藤井聡&西谷文和、大阪都構想・住民投票を解剖する
(ラジオフォーラム#122)
https://youtu.be/XN-6JozeIUQ?t=15m5s
15分5秒~第122回小出裕章ジャーナル
【公開収録から】原発誘致を阻止した日高町「はね返したんですけれども、非常に突発的な出来事で、ようやくはね返したんです」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no122/
和歌山県日高郡日高町小浦
西谷文和:
今日公開収録ということで、和歌山から来られてるんですが、今日私のテーマはですね、「原発誘致を阻止した町・日高町」ということですね、お聞きしたいのですが。和歌山の日高という所にですね、小出さん達は熊取6人衆と呼ばれてたのを皆さんご存知でしょうかね、6人衆の皆さんが、日高で合宿しはるわけですね。毎年。これはなぜなんでしょうか?
小出さん:
ご存知と思いますけれども、関西電力は若狭湾という所に原子力発電所を林立させたのです。でも計画としては若狭湾だけではなくて、紀伊半島の方にもたくさんの計画を持っていました。私の職場、京都大学原子炉実験所というのは、大阪府泉南郡熊取町という所に。
西谷:
和歌山に近いですねえ。
小出さん:
もうすぐ和歌山という所にあったわけです。ですから、和歌山の人達が原子力発電所の立地に対して戦っている時に、私達も自分の問題のように、やはり関わるようになりまして、和歌山の原子力発電所の反対運動に関しては、そこらじゅうに出掛けて行くように。
和歌山県原発立地計画地点
西谷:
日置川町とかもそうでしたもんね、はい。
小出さん:
勝浦もそうですけど、向こう側も含めて行くようになりました。中でも一番近かったのは、やはり日高という所だったわけで、暇さえあればビラを持ってビラまきに行くなり…
西谷:
熊取から電車に乗って行ってはったわけですね?
小出さん:
はい、をしていました。
西谷:
そういうその住民のその生活ぶりを見てですね、よく言われるのは住民が二分されていくでしょ、誘致派と反対派。そのあたりの見られてどうでした?やっぱり悲惨なことになってましたか?
小出さん:
そうですね。ですから原子力というのは今、西谷さんがおっしゃって下さったけれども、造るというその時から、村自身がズタズタに引き裂かれてしまう。
西谷:
そうですよねえ。沖縄の基地も同じですけどねえ。
小出さん:
そうです、はい。何にもできない前から、もう住民自身の心がもうボロボロにされてしまって、親族でもなんかもう口もきけなくなる。あるいは、ずーっと続いてきた祭りすらが維持できなくなるという、そういうことになってしまう。
西谷:
あの人、お金貰ったんちゃうかとかね、そういうことの話になっていくんですよねえ。
小出さん:
そうです。はい。
原子力PA*方策の考え方
(日本原子力文化振興財団原子力PA方策委員会報告書)
http://labor-manabiya.news.coocan.jp/shiryoushitsu/PAhousaku.pdf
「繰り返し繰り返し広報が必要である。新聞記事も、読者は三日すれば忘れる。繰り返し書くことによって、刷り込み効果が出る」
「事故時を広報の好機ととらえ、利用すべきだ」「事故時の広報は、当該事故についてだけでなく、その周辺に関する情報も流す。この時とばかり、必要性や安全性の情報を流す」「夏でも冬でも電力消費量のピーク時は話題になる。必要性広報の絶好機である」
えげつない… ε=ε=えげつな~(´口`メ)━━!!!
西谷:
そういう日高やその和歌山の所がずっと行かれておられたんですが、ここがですね、福井と違ってはね返せた理由というのは、小出さんから見てどういうふうなものだったんでしょうか?
小出さん:
一言ではたぶん言えないと思いますが、例えば、日本海側と太平洋側で言うと、太平洋側の方がちょっと豊かだったということはあるかも。海とか。
西谷:
ああ、なるほど。経済的にちょっと豊かだった?
