兵庫県南部地震 神戸中央区中山手
兵庫県南部地震発光現象
http://youtu.be/yXML8stIhNw
阪神 もうすぐ20年
震災 刻む
東日本 深い爪痕
(東京新聞)2015年1月11日
震度7を記録し、近畿地方で約六千四百人が犠牲となった阪神大震災から十七日で二十年となる。この震災で、母と弟を亡くした神戸市東灘区の小学校教諭長谷川元気さん(二八)は、昨年から子どもたちに自らの体験を語るようになった。亡き家族への思い、周囲への感謝。当時を知らない世代に、若き語り部として活動を広げている。
(加藤弘二)
28歳先生は語り部
毋と弟喪失 「風化させない」
「崩れた家から外に出ると、空は真つ赤に燃えているように見えた。現実と夢の区別がつかず、『お母さん』といくら呼んでも返事がない。なぜか急に寒けが襲ってきた」。兵庫県三木市の自由が丘中学校で九日、講演を頼まれた長谷川さんは四百人の全校生徒の前で振り返った。
当時は東灘区で、両親と二人の弟と五人暮らし。住んでいた木造二階建てアパートが倒壊し、母規子(のりこ)さん=当時(三四)と一番下の弟翔人(しょうと)ちゃん同(一つ)=が下敷きになった。夕方、父から「助けようとしたけど、あかんかった」と聞き、避難先の公園のベンチで泣きじゃくった。(゜´Д`゜)
その後、眠るたびに同じ夢を見た。翔人ちゃんがサッカーボールを力強く蹴り、規子さんが「一歳半なのにすごいな。将来が楽しみやな」と喜ぶ。「ああ、震災なんかなかったんや。夢やったんや」と思うと、目が覚める。涙があふれ、「どうして、もっと二人と過ごさなかったのか」と後悔がこみ上げた。
学校の普段の会話でも「お母さん」と聞くと、こらえきれず校舎裏で泣いた。見守ってくれたのが担任の女性教諭だった。「つらかったな。でも大丈夫、元気君なら、きっと頑張れるはずや」と励まされた。
「先生みたいに、子どもの目線に立つ温かい先生になりたい」。大学卒業後、いったん就職したが、学び直して二〇一三年から小学校教員へ。昨年の一月十七日、同僚から震災体験を語るよう勧められた。
それまで積極的に話すことはなかったが、「震災を知らない子どもたちに、さまざまな出会いのおかげで、ここにいる自分を見てもらおう」と決意した。子どもたちは真剣な表情で体験を聞き「大変だったのに、夢に向かって頑張った先生はすごい」と言ってくれた。
昨春から市内の語り部グループにも加わった。「当時のことを語ると、今も心のどこかがズンと重くなる。でも震災を風化させず、聞いてくれる人が何かを感じてくれれば、続ける意義があるのかな」
フクシマ絵画 つなぐ
仙台市の画家加川広重さん(三八)が東京電力福島第一原発事故後の被災地を描いた幅一六・四メートル、高さ五・四メートルの絵画などの展示イベント「巨大絵画が繋(つな)ぐ東北と神戸」が十日、神戸市のデザインークリエイティブセンター神戸で始まった。
仙台の画家 神戸で展示
「フクシマ」と名付けられたこの水彩画は、爆発した原発の建屋の中に、汚染された大地や野生化してさまよう牛、原子炉格納容器などを描き込み、人々の悲しみや怒りを表現した。二〇一三年秋に福島県内で取材し、約一年かけて制作した。
加川さんは一三年から、神戸市で東日本大震災の絵画を展示、「福島の絵を見てもらうことで、阪神大震災の記憶も戻ると思う、同じ被災地である東北へも思いをはせてほしい」と話している。
兵庫県芦屋市の無職北川知可子さん(八一)は「自分も阪神大震災を経験したが、この福島の絵は衝撃的だ。震災から二十年たつが、忘れてはいけないということを感じた」と話した。
イベントは十八日まで。十七日には女優の竹下景子さんによる朗読会も開かれる。
1995 阪神・淡路大震災
http://youtu.be/4ZtSlkttz18
阪神淡路大震災 ある女の子の話
一月二十三日、私は二回目の出動をした。地震でなくなった人の遺体のおいてある体育館はたくさんの遺体とそれにつきそう残された家族の人たちであふれていた。そんな中で、一人の女の子に私の目はくぎ付けになった。その女の子は、ひざの前においたやけこげたなべにじっと見入っていた。泣くでもなく悲しむでもなく身動きもせず、ただじっと見入っていた。私は、その女の子にひかれるように近寄っていった。なべの中には、小さな骨がおかれていた。
