今日(8月6日)と三日後の8月9日は第2次世界大戦中の1945年にアメリカによって日本に原爆が落とされた日です。
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安倍内閣のもとで、集団的自衛権行使容認の閣議決定が強行されたいまこそ、平和をのありがたさを噛み締めるべき時ではないでしょうか?
被爆の実相を深く知り、その歴史的背景を知ること、そして、核開発後の悲惨な状況を知ることによって、まっすぐ現実を見つめ、現在は何をしたらよいのか?見えてくるのではないかと確信しています・・(`・ω・´)
どうか、お時間のあるときにじっくりとご覧下さい。そして、考えてください。
ヒロシマの黒い太陽1
http://dai.ly/xkjdgf
ヒロシマの黒い太陽2
http://dai.ly/xkjde3
1945年8月6日、広島に投下された原爆のウランの原石は、ベルギーから持ち込まれたものだった。その3日後、長崎に投下された原爆のプルトニウム精製工場は、フランス発祥のデュポン社が取り仕切っていた。
日本への原爆投下に、深く関わっていたヨーロッパ各国。当時の記録・証言で、科学者、軍人、産業界の動きを追っていく。
情報の隠ぺいと操作の数々…。
今、原発事故の状況下にある日本の人々もさまざまなことを考えさせられる。
フランス国営テレビとの国際共同制作。
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仁科芳雄
日本では1938年からウラン鉱山の開発が行われ、1940年に理化学研究所の仁科芳雄博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれている。研究には理化学研究所の他に東京帝国大学、大阪帝国大学、東北帝国大学の研究者が参加した。
1941年4月に陸軍航空本部は理化学研究所に原子爆弾の開発を委託、アメリカ合衆国によるマンハッタン計画が開始された翌年の1943年1月に、同研究所の仁科博士を中心にニ号研究(仁科の頭文字から)が開始された。この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、1944年3月に理研構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が始まった。
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核開発の果て 上
東京新聞2014年7月22日
長崎に投下された原子爆弾の材料となるプルトニウムを製造した米ワシントン州南東部にあるハンフォード核施設。人類史上初の核開発マンハッタン計画の中核を担い、冷戦時代にも活動を続けた。二十七年前に最後の原子炉が運転を停止したが、今もなお、放射能汚染水漏れが続き「全米で最も汚れた場所」と呼ばれる。苦闘する姿は、福島原発事故被害の対策を模索する日本が既に向き合う課題とも重なる。
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人の姿のない広大な平地の空を、鳥がゆっくりと飛ぶ。ハンフォード核施設のそばには、土地の人が聖なる場所とあがめるコロンビア川が流れていた。
高レベル放射性廃棄物貯蔵用の巨大地下タンクの点検を二十七年間続けてきたマイクーゲファーさん(五一)は、自分の目を疑った。二〇一一年秋のことだ。
二重壁になっているタンクの壁と壁の間に挿入した放射線検知器が警戒音を発する。引き上げると、ピーナツバターのような液体がついていた。検知器の針が一気にふれる。
「汚染水が漏れました」
「検知器が壊れてるんだろう」。上司はゲファーさんの報告を信じなかった。
国から施設の管理を請け負う企業に所属するゲファーさんには、汚染水漏れなど不測の事態が起きた場合、管轄するエネルギー省に二十四時間以内に報告する義務が課されていた。
当初の漏れは十五リットルほどだった。だが、会社は詳細点検を先送り。エネルギー省にはこう伝えた。
「タンクの壁内部にあるのは雨水」。放射線の検知理由は現場周辺にあった過去の廃棄物に反応したと断定した。一年後、定期点検で再び漏れが確認され、事実を公表。事前に報告を受けていたことは隠した。
