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原発震災…やっぱり あの場所には 戻らない。(。-_-。)

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小原宗鑑禅師 岩手県山田町にて 2011年4月4日


【東日本大震災】3.11~あの日を忘れない~

http://youtu.be/L75hoO-v9hc


遺体が埋まったままのがれきの前で、「寒いだろう、ごめんな、ごめんな…」


金曜プレミアム20160304
消防隊だけが撮った0311彼らは「命の砦」となった

https://youtu.be/8vsICkhQX_k
「消防と震災」をテーマとする報道スペシャル番組。
あの日、災害時の“命の砦”とも言える消防は、281人もの死者・行方不明者を出しながらも、史上初となる全国規模の緊急消防援助隊を動員し、全国から駆け付けた消防隊員が、5000人以上の命を救った。番組では消防が撮影した未公開映像の数々を独自に入手。この初公開映像と今だからこそ語れる証言で、空前絶後の大災害に立ち向かい、一人でも多くの命を救おうとした消防の奮闘と葛藤を描いていく。



報道するラジオ 3月4日(金)放送分
 「障がい者は、どう避難するか」「ケア・ステーションゆうとぴあ」

https://youtu.be/BS0JMUDuwIc



テレメンタリー2016
その時、『テレビ』は逃げた~黙殺されたSOS~

http://dai.ly/x3wasx7



「やっぱり
あの場所には戻らない。」

決意を支えて家族、福島の5年間
シリーズ人間
(女性自身)2016年3月3日付
http://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/social/23215
原発事故後 本誌が取材した「奇跡の一家」が初めて語る怒り・迷い・希望

決意を支えて家族、福島の5年間_1

 「“吾妻おろし”で、この時期は格別、風が冷たいんです。寒いですから中へ。ここが私たちの今の家です」
 そう、川井美香さん(41)が招いてくれた二階屋は、福島の街を見下ろす高台にあった。川井家の子供たちは4人。長女(16)は福島の県立高校1年生、次女(12)、長男(10)は、川俣町に移転した飯舘村の仮設小学校へスクールバスで通っている。末っ子の佑理くんは4歳。記者が初めて川井夫婦を取材したときには、美香さんのおなかの中にいた。
 東日本大震災時の川井さんは、夫婦でJAそうま飯舘総合支店に勤務。その1年半前に、家を新築したばかりだった。

決意を支えて家族、福島の5年間_2

 福島第一原発から30~40キロの飯舘は、当初、一部が「屋内退避地域」にひっかかっただけ。原発により近い地域の被災者を受け入れる側だった。ところが、15日になって、事態は一変。村の1時間あたりの放射線量が毎時44.7マイクロシーベルトを観測し、飯舘の名は、世界に知られることとなってしまう。
 震災から1カ月後の4月11日、美香さんはマスクをし、終始、うつむき加減だった。かかりつけの産婦人科医院が被災して閉鎖し、転院先で初めての診察を受けるという。マスク越しにのぞく目は充血し、頭痛がするのか、ときどきこめかみに手を当てた。
「妊娠5カ月です。今、産んで大丈夫かな、放射能の恐怖はいつまで続くのか、そのなかで赤ちゃんを育てていける?結局、私たちは人体実験をされているんじゃないか、そんなことまで考えてしまう」
 震える声で「産まない選択も考えました」と打ち明けた。次の日、診察後の表情は、少し明るくなっていた。「赤ちゃんのエコーを見たら、『大丈夫かな』って楽観している自分がいて。元気に産んであげたいと思いました」。一家はその年の6月、福島市内のアパートに移った。
 11月、美香さんに携帯電話を入れると、受話器の向こうで元気な赤ちゃんの声がした。「おかげさまで、9月に無事生まれました。男の子でした」。それが佑理くんだ。母乳で育てているという。
「夫が放射能の影響などのデータを調べ、夫婦で相談して、不確かな数値に悩むよりスキンシップを優先しようと決めました。福島で生活する以上、ある程度は受け入れ、そのうえで何がいいかをそのつど、判断するしかないと思います」
 力強い言葉に、わずか半年間での彼女の変化に驚いた。
 ’12年9月、国の除染が始まった。川井一家は10月、今の高台の家に引っ越し、夫・智洋さんは南相馬に移った職場に、往復130キロ、片道1時間半かけての通勤となった。美香さんは大きな決断を迫られた。佑理くんが1歳になると同時に、育休が終わる。職場に復帰すれば、帰宅は、どんなに早くても夜7時半過ぎ。子供だけで留守番させるのは、やはり心配だった。
「仕事を辞めれば、家計的にかなりのダメージ。でも、それよりも私自身の気持ちです。金融や共済を担当し、20年近く働いてきて、地域の人との関係もでき、毎日が充実していたんです。それがなくなるなんて想像できなくて」
 それでも、決断せざるをえなかった。「でも、でも。やっぱり仕事を辞めたのは今でも残念です」。震災さえなかったら、美香さんは子育てをしながら、定年まで勤め上げるつもりだった。そんなささやかな夢をも、原発事故は奪っていった
 かつて取材した福島の家族をあらためて訪ねると、この5年、彼らは常に人生の岐路に立たされ、選択と決断の連続だったと実感できる。