「どうしたの」思わずきいた私の一言がその女の子を泣かせてしまった。どっとあふれ出した涙をぬぐおうともせず、一生懸命に私の目を見てとぎれとぎれに話し始めた。なべの中の骨は、その女の子がひろい集めたお母さんの骨だった。
その日、女の子はお母さん抱かれて一階の部屋でいっしょにねむっていた。でも地震がきた。何が起こったのかわからないまま、気がついた時はお母さんとともにたおれてしまった家の下敷きになっていた。身動きはできなかった。それでも女の子は少しずつ体をずらした。何時間もかけて脱出した。家の前に立って、何がなんだかわからないまま、どの家も倒れてしまっているのを見た。すると火事が近くに迫ってきた。たくさんの人が何かさけびながら走りまわっているのを見た。しばらくしてお母さんが家の中に取り残されていることに気がついた。
「お母さんをたすけて。たすけて。お願い。」
走りまわっている大人たちにかたっぱしからしがみつき、声を限りに叫びつづけた。でもその叫び声は聞こえなかった。だれにもその声はとどかなかった。迫ってくる火事にお母さんをたすけられるのは自分しかいないとかなしい決断を女の子はした。お母さんを呼びつづけ、一生懸命に倒れた家具をどけ、かわらをほうりなげて、一歩一歩お母さんに近づいていった。やっとの思いで、お母さんの手をさがしあてた。でも姿は見えなかった。お母さんの手をみつけたとたん、女の子はその手をにぎりしめた。その時、女の子は手が血でどろどろになっているのに気がついた。
「お母さん、お母さん、お母さん。」
手をにぎりしめ、泣きながら叫びつづけることしか女の子にはできなかった。
火事は間近にせまっていた。火事の音が聞こえ、まわりがだんだんあつくなってきた。お母さんに一生懸命話しかけた。お母さんは小さな声で女の子に返事をすることしかできなかった。
「お母さん、お母さん。」
と叫びつづける女の子に、お母さんが女の子の名前を呼ぶ声が少しだけ聞こえた。
「ありがとう。もうにげなさい。」
お母さんは言って、女の子の手をはなした。あつかった。こわかった。女の子はしかたなく夢中で逃げた。すぐにお母さんを下敷きにしたまま家は燃えてしまった。燃えてしまう自分の家を女の子はいつまでもいつまでも立って、みつづけていた。声もでなかった。涙もでなかった。
次の日、何をしたかどこにいたか覚えていない。
そしてまた次の日、女の子はお母さんをさがしもとめ、そしてみつけだした。女の子は一人で見つけだしたお母さんをなべに入れて、今も守り続けているのだった。
亡くなったMさんの冥福を祈る友人たち
=1995年1月26日神戸市長田区W町 (C)毎日新聞社
災前の策
阪神大震災から20年 共助
(東京新聞)2015年1月10日
六千四百三十四人が犠牲となった阪神大震災から二十年。近い将来、南海トラフ地震が起きるといわれ、「災前」の時期にある中部地方の住民が取るべき「策」を、阪神の教訓から学ぶ。
防災「こんにちは」から
二十年たっても、忘れられない朝がある。
一九九五年一月十七日の午前五時四十六分。神戸市須磨区千歳町の靴製造業、崔敏夫さん(73)は自宅兼工場二階の寝室で、地震に遭った。日本史上初の震度7を記録した阪神・淡路大震災。「ゴゴゴー」。ごう音とともに一階が押しつぶされ、二階が沈み込んだ。
自分と妻は運よく無傷だったが、一階で寝ていた大学生の次男秀光(すがん)さん=当時(20)=が見当たらない。「秀光、どこだ。返事しろ」。がれきをのこぎりで切り、ジャッキで持ち上げて掘り起こした。そこから助け出したのは隣家の三人だった。崔さん宅の二階は、隣家側にずれ落ちていたのだ。
数時間後、ようやく本来の自宅跡から見つけ出した秀光さんは、顔に傷がなく、眠ったように亡くなっていた。「まるで、水道の蛇口をひねったように」涙が止まらなかった。
