原爆体験記
178頁より
<小学生>
ああ、父と母 長野ふみ子
当時十歳、愛媛県に疎開中に両親を原爆にて失う。
両親を失った私は、どうしてこんなつまらない戦争をしたのかと思うと腹が立って、腹が立ってし方がありません。この戦争をしなければ、私のお父さんも、お母さんも、生きていらっしゃることでしょう。私は広島市堀川町九番地時計商の二女として生れました。軍と県との関係があったため、両親は私達姉妹が、そかいしている田舎に来ることが出来ませんでした。
昭和二十年八月六日、世にもない、世界で初めての強い力を持っている原子爆弾がこの日の八時十分に落ちたということでした。私はこの時、愛媛県越智郡九和村法界寺という部落にそかいをしていました。それで命だけは助かりました。この時私は九和小学校の三年生でした。ある日、とぼとぼと学校から帰る時でした。お姉さんが私の前を歩いていらっしゃるのに気がつきました。お姉さんは「早く帰っておるすばんをしていなさい」といわれました。私がいそいで友達と帰っていると、何だかラジオで放送しているようでした。立ち止って聞いていたが、何の意味か、よくわかりませんでした。
昼食を食べおえた時、お姉さんらしい足音がしたかと思うと、玄関がガラリとあいて、お姉さんの姿が見えました。お姉さんの顔はいつもの顔とは少し違っていました。私はお姉さんにたずねて見ると、元気のない声で「広島が大爆撃に会ったのよ」といわれた。私はこの話を聞くと、お父さん、お母さんのいらっしゃる我が故郷が、大爆撃に会ったとは大変だ。夢にも、またこんなおそろしい原子爆弾があるとも、しりませんでした。これを聞くと、全身冷たい水をあびたような気がしました。
この事が気になっているうちに、早くも五日がすぎました。お父さんからは、なんのしらせもなく、一通の手紙さえ来ませんでした。それで近所の人は、私のお父さんが死んだものと思って、いろいろなぐさめて下さいました。私はなんだか胸が苦しいような気がし、ほろほろと熱いなみだが、ほおをぬらしました。夕方みんながぞろぞろと帰ってしまうと、いっそう悲しくなりました。お姉さんの顔にはなみだのあと、目が赤くなっていました。その夜、私はなかなか眠れませんでした。ねがえりをうつたびごとに目にたまっているなみだが、右へ流れ左へ流れるのでした。
十八日の朝が来ました。だが学校へ行くのに何だか行く気がしませんでした。学校で遊ぶ時も、なんだか体がだるいようでした。授業が終り、家にかけついた。玄関をおけると、お姉さんが奥から元気のいい声で「ふみちゃん、これ」といわれました。私は何だろうと思いながら、奥にはいりました。手紙です。よむ前に封筒のうらを見た。「あっ」とたまげたひょうしにいそいで中をあけました。これこそ待っていたお父さんからの手紙でした。つぎつぎと読んでいるうちに、(母即死)とかいてありました。私はまた目になみだをためて、今にも声をたてて泣き出しそうでした。しかし、お父さん、お姉さん、お兄さんが残っていらっしゃいます。そして私を導いて下さると思うと、やっとなみだの出るのがやみました。おわりに何日に私達のいる田舎に帰るということでした。妹の顔もうれしそうでした。その日を指おり数えて待っていました。
私は朝から、ぴょんぴょんとはねまわりました。学校から帰ると近所へ遊びに行きました。きゃあきゃあと声を立てて遊びました。するとお姉さんが、「ふみちゃん、俊ちゃん、お父さんよ」とよばれた。私はいそいでまだ小さい妹の手を取って、田舎の坂道を下って行きました。玄関に入るとお父さんの顔が見えました。私はいきなり「お父ちゃん」とさけびました。妹もあとについてきました。お父さんはゆっくりと話されました。
「お客さんとお店で話していると、にわかに外が光った。お父さんは、とっさにえいぎょう台の三角形の空間に体をよせ、そして、お客さんの名をつぎつぎとよんだ。だれも答える者はなかった。しばらくして『おじさん、おじさん』と学生の呼び声に光をむけながらはい上った。『康恵、康恵』とお母さんの名をよばれた。するとかすかなうめき声が聞えた。お母さんは、多くの物の下にかさなり、ぴくぴくと足を動かされていた。その瞬間にさえ、子供達のことを思った。崩壊して通る道もなく屋根瓦づたいに一里半もの道を逃げていった。シャツはよれよれになり、ズボンはバンドがなくなっていたため、かかえるようにして逃げ出した……」これを聞くとこの時の、お父さんの苦心がありありとわかりました。
