今日(8月15日)は終戦の日ですね。
安倍内閣による集団的自衛権行使容認の閣議決定がされた元で初の終戦の日です。
このことは極めて重大です。
映像の世紀 世界は地獄を見た
http://youtu.be/m09KiEncdfc
第5集 世界は地獄を見た 簡易まとめ
http://eizounoseiki.blog.fc2.com/blog-entry-6.html
火垂るの墓
http://youtu.be/TOklYtiEYts
http://youtu.be/Nb123I1B59o
『LIFE誌』(1937年10月4日号)に掲載。1937年の上海事変(第二次)の上海南駅爆撃直後に撮られた写真である。
The Battle of China (1944)
http://youtu.be/TIkrgOmsbVY
戦争というものがいかにくだらないか
インタビュー 「八月十五日の会」代表理事 漫画家
森田 拳次さん
特集 戦争と平和を考える 「私の八月十五日」
(全国商工新聞)2014年8月11日
安倍政権が集団的自衛権の行使容認を閣議決定するなど、今年69回目となる終戦の日は、戦争か平和かがかつてなく鋭く問われる中で迎えます。あの戦争は何だったのか、戦後日本の原点とは-。漫画家たちが1945年8月15日のその日、その時、何を考え、何をしていたかを絵と文章でつづった『私の八月十五日』は、戦争の愚かさと平和の尊さを読む者に投げ掛けています。「八月十五日の会」代表理事で漫画家の森田拳次さん(75)にインタビューしました。
漫画家ら111人が迎えた終戦の日の記憶一冊に
胸打つ作品の数々
-漫画家たちに「私の八月十五日」を描いてもらったきっかけは
森田:最初に、戦後50年(1995年)の舂、私をはじめ中国から引き揚げてきた12人の漫画家で「中国引揚げ漫画家の会」を立ち上げ、『中国からの引揚げ 少年たちの記憶』という画文集を出しました。赤塚不二夫、ちばてつや、北見けんいち…中国(旧・満州)から引き揚げてきた漫
画家は意外と多い。赤塚さんとちばさんは4歳違いでしたが、奉天(現・瀋陽)で同じ小学校でした。仲間同士で酒はよく飲むけど、誰も、一言も中国のこ
とは言わない。何年もジーッと待っていたが、誰も言わないから、「やろう」つて言いたしました。
昭和20年当時、僕は6歳で小学1年。ほかの連中も同じ年頃でしたが、中には上田トシコさん(08年没)のように28歳の大人もいた。彼女が日本に帰る時、駅で父親か捕まった。父親は[シンドラーのリスト]みたいに日本人を2000人近く助けたが、それがバレて捕まって2日後に銃殺…。だから、彼女は仲間に入るのはやぶさかではないが、中国には行かないということで参加してくれました。
-03年8月、大田区民ホールで「私の八月十五日」展を初めて開催されましたが、どういう経緯で開いたのですか
森田:『中国からの引揚げ』という本を作っているとき、昭和20年8月15日、内地にいて後に漫画家になった連中は、どんな終戦日を迎えたのだろう、と興味が出できました。大田区長が後援し、新聞でも取り上げてもらい、3000人以上が入場し、翌年7月には『私の八月十五日』という本を出版しました。
個人的にショックだったのは、黒い眼鏡を掛け、白杖を持っている盲目の女性が、景色かメーンのどなたかの作品を見て泣いていたんですよ。笑われる漫画を目標に描いてきたのに、それほどショックを与えるのかと驚きました。健常者が絵の説明をしていたのですが、かつて見た中国の空でも思い出していたのでしょうか…。
-海老名香葉子さん(作家)たちも文章を寄せていますね
森田:あの日、中国で兵隊だった、やなせたかしさんをはじめ、70人近くの漫画家たちの作品が集まったのかな。そのうち、絵は描けないけど…と、海老名さんのように、いろんな体験をした人か文章を書き、漫画家が絵を付ける作品も生まれました。高倉健さんには会ったこともないのに、手紙を出したら文章を書いてくれて。恐れ多くて僕は絵を描けなかったので、ちばさんに頼んで絵を付けてもらいました。高倉さんの分は、本の出版に間に合わなかったのが残念ですか。
