたように、緊急事態だということで、被ばくの限度も取っ払ってしまい、一年間にそれまでは1ミリシーベルトが限度だと言っていたのに、20ミリシーベルトまではなんでもない。みんな帰れというようなことを今、日本の国は言っている。そして、一年間に20ミリシーベルトという被ばくの限度というのは、かつて私自身がそうであったように、放射線業務従事者と呼ばれる非常に特殊な人間。
放射線管理区域 勝又進
つまり、仕事として放射線を扱って給料をもらうという、そういう特殊な人間に初めて許した基準を、赤ん坊にも適用してしまうというような事をやろうとしているわけです。今の菅谷さんがおっしゃって下さったけれども、そういう被ばくの所で、どういう障害が起きてくるかということは、私はもう様々なものが出ると思いますが、それが、被ばくと本当に関係してるかどうかということは、いわゆる疫学という学問の分野で証明するしかないわけで、大変長い時間がかかってしまう。そして、時間がかかって証明した時には、もう被害自身は出てしまうという、そういう事になってしまうわけであって、もっと慎重に、注意深く子供達を守るということを本当は国がやらなければいけないと私は思います。


いまにし:
菅谷さん、その低線量被ばくの影響と思われることっていうのが、先ほど、風邪が引きやすいですとか免疫力が落ちるというような話があったんですが、菅谷さん自身も講演で、要するにチェルノブイリエイズなんていう言葉があるということでご紹介されておりますが、この辺について、ちょっと解説頂けましたらいががでしょうか。

菅谷市長:
エイズはご承知の通り、やっぱり後天性の免疫不全という状況ですから、これは、チェルノブイリの場合だったら、その影響、その免疫不全というのは、放射線の被ばくによって人体の免疫系が障害を受ける。結果として免疫不全。それが、チェルノブイリエイズという表現になるわけですね。

いまにし:
なるほど。それは、もうチェルノブイリ周辺では、もう当たり前のようになりつつある?

菅谷市長:
もうお父さん、お母さん達にも4年前にお会いした時も、子供達に対いて免疫機能の検査やってますから。やっぱり、明らかに低いんですよね。

いまにし:
なるほど。例えば、一般の子供さんが100あるとしたら、大体どれぐらいなんでしょうか?
仮に。

菅谷市長:
そういう風に言われたら、相当だから汚染の状況によっても違います。それでもやっぱり、その状況っていうのは、例えば、6割から7割になっちゃうって事ですよね。

いまにし:
そんなに減るんですか?

菅谷市長:
ええ。でも、高度の汚染地の所は、ほんとに変な話ですけど、健康の子供はいないっていうことまで言われるぐらいですから、やっぱり、なんかの病気があるっていうことですよね。それが、免疫状態が低下する以外にも、ほんとに元気がないとか、要するにある意味では、耐久力がないとかね。なんとなく元気がないっていうの、これだから物事が長続きしないとか、いろんな事があるんですよね。だから、そういう風な状況っていうのが、今、小出先生お話になったけど、将来これどういう事出るか分からないですから。だから、僕はそれが誤診かもしれないけども、これがもし誤診で元気な子供に会ったら、こんな嬉しい誤診ですからね
それ今、戻そうと今お話言われたように、僕は考えられないことだなあと思って。今回、ベラルーシに行った時に、そういうドクター達も日本の状況に関心持って知ってるんですよね。「なんで日本はそんな事やってるんだ」って不思議がってますよ。

いまにし:
なるほどねえ。チェルノブイリ周辺で現実問題大変なことになっているわけですから、それを見習えば必然と答えは違った答えが出るんじゃないかという風に考えられておられるんでしょうねえ。おそらく。

菅谷市長:
そうですね。「どうして、もっと厳しくしないか」って言ってますよ。「どうして、日本はあんなに甘いのか」って。だから、僕もう答えられませんでしたよ。そうやって聞かれて

