自由なラジオ Light Up! 019回
「 自然エネルギーなら戦争は起きない。原発ゼロの先を行け! ~『弱い人、困っている人を助ける弁護士』が気づいたこと 」
https://youtu.be/Gwb3nh55l9Q?t=18m33s
第019回Light UP!ジャーナル
身近な放射線管理区域とその情報公開のあり方
http://jiyunaradio.jp/personality/journal/journal-019/
木内みどり:
今日も元京都大学原子炉実験所の小出裕章さんにお電話でお話を伺います。こんにちわ、小出さん。
小出裕章さん:
はい。こんにちわ、みどりさん。
木内:
ありがとうございます。まず、参議院選挙、本当に熱い熱い選挙が終わりましたけれども、鹿児島県知事に脱原発の知事が誕生したのは嬉しかったですね。
小出さん:
そうですね。全体で言えば、本当に悲しくなるような結果でしたけれども。
木内:
本当です。
小出さん:
鹿児島県知事選で脱原発の方が当選して下さいましたし、沖縄、福島とかで、現職を破るような形になって、大変そういう事に関してはよかったと思います。
木内:
嬉しいことだけ大きく見て、悲しいことはちょっと小さめに感じようと私も決意しました。
小出さん:
はい。そうですね。私もそうしたいです。
木内:
今日は、このことについてお伺いします。京都大学附属病院で火事があったそうなんですね。7月1日のことのようです。
https://youtu.be/cEBnMcVHlKU
放射線物質を扱う実験室が全焼、で、この火災によって放射線がでたようなんですけれども。その放射線量の測定が、火事が鎮圧してからなんと4時間後で、それを公表されたのが3日後という対応だったそうなんですね。この原子力関連施設の情報公開のあり方、そのスピードについて小出さんにお伺いしたいんですが、どう思われますか?
小出さん:
一言で言えば、もっと迅速にすべきだなと思いますけれども、病院にはいわゆる放射線管理区域というものが結構あります。例えばX線の撮影室であるとか、CTの撮影室であるとか、そういう所は放射線の管理区域なのです。
ただし、それは放射線の管理区域であって、そこで放射性物質を取り扱っているようなことはないのです。今回火事になった所は、放射能そのものを取り扱うというそんな実験室だったのです。
木内:
火災があった7月1日の午後11頃に放射線量を調べましたら、いっとき毎時16シーベルトあったと言うんですけれども。
小出さん:
今、みどりさんが16シーベルトとおっしゃいましたけれども、単位がちょっと違っていまして、正確に言うと、毎時16マイクロシーベルトです。マイクロですから、100万分の1という意味ですね。いわゆる放射線物質、放射線を取り扱うという現場では、時に、この程度の放射線量率は存在しています。
例えばですね、日本の法律で言うと、1時間あたり0.6マイクロシーベルトを超えるような場所は放射線管理区域にしなければいけません。私がいた京都大学原子炉実験所でも、1時間あたり0.6マイクロシーベルトを超えるような場所は管理区域です。管理区域の中でも高い低いがある訳ですけれども、1時間あたり20マイクロシーベルトを超えるような場所は、高線量区域と呼んで、実験者に注意を促して、立ち入り制限をするとかいうことを私の職場ではやっていました。ですから、1時間あたり20マイクロシーベルトなら高線量区域にした訳ですから、今回の場合は、1時間あたり16マイクロシーベルトなので、かなり管理区域の中でも、放射線量の高いの場所があったということだと思います。ただし、取り扱っていたインジウム111という放射性物質も、
もう1つトリチウムという放射性物質も使っていたのですが、総量がこういう言い方はあまりよくないですけれども、福島の事故なんかに比べれば本当に微々たるものであって、周辺の方々に大きな危害を加えるというような量ではもともとなかったのです。ですから、病院側もそういう事をふまえた上で、まずは火災を鎮火して原因を究明して、それから記者会見ということにしたのだと思いますが、はじめに聞いて頂いたように、やはりもっと迅速にすべきだったなというのが私の感想です。
木内:
はい。ありがとうございました。
それでね小出さん、今日はスタジオに弁護士で映画監督、映画監督で弁護士さんの河合弘之さんがおいで下さっています。いつもいつも小出さんは、「日本の司法に絶望している」と「信じない」と発言されていらっしゃいますけれども、小出さんは河合さんとはもちろん交流は深いですよね?