-印象深い作品は
森田:面白いのは、小島貞二さんの「連載漫画寅さん」(6面右下)。鉱業会社の社員で、終戦のひと月前に兵隊に動員され、南方のセレベス島(現・インドネシアのスラウェシ島)で捕虜となり、46年5月に帰還するまで収容所の壁新聞に描いていた4こま漫画で、四角じゃなく、丸顔の寅さん。
この人の運命がすごくて、漫画家になりたくて上京するんだけど、身長が182センチもあって相撲部屋に入れられちゃう。相撲で出世しないうちに、召集令状が来て、捕虜になって「寅さん」を描いたのですが、大体、戦争に行くのに紙と絵の具を持って行く人も珍しい。戦後その原稿が見つかり、絵の具は銀座・鳩居堂のもので、小島さんは鳩居堂に行って「お宅の黄色はこんなに良く出るし、落ちない」と持ち上げたら、鳰居堂が感動して「額装を全部やらせてくれ」と言ったとか。世間的に漫画家とは認められていないけど、僕は絵がすっかり気に入って「『私の八月十五日』という本に掲載させてくれないか」と電話した示島さんは「それはありかたい」と言ってくれたのですが、「1点だけじゃダメだ。載せるなら全部じゃなきやダメだ」と。僕が「原則1人1点だから」と言うと「考えさせてくれ」と返事して、その3~4日後に亡くなってしまった。仕方がないから作品を全部掲載しました。
後日、息子さんが 「親父は死んで、やっと漫画家になれた」とお礼に来たのですか、息子さんも182センチを超える大男。
大下健一さんの「旗の茶碗にタンクの水」という作品(6面占が、僕は一番胸が痛いですね。妹かいるんだけど、栄養失調で死んでしまう。「妹よ、三途の川は渡ったか」つてね…。当時、栄養失調で死ぬ人か多くて、赤塚さんの生後6ヵ月の妹も、奉天から母親の実家のある奈良に引
き揚げた直後に死んじゃった。赤塚さんは「母ちゃん、良かったね。かわいい時に死んで。これ以上、苦労しなくて済む」と言ったそうですか、彼はその時何かがプツンと切れて「これでいいのだ!」(没法子(めーふぁおずー)、中国語で「しょうかない」の意)になった。その子は「綾子」という名前で、帰国前にジフテリアで死んだ赤塚さんのすぐ下の妹の名前を継いでいたんですね。赤塚さんは「もう1回同じ名前を付けたけど、また死んじゃった」と話していましたか、そういう体験もあって、あんな神経が切れたような性格になってしまった…僕もなんだか分かりますね。
-ご自身の「八月十五日」は、「記憶の奥の奉天」(下)ですね
森田:奉天の市街地の大通りにいました。中国の人が大勢いて、日本の兵隊さんが縛られて、馬車の荷台に乗せられ、むちで打たれ、石を投げられて、血が出て。日本兵の銃殺を見たのは、この少し後かな…。
玉音放送を聞いて、日本が負けたらしい、ということは子どもながらに分かりました。みんな泣いていたし、これからどうなるんだろうとは考えた。日本に帰ると、赤鬼、青鬼、つまりアメリカ兵が子どもを頭からポリポリ食べるといううわさもありました。
-日本に帰って来て、どうでしたか
森田:僕の場合、生まれて3ヵ月で満州に行ったから、あまり「帰って来た」という実感は湧かなかった。中国と比べて、緑の多い国だなと思いました。日本に着いて、貨車に乗って、東京の目白に向かったのですが、途中、左手に”50年、ペンペン草も生えなにい”とうわさされた、がれきの場所を通った記憶かある。原爆か投下された広島のことで、僕は舞鶴港に帰って来たとズーッと思っていたのですか、舞鶴だとつじつまが合わない。厚生労働省に乗員名簿を調べてもらって、山口県の仙崎と判明して謎が解けました。
100年後の夢描いて
-秘密保護法の強行採決や、集団的自衛権の行使容認など、安倍首相はいつか来た道を歩もうとしています
