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Channel: 私にとって人間的なもので無縁なものはない
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誰かさんに聞かせたい!( *`ω´)「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」

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ワイツゼッカー氏死去 元ドイツ大統領
 戦争責任直視促す演説

(東京新聞)2015年2月1日
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015020190070613.html
 ドイツ大統領府は三十一日、元ドイツ大統領のリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏が死去したと発表した。九十四歳だった。ドイツの戦争責任ユダヤ人迫害の歴史と向き合うよう国民に求め、「ドイツの良心」とも評された。ガウク大統領はメッセージの中で「過去と立ち向かうドイツの立場を世界中で代弁してきた」と死を悼んだ。 
(ベルリン支局長・宮本隆彦)

ワイツゼッカー氏死去 元ドイツ大統領
 ドイツ大統領府は三十一日、元ドイツ大統領のリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏が死去したと発表した。九十四歳だった。ドイツの戦争責任やユダヤ人迫害の歴史と向き合うよう国民に求め、「ドイツの良心」とも評された。ガウク大統領はメッセージの中で「過去と立ち向かうドイツの立場を世界中で代弁してきた」と死を悼んだ。 
  (ベルリン支局長・宮本隆彦)
 一九八五年五月、「荒れ野の四十年」と題したドイツ敗戦四十周年の連邦議会演説で発した「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目となる」との言葉は有名だ。ドイツ国民が犯した罪と歴史を直視しなければナチス・ドイツが迫害したユダヤ人や近隣諸国との真の「和解」はできないとの訴えで、国内外で大きな反響を呼んだ。
 九〇年十月の東西ドイツ統一でも「統一することとは、分断を学ぶこと」と演説し、過去を真摯(しんし)に振り返ることの大切さを主張した。
 戦後五十年の九五年夏には、本紙の招きで来日。記念講演で「過去を否定する人は過去を繰り返す危険を冒している」と訴えた。
 二〇年、南部シュツットガルトで貴族の家に生まれた。第二次大戦に従軍し、ポーランド戦線で一緒に戦っていた次兄は戦死した。戦後のニュルンベルクの戦犯裁判でナチスの外務次官だった父親の弁護に加わった。
 中道右派のキリスト教民主同盟(CDU)に入党し、連邦議会議員(六九~八一年)、西ベルリン市長(八一~八四年)をへて、八四年に連邦大統領就任。党派を超えて国民から広く信頼を集め、八九年には史上初めて無投票で再選され、東西ドイツ統一を挟んで大統領を務めた。
 九四年の退任後も、欧州委員会から「三賢人」の一人に任命されて欧州連合(EU)の機構改革を提言するなど活躍した。


「非核こそ未来への道」
(東京新聞)2015年2月1日
「非核こそ未来への道」


歴史問題超え和解促す
(東京新聞)2015年2月1日
ワイツゼッカー氏死去 歴史問題超え和解促す


『荒れ野の40年』(1985)
ヴァイツゼッカー

 5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。

 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
 銃殺された人質を思い浮かべます。
 ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します

 積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。

 はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、
 故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆

 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。

 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。

 人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう。

 彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです(拍手)。彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした。

 暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年 4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。

 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪――これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。

 この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。

 シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。
放火されたシナゴーグ
放火されたシナゴーグ

 目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。

 良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります


 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。

 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。

 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。

 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。

 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。


 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。

 まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。

 物質面での復興という課題と並んで、精神面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。

 かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか――このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち(1942年、ナチスの高官を暗殺したことに対する報復としてプラハ近郊のこの村をナチスは完全に破壊した。)――われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。

 ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。

 ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。五月八日をはるかに過ぎても、はげしい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられたわれわれには、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。

 しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ彼らは新しい土地に定着していきました。彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。

 しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。

 故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期のころのその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。武力不行使とは、活力を取り戻したあとになってもドイツがこれを守りつづけていく、という信頼を各方面に育てていくことを意味しております。

 この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。

 何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。

 五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること――これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。

 これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。

 1945年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらすこととなりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とは次の戦いの準備期間であった――こうした時期がヨーロッパ史の上で長くつづいたのでありますが、われわれはこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。