ゲファーさんは経緯をメディアなどに内部告発し、会社を辞めた。
ハンフォードの浄化活動を監視するNPO「ハンフォードーチャレンジ」代表トムーカーペンターさんは、会社や当局が汚染水漏れを認めなかった理由を「二重壁タンクからの漏れだったから」と指摘した。
施設にある大半のタンクは一重壁で、これまで既に六十七基で漏れが確認された。二重壁はその対策として導入された「安全な保管先」。そこで、初めて漏れか確認された。
全部で百七十七基ある夕ンクには、長崎原爆に搭載されたプルトニウムを精製する過程で出た放射性物質のセシウム、ストロンチウムなどを大量に含む、最も危険性の高い泥状の液体計約二億リットルが保管される。
カーペンターさんは懸念する。「当局が安全だと信じ切っていた二重壁がダメなら将来の除染作業に多大な影響がある。汚染水が漏れ続ければいつかは地下水に達し、コロンビア川に出る。歴史上、最も重大な危機に直面してしまった」
対策の方針が決まらないまま、汚染水は今もタンクから漏れ続ける。
(米ワシントン州ハンフォードで、長田弘己)
核開発の果て 中
健康被害 今もなお
東京新聞2014年7月23日
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闇に隠された汚染
「お父さん、宇宙飛行士が来てるよ」。米ワシントン州ハンフォード核施設の東部の風下で、農業を営むトムーベイリーさん(六七)は少年時代に見た白い作業服を着て、マスクを着けた男たちの姿が今でも目に焼きついている。
長崎原爆に使用されたプルトニウムを製造していたハンフォードの風下にあたる地区では、一九四〇年代から五〇年代、突然現れては井戸水や死んだ奇形の動物たちを採集していく男たちを住民が目撃した。
何をしているかと尋ねると、男たちは「君たちを守るための仕事をしているんだ」とだけ答えた。
「彼らが何者なのか知らなかった。ハンフォードに関することはすべて国家の最重要機密だったからね」
「宇宙服の男たち」は、周囲への汚染状況を調べていた施設関係者だった。
政府は八六年に放射性物質を大気中に放出していたことを認めた。九四年、米疾病予防管理センターの調査で、四四年から五一年にかけて甲状腺がんなどを引き起こすとされるヨウ素131だけで約二・七京ベクレルもの放射性物質が大気中に放出されていたことが明らかになった。それだけで福島第一原発事故で大気中に放出された放射性物質総量の三十分の一に匹敵する。
ベイリーさんは施設から五キロの農家で生まれた。兄は死産。父母、妹はがんと診断された。白身も肺機能障害や発疹などのほか髪の毛が抜け落ちるなどの健康被害に苦しんだ。近所の二十七世帯のすべてに甲状腺障害の家族がいた。二〇〇一年長崎で行われた原水爆禁止世界大会では「ハンフォードは広島と長崎と同じようにアメリカにもヒバクシヤを生んだ」と訴えた。
ハンフォード内には千九百ヵ所の核や化学廃棄物捨て場があり、そこから多量の汚染水が地下に染み出た。その汚染水は地下水脈にも到達したことが明らかになっている。
九〇年代、風下の住民計約五千人はハンフォードを運営していた請負会社を提訴した。○四年に連邦裁判所が「ハンフォードの四〇年代のプルトニウム製造は極度に危険だった」として企業側の責任を一部認め、○五年には甲状腺がんを患った住民二人が因果関係を認められ、勝訴した。
健康被害への不安は今も続く。長期化する除染作業に携わる作業員への健康被害。現場では一日約千四百人が二十四時間体制で勤務する。今年三月下旬以降、汚染水を保管する地下タンク付近で働いていた三十八人の作業員が原因不明の呼吸困難を訴え、救急車で運ばれた。症状を調査した市民団体は「水銀など有害な化学物質を吸引した時と同じだ」と当局に調査を求めている。
ハンフォードの歴史について著作を持つシアトル大学のブルースーヘブリー教授は「国が情報を公開しない以上、人や環境への影響は永遠に闇に隠されたままだ」と指摘した。
(米ワシントン州ハンフォードで、長田弘己)
核開発の果て 下
長い戦い 福島も同じ
東京新聞2014年7月24日
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汚染処理に特効薬なし
