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長崎は今日は晴れだった~♪その4

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長崎は今日は晴れだった~♪その3からの続き

龍馬通りの坂
龍馬通りの坂

ここから亀山社中跡まで210mですけれど、かなり急勾配ですね…(;^ω^)
頑張ります!(`・ω・)

この竜馬通りには亀山社中で活躍した志士たちの案内看板が掲げられています。

近藤長次郎
近藤長次郎

近藤長次郎は「龍馬伝」では現在、連続テレビ小説「まれ」でお父さん役で出演中の大泉洋さんが演じていましたね~♪

連続テレビ小説「まれ」父役に大泉洋さん

https://youtu.be/Vy_6ZozvYgc

竜馬通り看板
竜馬通り看板

「リリーフ参上心機一転」って、何のことでしょうかね~(笑)


陸奥宗光
陸奥宗光

沢村惣之丞
沢村惣之丞

亀山社中跡まで100m、近藤長次郎が教えてくれました(^-^)/

長岡謙吉
長岡謙吉

中島信行
中島信行

中島信行の後妻は女性解放運動家の中島湘煙ですよ~。
宮本百合子著「女性の歴史の七十四年」に出てきますね。

おお!ようやく到着しましたよ~\(^^)/

亀山社中の跡_1
亀山社中の跡_1

入口に子供たちが屯をしていました(笑)疲れ果てて座り込んでいる子?やマンガを読んでいる子…四者四様が面白いですね(ノ∀`)

亀山社中の跡_2
亀山社中の跡_2

座り込んでいる子はやはり疲れ果てているみたい(笑)

さっそく入館することにします(^-^)/

亀山社中記念館パンフレットと入場券
亀山社中記念館パンフレットと入場券

亀山社中記念館パンフレット
亀山社中記念館パンフレット

受付の方に写真撮影はいいですか?と尋ねると、第一展示室はOKとのことでした。

龍馬の紋服とブーツのレプリカ
龍馬の紋服とブーツのレプリカ

龍馬の刀とピストルのレプリカ
龍馬の刀とピストルのレプリカ

第二展示室には龍馬の直筆の手紙(複製)などが展示してありました(^ω^)

亀山社中記念館よりの眺め
亀山社中記念館よりの眺め

亀山社中記念館の見学を終えて、門から東方にちょっと行くと「龍馬のぶーつ像」があります(^-^)/

龍馬のぶーつ像案内看板
龍馬のぶーつ像案内看板

龍馬のぶーつ像の前に行くと3人連れの女子大学生風の女の子達が猫と戯れていましたニャン~(=‘x‘=)

龍馬のぶーつ像_1

(ノ゚ο゚)ノ オオォォォ-!ウキペディアに載っていた写真通りですよ~(笑)
当たり前か…(;^ω^)

龍馬のぶーつ像_2
龍馬のぶーつ像_2

龍馬のぶーつ像から見た長崎市街
龍馬のぶーつ像から見た長崎市街

なかなか良い眺めですね~♪長崎駅方面を望んでいるのですけれど、よく判りませんね~(^0_0^)
長崎は土地が無いので上に伸びるしかないのですよね~?(^0^)

眠り猫
眠り猫

3人連れの女の子が戯れていたのはこの猫ちゃんですね~
この猫ちゃんいびきをかいて寝てます~(笑)撫でてもピクリともせずに眠ったままです~気持ちよさそうニャンc(-。-,,)c)~

伊良林名所案内看板

さて、これからどうしましょうかね~?坂本龍馬像まで行くには時間も体力もありませんね…(;^ω^)長崎平和公園へ向かうことにします。

亀山社中跡から帰途中で眺める長崎市街
亀山社中跡から帰途中で眺める長崎市街

降ってくること約10分、中島川を越えて公会堂前停車場まで来ましたよ。ここから長崎電鉄第3系統赤迫行きに乗車します(^ω^)
長崎駅前を通過して約20分で松山町停留所に到着しました~(^-^)/
案内看板に従って永井隆記念館如己堂)へと向かいます。
結構、急な坂道を歩くこと約2分、前方に長崎カステラの文明堂総本店岡町店が見えてきました~大型観光バスが停まって何やら賑わっていますね~♪