 ヨーロッパの諸民族は自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどということを信じるわけにまいりましょうか。

 いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしていることであります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります



 道徳に究極の完成はありえません――いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。

 ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。

 若い人たちにお願いしたい。
 他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

 ロシア人やアメリカ人、
 ユダヤ人やトルコ人、
 オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
 黒人や白人
 これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい

 民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい


 自由を尊重しよう。
 平和のために尽力しよう。
 公正をよりどころにしよう。
 正義については内面の規範に従おう。


 今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。
      

心に刻む歴史「水に流してはならない」
―ドイツと日本の戦後50年―
ワイツゼッカードイツ大統領講演
http://ameblo.jp/m08068469/entry-11921732020.html




戦前の大日本帝国軍隊の栄光を取り戻す!!

地球儀俯瞰外交 安倍施政方針演説


The Great Dictator Globe Scene

The Great Dictator- Globe Scene

http://youtu.be/IJOuoyoMhj8
独裁者 (映画) - Wikipedia




アウシュビッツ解放記念式典
ナチスの犯罪
胸に刻み70年

(しんぶん赤旗)2015年1月29日
アウシュビッツ解放記念式典


国際ホロコースト記念日
国連式典で参加者
「悲劇伝える」誓う
(しんぶん赤旗)2015年1月30日

【シントン=島田峰隆】ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)犠牲者を追悼する国際記念日(27日)の式典が28日、ニューヨークの国連本部で開かれました。国連関係者をはじめとする参加者は、人種や宗教に基づく差別や偏見、暴力の根絶を訴え、「悲劇を二度と繰り返さない」と誓い合いました。

国際ホロコースト記念日 国連式典で参加者

 戦後70年の今年、式典のテーマは「自由、いのち、ホロコースト生還者から受け継ぐもの」とされました。
 国連の潘基文(パンーギムン)事務総長は開幕演説で、2013年秋にホロコーストの舞台となったポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所跡地を見学したことに触れ。
 「その犯罪の規模は現在でも衝撃的なものだ」と指摘。70年前に国連を創設した人々の念頭にはホロコーストの恐怖があったとし「人間の尊厳を守る決意が国連憲章に書き込まれた。それが国連の活動の特徴になってきた」と強調しました。
 潘氏は一方で「今も世界は多くの課題に直面している」として、過激主義反ユダヤ主義に基づく偏見や暴力、イスラム教への攻撃などを挙げました。
 「過去に失ったものを思い出し、現在の危険を考えれば、今やらなければならないことが分かる」と語り、人権民主主義の尊重、テロや挑発とのたたかい、異なる宗教閧の対話、次世代への教訓の伝承などを呼び掛けました。
 国連総会のデニーアントワーヌ副議長も「われわれはホロコーストのような悲劇が二度と起こらないようにする義務がある」「教訓を引き出し、それを現在と将来の世代に伝える集団的な責任がある」と力を込めまし
た。
 式典にはホロコースト生還者、イスラエルのリプリン大統領らも出席しました。
 国連は05年1月、アウシュビッツ収容所解放60年を記念して特別総会を開催し、同年11月、毎年1月27日を国際記念日とするよう決議。以来、毎年この日に式典を開いてきました。今年はニューヨークで大雪が予想されたため、1日順延して開催されました。

囚人が自分の墓を掘る、リトアニア1941
囚人が自分の墓を掘る、リトアニア1941

死と隣り合わせの日々

 ポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所の生還者、ヨゼフーパチンスキーさん(94)が24日までに収容所跡のあるオシフィエンチムで外国メディアの取材に応じ、死と隣り合わせだった収容所での日々について語りました。

アウシュビッツ生還者が語る

  -収容された経緯は。
 当時ポーランド兵でしたが、政治犯として1940年6月、20歳でアウシュビッツ収容所に送られました。到着時、生きられるのはせいぜい3ヵ月と告げられましたが、約4年半に及んだ収容所生活を生き抜きました。