森田:どこまで突っ走るつもりなのかね…。先日の滋賀県知事選で自民・公明が推した候補か敗れて、見ている人は見ているから、ある程度暴走は食い止めていると思いますが、ポイントーオブーノーリターン(航空用語で帰還不能点)、もう後には戻れない状態に突っ込もうとしている。とうなんてすかね、憲法の解釈次第で戦争かできる、というのは。僕は戦争を体験したといっても子どもでしたか、いまだに親を探している人もいるくらいですから…。
『私の八月十五日』という本は、「戦争反対」をメッセージに描いてくれ、とは誰にも頼んでいない。昭和20年のその日に何歳で、どこにいて、何を考えていたか-その三つだけをお願いしました。だけど、まとまると、いかに戦争がくだらないものか、ということがよく分かる。『ゴルゴ13』のさいとう・たかをさんの作品(6面左下)じゃないけど、―日にして戦争推進の思想や価値観はひっくり返り、戦争か愚行だと分かったんだから。
「私の八月十五日」展は2000年以降、あの日まだ生まれていなかった若い漫画家にも参加してもらおうと、「100年後の八月十五日」をテーマに作品を募っています。20~30代の若い漫画家や中国の漫画家が参加してくれました。手塚治虫さんが携帯電話や薄型テレビをマンガに描いたのは昭和20年代で、大体60年で実現した。だから、「100年後の八月十五日」まで50年近くあれば、夢が描
けるだろうとハッパをかけました。すると、娘がロボットを家に連れて来て、「結婚していい?」と聞かれた親が困ってしまった、なんていう作品が集まりました。でも、ないとは言いきれない。
「100年後の八月十五日」も「平和な日本」であってほしいIそんな若手漫画家たちの思いをくみ取ってもらえたら、うれしいですね。
「戦争する国」の真実
しんぶん赤旗日曜版2014年8月10・17日合併号
今年の8月15日は69回目の終戦記念日。安倍政権が集団的自衛権の行使容認を閣議決定したという、重大ななかで迎えています。「戦争する国」とはどういう国なのか。元日本軍兵士に戦場の残忍さを、歴史学者に歴史の教訓を聞きました。
本吉真希記者
「邦人保護」は戦争開始の常とう句
私たちは現代の危うさを捉える″嗅覚”を身につけることが重要です。時代が急速に動いていくときの雰囲気や空気を、歴史や体験者の証言、記録から学ぶ必要があります。
「軍の独走を許してはならない」というのが保守・革新問わず、あの戦争から学んだ大きな教訓の一つです。そのため「シビリアンコントロール」(文民統制)という考え方が戦後、定着しました。ところがこのところ、この教訓に背く危険な事態が現れています。
いま自衛隊の運用は、防衛大臣の補佐機関である文民の内局を通じて行っています。それを自衛隊の制服組トップの統合幕僚長に一元化するという動きが出てきています。シビリアンコントロールの原則が揺らぎ始めています。
そういうなかで集団的自衛権が発動されると、何が起こるか。歴史を振り返ると、それがみえてきます。
十五年戦争の発端となったのが1931年の「満州事変」です。これは旧陸軍の関東軍が南満州鉄道を爆破し、これを中国軍の仕業だとして引き起こした謀略から始まりました。
37年に慮溝橋事件が起きると「日本人居留民の保護」=「自衛」を囗実に中国への侵略を拡大していきました。
自衛を口実にした背景には、パリ不戦条約(28年)などの国際法の発展があります。第1次世界大戦後、国際紛争を解決する手段として軍事力の行使に訴えることは違法となりましたが、唯一の例外が「自衛のための戦争」だったからです。
安倍晋三首相は閣議決定後の記者会見で「海外にいる日本人の命を守るため」と強調していますが、これは戦争を始めるときの常とう句です。
歴史や証言を学ぶことで、直接体験していなくても戦場のリアルな現実を想像することはできます。「自分がその立場にいたら」と想像することが、集団的自衛権を考える出発点になると思います。
◇