小出さん:
はい。ただし日高という所もようやくにしてはね返したんですけれども、非常に突発的な出来事で、ようやくはね返したんです。だんだんだんだん電力会社、あるいは国の方から真綿で首を絞めるようにして住民が苦しめられていって、どんどんどんどん誘致の側に移っていくという人達が増えていくわけです。最後に、その漁業協同組合が漁業権の放棄をするというような所まで追い詰められて、総会を開いたんです。
西谷:
組合ですからね、総会になりますねえ。
小出さん:
そうです。その総会で決議を挙げて、漁業権を放棄するということになっていて、県の役員なんかも漁業組合の総会に県の役員なんか…
西谷:
和歌山県がね、推進側として入ってきてね。
小出さん:
そうです。来ているわけで、監視に来ているわけですね。それでちゃんと決議を取ってしまうと、たぶん漁業権は放棄されてしまって、それによって原子力発電所が建てられてしまうと。
西谷:
もっとも危ない瞬間ですよね、それはねえ。
小出さん:
そうです。その時に、漁民のひとりが県の役員の椅子をバアーっと引っ張った。要するに、実力行使をしたわけですね。
西谷:
カッコよろしいなあ。
小出さん:
「県の役人なんか、なんでこんな所にいる」と言って、県の役人の座ってた椅子をそのまま取り上げて、県の役人がひっくり返るというようなことをやったわけです。それで総会が大混乱に陥って、流会してしまった。
西谷:
よかったですねえ。決議やらなかった?
小出さん:
そうです。ですから、それで、ようやくにして決議が上がらなかった。それで、皆さんも「もう嫌だ」と「こんなそんなお互いにいがみ合うようなことは止めよう」ということで、漁業協同組合の組合長も「もうやめた、もう原発のことは」ということになって、ようやくにして止まったんです。ですから、本当の個人ひとりの漁民の突発的なギリギリの思いが日高の原発を止めたという。
西谷:
私も日高行きましてね。その反対運動されてる方に本を読ませてもうたんですが、ずるいんですよねえ、関西電力ってね。その土地を買う時に、「この木材の貯木場にするから、この土地を売れ」とか。あるいは「ここを国定公園にするから、ここを売れ」ということで売ったのに、それが転売されて原発予定地になる。
小出さん:
みんなどこでもそうです。
西谷:
六ヶ所村もそうですよねえ。
小出さん:
はい。
西谷:
あれ、もともと工業予定地として。
小出さん:
そうです。石油基地コンビナートになる予定だった。それができないからと言って、原発になってしまった。
西谷:
この事情を知らない方はね、「お前らはその土地売って儲けたんやろ」みたいに言う人いるんですよ、原発の立地の方にねえ。あれ、最初は騙されてるんですよ。騙されてるというか。
小出さん:
みんなそうです。
西谷:
「原発やったら売らない」と言う人多かったでしょ?おそらく。
小出さん:
はい。
西谷:
だから、それを例えば、貯木場だということで売ったけども、その貯木場の会社がちょっと悪い奴らにね。そっと、こう関電に売ると。だから、本当にずるいなあと思うんですけど。これね、福井県に集中してしまったのは、やっぱりなぜでしょうか? この関西の場合は。
小出さん:
先程聞いて頂きましたけど、日本海側と太平洋側で、やはりその経済的な強さっていうのがあったんだろうと私は思いますし、太平洋側で止めることができたら、もう非常に偶然的なことも左右していたので、歴史というのは全部解説することはできないわけですし、かなりのいろんな偶然的な成り行きがあったんだろうなあと思います。
西谷:
ちょうどですね、この反対運動が危ない時に、スリーマイルが起こって、助かったと。またやられて危ないなあ思う時に、チェルノブイリが起きた言うてました。だから、そういう偶然も重なったわけですね?
小出さん:
そうです。
西谷:
そういうことで私、日高に行きますとね、未だに日高の町の人は話ができないような状態になってるって聞きました。もうだいぶ、その傷が癒えたと言いますか。
小出さん:
そうですね。はい。当初は、本当にその親族でもお互い口を利かないというような所まで追い詰められていましたけれども。でも、まあそういうのを止めようということで、町長も決断したわけですし、最近は随分良くなったと私は思います。
民宿「波満の家」にて
西谷:
今ね、福島でね、逃げた人と逃げなかった人の分裂なんかもありますけど、ちょっと時間がだいぶかかりますね。その町が癒えるまでねえ。
小出さん:
すごい時間がかかります。
西谷:
はい。本当に罪深いということですね。原発の計画を立てた時点で、もう罪深いことやってるということですね?