60s 文明堂 カステラ CM 1962年

https://youtu.be/l1JhXGA_HrA

文明堂といえばこのCMですね~(^0^)

さて、文明堂を過ぎてちょっと行くと、被爆者の店が見えてきました。この店は被爆者の方が経営されて、働いておられるお店です。外国人観光客で賑わっていました(^ω^)

被爆者の店
被爆者の店

被爆者の店から後ろを振り返って見ると平和祈念像の後ろ姿が見えます。ここはまず如己堂を目指して進みます。
約5分位歩くと見えてきました。

如己堂への道標
如己堂への道標

如己堂案内看板
如己堂案内看板

永井隆博士の生涯 個人観覧券
永井隆博士の生涯・個人観覧券

長崎市永井記念館
長崎市永井記念館

永井隆記念館の展示品
永井隆記念館の展示品の一部

長崎市永井記念館 原爆投下、そのとき…
原爆投下、そのとき…

 私は研究室で長年取り組んでいた放射線の障害を受けて白血病にかかってしまった。余命あと幾年もないと診断された日、私は信頼している妻にすべてを打ち明けて、善後策を考えようと言った。そのとき妻は、ぎくりともせず聞いていた。
 私の予期していたとおり妻がしっかりしているのでうれしかった。そんな運命はかねて妻も覚悟をしていたのである。この妻ならわが亡きあと、子供をりっぱに養育して、私と同じく放射線の研究に従う学究にしてくれるであろう。私は後顧の憂いなく研究の最後の仕上げに没頭することができた。妻はいよいよ深い愛情をもって私をいたわってくれた。病勢が自然に進行し、空襲警報が出て鉄かぶとの重いのをかむったりすると、足がよろめくほどであった。一度は妻におぶさって大学へ出勤したこともあった。
 八月八日の朝、妻はいつものように、にこにこ笑いながら私の出勤を見送った。少し歩いてから私はお弁当を忘れたのに気がついて家へ引き返した。そして思いがけなくも、玄関に泣き伏している妻を見たのであった。
 それが別れだった。その夜は防空当番で教室に泊まった。あくる日、九日。原子爆弾は私たちの上で破裂した。私は傷ついた。ちらっと妻の顔がちらついた。私らは患者の救護に忙しかった。五時間ののち、私は出血のため畑にたおれた。そのとき妻の死を直覚した。というのは妻がついに私の前に現われなかったからである。私の家から大学まで一キロだから、這って来ても五時間かかれば来れる。たとい深傷を負うていても、生命のある限りは這ってでも必ず私の安否をたずねて来る女であった。
 三日目。学生の死傷者の処置も一応ついたので、夕方私は家へ帰った。ただ一面の焼灰だった。私はすぐに見つけた。台所のあとに黒い塊を。──それは焼け尽くして焼け残った骨盤と腰椎であった。そばに十字架のついたロザリオの鎖が残っていた。
 焼けバケツに妻を拾って入れた。まだぬくかった。私はそれを胸に抱いて墓へ行った。あたりの人はみな死に絶えて、夕陽の照らす灰の上に同じような黒い骨が点々と見えていた。私の骨を近いうちに妻が抱いてゆく予定であったのに──運命はわからぬものだ。私の腕の中で妻がかさかさと燐酸石灰の音を立てていた。私はそれを「ごめんね、ごめんね」と言っているのだと聞いた。

ロザリオの鎖 より

長崎市永井記念館 如己愛人

 「いとし子よ。
あの日、イクリの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一よ、カヤノよ。お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世に留めて、ついにこの世から姿を消してしまった。そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?――原子爆弾。・・・いいえ。それは原子の塊である。そなたの母を殺すために原子が浦上へやって来たわけではない。
 そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。」
「戦争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこんな大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。そうして、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、―戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしよう!
 そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくなってくるのである。どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?」
「私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。…
 わが子よ!
 憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。」
 「しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。
 日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出ないとも限らない。そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。」