集団的自衛権を発動すれば、自衛隊員が実際の戦場に出動する可能性が高まります。僕らと同じ生身の人間である隊員が苛酷な戦場の現実に耐えられるのでしょうか。
冷戦後の戦争は、単事大国が途上国や小国に一方的に介入する「対テロ戦争」の形をとり、その多くは市街戦のような戦闘です。数メートルから十数メートルの至近距離で敵と命のやりとり
をする。そんな状況に兵士は置かれます。
しかも小銃主体の戦闘では、頭や心臓以外に被弾すると絶命までに8秒ほどかかり、反撃されることがある。そのため、間髪いれずに再度撃ち、さらにもう一発、頭か心臓を撃ち抜き、とどめを刺す。自衛隊はこうした訓練をすでに始めているようです。
対テロ戦争で米英軍には深刻なPTSD(心的外傷後ストレス障害)が大量に生じました。イラクやアフガンに派兵された自衛隊員の自殺率も高く、戦闘になれば戦争神経症が多発する懸念も出ています。
かつての戦争では旧軍の若い兵士が多数、戦死しました(別項)。現在の格差社会では若者にとって、自衛隊への志願は有力な職業選択の一つです。
安倍首相は自衛隊の最高司令官ですが、国民的合意なしに解釈改憲だけで、そういう若者を殺し殺される現実の戦場に投げ込もうとするのは、あまりにも無責任です。
指揮官は捕虜を”地雷探知機”に使った
少年捕虜を銃剣訓練の「標的」に
101歳の元日本兵、絵鳩毅さん=神奈川県=。日中戦争で中国人の命を奪いました。「安倍内閣をこのまま存続させたら、やがて若い者がわれわれと同じ目に遭う」と危機感を募らせす。
教師をしていた絵鳩さん。1941年7月に召集され翌年、中国へ派兵されました。
中国山東省を占領した第111大隊に所属。最初は大隊本部の治安係助手を命じられ、終戦間際は初年兵教育の助教を務めました。当時32歳。45年6月ごろのことです。
炎暑のなか、大隊は山東省城陽から100キロ余りの行軍を開始。ほどなくして食糧を積んだロバが地雷を踏み、はらわたを引きずりながら狂奔。その後、畑を歩いていた兵隊も地霜の犠牲になりました。八路軍(中国共産党の軍隊)が、おびただしい数の地雷を仕掛けていたからです。
部隊の指揮官は「苦力(クーリー)」に目をつけました。軍の資材を運ぷために強制連行した中国人のことです。「指揮官は苦力を行軍の先頭、横一線にずらりと並べ、後ろから銃剣を手にした監視兵が追い立てた。”人間地雷探知機”にしたのです」。4、5人の中国人が地雷で吹き飛ばされました。
◆
目的地で初年兵を待っていたのは捕虜の「実的刺突」でした。殺し合う場面で抵抗なく人殺しができるよう、生身の人間で″訓練”をしたのです。
6月12日、雲一つない晴天でした。絵鳩さんはこの日を忘れることができません。
広い畑地に4本の柱が立てられ、それぞれの後ろには深い穴が掘られていました。4人の捕虜は懇願しました。「私たちは農民です。助けてほしい」と。そのなかの15、16歳の少年が絵鳩さんにすがりつくように泣いて訴えました。「たった一人の母が私の帰りを待っています。家に帰してください」
絵鳩さんにも自分の帰りを待ちわびる母がいました。「少年の叫びが私の心に痛く突き刺さった。しかし大隊長の命令が頭をよぎり、反射的にその願いを無視せざるを得なかった」
農民らは柱に縛り付けられ「生きた標的」にさせられました。絵鳩さんは初年兵に「前方にいる者はすべて敵だ。必ず突き殺せ」と命令しました。
「突っ込め!」。教官の号令に、初年兵は銃剣を構えて突進したものの、よろめいて倒れる者や捕虜を前に立ち止まってしまう者が続出しました。「誰だって人殺しは恐ろしいのです」
◆
戦後、シベリアに捕虜として5年間、その後、中国に戦犯として6年間、抑留された絵鳩さん。56年、不起訴処分となり帰国しました。43歳でした。
絵鳩さんは安倍政権打倒で、国民や一致する政党が力を合わせることを切に望みます。
「若いみなさんには前車の轍(てつ)を踏まないでほしい。そのためにも過去の戦争の実態を知り、平和憲法を守り抜く政権を樹立してください」