小出さん:
はい。
西谷:
はい。小出さん、今日はどうもありがとうございました。
小出さん:
ありがとうございました。
西谷:
今日は、公開収録でお送りしました。
「原発反対、正しかった」日高町の町長ら安堵
(橋本新聞)2011年4月15日
http://hashimoto-news.com/news/2011/04/15/2066/
和歌山に原発がない理由 反対運動の記録出版
(和歌山新報)2012年06月11日
http://www.wakayamashimpo.co.jp/2012/06/20120611_14541.html
野田佳彦首相が関西電力大飯原子力発電所3、 4号機(福井県おおい町)の再稼働を表明し、 原発の是非をめぐる関西住民の関心は大きく高まっている。 関西電力の原発は福井県の日本海沿岸に集中し、 太平洋側の紀伊半島には一つもない。 その理由に迫る一書 『原発を拒み続けた和歌山の記録』 (汐見文隆監修、 「脱原発わかやま」 編集委員会編)が発刊された。
同書は、 日高、 旧日置川、 那智勝浦、 旧古座の県内4町にかつてあった原発建設計画の発端から、 住民の反対運動の展開、 計画の終息に至るまでの経緯を詳しく記録している。
反原発を掲げ、 保守系候補が旧社会党と共産党の支援を受けて当選した昭和63年の旧日置川町長選など、 異例の展開となった興味深い歴史も紹介。 各地の反対運動を担った中心者の地道な行動や発言、 人物像に光を当てた章もある。
当時の資料や報道、 関係者の聞き書きなどから描き出される推進派と反対派の激しい戦いの様子は、 福島第1原発や大飯原発をめぐる現在の情勢と重なる部分が少なくない。
現在 「国論を二分している」 (野田首相)と言われる原発をめぐる問題に対し、 同書は 「原発を再稼働させてはならない」 「これからは脱原発社会しかない」 (あとがき)と強く訴えている。
◇
【原発を拒み続けた和歌山の記録】平成24年5月11日発行 監修・汐見文隆 編者・ 「脱原発わかやま」 編集委員会 発行所・寿郎社 252㌻ 定価・1500円(税別)
原発の火種消した町 漁師、医師ら40年のたたかい 和歌山県 日高町
(全日本民医連)
http://www.min-iren.gr.jp/?p=15676
関西南部の紀伊半島では過去に、関西電力が五カ所で原発建設を計画しましたが、住民運動で一基の建設も許していません。紀伊水道の穏やかな海に面した和歌 山県日高町もその一つ。「日高原発」の建設を巡り、人口七〇〇〇人の小さな町を二分した熾烈なたたかいがありました。関電が一九六七年に同町阿(あ)尾 (お)で、続いて小(お)浦(うら)に建設をもくろみます。「豊かな海を守ろう」と漁師や町民、三〇キロ圏の周辺住民、そして医師が立ち上がります。巨額 の補償金で住民分断を図る関電。建設まであと一歩と追い込まれながら、押し返した住民。約四〇年のたたかいを経て、ついに原発の火種を消しました。
(新井 健治記者)
「板子一枚下地獄」
「漁師の世界では『板子(いたご)一枚下地獄』と言ってな、お互い助け合わないと生きていけない。町長、この気持ちがわかるか」―。漁師の濱一己さんの叫びが、議場にこだまします。壇上には二〇年にわたり原発を推進してきた一松春(はじむ)町長(当時)の姿が。
板子とは舟底に敷く揚げ板のこと。板子の下には危険な海が広がります。漁師は命がけで漁をし、いざという時には身を投げ打っても仲間を助けます。原発はこの人間関係をずたずたにしました。
関電は一九七五年、小浦崎の突端を埋め立て一二〇万キロワット二基の原発建設を計画。約七億円の漁業補償金を提示し、漁師は推進派と反対派に二分されま した。方杭(かたくい)浜の濱さん(62)の自宅から、小浦崎までわずか八〇〇メートルです。
「親からもらった海を子どもたちにつないでいくには、原発で海を汚したらあかん」と濱さん。「日高町原発反対連絡協議会」事務局長として反対派を引っ張りました。
濱さんが町長に訴えたのは、一九九〇年の比井崎(ひいざき)漁協総代会。同漁協は阿尾、小浦など日高町沿岸九漁港の漁師が会員です。世論に押された漁協 は建設拒否を決定。直後に原発反対の町長が当選し、建設は事実上ストップします。ただ、ここまで来るのは長い道のりでした。
アカのレッテルで分断