小出さん:
はい、何度もお会いしています。河合さんも原子炉実験所まで来てくださったこともあります。
木内:
そうですか。
河合さん:
こんにちわ、河合です。どうも。
小出さん:
こんにちわ、ご無沙汰しておりました。
河合さん:
ご無沙汰しております。小出さんのね映画の中で、やっぱり非常に重要な位置を占めてましてね。「原発なんか止めたって、全然電気なんか足りなくないんだよ」と「停電なんておきてないじゃないか」と言うのをね、グラフを以って示してくれて、ああいう分かりやすい説明って凄くねいいんですよね。
小出さん:
ありがとうございます。私も何とかごくごく普通の方々に、曇りのない目で事実を見てほしいと思ってきましたし、その為に、私自身も工夫を凝らしながら、皆さんにどうやって伝えるかと考えてきたのですけれども。でも、河合さんの映画などを見ていると、凄いなあと私も思いました。
木内:
本当ですよね。映画の中で、白板に文字を書きながら説明したっていうのは、もう前代未聞だったと思いますけれども。
河合さん:
あれはね、アル・ゴアのまねなんだよ。アル・ゴアの「不都合の真実」で。
木内:
なるほど。不都合の真実で。なるほど。そんな事言わなければ分からないのに。河合さん。というわけでした。今日も、小出裕章さん、ご出演ありがとうございました。また、出てくださいね。
小出さん:
はい、よろしくお願いします。
木内:
ありがとうございました。
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平和の泉
のどが渇いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
―あの日のある少女の手記から
ロザリオの鎖
永井隆
ロザリオの鎖 より(原爆投下、そのとき…)
八月八日の朝、妻はいつものように、にこにこ笑いながら私の出勤を見送った。少し歩いてから私はお弁当を忘れたのに気がついて家へ引き返した。そして思いがけなくも、玄関に泣き伏している妻を見たのであった。
それが別れだった。その夜は防空当番で教室に泊まった。あくる日、九日。原子爆弾は私たちの上で破裂した。私は傷ついた。ちらっと妻の顔がちらついた。私らは患者の救護に忙しかった。五時間ののち、私は出血のため畑にたおれた。そのとき妻の死を直覚した。というのは妻がついに私の前に現われなかったからである。私の家から大学まで一キロだから、這って来ても五時間かかれば来れる。たとい深傷を負うていても、生命のある限りは這ってでも必ず私の安否をたずねて来る女であった。
三日目。学生の死傷者の処置も一応ついたので、夕方私は家へ帰った。ただ一面の焼灰だった。私はすぐに見つけた。台所のあとに黒い塊を。──それは焼け尽くして焼け残った骨盤と腰椎であった。そばに十字架のついたロザリオの鎖が残っていた。
焼けバケツに妻を拾って入れた。まだぬくかった。私はそれを胸に抱いて墓へ行った。あたりの人はみな死に絶えて、夕陽の照らす灰の上に同じような黒い骨が点々と見えていた。私の骨を近いうちに妻が抱いてゆく予定であったのに──運命はわからぬものだ。私の腕の中で妻がかさかさと燐酸石灰の音を立てていた。私はそれを「ごめんね、ごめんね」と言っているのだと聞いた。
長崎原爆爆心地標識
長崎原子爆弾落下中心地碑版
NHKスペシャル 2014年8月9日
「知られざる衝撃波 ~長崎原爆・マッハステムの脅威~」
https://youtu.be/6K2rY3QP97Y
69年前の夏、長崎を襲った原子爆弾。町も建物もことごとく壊滅したため調査の糸口がなく、その詳しい破壊のメカニズムはわかっていなかった。そうした中、去年(2013年)、長崎原爆の破壊力を解明する手がかりが見つかった。
原爆投下直後に長崎入りした学術調査団が残した34点の写真。
着目しているのは爆心直下ではなく、爆心500m地点だ。爆心地の500m先で突如、爆風の威力を増幅させる圧力波「マッハ・ステム」が立ち上がり、破壊力を増した爆風がドーナツ状に壊滅的被害を広げていく様を捉えていた。
爆心地の西500m、旧・城山国民学校を写した1枚は、鉄筋コンクリート建て校舎が湾曲し、厚いコンクリート壁が跡形もなく粉砕されている。死者138人。遺体の半数近くが爆風によって激しく損壊していた。
番組では、新たに発掘した写真や証言記録などをもとに、138人が死亡した城山国民学校の惨状をCGで再現、長崎原爆の破壊メカニズムを徹底的に分析。
69年前のあの日、爆心500mで何が起きていたのか。核兵器の非人道性の原点に迫る。
慶大研究員・高山真さん調査
聞き手が「被爆者になる」
長崎の語り部から見えてくる「継承」
(東京新聞【こちら特報部】)ニュースの追跡 2016年8月8日