中国兵捕虜を刺殺する日本兵
NHKスペシャル「戦場の軍法会議 処刑された日本兵」
軍紀を守るために厳罰を科すことを求めた軍上層部の意向で、本来なら死刑にならない罪でも兵士を処刑した
http://v.youku.com/v_show/id_XNDQzNjk3ODM2.html
67年前の太平洋戦争末期、フィリピンやニューギニアなどの南方戦線で補給が断たれた日本軍に“異常事態”が起きていた。飢えに苦しみ、食糧を求めてジャングルをさまよった日本兵たちが、部隊を勝手に離れたとして「逃亡罪」で次々に拘束され、処刑されたのだ。しかし、当時の記録は、ほとんどが軍によって焼却されたため、その詳細は今まで明らかになってこなかった。
今回NHKでは、その内実に迫る貴重な資料を入手した。戦場で開かれた特設の「軍法会議」で兵士たちを実際に裁いた軍の元法務官が、密かに残した内部文書と14時間に及ぶインタビュー・テープである。兵士たちは、なぜ処刑されたのか。そこで語られていた元法務官の証言は、衝撃的だ。
軍紀を守るために厳罰を科し“見せしめ”を求めた軍上層部の意向で、本来なら死刑にならない罪でも兵士を処刑した、というのである。「法の番人」であるはずだった法務官たちは、なぜ、軍の上層部に抵抗し続けることができなかったのか。戦場で行われた軍法会議の実態を、ひとりの法務官の軌跡を追うことで明らかにし、戦争の罪を見つめる。
日刊ゲンダイ2014年8月11日
NHK・さかのぼり日本史 昭和 とめられなかった戦争
第1回 「敗戦への道」
http://v.youku.com/v_show/id_XMjc5OTA2NzI4.html
昭和になってからも、なぜ日本は、満州事変・日中戦争・太平洋戦争と戦争を拡大・長期化させたのでしょうか。
第1次世界大戦に勝利した日本は、来るべき米ソとの戦争に備え準備を進めますが、軍部統制・外交戦略の誤算や戦局の見込み違いで、世界から孤立します。
世界の動きを見誤り、戦争に突き進んだ激動の昭和を、歴史学者・加藤陽子氏とともにたどります。
第1回は、1941年の日米開戦から1945年の敗戦に至る道です。
日本人はなぜ戦争へと向かったのか
第4回 「開戦・リーダー達の迷走」
http://dai.ly/x1x0qaq
なぜ日本は無謀な戦争への道を選択したのか。太平洋戦争70年の年に問いかける大型シリーズ。最終回は、いよいよ開戦を決定した1941年をとりあげる。
今回見つかった当事者たちの戦後の証言テープからは、驚くべきリーダーたちの実態が明らかになった。
日本の国策決定の場は、全ての組織の代表者が対等な権限を持つ集団指導体制で、全会一致が建前。常に、曖昧で、玉虫色の決定が繰り返された。
各組織のリーダーたちは、戦争に勝ち目がないことを知りつつも、戦争できないと言うことが自らの組織に不利益を与えると考え、言い出すことができない。
海軍、企画院、陸軍、首相、それぞれが互いに責任を押しつけ合い、重大案件は先送りとなっていく。しかし、日米交渉が暗礁に乗り上げ、妥結の見通しがみえない中、首脳部は、国力判断、すなわち国家の生産力・戦争遂行能力のデータを総動員して、譲歩か、戦争かの合議を行う。
結論は、各組織の自壊を招く「戦争回避」より、3年間の時間を稼ぐことのできる「開戦」の方に運命を賭ける。
日本のリーダーたちは、国家の大局的な視野に立つことなく、組織利害の調整に終始し、最後まで勇気をもった決断を下すことはなかったのである。
戦争の加害責任から目をそらすな
(東京新聞【こちら特報部】)2014年8月8日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2014080802000164.html