千歳町は戦後、ゴム製靴の産地となった下町。木造の長屋や町工場が密集し、地震の後には火災も発生した。九割の建物が焼失し、四百メートル四方で秀光さんを含め四十七人が亡くなった。崔さんは避難先を転々とし、千歳町に自宅を再建できたのは七年後。同じころ地域に戻ってきた五世帯で自治会を再結成し、崔さんが会長を買って出た。
震災前は、地域の活動に全く無関心だった。靴産業で職を得た在日朝鮮人の子として育ち、差別を受けた経験などから、「地域のことは日本人がやればええ」と思っていた。でも、天国の息子から「父さん、安全な地域に復興してくれ」と言われている気がした。(´;ω;`)
熱心さは行政をも動かした。二〇〇五年に近くの小学校跡地にできた公園の設計には、崔さんらの提案が反映された。休憩小屋は災害時に五百人を収容する応急救護所を兼ね、倉庫には自家発電機や仮設トイレを備え、実践的な「防災基地」の顔を持った。
「ただ、立派な施設があっても、災害直後に必要なのは、住民の力」。震災で建物に埋もれた人を掘り出したのは、九割が家族やご近所、通りすがりの市民だった。崔さんもそうしたように。
昨年の暮れ、崔さん宅前で餅つき大会が開かれた。住民が自然と顔見知りになるよう、震災後に始めた恒例行事。子どもからお年寄りまで五十人がきねを振り、餅を頬張った。「防災、防災というけど、難しいもんやない。『こんにちは』から始まるんや」
阪神大震災当日に生を受け
二十歳照強(てるつよし)誓いの初場所
阪神大震災が起きた日の夜、震源に近い兵庫県・淡路島で産声を上げた赤ちゃんは、十七日に二十歳の誕生日を土俵で迎える。大相撲の幕下力士、照強=本名・福岡翔輝(しょうき)、伊勢ヶ浜部屋=として。「六千人を超える人が亡くなった日に生まれたという運命を背負っている」。初場所(両国国技館)での活躍を誓い、自らを奮い立たせている。
(相坂穣)
突き上げるような揺れが島を襲った朝、母親の菊井真樹さん(四一)は陣痛にあえいでいた。南あわじ市の自宅は壁にひびが入る程度だったが、テレビの映像は神戸市の倒れたビルや高速道路を映していた。
救急車が慌ただしく出入りする島内の病院で生まれたのは、二九二二グラムの男の子。震災発生から十五時間後の午後九時だった。
「翔輝君の誕生日は、阪神大震災の日です」。小学生になると、毎年一月十七日ごろに先生たちが話題にした。震災で島内に出現した野島断層を社会科見学で訪れたり、被災者の苦労を記録した映像を見たりして「大変な日に生まれたんや」と悟った。
相撲は小学四年で始め、中学三年で全国ベスト16に。高校相撲の名門からの誘いも受けたが、すぐに大相撲を目指した。
前年、相撲好きで大会の応援に駆け付けては「強い力士になれ」と言ってくれた祖父の菊井龍夫さんを五六歳で亡くしていた。特産の淡路瓦の工場を営んでいたが、震災後に瓦の売り上げが激減。心労の末、がんを患った。
祖父の思いも胸に二〇一〇年春場所で初土俵を踏んでから、五年がたとうとしている。一六九センチ、一一八キロの体は大相撲では小兵だが、速攻と粘り腰で、昨年十一月の九州場所では自己最高位の東幕下九枚目に。関取である十両昇進が視野に入ってきた。
初場所初日の十一日は敗れて黒星スタートとなったが、場所前から大柄な兄弟子りに胸を借り、はね返されてもくじけずに何度もぶつかっていた。「小さい分、人の何倍も自分をいじめる。結果にきっと結び付く」と信じる。
師匠の伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)が付けてくれたしこ名には「強くなって人々を照らせ」という意味かおる。「自分の活躍を見て元気になる大がいれば」。節目の一年、その夢をかなえたいと願う。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/book/13-24/
3・11後 を生きる
阪神大震災20年
(東京新聞)2015年1月14日