4歳の子供の「なんで?」は成長とともに増えていくだろう

 3・11の午後2時46分、星山真弓さん(35)は、双葉厚生病院の手術台の上にいた。
 夫・晃一さん(38)との第一子が生まれようとしていた。
 帝王切開のための麻酔が打たれようとしたその瞬間、「ゴーーツていう地鳴りの音が聞こ攴たんです」
 地鳴りに続いて激震。真弓さんは、あおむけのまま手術台の上で跳ね上げられた。
 天井からは無影灯が落下。とっさに真弓さんのおなかをかばうように、数人の看護師
が身を挺(てい)して覆いかぶさった。
 建物内は危険だと、車いすで中庭へ移動。看護師らが車いすごと担いで、階段を下りた。追い打ちをかけるようにサイレンが鳴る。誰かが叫ぶ。
「津波がくるぞ!」
 極限状況のなか、琉菜ちゃんは生まれた。地震から4時間後、2千878㌘の女の子は元気いっぱい産声をあげた。
 その琉菜ちゃんも、まもなく5歳の誕生日を迎える。「琉菜の誕生日がくるたびに、あのときの風景がよみがえってきますね。駐車場の車が余震でピョンピョン跳ねたとか」
 と、晃一さん。真弓さんは、「私は出産翌日に琉菜を抱っこして、バスで避難したときのことを思い出す」
 病院が立つ場所は、原発から2㌔。12日早朝、真弓さんは帝王切開の傷も癒えぬまま避難せねばならなかった。
「腕のなかには生まれたばかりの壊れそうな琉菜がいて。寒くて、バスタオルでグルグル巻きにされて。それでも、あのバスのなかでスースー寝ていた琉菜を思い出す」
 痛みと放射能パニックで大変だったはずなのに、真弓さんは柔らかな表情になった。
 結婚当初、富岡町の妻の実家に住んでいた星山夫妻は、ともに第一原発で働いていた。「爆発事故の映像を見たとき、デートした思い出の場所も、仕事も、実家を2世帯住宅にする将来設計も、何もかもがブッ飛んだと思いました
 晃一さんは、現在、実家が営む星山工業の専務。発電所などに作業員を送る会社で自ら先頭に立って現場に赴く。
 事故後は南相馬市原町の火力発電所の復旧に従事し、この3年は除染作業に取り組んでいる。ブッ飛んだはずの将来設計も、5年たって少しずつ、形になってきたようだ。
 8年8月には、南相馬市の実家を2世帯住宅に建て替えて、転居。同年11月、長男・晴(せい)くん(2)も誕生した。
 「琉菜のときとは大違いで、揺れもせず(笑)、のんびりと産みました」(真弓さん)
 最近、琉菜ちゃんは、本誌が取材した4年前の「女性自身」を見つけ、真弓さんに聞いた。
「この赤ちゃん、誰?」
「琉菜ちゃんだよ」
「なんで琉菜ちゃんが本に載ってるの?」
「琉菜ちゃんが生まれたとき、大きな地震があったんだよ」
「ふ~ん」
 次に、琉菜ちゃんは、アルバムを持ってぎた。白い防護服姿の真弓さんの写真もある。
「これ、ママ?」
「そうだよ。私の富岡の実家の前なんだなあ」
 一時帰宅時の写真だった。
「なんで白い服、着でるの?」
「ママの昔のお家がボロボロで、それ着ないと行けないの」
「ふ~ん」
 これから年々、琉菜ちゃんの「なんで?」は増えていくだろう。なんで長時間、外で遊べないのか?なんで原発事故は起きたのか?
 星山工業は、廃炉作業にも人を出す。夫妻にとっては複雑な問いになるかもしれない。
「う~ん、俺の世代。でIF(福島第一原発)の廃炉は終わらせたい。晴には、もっと希望がもてる仕事をしてほしい。たとえばロボット特区など」
 未来は夢と希望であってはしい。晃一さんの言葉に、夫婦の思いが見え隠れした。