いまにし:
そうなんですねえ。

菅谷市長:
うん。だから、恥ずかしかった。

いまにし:
なるほど。分かりました。それでですね、話少し変わりまして、東日本大震災が起きた福島第一原発が事故というのを聞かれまして、菅谷さんですね、市長としてどういう事やらなあかんと思いましたか?その時は。

菅谷市長:
だから、すぐ子供達守らなきゃいけないと思いました。原発自身の対応っていうのは、小出先生たち専門家がみんなが考えることであって、僕らは向こうに行って、医療者とした時に「絶対にチェルノブイリの二の舞をさせちゃいけないな」ってすぐ思いましたね。だから、子供だけはしっかり考えていかなきゃいけないと思っています。もちろん大人も含めるんだけども。
しかし、子供の方がはるかに感受性高いわけですから。被ばくに対して。だから、僕としては、すぐ避難させるような状況でも、もっと範囲を広げろとか、あるいは、ホットスポットが出てきますよとか、あるいは、あの時はやっぱりヨードの内服をした方がいいんじゃないかとかっていうのは、田舎でもって僕言ったが、ちっとも聞いてくれませんでしたね。こっちで僕言ってましたね。すぐね。こっちの新聞で取り上げて、ホットスポットって言っても、当初分かんなかった。みんな。何の事かって。今、当たり前に言うけど。
それは、僕はチェルノブイリのことで学んでるからそんなまでないし、当初、日本は10キロ範囲で。そんなもんじゃない。50キロだって、まだ駄目だよとか。だから、そんな事ですよね。だから、知らない人がみんなやってたわけですね。実際のところは。口では、放射能災害って対応なんて言ってるけど、いざ起こってみたら出来てなかったから。これは、小出先生なんかが一番よくお分かりと思いますよ。

いまにし:
そうですねえ。
そんな中で、いわゆる市長として原発事故にあたって、松本市ではこういう風に取り組んでいかなければいけない。こういう供えが必要ではないかとか、事故を受けられたその教訓として取り組み始められたことですとか、お考えですとか。

菅谷市長:
そうですね。松本は原発ないですけど。しかし、ご承知の通り、やっぱり新潟の柏崎の刈羽原発とか。

いまにし:
石川県もね志賀原発。

菅谷市長:
志賀原発ある。そして、うちは浜岡ですね。

いまにし:
浜岡から真北ですよね。位置的に言うと。

菅谷市長:
大体あそこから180キロ離れてます。

いまにし:
先ほどおっしゃられたベラルーシ、チェルノブイリでは150キロの所にホットスポット。

菅谷市長:
ありますからね。

いまにし:
はい。

菅谷市長:
200キロ、300キロ飛びますから。だから、それを考えると風向きなんかになりますから。そういうのの対応っていうことで、私はこういう松本市はないけども、早速もうこれ作りましたね。

いまにし:
なるほど、なるほど。

菅谷市長:
ですから、もう災害へんで、これはもう松本市ではもう24年から作りまして、いわゆるその医療救護活動マニュアルで、原子力再編、これ、うちの医師会の先生、或いは、また歯科医師会とか薬剤師会の先生が一緒になって相当しっかり考えてきまして。松本でもそういうことがあったらどうするかとか、或いは、松本避難したら来る人がいたらどうするかとか、こういうようなマニュアル作って、対応に、或いは、今でもそうです。
うちは、ヨード剤をちゃんと備蓄してますからね。観光客のやつも。だから、要りますからね。この時、起こったらどうするかとか、そういうようなやっぱり危機管理とか、そういう事やっぱりやっていかなきゃいけないと思ってるんですよ。ここでも。