被爆七十一年の広島や長崎は、語り部が高齢化から減り、記憶の継承が課題となっている。長崎の被爆者から長年、聞き取り調査をしてきた慶応大大学院の訪問研究員、高山真さん(三七)=写真=は、ある語り部の「被爆者になる」との言葉に注目する。
(三沢典丈)
高山さんは長崎大の学生当時、平和団体主催の中国ツアーに参加した。そこで慰安婦の証言を聞いたことをきっかけに「本来なら語りたくない極限的な体験をした人が、それをどう言葉にするのか」に興味を持ち、二〇〇五年から長崎の被爆者たちから聞き取り調査を始めた。0八年から六年間は、長崎に転居して取り組んだ。
高山さんはまず二人の語り部に注目した。十三歳の時、爆心地から一・三㌔で被爆して母親や友人を亡くしたTさんと、八歳の時に爆心地から四・三㌔で被害に遭ったものの、家族などは無事だったYさんだ。
Tさんは、自らの体験を芝居でリアルに再現しようとしていたのに対し、Yさんは自分や自分より悲惨な被爆者の証言と、遺構めぐりを組み合わせ、平和教育として行っていた。
広島の被爆者の研究からは、より爆心地の近くで、より高い年齢で被爆した人ほど、「体験の価値」が高いという一種の序列が意識され、語り方にも影響することが分かっている。
高山さんは「長崎の被爆者も同様の序列を意識しており、TさんとYさんの語り方の違いとして端的に表れていた」と語る。
二人とも体験の継承に熱心な語り部だったが、高山さんは調査を続けるうちに「Tさんは、忠実に体験を再現するあまり、当時を知らない人からは、特別な存在と見なされてしまう傾向がある。一方、Yさんの語りは分かりやすいが、平和の大切さを伝えるという理念に傾く分、自分固有の体験が埋没してしまう。どちらも、十分に被爆体験が伝えられない可能性がある」ことに気づいたという。
この二つの代表的な方式を乗り越える語り方はあるのか。その問いにヒントを与えてくれたのが、十五歳のときに爆心地から四・八㌔で被ぱくしたMさんだった。自分の体験でも極度に深刻にならず、距離を置いて話す姿勢にひかれ、何度も会ううちに、Mさんは自分の生き方を「被爆者になる」と表現した。
もちろん、被爆者援護法上の意味ではない。高山さんは最初、意味が分からなかったが、やがて「自分の体験を語るだけでなく、他の被爆者の話も聞き、心の傷に思いを寄せるなどして自らの被爆体験を深め、生き方に反映させること」だと分かったという。
高山さんの近著「〈被爆者〉になる」(せりか書房)は三人の被爆者との十年にわたるインタビューの分析から、被爆体験を継承する可能性に迫った。今後、語り部から被爆体験を聞く人に、こう助言する。
「語り部に同情したり、平和の大切さを確認するだけで終わりにしない。わずかでも、自分の意識が変化した部分を捉え、そこから自分の生き方を見つめ直すことが大事だ。それが、被爆者とのコミュニケーションの回路を開くことにつながる」
高山さんの提案は、聞き手自身が「被爆者になる」試みともいえそうだ。
原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼
ETV特集 2016年8月6日
54枚の写真~長崎・被爆者を訪ねて~
http://dai.ly/x4nkji4
去年、アメリカ国立公文書館で、長崎の被爆者を写した54枚の写真が発見された。ある女性は、泣いているような表情で、まっすぐカメラを見据えていた。ケロイドをさらした少年の姿もあった。敗戦直後の1946年、47年、写真は何のために撮影されたのか。担当したABCC(原爆傷害調査委員会)は、その後、放射線影響研究所となり、放射線リスクの基準作成に携わっていた。54枚の写真をもとに被爆者たちの戦後を訪ねていく
Medical Aspects of the Atomic Bomb, Nagasaki, Japan, 11/12/1945
(長崎原子爆弾投下の医学的側面)
https://youtu.be/G4-nNQTYmmo
語り続ける原爆小頭症の患者さんたち
(東京新聞【こちら特報部】)2016年8月7日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2016080702000153.html
「原爆小頭症」を知っているだろうか。広島、長崎に原爆が投下された際、母親の胎内で被爆した人たちだ。今年で七十歳を迎えた最も若い被爆者たちだが、戦後の差別で近親者たちが隠したこともあり、あまり理解されてこなかった。全国に十九人いる認定患者の一人、吉本トミエさん(70)は六日、広島市内で「私のような苦しみが二度と生まれないように」と、原爆に翻弄(ほんろう)された人生を若者らに語った。
(安藤恭子)
胎内被爆手術42回でも治らず
「原爆がなかったら、私も、もうちょっと幸せになれたんじゃないのかな。皆さんを同じような苦しい目に遭わせたくないな…と思ってね」