阪神大震災で死者が出た木造住宅の98%は、旧建築基準法の時代に建てられていた。学生時代に震災を体験した藤江徹さん(四二)の研究は「生死を分けた要因は、耐震性の強い家に住んでいたか、そうでないかに尽きる」という事実を突きつけた。近い将来に起きるといわれる首都直下地震では都心の広範囲で震度6強の揺れが想定される。大災害を迎える前の時期に私たちは何を学ぶべきなのか。
わが家『凶器』に
新基準なら救えた
■「助けたる」
藤江さんには、今も鮮明な記憶がある。。
神戸大工学部四年だった当時、神戸市灘区の下宿のアパートで揺れに遭った。建物は傾いた程度で藤江さんも無事。空か明るくなるころ、近くに住む知人らが心配になり外へ出た。
すぐ近所で、倒れた木造アパートの下敷きになった男子学生に気付いた。がれきの中から助けを求める声が聞こえ、かろうじて指先がのぞく。学生の友人という男性ら十数人と、がれきを撤去し始めた。誰かが持ってきたのこぎりを精いっぱい引く。柱を切り、バールで壁や天井をはいでいく。
上半身が見え始めたが、体が毛布にくるまれ、がれきの中で下半身がスキー板と柱に挾まれ、引きずり出せない。「俺、助かるかな」と漏らす男子学生に、「大丈夫、絶対助けたる」と声をかけた。すると、東の方から猛火が迫り、何かが破裂する爆音が何度も聞こえてきた。
間もなくアパートにも火が回った。体が焼けそうな熱気。思わずそばから離れた。学生の友人は近くに残り、半狂乱気味にわめき立てる。その姿を、ただぼうぜんと見つめていた。(゚ρ`)
■運命
藤江さんはその後、神戸大大学院へ進み、建築の研究室に所属。指導教員の塩崎賢明助教授(当時)の勧めで遺族へのアンケートを始めた。最初は震災を思い出したくなく、気乗りしなかった。ただ、自分も被災者で建築を研究する立場。「住宅と死者の関係も明らかにしないと。そういうことをする運命なのかな」とも感じた。
神戸大法医学教室が学術提供してくれた検視データを基に、神戸市内の犠牲者で住所が特定できた三千五百七十人の遺族ヘアンケートを送った。千二百十八人分の回答には遺族の思いもつづられていた。アンケートの自由記述欄に「がんばってください」という励ましや「この調査票を見るだけで故人を思い出し、つらく、涙が止まらない」との言葉もあった。(;_;)
■浮かぶ真相
研究室の仲間の手も借りながら分析し、一年かけて百五十八ぐの論文にまとめた。浮かび上がったのは老朽化した住宅の危険性。死者が出た木造住宅のうち、築二十五年以上は九割を占めた。古い建物ほど死者の割合が増える一方、新耐震基準の住宅での死者は全体のわずか2%だった。一九九七年に調査結果を発表した当時は、政府の初動への批判や復興への関心が中心で、注目を集めなかった。震災から二十年近くを経て、地元メディアの報道で研究がようやく脚光を浴びるようになった。
藤江さんは論文で、老朽住宅の早急な補修建て替えを提言するとともに、こう締めくくった。
〈彼は、文化住宅の一階で下敷きになって生きたまま炎に包まれました。(中略)研究で彼のような人が一人でも減れぱと思います〉。現在、公害問題に取り組む「あおぞら財団」(大阪市)事務局長を務める藤江さんは、住宅の耐震化か伸び悩む現状にいらだちを覚える。「津波で犠牲になれば国は堤防を高くする。なのに住宅で死んだら個人の責任と、手をこまねいているように見えてしまう」
阪神大震災 1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード(M)7・3の地震が発生。神戸市などで国内史上初の震度7を観測。死者は関連死も含めて6434人、けが人は4万3792人、住家24万9000棟が全半壊した。ピーク時には31万人が避難所で生活した。建築物や道路、交通機関、ライフラインに甚大な被害を与え、被害総額は国家予算の1割に相当する9兆6000億円に上った。
神戸大生3人が亡くなった西尾荘跡=1995年3月18日
神戸市灘区六甲町で (C)神戸大学ニュースネット委員会
NHKスペシャル シリーズ「阪神・淡路大震災20年」
http://youtu.be/0LBb6UjYBuM
復興行政の課題は?