「きずはかるくて、そのよく日、お母さんの死体をかたづけた。うめていた商品は焼けていた。ただ残ったのは水槽の中のおちゃわん類だけだった。それも、二日目にはだれかが持ち去ったものであろう、残されてはいなかった」お父さんは涼み台に腰をかけ、星をあおぎながら、ぽっきりぽっきりと語られた。
お母さんは失ったけれど、お父さんを与えられた私達の幸福は、しかし長く続きませんでした。
二十九日の朝から家のそうじにとりかかりました。それから障子をはりかえた。すると、お父さんは「さむけがする」といって、ねつかれてしまいました。熱はぐんぐんと高くなり、ねつかれて五日目、「だんだん息が苦しくなる」といわれ、やがて口がきけなくなりました。お父さんは苦しそうに、うなりごえをたてて、たたみの上に手で宇をかいたり、口をもごもごさせて、何かいいたそうにしていらっしゃいました。お父さんは、不思議にも、水まくらを取りかえ、自分の着物を取りかえ、床に入り手を組んで胸の上におき、苦しみの色のあとかたもなく、静かに息を引き取られました。みゃくがとまって、よんで見ると、かすかにうなずかれました。そうして、とうとう私達はあの原爆、ただ一瞬間、ピカ。と来た原爆の光に、両親を失ってしまったのです。
あれから五年、苦しい兄弟の生活は続けられました。何度お父さんがいたら、お母さんがいたら、と考えたかもしれません。けれども一度は別れなければならない生と死との考えも自然に身について、今は静かな涙が流れるばかりです。
私達のような運命の子供達のためにも、原爆は二度とくり返してはならないと心から祈るのです。
NHKスペシャル 1998年8月6日
「原爆投下 10秒の衝撃」
http://dai.ly/xv00ky
ピカドンと呼ばれる原爆。爆発から広島が壊滅するのに要した時間はわずか10秒である。
炸裂前から大量に放たれていた放射線、3秒で地上を焼き尽くした熱線、10秒で広島市の全域をのみ込んだ衝撃波。人々が立ち昇るキノコ雲を見た時、広島は既に破壊されていたことになる。
日米の科学者の協力を得て、広島原爆の惨禍の始まりとなった10秒間を科学的に再現・検証し、核兵器の恐怖を描く。
広島平和記念資料館では展示されない事実を伝え続ける被爆者、三登浩成さん
https://youtu.be/1s3TXZBu2v4
NHKスペシャル 2010年8月6日
「封印された原爆報告書」
http://dai.ly/xkca1f
アメリカ国立公文書館のGHQ機密資料の中に、181冊、1万ページに及ぶ原爆被害の調査報告書が眠っている。
子供たちが学校のどこで、どのように亡くなったのか詳しく調べたもの。
200人を超す被爆者を解剖し、放射線による影響を分析したもの…。
いずれも原爆被害の実態を生々しく伝える内容だ。
報告書をまとめたのは、総勢1300人に上る日本の調査団。国を代表する医師や科学者らが参加した。
調査は、終戦直後から2年にわたって行われたが、その結果はすべて、原爆の“効果”を知りたがっていたアメリカへと渡されていたのだ。
「17000人/70箇所にのぼる子供達の被害の調査が日本調査団により行われた。例えば、1.3Km地点では132人中 50人死亡、0.8Km地点では560人中560人死亡など、建物疎開に動員された子供の死亡率が調査され、まとめられた。世界初の爆心からの距離と人間の死亡率との定量的な相関関係図ができあがった。この相関図は、アメリカ空軍のシミュレーションに活用され、例えばモスクワを攻撃するなら6発、ウラジオストックなら3発など、核戦略構築に活用された。つまり、広島の子供達の犠牲がアメリカの核戦略に貢献した。」
なぜ貴重な資料が、被爆者のために活かされることなく、長年、封印されていたのか?