広島市内で六日、市民団体による三十五回目の「8・6被爆証言のつどい」が開かれた。二十人以上の学生らに囲まれ、車いす姿の吉本トミエさんは優しい口調で語りかけた。
原爆小頭症とは、妊娠早期の母親の胎内で被爆したために頭が小さく生まれ、知能や身体の障害を伴う病気のことだ。吉本さんも生まれつき右足の股関節脱臼があり、腎臓や肝臓の機能も弱い。厚生労働省によると、認定患者は現在、全国に十九人。吉本さんら十二人は広島県内で暮らす。
吉本さんは七十一年前の八月六日、広島の爆心地から一・二㌔の自宅にいた母親の胎内で被爆し、翌年の二月に生まれた。うまく歩けず、学校ではいじめられ、親族からも疎まれた。
五歳違いの妹は六歳で亡くなった。母から「おまえが死ねば、よかったのに」となじられた。パン職人だった父は被爆で体調を崩し、酒を飲んでは暴れた。中学二年のとき、母は家を出て行った。
中学を卒業して理容師になったが、身長は一四五㌢と小柄なままだった。二十歳のときに医師から「足の障害は胎内被爆が原因だろう」と診断された。
「受け入れられず、将来が不安になった」と振り返る。職場からも解雇され「全てを捨て去りたい」と大阪へ出て行った。被爆を隠して二十四歳で結婚したが、流産を繰り返した。
反発してきた母は、二〇〇〇年に八十歳で亡くなった。その前年、入院していた母に付き添った吉本さんは、無数のガラスが刺さった母の胸の傷痕を見た。
「爆風で飛んだガラスが入ったままなんよ」。母は初めて自分が被爆した状況を吉本さんに明かし、トミちゃん、すまないね。苦労をかけたね」とわびた。吉本さんも「私も戻らなくてごめんね」と返した。(;_;)
吉本さんは一男一女に恵まれたが、夫とは離婚した。子育てのため、無理をして清掃員や皿洗いなどをしていたことがたたり、足の具合が悪化した。
手術を四十二回も繰迴返したが治らず、いまも激痛やしびれが走る。再婚した夫の死を区切りに、一三年に広島に帰った。
証言のつどいで、お母さんに謝られた際の気持ちを参加者から尋ねられた吉本さんは「毋の苦労を知り、私は救われたような気がした」と穏やかに答えた。
この日、車いすの吉本さんに付き添った長女の清美さん(三四)には発達障害があり、将来についての不安もよぎる。それでも言う。
「被爆しても子どもができて、それが生きる勇気になった。足が痛くて死にたいと思うときもあるけれど、子どもがいるから希望をもって頑張っている。楽しいこともあった」
「同じ苦しみ生まぬように」
貧困、差別、死への恐怖…
つどいには、広島市の原爆小頭症患者で、知的障害と身体障害がある川下ヒロエさん(七〇)も参加した。
〽ฺ原爆ドームに やっと光が届く
小さな花も 命の限り咲いている
ガレキの中でそっと 母子草の花も咲く
この小さな花たちの 命を消さないでね
一四年に九十二歳で亡くなった母の兼子さんを思い、川下さんが書いた詩だ。メロディーをつけた歌のCD「この小さな花たちの」が会場に流れ、吉本さんが口ずさむと、川下さんはぼろぼろと涙を流した。
吉本さんらの話に聴き入った広島文化学園大学一年の森脇未来さん(ニー)は「障害だけじゃなく、いじめとか家族とのけんかとか…。原爆は病気だけでなく、人生にも影響するものだと知った」と感想を述べた。
新潟市の中学三年、堀川夏実さん(一五)は「自分が一緒に人生を体験しているように感じ、苦しくなった」と声を落とし、京都市の佛教大学四年、木村史奈さん(ニー)は「生きていく強さを感じた。もっと体験を聞いてみたい」と語った。
「小頭症の患者たちは、原爆の惨禍を見たわけじゃない。でも、被爆二世でもない。お母さんのおなかの中で一緒に放射線を浴び、複合的な障害を受け、社会の冷たい目を浴びた。原爆を語れなかった患者たちの生活の苦悩もまた、原爆の被害の証しなんです」
この日のつどいの司会を務めた村上須賀子・元県立広島大教授(七一)=同県廿日市市=はそう話す。
患者らの話を聞いて悩みを軽減する医療ソーシャルワーカー(MSW)として、延べ二万人以上の被爆者と接してきた。三十三年前からは、小頭症患者と家族でつくる「きのこ会」の活動も支援してきた。
原子雲の下で生まれた命でも、元気に育ってほしい-。きのこ会はこんな思いから名付けられた組織だ。発足は一九六五年。会の母親たちは全員、爆心から一・五㌔ほどで被爆した人たちだった。六月の総会で誕生日を祝うのが恒例となっており、今年も患者九人が集まり、そろって七十歳の誕生日を喜んだ。
小頭症の患者には母子家庭が多かった。きのこ会は、差別や偏見による親の孤立を交流で解消するとともに、国の援護拡大や核廃絶を求めて活動してきた。
同会の要請もあって、小頭症は原爆投下から二十年以上たった六七年、「近距離早期胎内被爆症候群」という名で、ようやく国の認定対象となった。
村上さんは「小頭症の症状は多様で、個人差も大きい」と指摘する。吉本さんのように子どものいる患者もいれば、重度の障害があり、自立できない患者もいる。村上さんは必要な患者への支援を行政に要望し、小頭症の子とその家族の生活史を記録に残そうと努めてきた。