私ら避難民と、元からの住人との間に壁みたいなものを感じるように

「ごん太?・ 静岡だっけぇ。パパが一生懸命……呼んでたよねぇ。『ごん太ぁ!』つて」
 久しぶりに会った石沢里奈ちゃん(10)は、おしゃまなお姉さんになっていた。
「シリーズ人間」では2回にわたって、原発事故で離ればなれになった石沢さん家族と愛犬ごん太を取り上げた。

決意を支えて家族、福島の5年間_3

 住民全員、避難して、無人になった浪江町を放浪していたごん太。動物ボランティアに保護されたものの、悪性リンパ腫に侵されていて、余命1ヵ月と診断された。
 その顛末を報じると、ごん太の記事は全国に広がり、やがて本宮市に避難していた石沢さん一家の目に触れた。
 8月、石沢さん親子が、ごん太が保護された静岡県内の施設まで会いにきた。里奈ちゃんが話したのは、そのときのパパとごん太の様子だ。
「ごん太、わかるか?」
 パパ・佳弥さん(47)の呼びかけに、ごん太は、最初、近づこうとしなかった。
 避難時に、佳弥さんは連れていけない大型犬のごん太を、「ついてくるな」と、心を鬼にして追いやった。その命令を、ごん太は覚えていたのだ。
 すると、6歳だった里奈ちゃんが突然、声をあげた。
「ごん太ぁ?」
 里奈ちゃんは目が見えない。先天性の全盲で、四肢も自由に動かせない。それでも全身でごん太の気配を感じていた。
「ご~ん太ぁ!」
 ごん太は里奈ちゃんに近づいて、裸足の足をペロリとなめた。里奈ちゃんの顔いっぱいに笑みが広がる。
 家族とごん太の5ヵ月間の空白が一気に消えた。その後、ボランティアの拠点が福島に移り、秋には、ごん太を育てた祖父・茂さんとも再会。
 ごん太は抗がん剤治療を頑張って、余命1ヵ月を1年近く延ばし、’12年2月26日深夜、静かに息を引き取った。
 目にいっぱいの涙を浮かべて、茂さんは言った。
「ありかとな、ごん太」
 茂さんは20歳で「宝来軒」を始め、B級グルメ「なみえ焼きそば」を生み出した人だ。
 多くの警察犬を育てた愛犬家でもあった。ごん太が亡くなる直前に、里奈ちゃんに弟・奏和(かなと)くん(4)が生まれ、なみえ焼きそばの移動販売車が無償で貸与された。
「ごん太はうちの福の神かもしんねえな」
 と、話していた矢先、茂さんの大腸がんが発覚。半年ちょっとの闘病を経て、’13年7月、亡くなった(享年76)。
 佳弥さんは、物心ついたときから「宝来軒」を継ぐと決、め、茂さんの昧を腕と舌にたたき込んだ。しかし、その浪江の店には戻れない。店を支えていた常連客も散町散りになってしまった。
 そして、ようやく再会できたごん太が逝き、敬愛する父も逝き――。佳弥さんは今も新しい仕事に就けないままだ。
 ’13年3月、一家は郡山の一戸建てに移ったが、妻・真弓さん(35)も新生活になじめず、息苦しさを覚えていた。
「私ら避難民と、元からの住人の間に、壁みたいなものを感じるようになったかな」
 ネットをのぞくと、避難者への言葉が目についてしまう。
いつまで自立しないで東電にぶら下がってる気なの?
避難者様は神様。ですもんね
 真弓さんは奏和くんを妊娠するまでパートに出ていたが、「賠償金はいくらくらい?」と、聞かれて閉口した。(;´Д`)
 大人たちの迷いをよそに、里奈ちゃんは無邪気。弟ができて、お姉さんらしい優しさも見せるようになっている。
 彼女は4年ぶりに取材に訪れた記者を声で覚えていた。
「おじさん、昔来たよね。ごん太が死んだときも来たよね。うちの家族、やっぱり有名なんだね~、パパあ」
 ごん太と石沢家の物語を単行本にまとめた「とんがりあたまのごん太」(光文社刊)を、養護学校の先生が読んでいて、「里奈ちゃん、載ってたね」と、言ってくれた。それがとてもうれしかったのだろう。
「お母さんが風邪だから、今日はパパがハンバーグ作るんだよ。私も作るんだ」
「えっ、里奈ちゃん、お手伝いできるの?」
 驚いて、記者が聞くと、得意満面でこう答える。
「おじさんが帰ったら、だよ。羨ましいでしょう。パパのハンバーグ、羨ましいでしょう」
 パパとママは苦笑して、顔を見合わせた。里奈ちゃんの無邪気さが、気落ちしがちな石沢家を明るく照らしていた。