被爆から65年、NHKでは初めて181冊の報告書すべてを入手。調査にあたった関係者などへの取材から、その背後にある日米の知られざる思惑が浮かび上がってきた。
番組では報告書に埋もれていた原爆被害の実相に迫るとともに、戦後、日本がどのように被爆の現実と向き合ってきたのか検証する。
BS1スペシャル 2016年7月24日
「原爆救護~被爆した兵士の歳月~」
https://youtu.be/-tddmqUFuvw
原爆投下直後、市民救助を命じられた兵士たちがいた。炎と煙の中、負傷者を救い出し無数の遺体を葬った兵士たち。戦後、放射能の影響が疑われる体調不良に苦しむが、差別や偏見を恐れて口を閉ざした。大多数が被爆者手帳を取得しなかったため“埋もれた被爆者”となっていく。やがてガンなどを発症するが、原爆症認定の壁も厚かった。爆心地での救護活動の実態と、被爆地から遠く離れた故郷で暮らす元兵士たちの苦難の戦後を描く。
【語り】光岡湧太郎
世界は広島をどれだけ知っているか
研究グループがデータベース化
(東京新聞【こちら特報部】)2016年5月3日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2016050302000122.html
オバマ米大統領の広島訪問が現実味を帯びてきたが、被爆地の思いは複雑だ。核軍縮の動きは鈍く、被爆者の高齢化は進む一方。「被爆の実相が知られていない」との危機感も広がる。広島では研究者たちが海外で出版された原爆文献リストのデータベース化にも取り組み始めた。世界は被爆体験をどう共有していけるのか。
(白名正和、安藤恭子、中山洋子)
研究グループが
データベース化
「母語で読むからこそ伝わるものがあるんです」研究グループ「リンガ・ヒロシマ」の代表で広島国際大元教授の中村朋子さん(六九)が力を込めた。二年前、ポーランド出身で広島市在住の研究者ウルシユラ・スティチェックさんとともに同グループを結成。国内外の研究者約三十人の協力を得て、各国の図書館の蔵書などを検索し、原爆文献の調査を続けている。
原爆文献 69言語1800点
これまで六十九言語、約千八百点の文献をリストアップしてきた。調査結果は年内にもインターネット上で公開する予定だ。中村さんは「予想以上にたくさんの言語で広島・長崎が語られている。毎日のように増えていく」と感嘆する。
英語が最も多いが、自らも被爆した医師蜂谷道彦氏の「ヒロシマ日記」は二十言語以上に翻訳されていた。被爆した少年少女の体験記を収録した長田新氏の「原爆の子」も多く翻訳され、アイスランドの少数言語の本も見つかった。一方、日本では知られていない作品もある。例えばパキスタン人作家が英語で書いた小説「Burnt Shadows(焼け焦げた影)」は十三言語で出版されている人気作だが、日本語にはなっていない。
リストには、核抑止論の視点で書かれだ本なども加えている。中村さんは「核廃絶が最大多数の声にならない理由を考えるためにはこうした本も大切」こと説明する。
被爆の実相伝えたい
草の根の熱意
大学生のときに姉の夫が原爆症で亡くなり、幼い息子たちを抱えて苦労する姿を間近に見てきた。「広島に住む人間には、核廃絶を強く求める何かしらの原体験がある」と言う。
一九六〇年代から英語の原爆文献のリストアップや解説をライフワークとしてきた。リストはこれまで英語の副読本教材に活用されたほか、原爆文献などにも転載された。「英語だ付では見誤る」と感じる中村さんが、長く温めていた構想が多言語の調査だった。「広島・長崎の体験を人類がどう共有してぎたかを俯瞰(ふかん)できると思た」
原爆文学を研究するスティチェックさんがワルシャワ大の日本学科の大学生だったとき鋩に初めて読んだのも、ポーランド語に翻訳された原民喜(一九〇五~五一)の小説……「夏の花」だった。八六年四月のチェルノブイリ原発事故ではワルシヤワも汚染された。スティチェックさんは事故から五年後に母を喉頭がんで亡くした。「核の被害は人ごとではない。一番心に近い母語で読むから、国境を越えて理解しあえる」と調査の意義を痛感している。