安倍晋三首相は、昨年八月十五日の全国戦没者追悼式の式辞で、歴代の首相が踏襲してきたアジア諸国への加害責任に触れなかった。その後も、首相の靖国神社参拝や集団的自衛権の行使容認の閣議決定などが続き、首相の好戦的な振る舞いはいよいよ露骨である。このまま「いつか来た道」を突き進んでいいのか。六十九回目の「終戦の日」を前に、加害責任と向き合い続ける人たちに会いに行った。
(篠ケ瀬祐司、三沢典丈)
「9条の誓いは未来を先取り」
立川の議諭市民と広島へ「学びの旅」
広島原爆の日から一夜明けた七日、フィールドワーク「いまにつながるヒロシマの学びの旅」一行の約三十人が、広島市安佐北区の「護憲の碑」を訪れた。正面に「護憲」の二文字、裏には憲法九条全文が刻まれている。被爆詩人・栗原貞子さん(一九一三~二〇〇五年)の墓の横にある。栗原さんの長女が九一年に建てた。
フィールドワークを企画したのは、元高校教諭の竹内良男さん(六五)=東京都立川市=である。約三十年前、自校の修学旅行を機に原爆について学び直し、以来、何度も広島に足を運んでは被爆者らの証言に耳を傾けてきた。今は、原爆関連資料を保管・公開する民間の「八王子 平和・原爆資料館」(東京都八王子市)の運営を手伝っている。
竹内さんは昨年、苦労して「護憲の碑」を探し当てた。安倍政権下で改憲が現実味を帯びている。「多くの人に碑を知ってほしい。護憲は古い考え方ではない。九条は未来を先取りしている」。そんな思いで参加者を募った。
護憲とともに伝えたかったのが、戦争の加害責任だ。フィールドワーク用の地図の裏表紙には、栗原さんの代表作「ヒロシマというとき」を刷り込んだ。軍都広島が、アジアの人々にとっては加害者でもあったことを真正面から見すえた詩だ。
〈ヒロシマ〉といえば/〈ああヒロシマ〉と/やさしいこたえがかえって来るためには/わたしたちは/わたしたちの汚れた手を/きよめねばならない
一行は「護憲の碑」のを描いた栗原さんの名作「生ましめんかな」の碑に足を延ばしたりした。
竹内さんは「なぜ戦争が起きたか、戦争で何か行われたか。詩が指摘するように、世界の人々が日本をどう思っているのか。そうした見たくないものも見てこその不戦の誓いでなければならない」と力説する。
竹内さんの思いは参加者に響いたようだ。
立川市の加藤倫子さん(四七)は「戦争は被害を受けるだけではないことを、被爆地・広島の詩人が指摘したことがすばらしい。集団的自衛権の行使容認で再び、自分たちが加害者になりかねない。そうならないように何かできるかを考えたい」と話す。
松山大三年の植松治郎さん(二二)も大いに刺激を受けた。「『護憲の碑』に強い意志を感じた。被害者であり加害者とは一見矛盾している。世界で戦争がなくならない。ではどうしたらい
いか、平和はどうしたら続くのか。これまでならさじを投げるようなテーマだけれど、何もせずにいたら、戦前と同じになってしまうかもしれないですよね」
「目を背けでは平和語れない」
歴史をねじ曲げる安倍政権に危機感
神戸市内の私立高校で長く社会科を教えた高原脩さん(七五)=兵庫県加古川市=は、生徒の一言が忘れられない。「日本は被害者よりも前に加害者やったんやね」。約三十年前、日本史の授業で太平洋戦争について取り上げたときのことである。
戦中生まれで空襲を経験し、戦争を嫌悪する気持ちは強かった。広島の原爆被害を伝える会とも交流してきた。だが、もっぱら関心は被害者としての日本だった。「戦争に対する自分の理解の深め方が足りなかった」。忙しい日常業務の合間を縫って加害責任について調べ始めた。
定年間近の一九九三年からは、問題意識を共有する友人らと一緒に、旧日本軍の戦地を訪ねる旅に出た。フィリピンでは住民が寄ってきて「これが日本兵から受けた傷だよ」と額を指さした。加害責任が胸に迫った。
二〇〇二年には、「戦争責任を心に刻む会」を立ち上げた。ニカ月に一度の例会は六月で七十一回を数えた。元日本兵や旧満州開拓団のメンバーに当時の体験を語ってもらい、それを冊子にまとめる。部数は今、二百部まで増えた。