日高町で原発建設の話が持ち上がったのは一九六七年。関電はまず阿尾で計画。住民の反対で頓挫すると、小浦に持ちかけます。最初に動いたのは女性たちでした。
「男は黙って働いて、しゃべるのは女に任せたんやな」と振り返るのは「原発に反対する女の会」のメンバーで元教師の鈴木静枝さん(93)。今は阿尾港の見える高台の特別養護老人ホームに入居しています。
鈴木さんの反対の原点は戦争です。「人を殺していいと教育した。もう、騙されたないわ、お上の言うことは信用できへん、との思いがあった」と言います。
原発も突如、“お上”から。「『原発さえできれば豊かになれる』という、ありがたい話なので疑った」。直感でその危うさを見抜きました。
「難しいことは分からんが、お上の言うことは聞かんと」と推進派からは言われました。原発反対はお上に反対すること。「わたしらは『アカ』ということになってね」と笑います。
同町は関電とともに、建設を推進。反対だった住民も、関電の接待攻勢や就職斡旋で賛成に転じます。漁協も理事の大半は推進派に。親兄弟、親戚でさえ賛成 派と反対派に分かれ、漁船の進水式や結婚式にも呼ばないなど狭い町内が険悪なムードに包まれました。
阿尾港の漁師として建設に反対し、今は比井崎漁協組合長を務める初井敏信さん(63)は、「周囲の漁師が次々に切り崩されていく。本当に阻止できるのか、不安とのたたかいだった」と振り返ります。
立ち上がった周辺住民
一九八一年、関電は原発建設に必要な環境アセスメントの陸上調査を開始。後は漁協が海上調 査に同意すれば、建設が始まることになっていました。調査を巡り、漁協は何度も総会を開きます。理事会が受け入れ議案を提案しても、反対派の組合員が激し く抵抗して紛糾、総会は流会、散会を繰り返しました。
ぎりぎりの状況の中、一九八六年にチェルノブイリ原発事故が起きます。事故では原発から三〇キロ圏が立ち入り禁止区域に。この事故に危機感を深めた日高 町と周辺自治体(御坊市と八町)の住民が翌八七年、「日高原発反対30キロ圏内住民の会」を結成します。「原発は一自治体だけの問題ではない」との結成呼 びかけ文は、福島原発事故にも通じる先駆的な視点でした。
同会事務局長で元中学教師の橋本武人(たけんど)さん(御坊市)は「授業が終わってからビラを配り、学習会を開き、それこそ東奔西走の毎日だった」。
同会は建設反対の世論づくりに尽力。日高郡市で一七の住民の会を組織し、署名を集めました。日高町と隣接するすべての自治体(五市町)で、有権者の過半数が署名し、推進派を包囲しました。
「会ができる前は『建設を阻止できないのでは』という気持ちも。ところが、運動を始めると圧倒的に反対世論が強い。場さえ作れば住民は立ち上がると肌で感じた」と橋本さん。
医師31人が意見広告
激しいせめぎ合いが続く中、医師たちも立ち上がります。一九八八年三月、日高医師会(日高郡市)の医師三一人が、連名で新聞に意見広告「恐ろしい原発はいらない」(写真左)を出したのです。
日高町で唯一名前を連ねた古田医院の古田浩太郎院長(71)は「住民の健康を守る医師にとって、その対極にあるのが原発」と言います。
病院勤務医から一九七五年に開業した古田さん。「帰郷した時、息子と見た紀伊水道の夕日が忘れられない。この海を守りたくて反対した」。
住民の信頼が厚い医師の意見広告は、世論づくりの弾みに。橋本事務局長は「医師の意見広告は署名集めに大きな効果があった」と指摘します。
原発から福祉の町へ
反対世論が高まっても、一松町長は建設に固執しました。30キロ圏内住民の会は「町長を変えるしかない」と「新しい日高町をつくる会」を結成。同会は一九九〇年の町長選で「原発に頼らない町政」を掲げた志賀政憲さんを擁立、当選させます。
町議の大半は推進派。志賀さん(74)は議会対策で苦労しました。「建設に反対すれば国から交付金が来ない」と攻撃されましたが、周辺自治体に先駆け福 祉センターを造り、中学までの医療費無料化を実現。原発に代わり福祉の町づくりをすすめました。その結果、過疎化がすすむ県内では珍しく、日高町はここ二 〇年、人口が増えています。
紀伊水道は数少ない天然の高級魚クエで有名。同町はクエを観光資源化、観光客も大勢訪れるようになりました。前出の濱さんもクエ漁師です。
「今は近隣自治体や大阪からも感謝の電話が来る。在職中は悩んだが、判断は正しかった」と志賀前町長。
