オレたちが
この世から
滅べば
汚点が消えたと
笑うやつらが
いる
笑わせて
たまるか
生きてやれ
谺雄二
相模原19人殺害事件の容疑者の背景について。- 2016.07.26
https://youtu.be/Z0YhS8_-Fc4
障がい者大量殺害、相模原事件の容疑者はネトウヨ? 安倍首相、百田尚樹、橋下徹、Kギルバートらをフォロー
(リテラ)2016.07.26
http://lite-ra.com/2016/07/post-2447.html
相模原の障がい者施設で起きた大量殺人事件は、死者19人という戦後最悪の事態となった。しかも、容疑者は「障害者なんていなくなればいい」と供述していると伝えられており、その差別思想に基づいた残虐な行為には憤りを禁じ得ない。
ところが、このニュースに、ネトウヨたちがまたぞろ「犯人は在日」「在日によるテロ」などという根拠のないデマをわめきたてている。
「聖は在日韓国人が好む漢字だろ」「松という字は、キムを姓とする在日が好む姓だよ」「元職員だそうだな、在日雇ってたんだか」「いかにも在日っぽい風貌」「在日によるテロが毎日のように行われているのに、その元締めの民団総連をなぜ放っておくんだ?」
凶悪事件が起きるたびに繰り返されるこの差別的なデマの拡散、ヘイトスピーチはどうにかならないものか。
そもそも、今回の事件に関しては、「容疑者はネトウヨ」というほうがまだ事実に近いのではないか。
たとえば、容疑者がツイッターでフォローしていた有名人を見てみると、安倍晋三、百田尚樹、橋下徹、中山成彬、テキサス親父日本事務局、ケント・ギルバート、上念司、西村幸祐、つるの剛士、高須克弥、村西とおると、ネトウヨが好みそうな極右政治家、文化人がずらりと並んでいる。
また、その中身も、最近、右派発言が目立つ村西とおるの「米軍の沖縄駐留は平和に大きく貢献している、米軍がいればこその安心なのです」という発言をリツイートしたり、「在日恐い」「翁長知事にハゲ野郎って伝えて!!」といった、ネトウヨ的志向がかいま見えるツイートも散見される。
もちろん、ネトウヨ思想を持つものがすべて凶悪事件に走るわけではないし、この事件については、障がい者施設の職員の劣悪な労働環境という根深い構造的な問題もある。また、責任能力の問題というのも今後は焦点になるだろう。これらの問題については追って報道するつもりだ。
しかし、容疑者は一方で、衆院議長公邸に「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活および社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です」といった手紙を届け、「障害者なんていなくなればいい」と供述している。今回の犯行は、その弱者を社会から排除するという思想の延長線上に出てきたもので、“ヘイトクライム”的な側面があるのは明らかだろう。
そして、これはネットで在日韓国人や弱者に対して、「死ね」「日本から出て行け」などと叫んで排除しようとしている、ネトウヨ的なメンタリティと決して無関係ではないはずだ。
ネトウヨたちは、この凶悪事件に「在日の仕業」などと無根拠なデマを喚き立てる前に、自分たちの内部にひそむ排除思想のヤバさに気づくべきではないのか。
最悪の「ヘイトクライム」発生!相模原の知的障害者施設で19人殺害——容疑者は衆院議長公邸に「障害者は安楽死」求める手紙を持参した過去も
(IWJ) 2016.7.27
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/321304
障がい者抹殺思想は相模原事件の容疑者だけじゃない! 石原慎太郎も「安楽死」発言、ネットでは「障がい者不要論」が跋扈
(リテラ)2016.07.27
http://lite-ra.com/2016/07/post-2449.html
19人もの犠牲者を出し戦後最悪レベルの事態となった、相模原の障がい者施設での大量殺人事件。
植松聖容疑者は「障害者なんていなくなればいい」「障害者はすべてを不幸にする」「障害者には税金がかかる」などと、障がい者を排除するべきという主張を繰り返していたことがわかっている。
戦後最悪レベルのとんでもない凶悪な事件だけに、容疑者の異常性に注目が集まるが、残念ながら容疑者の“弱者を排除すべし”という主張は現在の日本社会において決して特殊なものではない。
たとえば、昨年11月に茨城県教育総合会議の席上で教育委員のひとりが「妊娠初期にもっと(障がいの有無が)わかるようにできないんでしょうか。4カ月以降になると堕ろせないですから」「(特別支援学級は)ものすごい人数の方が従事している。県としてもあれは大変な予算だろうと思った」「意識改革しないと。生まれてきてからでは本当に大変です」などと発言し、さらに橋本昌・茨城県知事までもが「産むかどうかを判断する機会を得られるのは悪いことではない」と擁護・同調するような発言をするという騒動があった。