米西部ワシントン州シアトルの南東約三百キロ。「全米で最も汚染されている場所」という悲しい異名を持つハンフォード核施設を今年一月中旬、日本から原子力災害現地対策本部研究会のメンバーが訪れた。
福島第一原発事故後の汚染水処理対策に生かすための技術視察だった。汚染の中で暮らす地元住民や企業と意見交換し、再生のヒントを探るのが狙いだ。
視察を終えた一行が向かったのは、ハンフォード地域に隣接するが、浄化対象地域外のリッチランド、パスコ、ケニウィックの三市などが地域振興のために設立した非営利の民間組織「トライテック」。三市の市長らが集まり、企業の優遇策などを検討してきた。
午後いっぱい行われた会議で、視察団は地元住民に質問を浴びせた。
「汚染されているというマイナスイメージがあるのに、どうやって人や企業を呼び寄せられたのか」
トライテックのゲリー・ピターセンさん(七三)は質問に焦りを感じた。「魔法の特効薬はないかと聞かれているようだ」
トライテックが設立されて五十年が経過した。施設内の八原子炉とプルトニウム精製施設の全てが閉鎖され、浄化作業が始まったのは一九八九年。施設では今でも一日約千人以上が働き、汚染処理と格闘する。汚染された廃棄物を貯蔵するタンクの処理は、予定通りにいってもあと四十年はかかるといわれる。
「汚染処理は長期戦。地域再生はじっくり時間をかけるしかない」。ピターセンさんは何度も言った。
ハンフォードには日本の一団が注目していた建設中の新処理施設がある。放射性廃棄物をガラスとともに高温で融解し、固化体という固まりにする施設だ。
技術自体は既に米国の他の施設やベルギー、日本でも導入されているが、ここは数十種類の化学物質が組み合わさった大量の高放射性廃棄物を扱い、四十年以上もメンテナンスなしに稼働できる施設。世界でも例がない規模の大きさだ。
その施設が岐路に立っている。二〇〇二年に着工し六割が完成した一二年に工事が中断。理由は設計に欠陥があるという内部告発だった。予算は当初試算の三倍の百二十七億ドル(一兆二千九百億円)に膨らんだ。
請負会社で設計を担当していたウォルター・トムサイタスさん(六六)が内部告発した。「請負会社は利益優先。安全を重視する気持ちはみじんもない。企業内の風通しも悪く、方針と違う
ことをいうと報復に遭う」と明かす。告発後に左遷され、退職に追いやられた。
請負会社の安全軽視、情報隠しなどの問題は米議会でも取り上げられ、トムサイタスさんも証言した。
福島の原発事故について「情報隠しの疑いは既に日本でも起きている。利益を追求するのが企業の性であり、安全を後回しにしないようにさせる仕組みが必要だ」と語気を強めた。
稼働停止後、四半世紀を過ぎた今も、核開発という過去の遺産と向き合う八ンフォード。福島の長い道のりは、始まったばかりだ。
(米ワシントン州ハンフォードで、長田弘己)
島は核実験場だった
しんぶん赤旗日曜版 2014年8月3日
原水爆禁止世界大会が2日から広島市で始まります。核兵器禁止条約交渉開始が焦点となるなかで開かれる同大会には、マーシャル諸島共和国の外相も初参加する予定です。同国は、核兵器廃絶の義務を果たしていないと核保有9力国を国際司法裁判所に訴えています。トムーキジナー同国駐日大使に聞きました。
坂口明記者
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マーシャル諸島共和国は4月、核軍備競争の早期停止と核軍縮・廃絶交渉をするという国際法上の義務を果たしていないとして、米国、ロシア、中国など核兵器を保有する9力国を国際司法裁判所に提訴しました。米国については、カリフォルニア州の連邦地方裁判所にも提訴しました。
私たちは小さな島国ですが、大胆なイニシアチブをとりました。それは私たちの国が1946年から58年にかけて米国の核実験場とされたからです。
核保有国が核廃絶交渉の義務を負う核不拡散条約(NPT)が68年に結ばれて46年たちますが、進展は何もありません。「もうたくさんだ。世界の未来を考えよう」と誰かが声を上げるべ
き時です。