妻は104歳で逝去。家族もバラバラになったが、103歳は意気軒高に政府批判を

「よく来てくれましたね」
 いわき市内の特養老人ホームで、吉田信(まこと)さんは年齢に見合わない肌艶のいい顔をほころばせた。御年、実に103歳!「被災者に100歳と101歳の超高齢夫婦がいる」と聞きつけ、本誌が取材したのは’12年初夏。
 原発がある大熊町で被災した吉田さん一家は、会津若松市の借上げ住宅2DKで、長男夫婦と当時101歳の妻・ツルさんの4人で、肩を寄せ合うように暮らしていた。
 耳が遠いツルさんは、信さんが妻をチラリと見るたびに、「ま~た、なにザンソ(悪口)言ってんの!」
 と、声をあげ「ふん」と鼻で笑うマイペースばあちゃん。
「101歳? どうってことないね。お迎えを待ってる? そんなとこだわ」
 ツルさんがカカカと笑うと、信さんが突っ込む。「嘘だ。こないだ風邪ひいたとき『まだ、死にたくね』って言ってたぞ」
「カカカ、そうだね。できたら大熊に帰って死にたいね」
「んだな。20年、30年頑張ったら、原発がなくなった大熊に戻れるかもしれんね」
 夫婦そろって130歳まで余裕で長生きしそうな勢いだった。
「ところがね、去年の夏、おばあちゃんが急に弱っちゃって」(長男・信雄さん・79)
 先に体調を崩したのは信さんのほうだった。お年末に入院すると、介護生活に入った。
「そしたら、おじいちゃん、自分から『どこか施設に入りたい』つて言いだしてね」
 と、嫁の恵久子(えくこ)さん(73)。高齢の長男夫婦を思っての信さんの決断だった。
 ’14年2月、信さんが老人ホームに入居すると、ツルさんの気力が衰えていった。
 昨年夏には、ツルさんも入院。一時は、あとはリハビリというところまで回復したが、
「今度は食べられなくなって」
 信雄さんは悔しそうだった。
「新しい家は全部、バリアフリーにしてたんだけどね」
 ツルさんの入院直後、いわき市に建築中の家が完成、長男夫婦は新居に移った。2人の部屋も用意したのだが……。
「11月17日深夜でした。104歳でした。死に目に間に合わなかった。駆けつけたときには、もう……」(信雄さん)
「おじいちゃんに伝えに行くと、泣くこともなくて。『やっぱりダメだったか』なんて言ってたよね」(恵久子さん)
 それでも真新しい家で行われたツルさんの納棺では、「おじいちゃん、涙流していたんだよ」(信雄さん)
 老人ホームでも、信さんは、記者の前で気丈だった。
 「ツルは丈夫な人でしたから、もっと長生きするだろうと信じておったんだけど……」
 一瞬、目に光るものが見えた気もするが、明治男のプライドか、すぐに気を取り直し、「避難生活をしておって、葬式も満足にできないんじやないかと心配したけれど、大勢の人が来てくれて。にぎやかに送り出せたのが、せめてもの救いかなと思います」
 葬儀では、曽孫たちが別れの挨拶をした。ツルさんと仲よしだった曽孫の真美さん(14)は泣きどおしだった。
「やっぱり一緒に暮らしてたっていうのは大きいんでしょうね。それが家族なんださ」
 恵久子さんはこう語る。
 大熊町の家では、4世代9人家族で暮らしていた。「それが今、皆、バラバラになっちゃって」
 新しい家ができても、4世代家族はバラバラなままだ。大熊町・夫沢(おっとざわ)の懐かしい家は、第一原発から2㌔もなく、今では放射性廃棄物中間貯蔵施設建設予定地にされている。
 昨年7月、環境省の担当者が買収の査定に来た。査定は昨年末に出ると言われたが、2月になっても連絡もない。
「予定地に家は2千戸あるそうだけど、契約が成立したのは36世帯。環境省はやる気ないんじゃない?」(信雄さん)
 信さんも、絞り出すようにこう言った。
もう、私たちの故郷は、夫沢は完全にダメになりました。原発ができ、出稼ぎに頼るしかなかった町にお金がどんどん入ってきて、建物はよくなる。道路はよくなる。インフラが整うのを間近で見たときは『ああ、原発ができてよかった』と思いました。ところが、今度の災害で、私たちは選択を誤ったことを、本当に痛感させられました。故郷を完全に奪われてしまった