ユダヤ人特別労務班によって敷地内で焼却される遺
ユダヤ人の「特別労務班」によって敷地内で焼却される遺体

  -収容所内での労働は。
 ナチス親衛隊のための美容室で働きました。所長のルドルフ・ヘスの髪を切ることになり、浴室で彼と2人になったときは緊張のあまり震えが止まりませんでした。何度も屋敷に通いましたが、言葉を交わすことはありませんでした。

絞首刑にされたルドルフ・ヘス
絞首刑にされたルドルフ・ヘス

試験的に大量殺害

 ガス室のことは当時知っていましたか。
 41年9月にガス室で試験的に大量殺害が行われた日を鮮明に覚えています。日中はそれぞれの持ち場で仕事に当たりますが、夜に収容棟で活発に情報交換していました。

ガス室
ガス室

  -なぜ収容所を生きて出られたのですか。
 親衛隊のために働かされていたポーランド人は皆若く、助け合おうという暗黙の了解がありました。薬局から医薬品を黙って取って来たり、食堂から食べ物を持ち出したりして分け合いました。親衛隊の中に親切な人がいたことも事実です。

  私にとっての終戦

  -ソ連軍が迫る中、被収容者を移動させた「死の行進」が行われましたが。
 45年1月に雪の中、オーストリアの収容所へ貨車や船で移動させられ、過酷な採石作業に従事しました。

死の行進
死の行進

 その年の5月6日は忘れられません。昼前に収容所の窓から米軍関係者の姿が見えたのです。思わず涙が込み上げました。その瞬間が私にとっての終戦でした。
 (オシフィエンチム=ポーランド南部=時事)

解放直後に収容所子供用宿舎から出てくる子供たち
解放直後にアウシュビッツ収容所の子供用宿舎から出てくる子供たち


記憶の場所で
アウシュビッツ強制収容所開放70年式典

ポーランド・ビルケナウ
ジャーナリスト
大和田わこさんのリポート
くらし・家庭(しんぶん赤旗)2015年2月3日

 アウシュビッツ強制収容所開放70年記念式典が1月27日、第二アウシュビッツと呼ばれるポーランド・オシフィエンチムの、ビルケナウ収容所跡地でおこなわれました。ジャーナリストの大和田わこさんのリポートです。

記憶の場所でアウシュビッツ強制収容所開放70年式

生存者の声胸に刻む

 まだ数日前の大雪が一面を覆うビルケナウ。ここは、ナチスードイツが、欧州全土からユダヤ人をはじめ、130万人もの人々を移送し、110万人あまりを殺し、焼いた殺人工場の跡地で

Holocaust
 当時の鉄道の引き込み線や、死体を焼いたガス室跡が、いまも生々しく残る記憶の場所。たたずむと吹き付ける雪や風に乗って、無惨に命を絶たれた無数の人々の声が聞こえてくるような錯覚に陥ります。
 いま、ナチスの残虐行為を直接体験した人々が年々減少する中、記憶を次の世代にどのように伝えていくかが大きな課題です。

「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所
「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線

元囚人が語る

 メーン会場として、死の門の前に大きな白いテントがはられ、そこに、50力国の各国代表や、300人の生存者とその家族などが集結。式典は午後3時半に始まりました。元囚人の高齢化が進み、これまでのような外での開催は無理との博物館側の判断です。
 そしてもう一つの特徴は、各国代表のあいさつをなくしたこと。「われわれが受け継ぐべき生存者や、目撃者が語る言葉に耳を澄まし、深く考える場にしよう」が、合言葉となりました。
 私たち一般参加者は、防衛上の問題もあり、そのテントに近づくことは禁止され、ビルケナウの林の前に般けられた野外の大型画面を見ながらの参加となりました。
 身も心も凍(い)てつくような寒さとのたたかいをものともせず、1000人あまりの人々が大型画面を食い入るように見つめ、元囚人3人の語る体験と、この悲劇を二度とくり返さないためにも、忘れてはならない、伝えていかなけれぱならないという訴えに、涙したり、共感の拍手を送ったりしました。