広島、長崎の人々が核兵器の最初の犠牲者となりました。2番目が私たち。核兵器の脅威を経験したのは日本とマーシャルの人たちです。私たちこそ連帯すべきです。今回の提訴に日本政府も積極的に応えていただくよう心から期待します。
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原爆投下から15分後に香焼島から撮影されたキノコ雲
原爆投下・10秒の衝撃
http://dai.ly/xv00ky
ピカドンと呼ばれる原爆。爆発から広島が壊滅するのに要した時間はわずか10秒である。
炸裂前から大量に放たれていた放射線、3秒で地上を焼き尽くした熱線、10秒で広島市の全域をのみ込んだ衝撃波。人々が立ち昇るキノコ雲を見た時、広島は既に破壊されていたことになる。
日米の科学者の協力を得て、広島原爆の惨禍の始まりとなった10秒間を科学的に再現・検証し、核兵器の恐怖を描く。
原爆の絵=日本語版(字幕付)
http://youtu.be/ebgmIZ0GMhw
広島の被爆体験者自身が描いた21枚の絵と体験者が絵につけたコメントにナレーションをつけて15分程度の作品にしました。これらの絵は広島平和記念資料館が所蔵する3600枚の絵の中から選んだものです。
被爆者の遺品に原爆の現実
しんぶん赤旗日曜版 2014年8月3日
この舂、「写真界のノーベル賞」と呼ばれる(ハッセルブラッド国際写真賞を受賞した石内都さん。被爆者の遺品などを撮影した写真集『From ひろしま』(求龍堂)を出しました。その思いは…。
金子徹記者
写真家石内都さん
花柄のワンピースに、焼け焦げた弁当箱。広島平和記念資料館の収蔵品です。普段は収蔵庫で保管され、人目にふれることはありません。そうした品に光をあてた写真集。この連作を最初に発表した2008年以降、毎年広島を訪れています。
「平和資料館には毎年新しい遺品が寄贈されています。名前も知らない女の子が広島で私を待っている感じです。死者を数字にしてもイメージがわかない。遺品を前にすると、この服を着ていた女の子がいて、原爆で死んだという現実が浮かび上がる。私も実際に広島に行かなければ、教科書的な知識で終わったはず。現場にいくと無知だったと教えられます」
まるで語り部のような写真たち-。
「1945年8月6日から70年がたとうとしていますが、問題は何も解決していません。今も世界
には多くの核兵器が存在し、日本では原発事故が起きました。安倍首相になってからは、戰前に戻ろうとしている感じ。怖いです」
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「ひろしま」を世界に知らせたい
「ひろしま」の連作を撮るきっかけは、母の遺品を被写体にした連作「Mother's」の
展覧会(2006年)でした。
「編集者から広島を撮りませんか、と声をかけられ、なんで私なのかと思いましたが、断る理由がみつからない。―週間考えさせてもらい、平和記念資料館へ行きました」
広島を訪れたのはこの時が初めて。
撮影中見えた、彼女の影がいとおしい
「多くの写真家により広島はもう撮り尽くされていると思っていました。でも、被爆者の遺品を見たら、モダンでかわいい。私が着ていてもおかしくない。私の中で、モノクロだった広島のイメージが覆され、これなら撮れると思いました」
たたまれた遺品を広げ自然光にあてる。写真のなかで、遺品の色と形がよみがえり、新しい時間が流れ出す。
「『こんにちは』と、あいさつして遺品に向き合います。『彼女』たちは、亡くなった女の子の身を覆っていた物。私はそれを収蔵庫から出して、一番かっこよく整えて撮ります。撮影中、一瞬だけ、これを着ていた女の子の影が見えます。すごくいとおしい」
08年に刊行した写真集『ひろしま』は大きな反響をよび、同年、広島と東京で展覧会も開催しました。
石内さんの写真の原点は神奈川県の横須賀です。同市には軍港があり、米軍と自衛隊が拠点を置いています。群馬県出身の石内さんは小学校入学の際に同市に転居。衝撃を受けました。
「横須賀には、6歳から19歳まで住んでいました。基地の街は子ども心にも違和感や距離感があり、嫌いでした。横須賀を出て解放されるはずが、かたき討ちみたいな気持ちで横須賀に戻って写真を撮った。それがデビュー作『絶唱、横須賀ストーリー』です」