いとし子よ より


 うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、
「ああ、……お父さんのにおい……」
と言った。
 この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!
 母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?
 枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私であっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども、私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか?
 ――私の布団を押し入れから引きずり出し、まだ残っている父のにおいの中に顔をうずめ、まだ生え変わらぬ奥歯をかみしめ、泣きじゃくりながら、いつしか父と母と共に遊ぶ夢のわが家に帰りゆくのであろうか? 夕日がかっと差しこんで、だだっ広くなったその日のこの部屋のひっそりした有様が目に見えるようだ。私のおらなくなった日を思えば、なかなか死にきれないという気にもなる。せめて、この子がモンペつりのボタンをひとりではめることのできるようになるまで……なりとも――。

この子を残して

 ――カヤノが遊びから帰ってきて、私の眠っているのを見定め、こっそり近寄って、お父さんのにおいを求めたのは、こんなわけがあるからであった。
 私も……わが子のにおいを久しぶりに味わった。白血病といえば、なんだか真っ白い血が冷たく流れているような気がするが、その私の血管の中に久しぶりに熱いものが流れ始めた。私はぐっとこの子を抱きしめたくなった。親犬と子犬とが遊ぶように、どこでも構わず、かみついたり、なめたり、たたき合ったり、ゆさぶったり、思い切り体と体とぶっつけ合って、時のたつのを忘れてみたい。そうしたらこの子はうれしさに息もつまり、笑いが重なって身もだえするであろう。脾臓が裂けるなら裂けてもいいじゃないか。この子がほんのひと時でも私から父の愛を受けて悦んでくれたら……。だが、私にはそれが許されない。一月でも、一日でも、一時間でも長く生きていて、この子の孤児となる時をさきに延ばさねばならぬ。一分でも一秒でも死期を遅らしていただいて、この子のさみしがる時期を縮めてやらねばならぬ。
 胸の中に桜島の煙のように時々ぐぐっと噴き上がる愛情をおさえ、私はことさら冷たく子供を遠ざけておらねばならぬ。ぐっとおさえると、かえって大きくたぎって噴き上げる、まくらもとの火鉢の湯沸しの湯気にも似た骨肉の情である。もう一人の親――母がおりさえすれば、この子も父をあきらめて、その母にとりすがるのであろうに、その母は亡く、母のにおいの残った遺品もなく、面影をしのぶ写真さえ焼けてしまって一枚もない。
 私がやっぱり眠ったふりをしていると、カヤノは落ち着いて、ほほをくっつけている。ほほは段々あたたかくなった。
 何か人に知られたくない小さな宝物をこっそり楽しむように、カヤノは小声で、
「お父さん」
と言った。
 それは私を呼んでいるのではなく、この子の小さな胸におしこめられていた思いがかすかに漏れたのであった。

この子を残して より


筒井茅乃(旧姓長井)氏による被爆者証言
https://youtu.be/qvNnZ5YnjrM


この子を残して(予告)

https://youtu.be/hjF5prmbyLQ

如己堂
如己堂 wikimediaより


朝の訪問 永井隆
http://www.nhk.or.jp/peace/library/program/19500809.html
長崎の医師・永井隆博士は、自らも被爆しながら被爆者の医療活動にあたるが、被爆の時には既に病に侵された身であった。病気と戦いながら、平和への思いを本に書き続け、被爆から亡くなるまでの6年間で長崎の被爆の状況を今に伝える貴重な記録である「長崎の鐘」「この子を残して」などの著書を世に送り出した。番組は、被爆から5年後に、永井博士と二人の子供たちが暮らすわずか2畳の間の「如己堂」(にょこどう)で収録された。インタビューで永井博士は、自分のことを支えてくれる子供たちへの感謝の気持ちや、この年の6月に朝鮮戦争が勃発し、世界から戦禍が絶えないことへの憤り、今後も平和のために書き続けていくという強い思いを語っている。