仕事をしながら見る故郷に、もう戻るつもりはない

 信さんは、日本の激動の近現代史をリアルに生きてきた生き字引でもある。
 小学校5年で関東大震災を体験。旧制中学で英語教師をしていたときに召集され、関東軍の秘密部隊に所属。終戦後はシベリアに抑留されて、3年……。そんな過酷な半生の締めくくりが、今回の大震災と原発事故だった
「精神的につらかったのはシベリアの収容所でしたが、人間、希望を持てると強いんだ」
 これまでずっと、絶望を希望に変えて生きてきた。
核のゴミ捨て場も確保できていないというのに、政府は再稼働までしてしまったでしよ。いったいどうするつもりですかな。結局は被災地・福島が全部、背負わされるんじゃないかと危惧しております
 今でも全国紙を複数講読し、記事をスクラップし、メモをとる103歳の言葉は重い。
 若い夫婦にとって、希望といえば、やっぱり子供たち。
 震災の日生まれの星山琉菜ちゃんには、5年目の節目に、取材申し込みが増えたという。
「親としてはこの子が成長していく姿を雑誌やテレビで見て、1人でも、復興とか希望を感じてもらえたらいいなって、思っています」(晃一さん)
 郡山の養護学校高学年になった石沢里奈ちゃんは、ゆっくりと歩行訓練を進めている。
「手がもう少し思いどおいに動くようになったら、点字の訓練も始めたい」(佳弥さん)
 現在、本宮市内に家を新築中で、夏には転居する予定だ。
「永住するつもりです。仕事も見つけたい。そして、今度こそ、犬を飼いたい」(佳弥さん)
 川井美香さんは、昨年7月、飯舘に唯一オープンしたコンビニでパートを始めていた。避難先から戻ってきた飯舘の懐かしい人と、コンビニで再開することも増えたという。
「ただ、これからどれだけ飯舘の人間が戻ってくるんでしょうね……」
 除染が進んでも、飯舘村の放射線量はまだ高い。村は来年4月の学校再開を目指しているが、まだ、子供を通わせられるレベルではないようだ。
「道路脇には黒い除染ゴミを詰めた袋が積まれ、除染や建設作業の車両が行き交うなかを通学させるのは、おかしな状況だと思います」
 子供たちを守るため、美香さんは故郷に戻る気はない。
「今の私の家は家族がいる福島市の家。家族がいる場所が、故郷です。飯舘を忘れたことはありません。でも、今は福島で、この状態で頑張ります」
 原発事故に翻弄された家族は、5年たってようやく、前を見据えて歩き始めた。

取材/仲本剛、堀ノ内雅一
文/川上典子
撮影/高野博、田山達之、水野竜也



「外国人記者は見た」海外メディアが見た福島第一原発事故

http://dai.ly/x3vf6gn
フクシマの原発事故を海外記者はどう世界に伝えたのか?
海外メディアが見た5年間_2
日本メディアの目線と違う点は?記者たちが間近で取材し続けた福島の5年間で見えるものとは!?


恐怖から避難 家族ばらばら

福島原発事故で沖縄への避難者アンケート
(生活と健康を守る新聞)2016年1月17・24日

 沖縄県生活と健康を守る会連合会の会員でもあり「つなごう命の会」共同代表の矢ヶ崎克馬琉球大学名誉教授は、沖縄と原発被災地を結ぶ支援の活動を続けています。「原発事故避難者に公的支援を求める会」としても運動を続け、原発事故避難者の実態調査を行い、国や福島県、沖縄県知事や、市町村長に支援の要請をしています。アンケート結果の内容と活動について話を伺いました。

福島原発事故で沖縄への避難者アンケート上

避難者アンケート
実施期間=2015年2~6月(5か月間)
回答数=94世帯264人(福島県内から21世帯、それ以外73世帯)
 ※グラフは原発事故避難者アンケート報告集から