わい雑で、殺伐とした基地の街の雰囲気をとらえたデビュー作。最初の個展と写真集で注目の存在になりました。第2作で木村伊兵衛賞を受賞。以来、世界屈指の国際美術展「ベネチアビエンナーレ」の日本代表を務めるなど、国際的に活躍してきました。
ハッセルブラッド国際写真賞の受賞は、日本人では3人目の快挙です。
「私の『ひろしま』はひらがなです。この4文字を世界に知らせる、それが私の使命だと思っています」
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当時13才の少女が来ていた服
少女は被爆当日の夜に息を引き取った
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原爆の絵 川
黒い雨
http://dai.ly/xtj6bt
去年(※2011年)の暮れ、長崎の医師の問い合わせをきっかけに、被爆に関する「あるデータ」が突然公表された。
原爆投下直後に降った放射性物質を含む雨「黒い雨」に、1万3千人もの人があったことを示す分布地図だ。どこでどれくらいの人が黒い雨にあったか、これまで「公式データはない」とされてきただけに、広島・長崎は衝撃を受けた。
データは、放射線の人体への影響を科学的に明らかにするためにアメリカの研究機関ABCCが集め、研究を引き継いだ放射線影響研究所(放影研)が保管していたものだった。
多くの被爆者の協力のもと集められた“命の記録”。しかし今に至るまで、このデータを使って黒い雨の影響が研究されることはなかったという。
なぜデータは、被爆から67年たつまで、その存在さえ明らかにされなかったのか。調査に協力した被爆者たちは、どんな思いを抱いてきたのか。
被爆者追跡調査の歴史を丹念に追いながら、その実像に迫っていく。
重要
封印された原爆報告書
http://dai.ly/xkca1f
アメリカ国立公文書館のGHQ機密資料の中に、181冊、1万ページに及ぶ原爆被害の調査報告書が眠っている。
子供たちが学校のどこで、どのように亡くなったのか詳しく調べたもの。
200人を超す被爆者を解剖し、放射線による影響を分析したもの…。
いずれも原爆被害の実態を生々しく伝える内容だ。
報告書をまとめたのは、総勢1300人に上る日本の調査団。国を代表する医師や科学者らが参加した。
調査は、終戦直後から2年にわたって行われたが、その結果はすべて、原爆の“効果”を知りたがっていたアメリカへと渡されていたのだ。
なぜ貴重な資料が、被爆者のために活かされることなく、長年、封印されていたのか?
被爆から65年、NHKでは初めて181冊の報告書すべてを入手。調査にあたった関係者などへの取材から、その背後にある日米の知られざる思惑が浮かび上がってきた。
番組では報告書に埋もれていた原爆被害の実相に迫るとともに、戦後、日本がどのように被爆の現実と向き合ってきたのか検証する。
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わが子を荼毘に付す母親
・・これが現世と思えない地獄だ・・
重要
見過ごされた被爆 ~残留放射線 63年後の真実~
http://dai.ly/xv01vc
原爆投下から63年。原爆の放射線による原爆症の認定基準が今年(※2008年)、大きく変わった。
見直しの特徴は、原爆投下後市内に入った「入市被爆者」と呼ばれる人達に対して、原爆症と認定する道を開いたことだ。これまで国は初期放射線の被害は認めてきた一方、放射線を帯びた土などが出す「残留放射線」の影響はほとんどないとして、11万人いた入市被爆者の原爆症認定の申請は、ほぼ却下してきた。
被爆後、広島や長崎市内に入った入市被爆者は、直接被爆していないにもかかわらず、放射線の影響とみられる急性症状が現れ、その後、白血病やガンなどで亡くなった。当時、いたる所で放射性物質と化した土砂や建物、死体から強い残留放射線が発生したことなどにより、相当量の被ばくをしていたとみられる。
昨年、発見された資料では、アメリカは1950年代に残留放射線の調査を始めながら「科学的に役立たない」と中止していたことがわかった。その後も調査は行われぬまま、入市被爆者は病気になっても国から「原爆症」と認められず、援護のカヤの外に置かれてきた。