いまにし:
小出さん、こういう市長さんがいらっしゃると心強いですね。

小出さん:
松本は菅谷さんがいて下さるし、やって下さってるわけで。でも、松本だけやってもダメなわけですし、もっともっと広い範囲で取り組んで欲しいと思います。

いまにし:
ですよね。こういうチェルノブイリをなんで手本にしないんでしょうねえ。チェルノブイリを手本にすれば、もう少し変わってくると思うんですが。小出さん。

小出さん:
それは、でも昔から日本で原子力をやってきた人達というのは、日本の原子力発電所に関する限り、絶対に事故なんて起きないと言っていたわけですし、「防災計画も不要だ」「住民の避難訓練も必要ない」という風に彼らは言いながら、今日まで来てしまったわけです。残念ながら、福島の事故も起きてしまったわけですけれども。でも、未だに彼らは、原子力発電所を再稼働させる。
或いは、場合によっては、新規に造るというようなことまで言っているわけで、原子力発電所は大丈夫なんだ、そんな危険なもんじゃないんだということをどうしても彼らは言い続けたいわけだし、福島のことも先ほどからいまにしさんもおっしゃって下さってるけれども、汚染地に人を帰してしまう。もう大丈夫なんだというようなことを彼らはやろうとしている。そうなれば、ちゃんとその防災計画を立てるなんていうことは、むしろ、それをやればやるだけ彼らはその危険を皆さんに知らせてしまうことになるわけですから、あまりやりたくない。
知らん顔をして、「安全なんだ、安全なんだ」と今まで通りにいきたいと、たぶん彼らは思っているんだと思います。


いまにし:
なるほど。菅谷市長ですね、そういう今、日本の原子力政策の中で、今年の松本市の平和祈念式典のちょっとメッセージを拝見させて頂きました。その中でですね、今のような原子力政策でいいのかなあというような思いをするような一説もあったんですけれども、その辺について、ちょっとご意見を伺わせて頂きましたらいかがでしょうか。

菅谷市長:
この時は、原爆を含めての核廃絶ということで言いますけど。僕、原発だって核によるものですから、あれ、両方とも核なんですよねえ。なんて言うんですか、訳し方がマズイんで、原発なんてNuclear Plant 、Nuclearなんですよ。あれ。だから、本当は核だと思うんですよ。あれねえ。
そうすると、僕は片方の原爆の時みんなワイワイやるけど、どうして原発の時はあんまり声が上がらないか不思議でならない。僕は、両方とも核なんですよね。で、この2つの物を形が違う形だけど、日本人は2回経験してるんですよね。そうするとね、もっと僕らはある意味で、核がもたらす人類社会への負の側面っていうものを改めて真剣に考えなきゃいけない時が来てると思うんですよねえ。
この辺は、私より小出先生が強く言ってくれてます。僕は本当に正直言ってね、あの子供達の姿見たら、これで核は絶対考えなきゃいけないって、そう思います。

いまにし:
そうですねえ。小出さん、いかがでしょうか?

小出さん:
はい、もう菅谷さんが一番根本的なことを今、おっしゃって下さったわけで、核兵器も原子力発電所も同じNuclearで、もともと同じものなんだということを皆さんちゃんと知らなければいけないし、核兵器には反対するけれども、原子力発電はいいというような考え方、そのものは間違えだということに気がついて欲しいと思います

いまにし:
どうなんでしょうか?チェルノブイリ、ベラルーシではそういう考えはあるんでしょうか?核兵器もダメ、原子力発電もダメという。

菅谷市長:
あれはやっぱり、あの国の体質としては、今そういう事あんまり声上げませんよね。ルカシェンコ大統領が、やっぱりあまり今回の原発事故のことはもう終息したっていう方向でやってるから、あまり言うなと。今回行きましたら、やっぱり原発造るんですよね。

いまにし:
また新しく?

菅谷市長:
ええ。だから、そういう方向ですけれども、国民も今の時点ではあまり言えないんですよね。気の毒だなあと思います。

いまにし:
なんかね、日本とちょっと似たよいうな状況があるわけですよねえ。

菅谷市長:
似てます。そうです。ちょっとねえ。

いまにし:
なるほど分かりました。なんかほんとに、話がなかなかほんとに尽きないんですけども、お時間となってしまいました。今日は、松本市の菅谷昭市長、そして小出裕章さん本当にありがとうございました。これからも、お二人のご活躍をお祈りしております。