経済状況7割が「厳しい」

きっかけ

 私がアンケート調査に取り組んだのは、伊藤路子さんと妻の沖本八重美が共同代表となって「つなこう命~沖縄と被災地を結ぶ会」という支援団体を結成し、福島原発事故の被害者の人たちを沖縄に迎えて、スムーズに生活してもらうのを目的にスタートしたのがきっかけでした。
 最初は、日用品のバザーなどをやっていました。その一つとして「おむすび市」を開き、サポートをしました。
 沖縄には、福島県からの人と、福島県以外の人が、それぞれ半数ぐらいずつが避難して来ています。

約320人避難

 福島県からの避難者は、現在168世帯、約320人です。
 福島県以外からの避難者は、実数が分かっていないのですが、福島からの人数よりも多くいることだけが分かっています。この数については、自治体で正確に実態を掌握するように署名も集めています。
 今回アンケート調査に乗り出したのは、国が「原発事故は終結した」という現実とはかけ離れた虚偽を発表したからです。支援を打ち切るから、福島に早く戻れという趣旨の政策を打ち出しています。
 私たちは、まずは、沖縄にいる避難者の数や実態をしっかり掌握して、今の状態で、避難してきた人を受け入れられる状況であるかどうかという真の状態を明確にすることが重要だと考えました。

回収に苦労

 アンケートは、2015年2月初めから6、月末まで5か月間続けました。どこにいるか分からない人に対し、知り合いを通じて手渡ししてもらうという方法だったので、なかなか回収がうまくはかどりませんでした。
 結果、福島県内、福島県外の避難者合わせて94世帯、264人から回答を得ました。家族数では、福島県からは、21世帯、福島県外が73世帯でした。率直に言うと、福島の人は、既に2種類の支援を受けており、沖縄県は、実態を把握しています。
 さんざんこれまでアンケートに協力している背景もあり、なかなか福島県避難者の回答が集まらなかったのです。

子の命守る

 アンケートの中身は、生活面、健康面、社会的な面がどうだったかを聞いています。
 「避難のときどんな思いで、沖繩にたどり着いたか」では、「放射能が来る、ものすごい恐怖感でした。そんな中、子どもの命をどうにか助けないといけない。そればかり考えていました」という回答がほとんどでした。
 家族がぱらぱらになったという実態が浮き彫りになりました。
 避難家族の特徴は、子どものいる割合が非常に高かったということです。父親が汚染地に残る、母と子どもが沖縄に来るというケースが多かったのです。
 家族の意見が一致して、まとまって避難してきた例は少なく、家族間、友達間でも意見や考え方が分断された事実が明らかになりました。人間関係まで崩れるような状況がたくさん記載されていました

就労不安定

 「避難費用」については、福島県内からの人は、「50万円以下」という回答が一番多く、福島県外からの人は100万~200万円」が一番多かったです。これは、住宅支援があるかどうかということが大きく影響しています。補助をもらえないところは、礼金、敷金、家賃など全て自ら持ち出していて、福島を含む東北3県からの人は、みなし仮設住宅ということで、今のところ家賃は免除されています。
 「経済面」では、就労面が、不安定で、正規社員が少なく、ほとんどが、パート、アルバイトのため、思うような仕事が得られていない。経済状況では、7割の人が「厳しい」と答えています

チェルノブイリの基準でいてはいけない汚染ゾーン
現在日本では100万人が生活

福島原発事故で沖縄への避難者アンケート下

「健康被害あった」

目の障害

 「健康被害」についても特徴があります。3・11以前と以後で、健康被害があったかどうかという質問では、「変化があった」と答えた人が7割に上っています。どんな症状が出たかという問いで一番多かったのは、「目の障害」でした。「目が荒れる、涙が出る、白内障結膜炎になった」という回答が多かったのです。これは意外でした。予想では、「鼻血」が一番多いだろうと思っていましたが。
 「目」はデリケートな器官が外にむき出しているところなので、被害が大きかったのだろうと感じました。