教育行政にかかわる人物が公然と「金のかかる障がい児は産むべきではない」という見解を開陳するなどおぞましいが、それを容認してしまう空気がいまの日本社会にはある。
石原慎太郎は、都知事に就任したばかりの1999年9月に障がい者施設を訪れ、こんな発言をした。「ああいう人ってのは人格があるのかね」「絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状況になって……」「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」
ほとんど植松容疑者の言っていることと大差ない。舛添のセコい問題などより、こういった石原の差別発言のほうがよほど都知事としての資質を疑いたくなる。しかし、当時この発言を問題視する報道は多少あったものの、そこまで重大視されることはなく、その後、4期13年にわたって都民は石原を都知事に選び続けた。
「障がい者は生きていても意味がない」「障がい者は迷惑だ」「障がい者は税金がかかる」
これらは基本的にナチスの重度障害者を本当に抹殺していったナチスドイツの政策のベースになった優生学的思想と同じものだ。
ところが、恐ろしいことに、こうした差別的発想を、あたかもひとつの正論、合理性のある考えであるかのように容認してしまう、さらに言えば勇気ある正直な意見と喝采すら浴びせてしまう“排除の空気”が、明らかにいまの日本社会にはある。
実際ネット上では、植松容疑者の主張に対しては「やったことは悪いけど、言ってることはわかる」「一理ある」「普段同じこと思ってる」「筋は通ってる」などという意見は決して少なくない。
絶望的な気持ちにさせられる事態だが、こうした弱者排除の空気に重要な視点を与えてくれる小説がある。それは、山崎ナオコーラ氏の『ネンレイズム/開かれた食器棚』(河出書房新社)所収の「開かれた食器棚」だ。
山崎は『人のセ○×スを笑うな』(同)で文藝賞を受賞し、同作や『ニキの屈辱』(同)、『手』(文藝春秋)、『美しい距離』(文藝春秋)で4回にわたって芥川賞候補に挙がったことのある実力派作家だが、同作は、障がい者の子どもをもつ親の苦悩や出生前診断に踏み込んだ作品だ。
舞台は、〈関東地方最果て〉の場所で営業する小さなカフェ。幼なじみだった園子と鮎美というふたりの女性が38歳のときに開店し、すでに15年が経つ。その店で、鮎美の娘・菫が働くことになるのだが、菫は、染色体が一本多いという〈個性を持って〉いた。小説は母親・鮎美の目線で娘・菫を取り巻くさまざまなことが語られていく。
〈生まれてから生後六ヶ月までは、とにかく菫を生き続けさせることに必死だった。菫はおっぱいを吸う力が弱いらしく、鮎美は一日中、少しずつ何度も飲ませ続けた。家の中だけで過ごした。外出は怖かった。人目につくことを恐れた。友人にさえ娘を見せるのをためらった。今から思えばそれは、かわいそうに思われるのではないか、下に見られるのではないか、というくだらない恐怖だった。〉
〈他の子たちよりも菫は多めの税金を使ってもらいながら大きくなり、自分が死んだあとは他人にお世話になるだろうことを思うと、社会に対する申し訳なさでいっぱいになった。〉
そうやって社会から閉じこもっていく母子に、風を通したのは、友人の園子だった。園子は菫を〈ちっとも下に見なかった〉。そればかりか、一緒にカフェをやらないか、と鮎美にもちかけた。そして、「菫のことに集中しなくちゃ……」と鮎美が言いかけると、園子は3歳の菫にこう話しかけた。
「ねえ、菫ちゃんだって、カフェで働いてみたいよねえ? コーヒーっていう、大人専用のおいしい琥珀色の飲み物を提供するお店だよ。菫ちゃん、コーヒーカップを、取ってきてくれる?」
何かを取ってくることなんて娘にはできない。鮎美はそう決め付けていたが、そのとき、菫は食器棚に向かって歩き出し、棚のなかのカップを指さす。菫は、理解していたのだ。園子は言う。「ゆっくり、ゆっくりやればいいのよ。成功や達成を求めるより、過程で幸せにならなくっちゃ」。
社会は、障がいがあるという一点だけで「その人生は不幸だ」と思い込む。母親はそれを背負い込み、かつての鮎美のように身体を丸めてうつむき、子どもの可能性を小さく捉えることもある。だが、生まれてくる命、育つ命が幸せか不幸かは、社会が決めることなどではけっしてない。そして、社会が開かれていれば、その人の幸福の可能性はぐんと広がる。──そんなことを、この小説は教えてくれる。