加害責任は軍だけにあるのではない。「日中戦争では、南京陥落を祝って東京で四十万もの市民がちょうちん行列を繰り広げた。国家に乗せられた国民にも責任はある」
安倍政権の「戦争する国」路線に危機感を抱く。「加害の問題を抜きにして平和については語れないし、中国、韓国とも本当の意味の和解はできない。大河の一滴でも何かの力になると信じて活動を続けたい」
最後にもう一人、周辺事態法など日米防衛協力の新しい指針(ガイドライン)関連法や、国旗国歌法が審議された九九年以降、可能な限り国会傍聴を続ける西川重則さん(八六)=東京都国
立市=を紹介したい。
四五年九月十五日、西川さんは香川県の実家で、当時二十四歳だった兄がビルマ(現ミャンマー)で戦病死したとの連絡を受けた。
「健康だった兄が、なぜ戦争が終わって1ヵ月もたって戦病死しなければいけないのか」。強い疑問から平和運動に身を投じた。政治家の靖国神社参拝に反対する戦没者遺族らでつくる「平和遺族会全国連絡会」代表や、靖国訴訟などにかかわる「政教分離の会」事務局長などを務める。
「われわれは被害者であり、アジアへの加害者でもある。歴史を直視することが重要だ」と声を上げ続ける。十五日、連絡会は都内で集会を開く。西川さんは「安倍内閣と私たちの課題」と題して話す予定だ。
「日本は戦争でアジアに何をしたのか。それを正確に伝え、国民が歴史の事実を共有しなければならないのに、『自衛のための戦争だった』と考える政治家が増えた。安倍政権は憲法を改悪し、戦争ができる国にしようとしている。戦後六十九年の今は、戦争が始まった一九三〇年代と似てきてはいまいか」
加害責任を直視する市井の人たち。戦争責任問題に詳しい山田朗・明治大教授(日本近現代史)は「さまざまなレベルで粘り強く続いており、大いに評価すべきだ」とエールを送った上で、加害責任に疑問を呈するような「歴史修正主義」の跋扈(ばっこ)に警鐘を鳴らす。
「戦争の後半はやられっぱなしで被害者意識は残っている。その一方で加害者意識は薄れている。ましてや現在は日中関係が悪いため、加害の歴史が一層語られにくくなっている。安倍政権の歴史修正主義的な動きに対抗するためにも、市民一人一人が、もっと加害責任について考えてみる必要がある」
日本人はなぜ戦争へと向かったのか
第3回 “熱狂”はこうして作られた
http://dai.ly/x1abojh
「坂の上の雲」の時代に世界の表舞台に躍り出た日本が、なぜわずかの間に世界の趨勢から脱落し、太平洋戦争への道を進むようになるのか。開戦70年の年に問いかける大型シリーズの第3回。
日本が戦争へと突き進む中で、新聞やラジオはどのような役割を果たしたのか。新聞記者やメディア対策にあたった軍幹部が戦後、開戦に至る時代を振り返った大量の肉声テープが残されていた。
そこには、世界大恐慌で部数を減らした新聞が満州事変で拡販競争に転じた実態、次第に紙面を軍の主張に沿うように合わせていく社内の空気、紙面やラジオに影響されてナショナリズムに熱狂していく庶民、そして庶民の支持を得ようと自らの言動を縛られていく政府・軍の幹部たちの様子が赤裸々に語られていた。
時には政府や軍以上に対外強硬論に染まり、戦争への道を進む主役の一つとなった日本を覆った“空気”の正体とは何だったのだろうか。
日本人はなぜ戦争へと向かったのか、の大きな要素と言われてきたメディアと庶民の知られざる側面を、新たな研究と新資料に基づいて探っていく。
中国戦線における日本軍の不許可写真
NHKスペシャル <日本海軍 400時間の証言>
第二回「特攻 “やましき沈黙”」
間違っていると思っていても、口には出せず、組織の空気に個人が飲み込まれていく・・・。
http://v.youku.com/v_show/id_XNDMyMTYxMjEy.html
昭和19年(1944年)10月に始まった「特攻」作戦。人間が兵器と一体化して敵に体当たりする決死の戦法です。この作戦で戦死した将兵は5千人以上、そのほとんどが20代でした。