八期にわたり原発反対を貫いた一松輝夫町議(62)は「私が反対した一番大きな理由は、関電に田舎の良さを破壊されたこと。札束で頬を叩くような仕打ち への怒りだった」と言います。「どちらかと言えば、右翼なんだけどね」と笑う一松町議。「甘言に惑わされず原発を許さなかった地域を誇りに思う」。
隣市で核燃施設の計画
志賀さんを継ぎ、二〇〇二年から町長を務める中善夫さんも原発反対です。関電は建設をあき らめませんでしたが、二〇〇五年に国が小浦の「開発促進重要地点」(現在は重要電源促進地点)指定を解除、実質的に建設は不可能になりました。一九六七年 以来、約四〇年くすぶり続けた原発の火種は鎮火しました。
ただ、油断はできません。二〇〇三年、使用済み核燃料の中間貯蔵施設を日高町隣の御坊市に建設する計画が明らかに。30キロ圏内住民の会は「日高原発・ 核燃施設反対30キロ圏内住民の会」と名称を変え、活動を続けています。
古田さんらは「使用済み核燃料中間貯蔵施設建設に反対する医師の会」(深谷修平会長)を立ち上げました。日高医師会の会員九〇人に呼びかけたところ、六〇人が会の趣旨に賛同しました。
同会事務局長で龍神医院(美浜町)院長の龍神弘幸さん(58)は、「医療従事者の良心にかけて反対を貫く」と言います。龍神さんは民医連の和歌山生協病院を経て、一九九六年に開業。「核燃施設は今でこそストップしているが、全国に原発がある限り、いつ再燃するかわからない。火種を消すには、原発を止める しかない」。
原発で二分された町内も、月日が経ち修復されたかに見えます。福島原発事故で、反対運動の意義は明らかになりつつありますが、濱さんは「自分たちが正し かった、とは強調しない。逆に『もともと同じ漁師やないか』と、こちらから推進派だった人に声をかけている」と気を遣います。初井組合長は言います。「国 や関電が人間関係を壊したのは大きな罪。反省してほしい」。
日高原発建設を巡る動き
1967年 町長が阿尾に原発誘致表明。町議会が誘致決議
1968年 阿尾区及び比井崎漁協が反対決議
町長が原発誘致の白紙撤回を表明
1975年 関電が小浦での環境調査を町長に申し入れ
1978年 小浦区と比井崎漁協が環境調査受け入れを決議
1979年 スリーマイル島原発事故。町長は環境調査を凍結
1980年 町長が環境調査凍結を解除
日高町原発反対連絡協議会結成
1981年 関電が陸上調査開始
1984年 海上調査受け入れを巡り比井崎漁協総会が流会
1985年 比井崎漁協総会は紛糾の末、継続審議
1986年 チェルノブイリ原発事故
1987年 日高原発反対30キロ圏内住民の会結成
1988年 医師31人が新聞に意見広告を発表
比井崎漁協総会で海上調査の議案が廃案
1990年 比井崎漁協理事会が「原発にとりくまない」と決定
原発反対派の志賀政憲さんが町長当選(3期)
2002年 原発反対派の中善夫さんが町長当選(3期目)
2005年 国が開発促進重要地点の指定を解除
(民医連新聞 第1515号 2012年1月2日)
映画「シロウオ~原発立地を断念させた町」紹介
https://youtu.be/A6MZ7JLlfOI
小出裕章先生インタビュー動画~原発を問う
https://youtu.be/YdrC0H_UmqQ
映画「シロウオ」~原発立地を断念させた町~
http://www.kasako.com/eiga1.html
故郷を、自然を、仕事を、そして家族を守りたい――
原発反対運動を成功させた人々の証言ドキュメンタリー
迫害され続けた京都大学の原発研究者(熊取6人組)たち
危険性を訴えたら、監視・尾行された
(週刊現代)2011年04月30日
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2462
「原発の開発には胡散臭いところがあった。モノは必ず壊れる。でも東電など電力会社は、絶対に壊れないと本気で思っているように見えた。チェルノブイリ事故があったとき、日本では『ソ連の安全に対する意識が遅れていたのが原因だ』なんて言われたけど、日本のほうがよほどひどかったね」
落ち着いた口調で語るのは京都大学原子炉実験所の今中哲二助教(60歳)だ。
原発を推進してきた学者たちが「想定外」という言葉を繰り返すのとは対照的に、今日の福島第一原発のような大事故がいつか起きると警告を発し続けてきた学者グループがいる。