調査からは、反核運動が盛んになった八〇年代に欧州で翻訳が増えた傾向も見えてきたというノ中村ざんは「原書に心を動かされた人々の熱意で多くの翻訳が生まれている。調査から被爆の実相を草の根で届けようとした人々の努力が浮かび上がってくる」と話し、世界が被爆体験を共有する重要性を訴える。
「核なき世界」あきらめない
近年、広島を訪れる外国人は増えている。
広島平和記念資料館の二〇一五年度の外国人入館者は、統計を取り始めた一九七〇年度以降最多の三十三万八千八百九十一人。海外の関心は低くはない。
同館では外国人向けに十六言語の音声ガイドを用意するほか、一五年度から被爆者の声を語り継ぐ「被爆体験伝承者」の英語での講話も実施。約二百回行われたが、本年度はさらに拡充するという。
だが「外国には原爆の被害はまだまだ知られていない」と懸念するのは、広島大名誉教授の葉佐井博巳さん(八五)だ。
原爆投下翌日に市内を歩き回り、十四歳で被爆した。物理学者として放射線を研究する傍ら、修学旅行生や外国人客に体験を話してきた。「ロシア革命や文化大革命について、日本人はその実相をほとんど知らない。それと同じで、自分と直接の関係がなかったら意識することは難しい」とおもんぱかる。その一方、被爆の苦しみを知ることが、核廃絶につながると信じ、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が公開する被爆者の体験記の電子データ化にも協力してきた。体験記は○八年ごろから各国語にも順次翻訳されている。当初は英語や中国語などだけだったが、現在は二十三言語にまで増えた。
関心薄い日本人客 質問も議論もなく
原爆ドーム前に立ち、ボランティアで英語ガイドを続ける元高校教諭の三登浩成さん(七〇)=広島県府中町=も「ここに足を運ぶ人はもともと原爆に関心が強い。来ない人にこそ広島を知ってほしいけれど」とため息をつく。母親の胎内で被爆した三登さんは○六年から、日本人も含めて百六十六カ国約二十六万人を案内してきた。英米よりも多いのがオーストラリアからの訪問者という。「(被爆して白血病を患い十二歳で亡くなった)佐々木禎子さんの話を、小学校で教えているようでした」
むしろ歯がゆいのは日本人客だ。「物見遊山で関心は薄い。現代史を習っておらず、質問もなければ、議論もできない。この間は『東京にも原爆が落ちた』と言っている男子学生さえいた」と嘆く。
先月、米国の閣僚として初めてケリー国務長官が広島市の平和記念公園を訪問。これに続き、今月下旬の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に合わせ、オバマ米大統領の広島訪問も検討されている。広島に再び世界の注目が集まるが、被爆地の思いは複雑だ。
オバマ氏は就任当初の○九年四月、チェコのプラハで「核兵器なき世界」を訴え、その年のノーベル平和賞を受賞した。
前出の葉佐井さんは「演説の理想はほとんど実現されていない。広島に来るなら、なぜ実現できなかったのかを説明してほしい。ただの話題づくりなら、来なくてもいい」と手厳しい。三登さんは、広島県の湯畸英彦知事らが早々に、訪問を期待するオバマ氏に謝罪を求めない考えを示したことにも違和感を抱く。「なぜ被爆者の側から『謝罪しなくて良い』つて言わなきゃいけないの。心からの謝罪があって初めて、核を使わない未来へと進めるはずだ」
オバマ氏に期待 指導者もっと訪れて
医療ソーシャルワーカーとして延べ二万人以上の被爆者と接してきた村上須賀子・県立広島大元教授(七〇)は「ケリー氏には被爆者の声を聞いてほしかった。貧困や差別、家族の崩壊に死への恐怖。原爆がその後の人生に与える苦悩は展示物ではなく、当事者の思いからしか伝えられない」と訴える。