私が受け継ぐ

 式典の終わりに、ピョートルーチュビンスキ博物館館長はこう呼びかけました。
 「まだ、私たちのまわりに、ナチスの蛮行の目撃者がいます。でももうこれが最後の式典になるかもしれません。私たち一人一人が自分に問いましょう。未来に向けて私たちの配憶をより成熟させていくことを。それは簡単なことではないかもしれない。しかし、ぜひ、やってほしいし、やり抜きましょう
 参加者の一人、元囚人のポグダンーバルトニコスキさん(83)は、1944年8月のワルシャワほう起に、子どもながら参加。母親とともにアウシュビッツに送られました。式典の感想を聞くと「こんなにも私たち元囚人のことを考えてくれてとてもうれしい。でも、私たちはお客ではない。二度とあのようなことをくり返させないためにも、ナチの犯罪を語り続けます」と力強く語りました。
 そして野外で式典を見つめた14歳の少女は「ここへ来てよかった。とても寒かったけれど、私たちが記億を受け継いでいくのだと、よくわかった」と笑顔をみせました。


ナチスの手口に学べ


(#゚Д゚)凸!


あの人に迫る
中谷剛 アウシュビッツ公認ガイド
超えてはならぬ 常識をつくろう
(東京新聞)2015年2月1日

 ナチスードイツが推定百十万人のユダヤ人らをガス室などで殺害したポーランド南部オシフィエンチム(ドイツ語名アウシュビッツ)にある「アウシュビッツ強制収容所」が、ソ連軍によって解放されてから二十七日で七十年がたった。収容所は博物館として保存され、世界中から見学者が訪れる。日本人で唯一の公認ガイドとして十七年にわたり日本人らを案内してきた中谷剛さん(四九)は、アウシュビッツが現代社会と日本に投げ掛ける意味を問い続けている。
(宮本隆彦)

超えてはならぬ 常識をつくろう

 アウシュビッツの見学者が増えています。

 二〇一四年は百五十三万人で過去最高でした。特にホロコースト(ユダヤ人らの大量虐殺)を学校で学ぶ若い世代が増えました。欧州連合(EU)が統合を強めるための教育の場として利用しているからです。
 念頭にあるのは移民問題。高齢化が進む欧州は、移民なしでは活力を維持できず、アジアや米国の経済に対抗できない。しかし現実には、フランスで風刺週刊紙が襲われるテロが起きたり、ドイツで反イスラム移民のデモが起きたりと摩擦は大きい。放置すれば社会の亀裂はますます大きくなる。人権というテーマだけではなく、経済発展の障害となる人種差別に対処する学びの場としてアウシュビッツが使われています。

 今に通じる教訓があると。

 ドイツは第一次世界大戦で敗れて巨額の賠償金を負わされ、経済は破綻しました。失業者が多く、ストレスがたまった、非常に追い込まれた社会状況でした。そこにヒトラーが現れ、民衆心理を巧みに利用して選挙で票を重ねた。うまくいかない部分はユダヤ人のせいにしながら。ヒトラーが連立政権で首相の座に就いた時、国政選挙でのナチ党単独の得票率は33%。その程度の勢力であっても間違いが起こりうる。だからこそ、たとえ少数でも社会から疎外された人への対応が大事なのです。
 高齢化や移民受け入れの是非は日本が直面する課題でもあります。
 グローバル化で海外から人や投資が大量に入ってくると、日本人はより強く日本や民族のアイデンティティーを求めるでしょう。日本では移民というと外国人が足りないところを補い、『日本人は全体が底上げされるような印象が強いですが、それだけでは済まない。競争の中で負ける日本人も出てくる。
 そういう状況で生まれる感情が「排斥」と「共生」のどちらに向かうのか。競争に負けて外国人や移民に反感を持つ人が二割、三割と増えれば、移民排斥を主張する政権ができかねない。際どい分かれ目が近いうちに日本にくる

 なぜホロコーストが起きたのでしょうか。
 原因は十分分かっていません。アウシュビッツを運営していたナチス親衛隊が冷酷な人間の集まりだったのかというと、そうではない。ごく普通の人間で、家に帰れば良き夫、良き父だった。収容者の中から選ばれた看守も生き残りの望みをかけて仲間に残虐な行為を働きました。
 つまり最大の教訓は、人間はそういうシステムの中に置かれたら変わってしまうということなのです。人間を人間と思わなくなる。だから、おかしなシステムができてしまう前に「超えてはいけない常識づくり」をする。それを超えたときにちゃんと反応して反対できる社会にする。それしかないのです。ドイツでイスラム排斥のデモが起きると、それと同じぐらいの人数が対抗のデモに出る、というのが一つの例です。