大地震にどう備える
6434人もの命が奪われ、10万棟を超える住宅が全壊した「阪神・淡路大震災」から20年。崩壊した大都市をどう再生させていくのか、そして大地震にどう備えるのか、その道筋を17、18日(後9・0)に2回シリーズで伝えます。
1回目は、行政担当者の模索や決断を追います。「奇跡の復興」を遂げたとされる神戸。ビルが立ち並び、交通網も整備されました。しかし、その一方で、一部の町では復興が計画通りに進まず、「空き地のまま」のところが残ります。復興住宅は高齢者ばかりとなり「孤独死」も相次ぐなど、今もなお課題を抱えたままです。
復興政策にあたった行政担当者は、前例がない災害に際し、国との交渉などを重ね、復興の道筋の選択と決断を行ってきました。そこに、どんな挑戦や苦悩があったのか。その経験から、何を学ぶのかを考えます。
2回目は、都市直下地震を引き起こす活断層の脅威に挑んできた科学者たちの姿を伝えます。
次の直下型地震はいつ、どこで起きるのか、科学者たちはその謎を解明しようと動きだしました。地表に姿を現した淡路島の野島断層と同じような危険性のある断層を、全国で110本特定し、次の地震が起きる予測確率もはじき出しました。しかし神戸では、活断層がどこにあるのか、いまだ結論は一致していません。
この20年で相次いだ直下型地震のほとんどは110本の活断層以外で発生しており、「いつ」「どこで」を明らかにするにはほど遠いのが現実です。
また、活断層が生み出す揺れに対しては、急増する超高層ビルにも弱点があることが判明しました。
科学者たちは何を思い、今何に挑もうとしているのか。そして私たちはどう備えていけばよいのかを検証します。
阪神・淡路大震災から20年②
ガレキの街の明暗 誰のための復興か
NNNドキュメント
http://www.ntv.co.jp/document/
阪神・淡路大震災から20年。最近、神戸で耳にする「復興災害」という言葉。行政主導の都市計画が街の「復興」を妨げているという皮肉をこめた言葉だ。神戸市長田区では「再開発」による高層ビル化が商店の経営を圧迫している。そば屋を営んでいた中村専一さん(75)は「コンクリートのお墓をつくるな」と当初から計画に異論を唱えていたが、その言葉は20年がたち、現実のものになろうとしている。一方、芦屋市の森圭一さん(67)らは行政の「区画整理」案にNOをつきつけ、10年もの長い歳月をかけて自分たちの街を再興した。東日本大震災以降、神戸の街を視察する人は後を絶たない。ガレキの街の20年後の姿は「行政主導ではない住民主体の街づくりの重要性」を静かに訴えかけている。
阪神・淡路大震災20年
復興を問う
(しんぶん赤旗)2015年1月10~14日
死者6434人、全半壊(焼)約47万世帯の被害を出した都市直下型地震、阪神・淡路大震災(1995年1月17日)からまもなく20年。なぜ被災者がいまも苦しむのか。復興とは何だったのか。震災20年を問います。
被災者はいま
借り上げ住宅退去迫られ
神戸市兵庫区のUR団地「キャナルタウンウエスト」の1号棟。新年早々、丹戸郁江さん(71)は声を荒らげました。
「頭から『出ていってほしい』というのは納得できません。入るときは何も知らされてないのに。市は聞く耳を持たない」
県や神戸市などが阪神・淡路大震災でURや民間から借り上げた復興公営住宅について2010年、「借り上げ期間は20年」だとして期間終了までの退去を打ち出して以来、大問題になっています。
「転居しません」
ことし9月に一番早く20年の期限を迎えるのが、西宮市の借り上げ住宅。神戸市内では「キャナルタウンウエスト」1~3号棟が最も早く、来年1月が期限。いよいよ迫りました。
神戸市の個別説得は激しく、丹戸さんは「前に市の人が来て、『インフルエンザでしんどいんです』といってるのに、インターホンで『(転居先の)予約についてお話ししたい』と延々としゃべり続け、3日連続来た」といいます。