被爆者の平均年齢は八十歳を超えている。村上さんは「やっと原爆を落とした国の大統領が、広島を訪れる機運ができた」と評価する。「核兵器は絶対悪。二度とこのむごい出来事が起きないように、オバマ氏には今からでも力を注いでほしいし、各国の指導者ももっと広島を訪れてほしい。それが、被爆者の無念をすくい上げ、核なき世界へと踏み出すことにつながるのではないか」
注目の人直撃インタビュー
元広島平和研究所所長
浅井基文
オバマ大統領の広島訪問は日米軍事同盟の完成を祝うセレモニー
(日刊ゲンダイ)2016年7月1日
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/184688
今年5月、現職米大統領として初めて被爆地・広島を訪問したオバマ大統領を日本メディアは「歴史的」と大絶賛したが、本当にそうだったのか。09年4月のプラハ演説で目指す――とした「核なき世界」は前進したとはとても思えない。外務省出身の元広島平和研究所所長・浅井基文氏は、オバマ広島訪問を「単なるセレモニー」とバッサリ斬り捨てた。
広島演説はプラハ演説より“退化”した
――オバマ大統領はプラハ演説でノーベル平和賞を受賞しました。しかし、7年経っても米国は「核大国」のまま。5月にスイスで開かれた国連の核軍縮作業部会でも、米国は核兵器禁止条約の制定に反対し、「核なき世界」の実現は程遠い状況です。
まず、プラハ演説の内容をよく読むと、オバマ大統領が言っていることは2つ。ひとつは「核のない世界へ」というビジョン、もうひとつは「私の目の黒いうちは核廃絶はないだろう」ということ。つまり、核廃絶の理念は掲げるが、すぐにはできない――とハッキリ言っているわけで、実際、この7年間を振り返っても核軍縮に向けた取り組みは何ひとつありません。
――全く何もやっていない?
オバマ大統領が核関連の政策でやったことといえば、核保安サミットを開き、テロリストに核分裂物質が渡らないようにする国際的な仕組みをつくったことぐらい。あとはクリーンエネルギーと称して原発を推進した。しかし、原発はプルトニウムを生み出す機械ですから、潜在的な核拡散です。その意味ではプラハ演説と真逆のことをやったわけです。
――「核なき世界」どころか核を推進した。
そうです。例えば、オバマ大統領は、ミサイル防衛システム(MD)を推進しました。彼はイランや北朝鮮に対抗するため、と言っていますが、本当の“狙い”はロシアと中国です。つまり、MDで先制攻撃を未然に抑え込んで米国の核兵器に絶対的有利な環境を確立しようとしている。その結果、どうなったかといえば、ロシアや中国をますます警戒させることになりました。ロシアのプーチン大統領は米国に対する核攻撃力をさらに高めようとしているし、中国も韓国へのMD配備に神経をとがらせています。そう考えると、オバマ大統領の核政策はマイナス評価しかできません。
――そのオバマ大統領の広島訪問をどう評価していますか。
この7年間、核廃絶に向けた具体的な取り組みは何もなく、当然、実績もない。それをあらためて確認することにもなるため、ある意味、非常に不格好な訪問でした。彼としては、核廃絶の「ビジョン」を繰り返すこと以外、訪問にメリットはなかったと思います。
――それなのになぜ、オバマ大統領は広島に行ったのでしょうか。
私は安倍政権が米国側に積極的に働きかけたのではないかとみています。安倍政権は集団的自衛権の行使を閣議決定し、安保法制をつくった。その結果、米国の戦争に日本が積極的に加担することになりました。日米同盟はNATO(北大西洋条約機構)並みの軍事同盟になったわけです。安倍政権は、日米軍事同盟の完成を祝うセレモニーとして広島訪問を演出した。「日米軍事同盟は平和のため」とアピールするためです。