彼らはこれまで「異端の研究者」と見られ、テレビや新聞でもほとんど紹介されることがなかった。それどころか、学会では長く冷や飯を喰わされ、研究費や昇進でも明らかな差別を受けてきた。
遅きに失した感は否めないが、今回の事故で、そんな彼らにようやく注目が集まりつつある。原発関係者たちは、推進、批判の立場を超え、彼らのことを「熊取6人組」と呼んだ。
「熊取」とは、京都大学原子炉実験所の所在地である大阪府泉南郡熊取町に由来する。つまり、「6人組」はいずれも京都大学の原発研究者として一緒に働いた仲間である。
いまも同実験所に在籍しているのは冒頭の今中氏と、小出裕章氏(61歳)。二人とも肩書は助教。'01年から'03年に相次いで定年退職したのは、海老澤徹氏(72歳、助教授)、小林圭二氏(71歳、講師)、川野真治氏(69歳、助教授)。そして、1994年にがんで亡くなった瀬尾健氏(享年53、助手=現在の助教)。本誌は今回、存命中の5人すべてのメンバーから話を聞いた。
「すでに引退した身だから」と控えめな口調ながらも、川野氏はこう断じた。
「我々は今回のように一つの事象で原発全部がやられてしまうような事故があり得ると指摘していたけど、推進派の人々は何重にも防護しているから安全だと耳を貸さなかった。今はともかく起きている事態に対処するしかないけれど、いずれ責任ははっきりさせるべきでしょうね。これまでは事故があってもうやむやにしてきたわけですから」
原発の危険性を無視し、今回のような事態を招いた原発推進派の人々はいま、どんな思いで彼らの言葉を聞くのだろうか。
この「熊取6人組」を詳しく紹介する前に、なぜ、彼らが関係者の間で「異端の研究者」と見られ、ニックネームまで付けられる存在になったかを説明する。
研究費もつかない
原発研究者の世界は「原発ムラ」などと呼ばれ、基本的に原発推進者ばかりである。電力会社は研究者たちに共同研究や寄付講座といった名目で、資金援助する。その見返りに研究者たちは電力会社の意を汲んで原発の安全性を吹聴する。
原発を所管する経済産業省と文部科学省は、電力会社に許認可を与える代わりに、電力会社や数多ある原発・電力関連の財団法人などに天下りを送り込む。さらに、研究者たちは国の原子力関連委員を務め、官僚たちとともに原子力政策を推進していく。
簡単に言えば、原発ムラとは、潤沢な電力マネーを回し合うことでつながっている産・官・学の運命共同体なのである。テレビに出て、どう見ても安全とは思えない福島第一原発の状況を前に、しきりに「安全です」「人体に影響はありません」などと語る学者から、原子力委員会、原子力安全委員会、経産省外局の原子力安全・保安院、東京電力も、それぞれ立場は異なるものの同根だ。
経産省OBが語る。
「京大の原子炉実験所も、基本的には原発推進派の人物が多い。現在の原子力安全委員会でも、会見で話す機会が多い代谷誠治氏は、京大原子炉実験所の所長でした。ただ、京大は『熊取6人組』のように、反原発の立場から原発を研究する人も受け入れている。原発ムラの中心にいる東大には反原発の現役研究者は皆無です」
この経産省OBが言うように、原発ムラの頂点に立つのが東京大学大学院工学系研究科のOBたち。たとえば、原子力委員会委員長の近藤駿介氏、原子力安全委員会委員長の班目春樹氏は、いずれも同研究科OB。NHKの解説でおなじみの関村直人氏、さらに実質的に日本の原子力政策を決めている資源エネルギー庁原子力部会部会長の田中知氏は、同研究科のOBにして、現在は同研究科教授といった具合だ。
こうした原発ムラにあって、真正面から異を唱え、原発の危険性を叫び続けてきたのが「熊取6人組」なのである。反原発の立場で研究を続けていくことは楽なことではない。彼らのうち誰一人、教授になっていないという事実が、学内での微妙な立場を物語っている。現在、実験所には約80人の研究者がいるが、瀬尾氏が亡くなり、3人が定年を迎えたことで、反原発の立場なのは小出氏と今中氏の二人だけだ。小出氏が苦笑しながら言った。
「同僚から異端視されることはないけど、京大も国・文科省の傘下にある。その国が原発推進というのだから、傘下の研究所で国に楯突くのは好ましくないという事情はあるでしょうな。嫌がらせを受けたと感じたことはないけど。