丹戸さんは、歩行が困難になる持病で近くの病院に長年通院しており、転居など考えられません。
入居者の必死のだたかいで、神戸市は85歳以上、県はおおむね80歳以上などの継続入居を認めました。しかし多くの入居者が追い出される事態は変わらず、西宮市は全員退去を崩していません。
丹戸さん宅の玄関先には、「私は転居しません」と書いたステッカーが貼ってあります。
「すごく不安ですが、負けたくない。震災は終わっていません」
返済だけの人生
いまの阪神・淡路のもう一つの焦点が、約5万6000人が借りた災害援護資金(最高350万円)の返済です。
06年4月に完済のはずでしたが返済困難な被災者が大量に残り、いまも約1万件、155億円か未返済(14年9月末)。14年3月、被災者の長年の要求が実り、国は「無資力状態」なら返済免除という方針を示しました。ことしから始まりますが、未返済者がどれだけ認められるか未知数です。
尼崎市の木村文廣さん(59)=コンビニ経営=は神戸市長田区で被災後、西区にコンビニ店兼住宅を建て再出発。借金は5000万円以上にのぼり、早朝から深夜まで働きますが、住宅ローンを滞納することもありました。昨年12月に尼崎市に移転。350万円の災害援護資金は月5000円の少額返済で、大部分が残ります。
「借金を返すためだけの人生。ストレスで数年ごとに尿管結石になります。何とか免除に期待したい」
「棄民政策」
絆断たれ孤独死1097人
「半分くらいミイラ化していて、腰が抜けそうでした」
神戸市垂水区の復興市営住宅「ペルデ名谷(みょうだに)」の7号棟に住む松成秀子さん(73)は、ふり返ります。
数年前、同じ棟の自室で亡くなっていた年配男性の遺体の検視に立ち会いました。
隣室の80歳すぎの女性が亡くなったときは、第一発見者でした。布団のなかで息を引き取っていました。
「娘が毎日声をかけ、私も夕飯を持って行っていた。心臓が悪いようでしたが、ショックでした」
地震では助かった命なのに、誰にもみとられず亡くなっていく-被災者の孤独死が震災後、社会問題になり、ずっと続いています。復興公営住宅の孤独死は2014年も40人で、累計864人に。仮設住宅の233人と合わせて1097人に達しました。
住居も財産も失った被災者に自力再建を押しつけ、助けようとしない国・自治体の復興の姿勢は「棄民政策」と呼ばれました。痛ましい孤独死は「棄民」の象徴といえます。
仮設の″絶望死″
大量の孤独死は、生活再建の見通しがなく生きる希望を持てないこと、人と人とのつながりが断ち切られたことが主な要因と指摘されています。
「男性は餓死に近い。枕元に酒パックと履歴書。冷蔵庫は自治会が配ったリンゴだけ」(1997年、神戸市中央区)。報道された仮設住宅の孤独死の一例です。
仮設住宅では、仕事がなく公営住宅も当たらず、アルコールに依存して健康を悪化させる人が急増。このなかで起きた孤独死の多くは”絶望死”の様相を帯びていました。
地域のコミュニティーが上から壊されました。仮設住宅と復興住宅は数が少ないうえ、郊外など遠方に多く建設。被災者は仮設入居時と復興住宅入居時の2度にわたって、抽選でバラバラにされました。
鉄のドアで仕切られた復興住宅ではさらに孤立が進み、高齢化、貧困が孤独死増に拍車をかけています。
被災者まかせに
「ベルデ名谷」では、孤立をなくそうと有志が、独居者への声かけや安否確認にとりくみ、自治会もカラオケの会を開くなど努力を続けています。
5号棟自治会役員の出田幸男さん(61)は「それでも誰ともつきあわない人が多い。自治会も高齢化で催しも減った」といいます。
「被災者への援助が被災者にまかされています。政治は被災者に手を差し伸べず、神戸空港を造ったり三宮(神戸市の中心繁華街)の巨大開発を計画したり…。いつまでこんなことを続けるのか」
個人補償否定
借金で再建 今も続く返済