菅谷市長:
ありがとうございます。どうも。

小出さん:
ありがとうございました。


プロジェクトX・挑戦者たち
「チェルノブイリの傷 奇跡のメス」


https://youtu.be/hK00Xq8v40w
人類史上最悪の事故と対峙した、一人の日本人医師と、現地の人々の闘いを描く。
1986年、旧ソ連ウクライナ・チェルノブイリ原子力発電所で爆発。大量の放射性物質が発生。風にのった放射性物質は、北方のベラルーシに降り注いだ。その後、この地方の子供たちに甲状腺ガンが多発。
現地の病院では首筋に大きな傷を残す手術が主流だった。
その事実を知った、一人の日本人医師がたちあがった。


DAYS JAPAN 2014年6月版 表紙

解説 チェルノブイリの汚染と福島の現在の汚染
小出裕章(京都大学原子炉実験)

広河さんが視た
チェルノブイリの現在


 DAΥSJAPAN編集長の広河さんは、2014年3月から4月初めにかけて、チェルノブイリに行った。その際、広河さんは、福島でも使用している放射線測定器(ホットスポットファインダー)を持参し、チェルノブイリ原発周辺や10キロ圏の廃墟になった町、30キロ圏の村々の空間線量を測定した。その結果が、本号で詳しく報告されている。
 そこに広河さんが書いているように、福鳥県が、今、学校の施設利用の基準にしている空間カンマ線低率に比べ、チェルノブイリ原発の4号炉そばの線量はずっと低い。また、ウクライナで事故後人が避難し、廃墟となっている村々と同じぐらいの線量のところに、福島では人が住んでいる
 チェルノブイリ原子力発電所事故では、1平方キロメートル当たり15キュリー(55万ベクレル/m^2)以上のセシウム137で汚染された村々から約40万人の人々が強制避難させられた。そして約14万5000平方キロメートルが1平方キロメートル当たり1キュリー(3万7000ベクレルm^2)を超える汚染を受けた。そうした汚染地は、法令に従えば、放射線管理区域にしなければいけない。しかしそこに500万人を超える人々が棄てられた。

環境中での放射性物質の動き
物理的な減衰と環境中での移動


 放射性物質を人間の手で消すことはできない。しかし、それぞれの放射性物質には寿命がある。たとえば、セシウム137は30年経てば、半分に減ってくれる。同じセシウムの同位体であるセシウム134の場合には2・06年経てば半分に減ってくれる。そしてまた環境中では物質は移動しており、基本的には濃密な汚染地から周辺へと汚染は拡散していく。1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故からすでに28年以上の歳月が流れた。そして当初の汚染は、その歳月の流れによってかなり減ってきてくれた。
 セシウム134はセシウム137に比べて約3倍強い放射線を出すが、チェルノブイリ原子力発電所で放出されたセシウム134の量はセシウム137に比べて、約半分だった。それを考慮し、事故直後に1平方キロメートル当たり15キュリー(55万ベクレルm^2)のセシウム137汚染を受けた上地での空間ガンマ線値がどのように推移してきたかの計算値を図1に示す。この図にはセシウムの寿命による減衰のみを考慮した場合と、環境での移動(注1)を併せて考慮に入れた計算価を示した。
 毎時O・6マイクロシーベルトを超える場所は放射線管理区域にしなければならないが、事故直後にはセシウムからだけで毎時3・Oマイクロシーベルトの空間カンマ線量があったはずだし、直後には、寿命が比較的短いその他の放射性核種もたくさんあったためずっと高い放射線量であったはずだ。しかし、10年もたてば、セシウム134も含め寿命の短い放射性核種は次々となくなってきたし、28年たった今では。環境での移動を考慮しなくても毎時0・66マイクロシーベルト、環境での移動を併せて考えれば、毎時O・20マイクロシーベルトまで減っている。
 また、セシウム137について、ある塲所での空間ガンマ線最にどれだけの距離からの汚染が寄与しているかを表1に示す。この表によれば、全体の3分の1の被曝は、測定点から5メートル離れた場所までの汚染から与えられる。また、全体の3分の2の被曝は、30メートル離れた場所までの汚染から来る。逆に言うと半径5メートルまでの汚染をはぎ取って移動させれば、被曝の3分の1を減らすことができるし、30メートルまでの汚染を移動できれば、3分の2の被曝は避けることができる。チェルノブイリの周辺でも、人々が頻繁に立ち入る場所はそれなりに汚染対策が取られたであろうから、図1に示した計算値よりもさらに空間ガンマ線量は減っているはずである。広河さんがチェルノブイリ周辺で測ってきた測定値は、ほぼこうした計算と合致している。