老い迎え生活の支援課題に
「きのこ会の母親の大半は、自らも被爆の不安を抱える中で、障害のある子を産むことになった。貧困や差別を受け、家族はばらばらになり、死への恐怖もずっと付きまとう。原爆がちたらすものは、障害にとどまらない」
きのこ会の親たちは既に全員が亡くなったという。小頭症の患者が老いを迎えている現在、どのように今後の生活を支援していくかが課題になっている。村上さんはこう訴えた。
「爆弾を落とすのは、簡単なことだろうが、その被害はずっと続いている。原爆を背負い、生まれてきた小頭症の患者たちの長い人生を誰が見てくれるのか。患者たちが味わってきた戦後の苦悩を記録し、伝えていくことは、次の世代を支え、核を廃絶する力になると信じている」
NHKスペシャル 2016年8月6日
「決断なき原爆投下~米大統領 71年目の真実~」
http://dai.ly/x4nn2lb
「原爆投下は戦争を早く終わらせ、数百万の米兵の命を救うため、2発が必要だとしてトルーマンが決断した」。
アメリカでは原爆投下は、大統領が明確な意思のもとに決断した“意義ある作戦だった”という捉え方が今も一般的だ。その定説が今、歴史家たちによって見直されようとしている。
アメリカではこれまで軍の責任を問うような研究は、退役軍人らの反発を受けるため、歴史家たちが避けてきたが、多くが世を去る中、検証が不十分だった軍内部の資料や、政権との親書が解析され、意思決定をめぐる新事実が次々と明らかになっている。
最新の研究からは、原爆投下を巡る決断は、終始、軍の主導で進められ、トルーマン大統領は、それに追随していく他なかったこと、そして、広島・長崎の「市街地」への投下には気付いていなかった可能性が浮かび上がっている。それにも関わらず大統領は、戦後しばらくたってから、原爆投下を「必要だと考え自らが指示した」とアナウンスしていたのだ。
今回、NHKでは投下作戦に加わった10人を超える元軍人の証言、原爆開発の指揮官・陸軍グローブズ将軍らの肉声を録音したテープを相次いで発見した。そして、証言を裏付けるため、軍の内部資料や、各地に散逸していた政権中枢の極秘文書を読み解いた。
「トルーマン大統領は、実は何も決断していなかった…」
アメリカを代表する歴史家の多くがいま口を揃えて声にし始めた新事実。71年目の夏、その検証と共に独自取材によって21万人の命を奪い去った原爆投下の知られざる真実に迫る。
いとし子よ
永井隆
より
「いとし子よ。
あの日、イクリの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一よ、カヤノよ。お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世に留めて、ついにこの世から姿を消してしまった。そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?――原子爆弾。・・・いいえ。それは原子の塊である。そなたの母を殺すために原子が浦上へやって来たわけではない。
そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。」
「戦争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこんな大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。そうして、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、―戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしよう!
そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくなってくるのである。どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?」
「私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。…
わが子よ!
憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。」
「しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。
日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出ないとも限らない。そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。」