――日米同盟が強化された“ご褒美”みたいなものですか。
オバマ大統領にとっても決して悪い話ではない。しかも、プラハ演説で始まり、広島演説で終わるということは、「核なき世界」というオバマのビジョンを世界にあらためて発信する効果も期待できる。つまり、広島訪問とは、ありていに言えば、セレモニーであり、アリバイづくりでもあった。だから、原爆資料館もわずか10分そこそこで出てきた。おそらく、入り口近くの大きなパノラマ展示品を見ただけで戻ってきたのでしょう。
――それでも広島県民、市民は歓迎ムード一色でした。
「ノーモア広島」を訴えてきた歴史を考える時、広島市民がもろ手を挙げて喜ぶ姿には違和感を覚えました。まがりなりにも広島は、タテマエは核廃絶を訴えつつ、ホンネは米国の核の傘におんぶにだっこという二重基準の日本政府に対する対抗軸でした。そこに広島の存在理由があり、だから世界の核兵器廃絶運動も広島をメッカと位置付けてきたわけです。
しかし今回、その二重基準の日本政府がお膳立てしたオバマの広島訪問を無条件で受け入れることで、広島は核廃絶運動のメッカとしての立場を自ら捨ててしまった。これは「ノーモア広島」どころか、真逆の方向です。今後、世界の広島を見る目は変わっていくでしょう。
――オバマ大統領の広島演説は「歴史に残る」といわれています。
先ほども言いましたが、核廃絶の実績は何もないため、広島演説はプラハ演説より“退化”せざるを得ませんでした。だから、内容は極めて抽象的で、過去の追憶と理念を17分間話しただけです。あの演説のどこが格調高い優れたものなのか。私には分かりません。
――被爆者の肩を抱く姿もテレビなどで繰り返し報じられていました。
オバマ大統領の人間としてのヒューマニズムにケチをつけるつもりはありません。しかし、米国大統領の広島訪問というものが、あの1枚の写真で美化されるというのは、あまりにも物事の本質のすり替えが行われているような気がします。
――メディアは広島訪問が決まった時から「歴史的訪問」と大騒ぎし、当日はNHKが特番で生中継しました。メディアの取り上げ方、報道のスタンスについてどう見ましたか。
メディアの「ヒロシマ」の取り上げ方はいつも同じで、今回が突出していたわけではありません。つまり、彼らにとって(1945年に広島に原爆が投下された)8月6日というのは、しょせんは「ハチロク」という名の行事、イベントなんです。(広島平和研究所の)所長時代、毎年7月になると、各メディアが「今年の目玉は何ですか」と尋ねてきて閉口しましたが、今回もその延長であり、彼らは特別なイベントとして扱ったと思います。
――メディアは安倍政権発足以降、とりわけ劣化が著しいと指摘されていますね。
今日の日本メディアの体質で、最も病的だと感じるのは、政権側から流れてくる空気に決して抗わず、自己規制する姿勢です。対照的なのは欧米メディアです。権力に対して「報道の自由」という基本的権利を勝ち取ってきた歴史を持っているため、ワシントン・ポストのような保守系メディアであっても、権力が誤った方向に進んでいる――と判断すれば厳しく追及する。
ところが日本メディアはそういう気概がありません。欧米と異なり、「報道の自由」は戦後憲法によって与えられたもので、自ら勝ち取った歴史がないからです。政治的空気が変われば自然と報道姿勢が変わっていく。これが日本メディアの体質なんです。歴史を振り返れば「二・二六事件」で、将校が輪転機に砂をぶっかけた翌日から報道内容が変わっちゃったわけですから。
日本国憲法は世界を脱軍事化に導く指針
――時の権力とメディアが同じ方向を向くと戦前に逆戻りです。また先の大戦のような展開になるのでしょうか。
今の世界は、経済を見れば分かる通り、国際相互依存でがんじがらめの状態です。米中間で銃声が一発鳴り響けば、あっという間に世界はぺしゃんこになる。もはや大国間の軍事衝突はあり得ず、世界は脱軍事化に進まざるを得ません。これは誰でも分かるはずなのですが、残念ながら政治が追い付いていないのです。