しかし、今の社会が進んでいる方向は逆だ。たとえば、出生前診断。出生前診断によって障がいがあることが判明すると、中絶を選択する人が圧倒的だという現実。こうした結果が突きつけている問題は、この小説が言及しているように、多くの人びとが「障がいをもった子を産んでも育てる自信がない」「障がいがある人生は不幸せなのでは」「育てるにはお金がかかる」「社会に迷惑をかけてしまう」などと考えてしまう社会にわたしたちは生きている、ということだ。
この現実を目の前にして、鮎美はこう考える。
〈もし、自分も「菫に税金を使うべきではない」と考えるようになったら、それはやがて、「社会にとっては菫のような子はいない方が良い」という考えに繋がっていくのではないだろうか。菫だけではなく、他の菫のような子たちに対しても、自分がそう考えている、ということになってしまうのではないか。〉
〈「強い国になって周りを見下す」というようなことを目標にする社会が持続するとは思えない。「多様性を認めて弱い存在も生き易くする」という社会の方が長く続いていくのではないか。「国益のために軍事費に金を充てて、福祉をないがしろにした方がいい」なんて、鮎美には到底思えない。この国を「弱い子は産まなくて良い、強い子だけをどんどん産め」という社会にするわけにはいかない。〉
しかし、現実には、前述したように、今回のような事件が起きても、容疑者と同じ「障がい者は生きていても意味がない」「障がい者は迷惑だ」「障がい者は税金がかかる」といった意見が平気で語られている。この国はすでに「弱い子は産まなくて良い、強い子だけをどんどん産め」という価値観に支配されているのかもしれない。
多数ノ子女ヲ育成シ国本ノ培養二資スル所少ナカラズ…
障害児出産「減らしていける方向に」
茨城県教育委員の発言が波紋
(東京新聞【こちら特報部】ニュースの追跡)2015年11月19日
「茨城県では(障害児の出産を)減らしていける方向になったらいい」。同県教育委員の長谷川智恵子氏(七一)の発言が波紋を広げている。長谷川氏は発言を撤回した上で辞意を表明した。だが、不見識なのは長谷川氏だけか。日本社会に根強く残る差別意識の表れではないのか。
(中山洋子)
差別意識 日本に根強く
関係者に徒労感、憤り
長谷川氏の「本業」は東京・銀座の日動画廊副社長だ。茨城県笠間市の笠間日動美術館副館長を務めている縁で、今年四月に県教育委員に就いていた。
問題の発言は、十八日の県総合教育会議で飛び出した。橋本昌知事も出席する中、長谷川氏は、障害者らが通う特別支援学校二校の視察に触れながら「妊娠初期に(障害の有無が)分かるようにできないのか。特別支援学校には多くの方が従事し、県としては大変な予算と思う」「生まれてきてからでは大変」「減らしていける方向になったらいい」などと主張した。
この発言が報じられるや、ツイッター上では、「五体不満足」の著書がある作家で東京都教育委員の乙武洋匡氏が「私も生まれてこないほうがよかったですかね?」と書き込むなど批判が噴出。県教育委員会にも二十日夕までに六百件を超える抗議の電話やメールなどが殺到した。
長谷川氏は十九日、「言葉足らずの部分があった。数多くの方に多大な苦痛を与えた」と謝罪した上で発言を撤回した。当初は長谷川氏の発言を「問題ない」と擁護していた橋本知事も、同日深夜に「誤解を与えないよう(問題ないとの自らの)発言を撤回する」とのコメントを発表。これを受ける形で長谷川氏は二十日、県教委に辞職する意向を伝えた。
しかし、騒動は収まりそうもない。来年四月の障害者差別解消法施行を前に、茨城県も障害者差別を禁じる県条例を今年四月に施行したばかりだけに、関係者の徒労感は深い。
茨城県ダウン症協会の渡辺千代子会長は「出生前診断が広まり、周囲から『なぜ検査しなかったのか』と言われた若いお母さんもいる。長谷川氏も、障害者を無駄な存在と思っているから言ってしまうのでしょう」と歯がみする。
日本ダウン症協会は二十日、事情説明を求める質問状を知事と県教育長宛てに送付。全国の障害者団体でつくるNPO法人「DP1日本会議」も県への抗議声明を準備している。
DPIの佐藤聡事務局長は「障害者は生まれてこない方がいいとの発想で、日本も批准する障害者の権利条約の理念を理解していない。障害があってもなくても等しく大切にされる社会を目指すため、変わるべきは社会の側だ」と憤る。
一九九九年に当時の石原慎太郎都知事が重度心身障害者に「人格あるのかね」と放言して問題視されたが、障害者への差別発言はその後も絶えない。