私もかつては研究費をもらおうと文科省に申請したことがあるけど、審査がまったく通らない。なぜ通らないかは何とも言えませんが(笑)。ああいう研究費って、力を持った教授のお手盛りで決めるからね」
他のメンバーに「反原発」で不自由を感じたことはないかと尋ねたところ、次のようなエピソードが並んだ。
・メディア関係者の取材に同行し、原発関連企業を訪れたが、自分だけ門前払いを喰った。
・科学技術庁(当時)に実験装置設置の認可を得るべく折衝したが、反原発訴訟に関係していることがわかった途端に申請を受け付けてもらえなくなった。
・上司が会合で他大学の教授から「あの6人組はなんとかならんか」と言われた。
そして、出世について聞くと、「今の立場のほうが快適」「昇進できないのは覚悟していた」「気楽にやれるのが一番」などという答えが返ってきた。彼らの口調は淡々としていて、苦労を笑い飛ばすような雰囲気があった。ただ、実際には「ムラの掟」に逆らって生きていくには、相当の覚悟がいるに違いない。
ずっと助手のまま
立命館大学特命教授の安斎育郎氏は、原発ムラのエリートコースである東大大学院工学系研究科の博士課程を修了した後、反原発の立場で東大医学部に残ったが、助手のまま17年間を過ごした経歴を持つ。安斎氏の証言。
「原発推進派と批判派の溝は深いと思います。原発に批判的な発言をする反体制派だと見なされると、学内でも様々なアカデミックハラスメントを受けた。講演に行けば、電力会社の人間が尾行につく。同じ電車に乗ってくるし、だいたいいつも同じ人間だからわかるんです。講演内容を録音して、私の主任教授などに届ける係の人までいましたから。そうなると研究室でも安斎とは口を利くなということになる。京大の小出さんや今中さんたちのグループも同じような経験をしているはずです。
僕は電力会社から留学を勧められたこともありました。『3年間アメリカに行ってくれ。全部おカネは出すから』って。それほど目障りだったんでしょう。さすがに命の危険を感じることはなかったけれど、反原発で生きていくというのは、そういうことなんです」
「6人組」のメンバーと取材や反原発イベントを通じて交流のあるジャーナリストもこう語る。
「イベント会場に行くと、なかに明らかに雰囲気の違う黒服の人がいたりすることは頻繁にあります。小出さんや今中さんたちはもう慣れっこなのか、現在進行形だから話せないのかはわかりませんが」
原発ムラからの圧力は彼らのような研究者たちだけでなく、メディアにも加えられるという。たとえば、'08年10月、大阪の毎日放送が「6人組」を追ったドキュメンタリー番組を放送した。その後の騒動について、民放労連の関係者が言う。
「番組放送後、関西電力からは『反対派の意見ばかり取り上げるのは公正ではない』という申し入れがあり、局側は『番組の最後で推進派の教授と討論する場面を入れている』と反論したそうですが、関電は納得しなかったのでしょう。その後、しばらくCMを出さなかったと聞いています」
この後、毎日放送では、関西電力の社員を講師として、原発の安全性についての「勉強会」も開かれたという。関西電力サイドは、この件について「放送された番組の内容を受けてCMの出広量を減らした事実はない。講師派遣についても、先方の要請で行うことはあるが、こちらがねじ込んだりしたという事実はない」と否定する。
いずれにせよ、今回の事故が発生するまで原発ムラの産・官・学連合は利権を分け合い、好き放題やって「熊取6人組」など反対派の研究者を虐げてきた。
何言ってるの? 関村教授
しかし、いまや原発ムラはバラバラだ。彼らがムラを守るために主張してきた「安全神話」は、誰の目から見ても、完全に崩壊した。
「6人組」の一人、海老澤氏はNHKの解説で一躍有名人となった「あの人」の発言にこう苦言を呈した。
「あまりテレビは見ないんですが、3月12日に枝野(幸男)官房長官が記者会見で『1号機の水位が下がった』と言い、重大な事態だという認識を示した。ところが、その後のNHKで東大の関村教授が出てきて、『原子炉は停止した。冷却されているので安全は確保できる』というようなことをおっしゃった。唖然としましたよ。
炉の冷却ができなくなってから100分くらい経つと水位が低下しはじめ、その後20分位で燃料棒を覆う被覆管が溶けて燃料が顔を出す。やがて炉心溶融に向かうというのはスリーマイルの事故報告書を見るとはっきりと書いてある。研究者なら当然知っているはずなんです。関村さんの話を聞いて、『この段階で何を言っているのか』と思いました。隣のNHKの記者もさすがに怪訝な表情をしているように見えましたね」