第2回は、生還の可能性のない「特別攻撃隊」を作った組織の姿に迫ります。
太平洋戦争末期、将兵たちの熱意から生まれたと伝えられてきた「特攻」。しかし、海軍反省会では、それより1年以上前から組織的に計画していた事実が赤裸々に語られます。
戦争とラジオ 第1回 「放送は国民に何を伝えたのか」
http://youtu.be/HXiQctM0sVU
太平洋戦争の時代、ラジオ放送の現場にあった人々は、あるべき放送をどう模索し、何を国民に送り届けていたのだろうか。最近掘り起こされた資料から、それを明らかにすることが初めて可能となった。(番組放送2009年)
戦時中、日本放送出版から刊行されていた月刊誌「放送」及び「放送研究」には、放送の第一線にいた人々の座談会や、各セクションの戦略、主要番組の放送原稿などが採録されている。また、メデイアを統制していた内閣情報局が、出していた「放送しるべ」からは、国家が放送をどうコントロールしようとしていたかを読み取ることができる。
戦時下、ラジオ放送は、国策伝達の手段であることを免れえなかった。新たな資料からは、報道・教養・演芸などの各現場で議論を尽くし、時代の要請を実践してゆく様がありありと浮かび上がってくる。
番組では、雑誌「放送研究」をはじめとする活字資料、わずかに残された音声資料、そして当時、放送業務に携わった人々の証言を立体的に構成し、戦時下ラジオ放送の実像に迫る。
「135枚の証言 遺された戦争ポスター」 2012.10.07
http://dai.ly/xu5q3d
国民の戦意高揚を図った戦争ポスター。多くは焼却されたが、長野県阿智村に当時の村長が後世のためにと135枚を隠していた。半世紀以上経て今年、高校生達が動き始めた。
「魂が眠っている 遺された赤紙」 2012.12.09
http://dai.ly/xvqwk1
長野県大町市の民家の土蔵から、戦時中の召集令状「赤紙」の受領書をはじめとする大量の兵事書類が見つかった。保管していたのは故・大日向正門さん。かつて役場職員として若者たちに「赤紙」を手渡す兵事係りを務めていた。終戦後、大本営は全国に兵事書類の焼却処分を命じた。大日向さんは生前、家族にも書類の存在を隠していた。12月8日の太平洋戦争開戦から71年、『兵事書類』はいま、私たちに何を語ろうとしているのか。
NHK・ETV特集
「戦争は罪悪である ~ある仏教者の名誉回復~」
http://v.youku.com/v_show/id_XMzQ4MzExMDU2.html
日中戦争がはじまった1937(昭和12)年7月、大多数の宗教者が戦争に協力していく中で「戦争は罪悪。この戦争は侵略である」と説き、検挙された僧侶がいた。真宗大谷派の高僧・竹中彰元。警察の追及にも信念を曲げず、本山からも布教使資格のはく奪処分を受けて、1945年にこの世を去った。
長らく忘れられていた彰元の行動が再び脚光を浴びたのは70年近くが過ぎてから。300ページにおよぶ当時の取り調べの記録が寺でひそかに保管されていた。そこには、事件当時の関係者の証言と共に、彰元の信念も赤裸々に記録されていた。地元の人々や多くの宗教者たちの熱心な運動により、去年10月、本山はついに彰元の名誉回復に踏み切る決定を行う。彰元が検挙されて、実に70年ぶりのことだった。
本来「殺生」を禁じた仏教界はなぜ戦争に協力したのか。そして竹中彰元師はいかにして抵抗の信念を貫いたのか。発見された記録や関係者への取材をもとに描き、これまであまり取り上げられなかった「宗教者の戦争責任」について考える。
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お母ちゃんよかったね…かわいい時に死ねて…(;ω;) 戦争というものがいかにくだらないか
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