「重大な人権侵害でうやむやにはできない。辞職で終わる問題ではない」と断じるのは、筑波技術大の一木玲子准教授(障害児教育)だ。まずは長谷川氏が教育委員として障害者や保護者らと会って学び、自らの偏見と向き合うべきだと訴える。「障害者を『かわいそう』な存在としてしか見ていない。残念だが長谷川氏のような発想をする人は少なくない」
茨城大で教えた経験がある金沢大の井上英夫名誉教授(福祉政策論)は、あらゆる弱者を軽視する昨今の風潮を危ぶむ。
「高齢者に金をかけない福祉政策も差別を助長している。人の命は等しく価値がある。障害者は生まれてこなかったらいいという戦前の優生思想を克服する方向で曲がりなりにも進んできた障害者政策を後退させてはならない」
『精神医療』より(現代書館 フォービギナーシリーズ)
より 精神病院法成立
http://nagano.dee.cc/begiwar.pdf
「大日本帝国」が日中戦争から太平洋戦争へと突き進む中で、精神病院建設などという金を使う余裕はなくなり、「精神病」者にとっては新たな苦難が始まる。
1938(昭和13)年厚生省が作られる。厚生省は戦争に役立つ「健康な国民」を作りだそうという目的で生まれたのだ。そして「精神病」者、「障害」者の発生予防を目的として国民優生法が1940(昭和15)年に作られる。国民優生法は現在の母性保護法の前身であリ(現在は母性保護法の管轄は厚生省母子保健課である)、これに基づき「精神病」者や「障害」者の断種が行われた。忘れてならないのは、戦時下の精神病院の多くの入院患者が餓死したことである。
一般の食料事情の悪化は当然精神病院など不可能な入院患者には闇の食料など手にはいるはずもなく、監禁されたままで餓死する患者が続出した。たとえば九州の筑紫保養院(現福岡県立太宰府病院)では戦争末期から戦争直後にかけて、何と70%が餓死した。東京の松沢病院でも、戦争末期から戦争直後に大量のが死者を出している(グラフ参照)。さらに松沢病院に対してはかりに本土決戦となれば、陸軍によって「誤爆」するという計画までたてられたといわれている『声なき虐殺』塚畸直樹編、BOC出版1983年
戦時中動物園で猛獣が殺されたことは『かわいそうな象』などのもまた「猛獣」なみの扱いをされ、空襲などで「精神病」者を監禁している檻が壊れたら、「精神病」者が暴れて困るという発想で、その前に「誤爆」ということにして病院を爆撃し入院患者を殺してしまえ、という計画なのである。「精神病」者から社会を守れ、という思想の極限がここにある。
日本ファシズムと優生思想
藤野豊 著 かもがわ出版
http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/na/377.html
「存在に値しない命」とは何か。
病気・障害者への断種政策はナチスだけではなかった。優生思想が政策として社会に受容されていく過程を克明に描いた労作。
序章 日本ファシズムと優生思想―研究の現状と課題
第1章 第一次世界大戦と優生思想
第2章 優生運動の展開
第3章 人口問題と優生政策
第4章 ナチズムへの憧憬と警戒
第5章 アイヌ民族と優生思想
第6章 ファシズム体制下の優生政策
補論1 近代日本と優生思想の受容
補論2 部落問題と優生思想
補論3 近代日本のキリスト教と優生思想
終章 「戦後民主主義」下の優生思想
ETV特集
それはホロコーストのリハーサルだった
~障害者虐殺70年目の真実
http://dai.ly/x3cyf72
600万人以上のユダヤ人犠牲者を出し、「人類史上、最大の悲劇」として語り継がれてきたナチス・ドイツによるホロコースト。しかし、 ユダヤ人大虐殺の前段に、いわば“リハーサル”として、およそ20万人ものドイツ人の精神障害者や知的障害者、回復の見込みがないとされ た病人たちがガス室などで殺害されたことについては、表だって語られてこなかった。
終戦から70年もの年月がたった今、ようやく事実に向き合う動きが始まっている。きっかけの一つは5年前、ドイツ精神医学精神療法神経学会が長年の沈黙を破り、過去に患者の殺害に大きく関わったとして謝罪したこと。学会は事実究明のために専門家を入れた国際委員会を設置、 いかにして医師たちが“自発的に”殺人に関わるようになったのかなどを報告書にまとめ、この秋発表する。
番組では、こうした暗い歴史を背負う現場を、日本の障害者運動をリードしてきた藤井克徳さん(自身は視覚障害)が訪ねる。ホロコーストの “リハーサル”はどうして起きたのか、そして止めようとする人たちはいなかったのか・・・。 資料や遺族の証言などから、時空を超えていま、問いかけられていることを考える。
人間が人間を見下す行為は、いじめ、ブラックバイト、パワハラなどたくさんころがっている。差別と虐待の究極の姿として、すべてつながっている問題だと思った。それを国家権力が先導し、助長することはあってはならない。戦後70年、日本国憲法が守られるのかどうか、今、私たちの足元ともつながっている。