被曝と成長盛りの子どもたち

 ICRPによれば、1ミリシーベルトの被曝を1億人がすれば、5000人ががんで死ぬ。でも、その危険度の評価は、1977年のICRPの勧告では1250人ががんで死ぬというものだった。発がん死危険度の評価価は、歴史が進み、データが蓄積するにしたがって増加してきたし、私が信頼している米国の医学・物理学者、故ジョン・W・ゴフマンによれば4万人である(注2)。そして、図2に示すように、発育盛りの子どもたちは放射線に対する感受性が高い。30歳を過ぎれば、放射線感受性はどんどん低下していくが、そうした世代にこそ、原子力の暴走を許した責任がある。
 放射線に被曝することは、微量であっても被害がある。だからこそ、日本というこの国も被曝について、法令で限度を定めている、一般の人々に対しては、1年間に1ミリシーベルト以上の被曝を加えてはならない。1ミリシーベルトなら安全だからではない。被曝は危険だが、その程度の被曝はその他の危険と比べて我慢できるだろうという社会的な基準である。私のような放射線業務従事者の場合は、1年間に20ミリシーベルト以上の被曝をしてはならないと法令が定めている。それは、他の仕事でも労働災害の危険があるから、放射線を収り扱う労働者もその程度の被曝の危険は我慢すべきだとして定められた
 ところが、福鳥第一原発事故後、日本政府は従来の法令を反故にした。今は、緊急時だから、法令を守る必要がなく、1年間に20ミリシーベルトを超えない場所には、人々に帰還せよと指示を出した。20ミリシーベルトというのは、先に記したように放射線業務従事者に対してのみ許された基準であるが、それを赤ん坊も含め、成長盛りの子どもたちに許容しろというのである。

福島原発事故による汚染

 福鳥原発事故の場合、大気中に放出されたセシウム137とセシウム134はほぽ同量であった。そして、1年間に20ミリシーベルトの被曝をする地は、セシウム137とセシウム134がそれぞれ1平方メートル当たり30万ベクレル、合計で60万ベクレルの汚染地に相当する。そうした場所ではセシウムからだけで、事故直後は毎時2・6マイクロシーベルトの被曝をしていたはずだ。もちろん、他の短半減期の放射性核種の汚染もあったから、事故直後の空間ガンマ線量率ははるかに高かった。しかし、事故後3年以上たった今、すでに空間カンマ線量に問題となるのはセシウム137とセシウム134だけである。その地に棄てられた人々が30年後までにどのような被曝をするかを計算したものが図3である。
 計算に当っては、セシウムの物理的な減衰とともに環境中での移動も併せて考慮している セシウム134からの被曝は、10年以降はほぽ問題にならない。一方セシウム137からの被曝は、環境中で移動する成分からの寄与が比較的早く減るが、その後は長期間にわたって被曝を増加させていく。仮に30年その地で生活すれば、合計の被曝量は70ミリシーベルトを超えるし、その後も被曝は続く。そして、30年間の合計被曝量の半分は事故後5年で受けてしまう。避難するのであれば、最初の5年問が大切なのである。すでに人々は3年を超えて、彼の地に棄てられ続け、一度避難した人たちも帰還せよと国から指示されている。これが法治国家というものか?
 子どもたちには、原子力を暴走させた責任はない。福島原子力発電所の事故に対しても責任がない。そして彼らこそ被曝に敏感で危険を一手に負わされる。子どもたちの被曝を防ぐことは、原子力を暴走させた、あるいはそれを止められなかった大人たちの最低限の責任である。


DAYSJAPAN2014年6月版 小出裕章先生解説_図


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