受診控える

 また、家族が甲状腺がんになったというケースがいくつかありました。深刻だと思うのは、子どもたちの通院は、どうにかするけれども、自分は経済的な負担ができないため受診は控えるという回答があったことです
 「沖縄に対する要望は」という質問では、基本的に「沖縄の人は、とても親切で、とてもよいところに来た」という感想を持った人が圧倒的でした。
 一方、わずかですが「台風が多い」「『大和んちゅう』と呼ぱれ差別されているような感じ」という意見もありました。言葉に対して受ける側のマイナスのイメージがあったようです。
 アンケートに引き続き2種類の署名を募っています。一つは、県や市町村に対して、「原発事故避難者の実態の把握と支援をお願いします」というものです。もう一つは、国や福島県に対して「原発事故被害者の住宅支援の無期限継続と住宅・健康・保護支援の立法化を求めます」というものです。
 政府側は「避難者は放射能恐怖症で飛び出している」としていますが、アンケートをみると健康被害は全面的に現れ放射能による被害は事実なのです
 汚染の状況は、日本全土に及び、特に東日本の汚染度はとても高い。政府は福島県以外の汚染は何もないかのごとく言っておりますが、事実は深刻な汚染度なのです。チェルノブイリ周辺国では、事故5年後に住民保護法をつくりました。保護基準は、法律で定められている年間1㍉シーベルトです。1~5㍉シーベルトでは、そこに住んでもよいが、移住を希望すれば全て国が費用を負担します。土地の汚染が3倍、被曝量が5倍になると、この土地には住んでもいけないし、生産活動もいけないということになります。
 国が法律通りに住民を保護するという当たり前の姿勢を見せています。民主国家としての国の手当を忠実に施しています。それに対して、日本では20㍉シーベルトのまま「帰還」を強制しようとしています


”人権の差”

 チェルノブイリ基準では居住も生産もいけませんという汚染ゾーンに、日本では100万人も暮らしていて、放射能汚染を口にさえ出せない状態に陥っています。これが、チェルノブイリと日本の”人権の差”の現実です。
 炉心溶融物処理はめどさえ立だないのに「原発再稼働」がなされています。すでにチエルノブイリの数倍に及ぶ放射性物質が拡散されています。放射能汚染は、100年だっても人体に害を及ぼし続けます。
 こうした重要な事実に、国は目を背けずに真摯に向き合って、早く対処すべきです。





“原発避難”7日間の記録 ~福島で何が起きていたのか~

http://dai.ly/x3w1ek3
NHKスペシャル 2015/3/5
5年前に起きた東京電力福島第一原発事故。周辺市町村への避難指示は3km、10km、20kmと五月雨式に拡大し、どこにどうやって避難するかは各自治体の判断に任された。情報も体制も薄弱な中、人々はどのような状況に置かれ、どのような判断や行動を迫られたのか。改めて「あの時」を記録・検証する動きが各地で始まっている。
NHKはこうした市町村の検証記録、国の調査報告書、研究者が集めた避難者1万人のデータ、記録映像などを収集。さらに当時の首長や役場職員、自衛隊・警察・消防関係者、住民などを独自に取材。20km圏内からほぼすべての住民が避難するまでの1週間に、人はどう動き、混乱をどう過ごしたのか――知られざる原発事故避難の全貌に迫った。
証言から蘇るのは、過酷を極めた「あの時」の様子。当時の記憶を5年間引きずって心に秘めてきたため、今回初めて重い口を開いた人も少なくない。
事故直後の混乱や避難による離散のため、これまで十分に掘り起こされてこなかった原発避難の実態。膨大な記録や証言に、ビッグデータや専門家による分析も交え、私たちが5年前に直面した、“原発事故避難”その混乱の全体像に迫る。



テレメンタリー2014「隠蔽か黙殺か~封印された汚染マップ~」_2014/02/11

http://dai.ly/x1chczi



真の被災地再建
なすべき課題は

京都大学教授 岡田知弘さん
(全国商工新聞)2016年3月7日

 東日本大震災から5年。今なお18方人もの人々が仮設住宅での生活を余儀なくされ、原発事故により福島県では約10万人が避難生活を続けています。被災地の実態はどうか、暮らしや営業、地域経済の真の復興の課題は何か。京都大学の岡田知弘教授に聞きました。