出演:永井隆


如己堂内部
如己堂内部

長崎の鐘は鳴り続ける
http://www.nhk.or.jp/peace/library/program/20000807_01.html
被爆後の長崎で、白血病に冒されながらも平和へのメッセージを書き続けた医師・永井隆。その永井博士の50回忌にあたる2000年、相次いで未発表の書簡や原稿が見つかった。被爆地長崎のシンボルと言われる永井隆の人生と平和へのメッセージを見つめ直す。


永井隆記念館より浦上天主堂を望む
如己堂より浦上天主堂を望む

永井隆記念館(如己堂)に来る前に永井隆博士の著作を読まれることをおすすめします。

さて、平和公園へ戻ります。
平和公園は「平和祈念像地区・願いのゾーン」「原爆落下中心地地区・祈りのゾーン」「長崎原爆資料館地区・学びのゾーン」と区分されていて、とても象徴的・教育的に配置され整備されているのですね。

長崎市原子爆弾被害区域図
長崎市原子爆弾被害区域図

爆心地周辺復元図
爆心地周辺復元図


平和祈念像_1
平和祈念像_1

垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命を表しているのだそうです。

平和祈念像_2
平和祈念像_2

平和祈念像の周囲に水が流れているのは被爆当時に被爆者が水を求めていたことを意味しているそうです(´・_・`)

平和祈念像_3
平和祈念像_3

平和祈念像のモデルはプロレスラーの力道山であるとの説が有力です(∵`)

平和の泉
平和の泉

のどが渇いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
―あの日のある少女の手記から


「原爆落下中心地地区・祈りのゾーン」へ来ました。

松山町交差点
松山町交差点

被爆直後の松山町交差点を見る
被爆直後の松山町交差点

聖徳寺灯籠
聖徳寺灯籠

1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により、総けやき造りの壮大な本堂は崩壊し、境内の石塔や墓石も爆風によりほとんどが倒れたが、この一対の灯籠は倒れず残った。
その後、この灯籠は原爆の惨状を伝えるものとして聖徳寺より寄贈を受け、1949年(昭和24年)2月にこの場所へ移設された。

原子爆弾落下中心地碑
原子爆弾落下中心地碑

長崎に投下された原子爆弾は、1945年8月9日、午前11時2分、長崎市松山町171番地の上空約500mで爆発しました。原子爆弾が爆発した瞬間の爆発点の温度は摂氏数百万度に達し、爆発からの1万分の1秒後には約30万度の火球を形成したと推定されています。また、火球は爆発1秒後には最大となり、半径約240mまで膨張し、爆発直後の爆心地の地表の温度は、約3,000~4,000度に達したと推定されています。

爆心地標識
爆心地標識

原子爆弾落下中心地碑版
原子爆弾落下中心地碑版

浦上天主堂遺壁
浦上天主堂遺壁

東洋一の壮大さを誇った浦上天主堂であったが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなった。この側壁は聖堂の南側の一部で、1958年(昭和33年)に新しい天主堂建設のためこの地に移築されたものであり、壁上の石像はザベリオと使徒である。

浦上天主堂遺壁案内板
浦上天主堂遺壁銘板

被爆当時の地層_1
被爆当時の地層_1

 当時、松山町には、約300世帯1,860人余の一般市民が生活していました。町内にいた者は、偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き全員が即死しました。壊滅した松山町は想像に絶するような熱さの地獄と化し、むごたらしい被害の跡は黒こげの死体がいくつも荒れ果てた焼けた土に横たわり、まさにこの世の終わりを思わせるものでした。
 地層の中には、家の瓦・レンガ・熱で溶けたガラス・茶碗・針金などを見ることができます。ここには、原爆によって壊された家の瓦やレンガ、熱によって焼けた土や溶けたガラスなどが現在でも大量に埋まっていて、被爆当時の悲惨な実相を示す資料として現地に保存しています。

被爆当時の地層_2
被爆当時の地層_2

被爆50周年記念事業碑
被爆50周年記念事業碑

平和の母子像
平和の母子像

昭和62年8月1日設置

 男たちが戦場に向かったとき、女たちもまた勝利を祈った。しかし、広大な大陸や、はるかな海の島々では、数知れない人々の血が流されていった。そして遂に1945年、沖縄での惨劇についで、8月6日広島、9日長崎への非道な原子爆弾攻撃に至った。