科学研究が進み、裁判で入市被爆者が原爆症と認められるようになり、ようやく見直された認定基準。
なぜ被害は63年間も見過ごされてきたのか?被爆者たちの人生を振り返り、原爆のもう一つの悲劇を伝える。
TVF2014優秀作品賞(サポーター賞)「広島原爆の惨禍~もう一つの証言映像~」
http://youtu.be/ClFN-lnlDj8
『広島原爆の惨禍 ~もう一つの証言映像~』 松田治三 広島県
瀬戸内海に浮かぶ似島は自然豊かだが、1976年土木作業中に617体の遺体が見つかった。広島原爆での被災者を秘かに処理するために埋められたものだ。発掘の模様を8ミリフィルムで収めたのがビデオ仲間の故中畝健雄氏。作者はこの映像を足掛かりに、証言をもとに当時を解明する。映像記憶遺産としても貴重。
広島で被爆した肥田舜太郎医師、放射能の怖さを語る
http://youtu.be/cBVngZUNirg
広島原爆医師、肥田舜太郎氏のインタビュー。2011年8月。原爆による直接の大量放射線被ばくとともに、直接被ばくしていない人の体調不良や死のことがリアルに語られています。
①高熱がでて ②口の中が腐敗する ③目と鼻と口から出血 ④肌に紫色の斑点 ⑤髪が取れる その後死んでいく。
次の毎日新聞記事が、今の福島第一原発事故の内部被曝との関連で記事になっていました。
<被爆医師は今も闘う>
死ぬほどだるいと訴える全身衰弱「ぶらぶら病」、福島で出ても不思議はない
毎日新聞 2012年1月12日
『私のどこが悪いんだ』、開き直りがずっと根底にあるんですよ。
放射性物質が広範囲にまき散らされた東京電力福島第1原発事故。内部被ばくの健康影響が懸念されるなか、広島・長崎の原爆ではどうだったのかにも関心が高まっている。広島で被爆した医師で、「原爆ぶらぶら病」の患者ら6000人以上の被爆者を診察してきた肥田舜太郎さん(95)を訪ねた。
「内部被ばくは広島・長崎の時からあったのです」。
昨年12月、横浜市港北区のホール。「福島第1原発事故と内部被曝について」と題した講演会で、肥田さんはよく通る声でこう話した。
「原爆(ピカドン)が落ちた日には広島・長崎におらず、数日後に家族を捜しに入った人たちが、理解できない形で死んでいった」。普段つえをついて歩く肥田さん。約2時間も机の前に立ち続け、熱弁を振るった。
田さんは1944年に広島陸軍病院に赴任した。陸軍軍医中尉だった45年8月6日、爆心地から約6キロの広島市東区(旧戸坂村)で被爆。その日のうちに爆心地近くまで往復し、その後、周辺で負傷者の救援治療にあたった。やけどを負った人の数があまりに多く注目されなかったが、原爆投下後に市内に入った人たちが奇妙な死に方をするケースも相次いだという。
ある女性は、夫を捜しに、原爆投下1週間後に広島入りし、焼け野原を1週間捜して夫と再会した。しかし重症者の介護を手伝っているうちに、熱が出て紫斑が体に現れ、髪が抜け落ち、吐血して亡くなった。・・・
肥田さんたちはその経験を通し、「入市被爆」という考え方にたどりついた。「内部被ばくなんて言葉はまだありません。市に入って被爆したので入市被爆と呼びました。どういう理屈で亡くなるのか、全然分かりませんでした」
入市被爆者には間もなく亡くなった人もいれば、体調不良を抱えながら生き続けた人もいるという。・・・(中略)
肥田さんは横浜の講演会で、原爆の直接被爆を免れた人が数年後、座っていられないほどのだるさを訴える「原爆ぶらぶら病」について語り始めた。
「血も出ていない、頭の毛が抜けるでもない、目に見える被害は何もないのに、死ぬほどだるいと訴える人がたくさん出てきた。診察してもどこも悪くない。サボっているように見られて、患者の家族が『ぶらぶら病』と名付けたのです」
ぶらぶら病は、被爆前に健康だった人が病気がちになり、体がだるくて根気が続かずに仕事を休みがちになる。医師が検査しても、異常がないと診断され、仲間や家族からは怠け者のレッテルを貼られた人も少なくないという。
講演会後、肥田さんはこう補足説明してくれた。
「簡単に言えば全身衰弱状態。本人の訴えしかなくて、今の医学の範疇には入ってこないから、医師から見れば、病気じゃなくノイローゼ扱いになってしまう。