真の被災地再建 なすべき課題は_1

「構造改革型」を転換し住民生活と生業再建を

求められるのは人間本位の復興

 東日本大震災から、早くも5年の歳月が流れました。しかしながら、2015年12月末時点で、全国で18万人の人々が仮設住宅や「みなし仮設住宅」等で不便な生活を送っています。なかでも福島県の避難者数は約10万人を占め、県外避難者は4万4000人に及んでいます。震災関連死も、昨年9月末までに全国で3407人に達しており、うち福島県被災者が全体の6割を占めます。福島県では、被災時の犠牲者数を上回る事態となっています。この数値は、震災後の復興政策と福島原発事故対策に、大きな問題があったことを示しています
 被災地での復興が進んでいない最大の政策的要因は、民主党政権下で決めた復興構想の原則に阪神・淡路大震災時と同様に「創造的復興」が入り、「日本経済の再生なくして被災地域の真の復興はない」とまで書き込まれたことにあります。これを出発点に、被災者や地場の商工業よりも大企業のサプライチェーンや誘致企業を優先した復旧・復興事業や復興特区、復興交付金をつくるなど、「構造改革」型の復興政策ばかりが進み、惨事便乗型の復興になっていきました。後に震災復興費の流用が大問題になったのも、この点が要因だったといえます。住宅再建についても、高台移転工事の2015年度末の完了見込み率は47%、復興公営住宅の建設も63%にとどまっています。
 このような国の政策上の問題だけでなく、特に宮城県では、知事が住宅の高台移転や巨大防潮堤にこだわったために、復興計画や工事が遅れ、どこに家や工場、商店を再建するかも判断できない状態が長引きました。そうなると、小売業や個人向けサービス業の店舗は住民が戻らないとやっていけません。建設業だけが業績回復していますが、資材不足、人手不足が深刻な状況です。現に、帝国データバンクが行っている「東北3県・沿岸部5000社追跡調査」(2015年3月)で事業継続企業比率を見ると、岩手県82・8%、宮城県83・8%ですが、福島県はわずか37・4%にとどまっています。
 表は、2010年10月1日と15年の国勢調査結果を比較して、減少率が高かった自治体を示しています。福島県では避難指示区域になっている5町村が100%~99%の減少率を示しています。宮城県では女川町37%、南三陸町29%、山元町26%の減少率ですが、同じ三陸海岸地域で「壊滅的打撃」を受けた岩手県の大槌町は23%、陸前高田市と山田町は15%の減少率となっており、宮城県の被災市町村に比べ相対的に低い水準になっています。激甚被災3県の災害のありようの違いと、その後の地方自治体の災害対策の姿勢の違いが作用していると考えられます。ちなみに、村井宮城県知事は、漁港や水産加工基地の復興については「選択と集中」にすると表明したのに対して、達増岩手県知事は、「答えは現場にある」として、「人間本位の復興」をめざすと述べ、全ての被災漁港、水産加工基地の復興を早くから表明し、被災者に希望を与えました。両者の違いは明白です。

被災地「自立」で規制緩和を推進

 第二次安倍内閣の発足により、民主党政権時代の「創造的復興」はより強化されたといえます。復興推進委員会委員長には、経済財政諮問会議議員が就き、委員にはアイリス・オーヤマやトヨタ自動車東日本の利害代表者が入りました。震災復興特別会計は増額されましたが、中身は大企業向けの立地補助金を1900億円計上し、原発輸出補助金は積み増し、逆に中小企業・農林漁家への事業・生業復興支援は低水準なままです。原発輸出のため再稼働も進めています。アベノミクスによる円安とオリンピック誘致後の東京での建設ラッシュによって、資材費や人件費が高騰し、それが復興を遅らせる一因にもなっています
 さらに安倍内閣は、2016年度以降の復興方針では、5年間の集中期間後、「被災地の『自立』」を求め、「地方創生のモデルとする」ことを明確にしました。そのために、「被災自治体にも一定の負担」を求めるとしていますし、「東北」を「地方創生のモデル」として、もっと規制緩和を促進することを求めています。15年度の復興特別会計補正予算でも、「産業・生業の再生」の項で挙げているのは、「インバウンド観光の推進」「輸出拡大水産加工業」であり、国内市場相手の観光業や生業的な農林水産加工業は無視されています。これに加え、今後、TPP批准、消費税増税が企図されており、被災者の生活再建を遅らせるばかりです。

真の被災地再建 なすべき課題は_2



3・11大震災シリーズ(70)
ふるさと

http://dai.ly/x3w8wa0
人は誰しも、ふるさとがある。時を経て、姿を変えても心には、ふるさとの情景が浮かぶ。あの日、多くの人が家族を失い、ふるさとを奪われた。変わりゆく風景を写真に収めながら追憶に生きる人、孤独を感じながら仮設住宅や災害公営住宅で暮らす人、原発事故で先の見えない生活に苦悩する人。震災5年を迎える3月、岩手・宮城・福島の3つの地元局の共同制作で、震災を生きのびた人たちの5年、そしてこれからの暮らしをみつめる。


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