 どうやってその常識をつくりますか。
 東日本大震災の後、ポーランド人から「なぜ日本人はあれほどの状況で略奪もせず、助け合えるのか」「どういう教育をしてきたのか」と頻繁に聞かれました。それは私たちの社会が自然と培ってきたものであり、それを僕は「教育」と名付けたい
 デンマークに良い例があります。ナチス占領下でデンマークは数千人のユダヤ人を中立国のスウェーデンに逃がして助けた。ほかの国でできなかったことが、デンマークでできたのは、社会が培った常識のおかげです。ここに希望がある。教育次第で人の行動が変わると期待できるからです。
 日本にも例があります。一四年春に東京の図書館で「アンネの日記」などホロコースト関連の書物が破られる事件か発覚した後、オランダを防問した安倍晋三首相がアンネ・フランクの家を訪れ「二度と起こらないことを願っている」と発言しました。個人の行動に一国の首相がこうして反応することで、社会に「これはやってはいけない」という常識が生まれるのです

 第二次世界大戦で日本は加害の当事者でした。日本がアウシュビッツから学べることは。
 「加害」という表現には反発もあるでしょう。開拓や戦争でアジアに行った日本人は現地の人を苦しめようと思っていたわけではないのですから。でもそれを自分たちで弁解しない方がよい。加害の歴史をきちんと受け止めているとのシグナルが日本から感じられないから中国や韓国が不信感を持つのだと思う
 アウシュビッツで案内中に「日本はドイツと同盟国でした」と話すと、嫌な顔をする人がいる。「日本はドイツほどひどいことはしていない。なぜここで日本が出てくるんだ」という反
応です。
 しかし戦時を比較するのではなく、戦後に周辺国から抱かれた不信感を比べることは不適切ではない。戦後、欧州旅行の際にドイツ人であることを隠すため英語を使う人がいたほど、ドイツへの不信感は強かったのです。日本の方がドイツよりひどいことをしていないのならば、なぜドイツが周辺国と築いたような信頼関係を日本は持てていないのか、ということになる

 近隣諸国との関係をどう改善しますか。
 国民の声を抑え込む中国の体制はいつまでも続かないでしょう。その時、日本か民主化をうまく支えてあげれば、彼らも過去の戦争にこだわるのではなく、日本は本当に自分たちのことを考えてくれたと思うはずです。これからはアジア諸国が求めることにうまく応えられるかどうかで、日本が国際社会のリーダーになれるかどうかが決まる
 若い人たちと話すと、戦争をめぐる近代史の知識が抜けている人が多いことに気付きます。アジアの問題への対応で考える材料がないことになり、なんとかしてこの部分を穴埋めしないといけない
 その上で若い人には「今から経済が弱くなって悪い時代になるわけではない。今までできなかった、もっと良いものが見つかるんだ」と伝えたい。日本人の良心は国際的に高く評価されているのですから、勇気を持って進めばますます日本は輝けます。

インタビューを終えて

 東京ドーム四十一個分と広大なアウシュビッツを中谷さんの案内で回った。「人間の究極の可能性を示す場です」と中谷さん。暴虐の極みの中、犠牲的な助け合いもあったからだ。
 ナチス親衛隊中佐のアイヒマンは「命令に従っただけ」と裁判で無罪を主張した。同様に職務に忠実な普通の人間が少しずつ虐殺を担った。異常なシステムでも、できてしまえば一個人があらがうのは難しい。だからこそ「少しでもおかしな動きを見過ごさないことが大事」と中谷さんは言う。ヘイトスピーチ(憎悪表現)が問題になる今の日本で大事な指摘だと思う。

あなたに伝えたい

たとえ少数でも社会から疎外された人への対応が大事なのです。



ヒトラーと6人の側近たちⅡ 第1回 「アドルフ・アイヒマン」

http://www.youtube.com/playlist?list=PLC3053BF5090CC81C


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