「いまは災害で支援金が300万円出るけど、われわれには何もなかった」
神戸市東灘区の梶原吉夫さん(62)は強調します。
震災で自宅が全焼。婦人服卸売業の再開、自宅再建に事業用融資、住宅ローンなどを借り入れ、返済を続けています。多いときで月約40万円。「大変な思いをしてきた」といいます。2年前に廃業し、いまはタクシー運転手です。
350万円借りた災害援護資金は月1万円返しています。「なんぼ事情を説明しても、神戸市は『借りたもんは返すのが当たり前』の一点張り。商工ローンみたいなえぐい取り立てやった。免除になればありがたいが…」
自力再建を強制
震災直後、被災者が切望した生活、住宅、営業再建のための個人補償を、当時の村山内閣は「私有財産制では認められない」と拒否。自力再建を押しつけられた被災者は各種融資に殺到しました。
1996年4月の参院予算委員会。日本共産党の上田耕一郎副委員長が、災害救助法にある「生業(なりわい)資金の給与」の規定を生かして個人補償をと迫りました。
当時の菅直人厚生大臣は「災害援護貸付金制度など…貸し付け制度が整備拡充されてきたことから生業資金の給与は行ってこなかった」「貸し付けという制度が…充実した形で決められておりますので、それを運用してきた」と答弁。“貸し付けで十分”という方針だと明らかにしました。
ところがその災害援護資金は、5万6千人が借りて06年4月に完済のはずがいまも1万件が未返済。4万7千件の利用があった業者むけ災害復旧融資は7千件以上が返済不能に陥りました。自宅は再建しても重いローン負担…。
「返済の免除を」
「充実」どころか返済に苦しみ続けてきたのが、借金に頼るしかなかった被災者の20年閻の現実です。個人補償を否定した大失政の責任が問われなくてはなりません。
自宅、店舗の再建、事業再開に災害復旧融資など5100万円を借りた長田区の山田恭一さん(69)=仮名、クリーニング業=も、「返済が頭を離れない」といいます。まだ1200万円残っています。
営業と返済は厳しく、震災後5年間は年中無休、専門学校を志望した長男は進学をあきらめました。97年と14年の消費税増税などの影響で、売り上げはいま震災前の4割です。
「中小業者は地域に貢献しているし、阪神に適用されていない国の支援金300万円に準じたものがあるべきです。復旧融資の返済免除があっていいのでは」
「創造的復興」
神戸空港建設強行し破たん
神戸でいまも語り継がれる出来事があります。
震災から約2週間後。「神戸空港は復興のシンボル。当然推進する」と当時の市長が宣言しました。がれきの下にまだ人が埋まり、被災者が避難所で寒さに耐えていたとき。市民はあぜんとしました。
「ストップ神戸空港」の会の北岡浩事務局長は「人を助けてこそ復興のはずなのに空港とは、と誰もが思った」とふり返ります。
巨大開発を推進
被災者に自力再建を強いる一方で国・自治体がおこなった「復興」とは何だったのか。
国や県は「単に震災前の状態に回復するのでなく、『創造的復興を』というスローガンを掲げ、震災に便乗して以前から計画していた巨大開発を「復興」の名を冠して推進したのでした。
震災後10年間の国・自治体の復興事業費は16兆3千億円。その6割、9兆8千億円が県の復興計画の柱の一つ「多核・ネットワーク型都市圏の形成」に投入されました。
そこにはインフラ整備のほか、高速道路網建設、新都市づくり、神戸港の最新鋭整備、巨大再開発、土地区画整理、神戸空港1など大型事業がズラリ。復興とは無関係の関空2期工事への出資までありました。ゼネコン・大企業むけの「復興」であることは明らかです。
ところが20年の間に、この「創造的復興」路線が破綻していきます。
「復興のシンポル」という神戸空港(2006年開港)は、棄客数が年403万人という需要予測にたいし235万人(13年度)と低迷。収入の中心を占めるはずの着陸料収入は当初見込みの3分の1強にとどまり(同)、別会計からの繰り入れが増える一方です。