投稿者:こう ETV特集HPより
「障害者に安楽死を」はナチスの優生思想そのもの・障害者団体の代表が社会の風潮に懸念を表明
https://youtu.be/THdB2n_igOM
インタビューズ (2016年7月27日)
藤井克徳氏(日本障害者協議会代表)
「障害者には生きる価値がないのか。」「この事件に同調者が出ることが心配だ。」
障害者の人権を守る活動に尽力してきた日本障害者協議会の藤井克徳代表は、今回の障害者を狙い撃ちにした大量殺害事件について、「障害者の人権のためにわれわれが時間をかけて少しずつ積み上げてきたものが、(この事件で)音を立てて崩れていくのを目の当たりにしている思いだ」と、障害者の心の内を代弁する。
神奈川県相模原市の障害者施設に刃物を持った男が侵入して、入所者19人が刺殺された事件では、殺傷された人数やその惨忍な手口などから、社会全体が大きな衝撃を受けている。しかし、特に実際に障害を持つ人々のショックは想像を絶するものがある。
殺人未遂容疑などで逮捕された植松聖容疑者が、「障害者なんていなくなればいい」「障害者は生きていても意味がない」などといった考えに基づいて犯行を行っていたことが、報じられているからだ。
あくまで報道された範囲のことしかわからないがと前置きをした上で藤井氏は、植松容疑者が重度の知的障害者は安楽死をさせるべきとの考えを表明していたことについて、「ナチスドイツの優生思想そのもので、恐ろしい」と、衝撃を露わにする。また、藤井氏の元には障害者や障害者団体の関係者らから、事件に対する不安を表明する連絡が多く集まっているという。
また、自身も全盲の藤井氏は、一億総活躍などに代表される現代の風潮は、生産の場での活躍に大きな価値が置かれているため、逆に生産活動に従事できない人や効率の悪い人には価値がないという発想につながりかねないことが懸念されると言う。「今回の事件もそうした風潮と無関係とは言えないのではないか」と藤井氏は語る。
この事件を受けて、障害者たちが最も懸念しているのは、障害者は安楽死させるべきだという植松容疑者の考え方に同調する人が出てくるのではないかということだと、藤井氏は言う。「障害者という弱者を排除して、もし障害者が社会からいなくなったらば、次は何が標的になるかを考えて欲しい。それがナチスドイツの苦い経験からの教訓だ」と藤井氏は指摘する。
ナチスドイツは「T4作戦」として知られる障害者の安楽死政策で、1939年から1941年の2年足らずの間に20万人の障害者をガス室で処刑している。それがその後のユダヤ人大虐殺につながったことから、ドイツでは歴史的には障害者の抹殺がホロコーストの予行練習のように位置付けられているという。
また、今回の相模原の事件の犠牲者の氏名が非公開とされている点についても、藤井氏は「障害者は普通の人たちとは別扱いされるのが当たり前」という差別的な発想につながることを懸念する。障害者は、障害者というグループに所属する前に、一人ひとりが個人として生きていることを考えてほしいと、藤井氏は言う。
障害者を狙い撃ちにした惨忍な犯罪を障害者自身がどう受け止めているか、社会としてこれをどう受け止めていくべきかなどについて、障害者の人権のために尽力してきた藤井氏に、ビデオニュース・ドットコムの迫田朋子が聞いた。
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「文春」報道の不可解
選挙妨害の意図的記事
(しんぶん赤旗)2016年7月22日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-07-22/2016072201_04_1.html
私が週刊文春の鳥越報道を「卑劣だ」と批判した理由
(日刊ゲンダイ)2016年7月26日
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/186447
鳥越さんで都政を転換
(全国商工新聞)2016年7月25日
改憲勢力に大打撃を
上智大学教授 中野晃一さん
分かち合いの経済に
同志社大学大学院教授 浜矩子さん
核廃絶と平和憲法守る
鳥越候補 岡田代表・小池書記局長が応援
新宿・練馬両
(しんぶん赤旗)2016年7月28日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-07-28/2016072802_02_1.html
核廃絶と平和憲法守る 練馬北口街宣2/都知事選
https://youtu.be/_4hoFfmjOFE