 ああ、あの閃光の下で、数万もの男女、無数の母と子が灼かれ、
 ひき裂かれ息絶えた。

 あれから四十余年、いま第二の核戦争へとシグナルは点滅し、
 地球は破滅の渕にある。

 戦争も核兵器も許してはならない。命あるすべてのものが生きる、
 この緑の大地を、地球を守ろう。

 それぞれの「あの日」を生きつづける女たちの、たぎる思いをひとつにあわせ、再び、あの惨禍をくり返さぬ誓いをこめて、ここにこの像を建てる。

1987年8月1日
長崎平和の母子像を建てる会


「原爆落下中心地地区・祈りのゾーン」が終わり、いよいよ「長崎原爆資料館地区・学びのゾーン」へと進み長崎原爆資料館へ向かいます。階段を登って行くと入場口がありました。

長崎原爆資料館
長崎原爆資料館 wikimediaより

うん?(・3・)妙に静かですね…(*´ェ`*)…嫌な予感…閉館時間10分前!入館締切時間から20分後…(*ノω<*)アチャーやってしまった~(T▽T)夏場は2時間30分も遅くまでやっているのですか~(´・ω・`)
(;´д`)トホホ…_| ̄|○がっくり_| ̄|○

長崎に三度来るべし!(`・ω・´)シャキーン(笑)

さて、気分を換えて、浦上天主堂へと向かうとします(^^♪

現在の爆心地を望む
現在の爆心地を望む

被爆直後の爆心地
被爆直後の爆心地

林重男氏撮影

 手前は山里町西部地区の一部。
 下の川(右、上流)と県道(現在の国道206号。左、長崎駅方面~右、道ノ尾駅方面に至る)に、はさまれたところが爆心地。
 爆心地付近の電柱と木立は、真上からの爆風と熱線のため直立したまま焼け残っている。
 復旧した国鉄長崎本線の線路を長崎駅方面に向かって走る汽車が見える。



原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼_1
原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼_1

強烈な爆風により浦上天主堂北側の川床に吹き飛ばされた鐘楼ドーム(双塔の左側のもの)。

原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼案内板

原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼_2
原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼_2

遺構の脇に猫が佇んでいます(=‘x‘=)

浦上天主堂_1
浦上天主堂_1

浦上天主堂の被爆遺構
浦上天主堂の被爆遺構

浦上天主堂の前で瞑想する猫ちゃん
浦上天主堂の前で瞑想する猫c(-。-,,)c)~

浦上天主堂内部の様子
浦上天主堂内部の様子

浦上天主堂_2
浦上天主堂_2

夕方近くになって曇っていた長崎の空。雲間に一瞬陽が射し込んで浦上天主堂のバラ窓が紅に薄らと染まりました?(それともライト?)~幻想的です( ´∀`)

長崎大学医学部方向から浦上天主堂を見る
長崎大学医学部方向から浦上天主堂を見る

被爆直後の浦上天主堂(医科大より)
爆直後の浦上天主堂(医科大より)

小川虎彦氏撮影

長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)のグラウンドより天主堂南側を見る。

天主公園から浦上天主堂を見る
天主公園から浦上天主堂を見る


天主堂の見える丘から浦上天主堂を見る
天主堂の見える丘から浦上天主堂を見る

ここでカメラのバッテリーが切れてしまいました(>_<)
やはり替えのバッテリーが必要ですね…(´-ω-`)

長崎の鐘

https://youtu.be/yzzF8QjMgq8

次はお土産のカステラを買いに福砂屋長崎本店に向かいます~(^q^)(^p^)

福砂屋長崎本店(携帯写真)
福砂屋長崎本店

携帯で撮影したのでブレまくっています(;^ω^)
カステラ購入!それではホテルに向かいます(^-^)/
今夜の夕食はカステラ!(笑)

長崎の夜は更けるのであった(^ω^)


「また会えたね(^ω^)」帰途の旅 へ続く


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