さらに空港島の土地が売れないため借金約2千億円を返せず借り換えの連続と、惨たんたる状況です。
被災者本位こそ
事業費2710億円、面積20・1ヘクタールと西日本最大の巨大再開発である新長田駅南の「復興」再開発事業も同様です。
神戸市が事業主体で四十数棟のビルを林立させるものですが、地下・地上・2階の3層構造の広大な商業床が半分以上売れ残り、市は計画を変えて賃貸を導入。不明朗で高い管理費をめぐって商店主が管理会社を訴える事態にもなりました。
北岡氏は「ハコ物を造ればいいという復興策ではダメだと、いや応なしに証明されました。被災者には悲劇しかもたらさない。それでもまた三宮で大開発が計画されています。いまからでも政治の流れを被災者本位に切り替えるべきだ」と強調します。
被災者支援へ
たたかいが政治動かす
「みんな、よう頑張ってきたな、と思う」
震災後再建した神戸市東灘区の自宅で、石田健一郎さん(78)は語ります。
被災者が集まる「被災者ネットワーク」の事務局長。夫婦の年金月24万円から、住宅ローン返済に10万円を充て、国保料が払えないときも。返済は96歳まで続きます。
支援法成立・改正
震災後の20年間は、被災者と救援復興県民会議、日本共産党のだたかいが政治を動かし、被災者支援を前進させてきた日々でもあります。運動の現場には、常に石田さんの姿がありました。
震災当時の村山内閣が個人補償を拒否した下で、生活再建へ公的支援・個人補償を求めるたたかいが巻き起こります。
県民会議は「人間復興」を掲げ、「住宅・店舗再建に500万円、生活支援に350万円の公的支援」を求めて126万人の署名を集め、2度の1万人集会、87万人が投票した「住民投票」運動-などをくり広げます。
県内著名人48氏、次いで126氏が公的支援実現アピールを発表し、作家の小田実さんらは市民立法運動を推進。それぞれ連携し合い、一点共闘が大きく広がりました。
こうした中で1998年5月に被災者生活再建支援法が成立。2004年と07年の改正で、阪神・淡路は対象外とはいえ住宅再建に最高300万円支給が実現しました。
阪神・淡路ではまた、復興公営住宅の戸数増と家賃低減、災害援護資金の月1000円からの少額返済などが実現。最近では、借り上げ住宅入居者の必死のたたかいで県と神戸市の全員退去方針を撤回させ、一部継続入居を認めさせました。災害援護資金も「無資力状態」なら返済免除に。長年の要求が実りました。
被災者代表国会へ
日本共産党は一貫して被災者や諸団体とともに運動を進め、国会・地方議会で奮闘してきました。
1996年衆院選で返り咲いた兵庫の藤木洋子さん、98年参院選兵庫選挙区で当選した大沢辰美さんが、被災者の切実な声を国会でくり返し突きつけ、支援法改正など被災者のために尽力しました。
昨年19一月の衆院選で苒び、被災者の代表、兵庫の堀内照文さんが近畿ブロック比例の議席を獲得。神戸大学時代に震災に遭い、救援活動に奔走し、今日まで被災者を支援し続けている人です。
ここまで来た一方で、再起がかなわず、1097人の孤独死や自殺などおびただしい犠牲がありました。また、個人補償がなく、支援法が適用されなかった影響が色濃く残っています。
石田さんはいいます。
「借り上げ住宅をはじめ被災者の困難は続く。私白身もそう。堀内さんが当選して要求が実現する条件が大きくなったし、他の災害被災者のためにも、まだまだ頑張ります」(おわり)
(この連載は兵庫県・喜田光洋、同・秋定則之が担当しました)
震災後初登校する女子高生たち=1995年2月1日、神戸市長田区若松町で (C)毎日新聞社
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あれから20年…震災復興問う…(。-_-。)
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