本誌は関村教授にもインタビューを申し込んだが、多忙を理由に断られてしまった。
前原子力委員会委員長代理で、別項で紹介した緊急建言の16人の起草者の一人である田中俊一氏が語る。
「いまの状況で『安全だ』という学者は曲学阿世の人ですよ。NHKにしても『安全だ』と繰り返すから、取材に来たときに『そんなに安全だと言うなら、あなた方は(高い放射線量が検出された)福島県の飯舘村に引っ越せますか』と聞いたんですよ。『できません』と答えていた」
田中氏のように原発を推進してきた研究者たちでさえ、いまの原発ムラの状況には違和感を覚えているのだろう。世間も原発ムラの人々の発言の胡散臭さに気付き始めている。
対照的に、これまで「6人組」の言い分をほとんど取り上げてこなかった朝日新聞も、原発事故以降、小出氏や今中氏の分析を掲載するようになった。それでも、彼らが原発の危険性を訴え続けていく姿勢は変わらない。
「照明はほとんど使わないんですよ。夜でもね。エアコンももちろんなし。パソコンの画面が明るいから、仕事には支障がない」
そう語る小出氏には仕事をしながらの話でもよければ、ということで京大原子炉実験所研究室で話を聞いた。午前10時なのに薄暗い。
「東北電力が女川に原発を作るというのを聞いて、本当に原発が安全なら、なんで電気を一番使う仙台の近くに建てないのかと思ってね。それでいろいろ調べたら、原発はもともと危険を内包していて、都会では引き受けられないから、わざわざ過疎地に作るんだという結論に達したわけ。そうなったら、選択は一つ。反対するしかないと」
福島県飯舘村の放射線量調査から戻ったばかりの今中氏にも、実験所の研究室で向かい合った。
「僕は明確に反原発というわけでもない。東京の人が東京湾に原発を作ろうというなら、反対はしないでしょう。
それから、6人組という呼び方は嫌いなんです。同じ原子力安全研究グループでいまも活動していますが、思想信条だって違う。ただ、一緒に研究している仲間だと認識してます」
悲しき御用学者たち
もちろん、彼らはそれぞれに専門を持ち、独自に活動を進めている。それでも、原発ムラに安住し、いまだに根拠なく安全だと繰り返す人々に辛辣なのは変わらない。
「みんなおかしくなっているんじゃないか。ただちに健康に影響がありませんというけれど、それは煙草を100本吸ってもただちに影響がないというのと一緒ですよ。基本的に放射線の影響には急性障害と晩発性障害(被曝後、何十年と経ってから影響が出てくる障害)がある。だから、100ミリシーベルトの放射線を浴びても、すぐに死なないというのは正しい。ただ、晩発性障害をどう考えるのか。それをまったく抜きにして専門家が解説している」(今中氏)
「最近の学者には、国の研究機関から大学に天下ってきた人も少なくない。そういう人は、国の代弁しかしない。原子力というのは巨額のカネがかかる分野で、国の関与がなければ成立しません。だから、この世界でメシを食おうと思ったら、御用学者になるのは必然とも言えます。一般の方は、学者だからそれぞれの考えで発言していると思うかもしれませんが、原子力分野はそうではないんです。
それと原子力安全委員会は何をしているのか。委員長の班目さんはすっかり後ろに引っ込んでしまった。彼には無理だったということでしょう」(小林氏)
「推進派は頭を丸めろということですよ。これまで主張してきたことをどう思っているのか、表明してほしい。何人か謝罪した人もいるみたいだけど、原子力委員会の近藤駿介委員長みたいに、謝罪もせず逃れようとする人もいる。みっともないね。原子力安全委員会にしたって、こんなときこそ仕事をしなきゃならんのに、何してるのか全然見えてこない」(小出氏)
最後に、今後の福島第一原発についての見通しを小出氏に聞いた。小出氏は、
「うまくいっても、安全と言える状態になるまでは最短で年単位。数ヵ月では無理でしょう」
と答えた。
---小出先生のところに「原発をどうすればいいか」という相談はないんですか?
「ありませんねえ。私が答えるにしても、原発をやめなさいとしか言えないし、意味がない。原発を生き延びさせるための提言なんてないんです」
照明が消された薄暗い研究室で、小出氏はきっぱりとそう言い切った。