そこで今こそ、私は日本の出番だと思っています。日本国憲法は(施行された)1947年当時は「理想の産物」だったかもしれないが、今は世界を導くもっとも現実的な指針です。この憲法に基づき、日本が率先して軍事力を廃止しようと声を上げるべきです。日米軍事同盟を終了すれば、中国の対日姿勢もやわらぐでしょう。日本が率先して非軍事化の声を上げることで世界はガラリと変わっていくと確信しています。
(聞き手=本紙・遠山嘉之)
▽あさい・もとふみ 1941年、愛知県生まれ。東大法中退後、外務省入省。国際協定課長、中国課長などを経て、東大教養学部教授、広島市立大学広島平和研究所所長などを歴任。主な著書に「すっきり!わかる 集団的自衛権Q&A」(大月書店)、「ヒロシマと広島」(かもがわ出版)など多数。
NNNドキュメント 2016年7月31日
隠された被爆米兵 ~ヒロシマの墓標は語る~
http://dai.ly/x4mm5jj
広島の原爆で死亡した12人の‘被爆米兵’。その存在を調べ続けた被爆者がいた。日本とアメリカを取材し彼らの足跡をたどる。今も複雑な思いを抱く遺族の本音とは。
オバマ大統領が広島を訪問し、1人の被爆者と抱擁する映像が全世界に流れた。森重昭さん、広島の原爆で死亡した12人の知られざる‘被爆米兵’の存在を調べてきた。自国民をも犠牲にした原爆。日本とアメリカを取材し‘被爆米兵’らの足跡をたどる。今も複雑な思いを抱く遺族たちの本音とは。そして森さんの願いとは。12人もともに眠る原爆碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」-そのために私たちは今、何をすべきか。
ヒロシマの記憶 原発の刻印
http://www.yuubook.com/center/hanbai/syoseki_syousai/syousai_hiroshimaki.html
肥田 舜太郎 著
被ばくの歴史の「学び」
それなくして未来はない。
ヒロシマ・ナガサキに原爆を投下された日本に、どうしてこれだけの原発が建っているのか?
どうして一部の政治家が日本は核武装すべきだと公言して、それが野放しになっているのか?
原爆被害の生き証人である肥田舜太郎の実体験から学ぶ、核の本質、原爆の地獄。
「核は、人が死ぬからだめなんだと、そう言おう」
広島原爆の被爆者の診療に軍医としてあたって以来、今日まで世界各地の放射線被害を見続け、被ばくを広島・長崎への原爆投下を起点として、歴史的にとらえていくことの大切さを訴えてきた貴重な証言者、被爆医師・肥田舜太郎、渾身のメッセージ。
目次より
●「ヒロシマの記憶 原発の刻印」
●「戦後にっぽん「放射線安全ムラ」形成史」(特別寄稿 堀田伸永)
原爆体験記
256頁
なにを記憶し, 記憶しつづけるべきか?
大江健三郎
われわれがこの書物を読み、この書物にみなぎっている人間的な叫び声を忘れさってしまうとしたら、それはわれわれが、今日の核兵器の問題のはらんでいる悲惨と恐怖とにおびえるあまり、意識してそれを回避したとみなすべきだということを、ぼくは強調しておきたいと思います。その場合、すべての責任はわれわれにあり、そうしたわれわれを、弁護できるものはいないでしょう。それこそは戦後二十年の歴史において、広島・長崎の原爆の経験をもつ日本人がみずからに対しておこなう、最悪の背信行為というべきではありますまいか?
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今は静かな涙が流れるばかりです…(´;ω;`)
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