最近、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故(86年)の研究者に聞いたら、『放射線疲れ』という言葉があるというのです。原発事故で放射線にあたった人が、くたびれてかったるいということから、その名がついたそうです。私から言わせれば、福島でこれらと同じ症状が出ても何ら不思議ではない」
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八月七日
己斐は焼けていなかったけど福島町は焼けた家や焼けない家と有った。
福島の鉄橋に板を渡して皆んなそこを渡っていた。
兵隊さんが「下を見てはいけないよ。服を持って…」と云はれ三人で兵隊さんの服をしっかり持ち恐る恐る渡った。
市内は建物疎開に動員された人達が作業を始めた直後…午前八時十五分 爆弾が落ち業火に追われて川に飛び込みそのまヽ水死した死体が橋の下は山となって漂い赤や青や緑や紫色に三倍も四倍も脹れ脹れて皆んな皆んなカッと目を開き本当に恐ろしかった。
やっと渡り「元気を出して」と励まされサヨナラと別れ心細く足の竦む思いで一歩一歩進んだ。
はだしのゲンは終わらない 幻の続編からのメッセージ
http://dai.ly/xw979y
広島の原爆資料館に、14枚の漫画の原画が寄贈された。それは、世界に原爆を伝えた「はだしのゲン」の続編だった。この続編は作者の中沢啓治さんが「訴えなければならないテーマがある」と語ってきたものだった。しかし中沢さんは、描きかけにも関わらず、資料館に寄贈した。続編はなぜ発表されなかったのか。そして、そこに込められるはずだったメッセージとは。中沢啓治さんが訴えようとした「ゲンの真実」に迫る。
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もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においては、この原子爆弾使用の決定が、第1次世界大戦中においけるドイツ皇帝の指令及び第2次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものである。(「共同研究 パール判決書」東京裁判刊行会 頁674)
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真の平和 訴え続けて
中沢ミサヨ
私自身も「はだしのゲン」で原爆を知った一人です。広島県呉市出身ですが、当時は学校で平和教育はなく、広島平和記念資料館には行きましたが「死体からウジがわいた」などは展示にありません。主人が描く、死体の上をはうウジ虫や、皮膚が垂れ下がった被爆者の絵に「原爆ってこんなにひどいことなのか」とショックを受けました。
「ゲン」は「踏まれても踏まれてもたくましく芽を出す麦のようになれ」がテーマです。強く生きろよ、くじけるな、と。その中で戦争と原爆の悲惨さを描いた作品です。差別を恐れて声を上げられず、家の奥でひっそりと暮らしている被爆者の情念を代弁しようと、主人は「ゲン」の登場人物一人一人の気持ちになって、悔しさや悲しみを訴えているのです。「子どもたちが気軽に手に取って読んでくれて、何か一つでも得てもらえたら漫画家冥利(みょうり)に尽きる」と言っていました。漫画だけでなく、映画を作り、講演にも行き、平和の大切さを訴え続けました。真の平和を思うからです。
八年前、広島の川をテーマに被爆者の思いを詩に書き残しました。「広島 愛の川」です。二人でよく平和記念公園まで散歩に行きましたが、その途中、主人は平和大橋の中央で立ち止まって「川は多くの被爆者の悲しみなんだ」と川面をじっと見つめていました。やけどが熱くて水を求めて川に飛び込み、命を落とした被爆者の姿が目に焼き付いていたのでしょう。
それでもこの詩は柔らかな優しい言葉が並び、「ゲン」の激しさはありません。「男女が恋をして結婚をして、子どもが生まれて、その子に平和を語り継ぐ物語なんだ」と話していました。主人が年を重ねたこともありますが、加藤登紀子さんの歌う詩を聴きながら、主人は優しい人だったのだ、とあらためて思っています。
(中沢啓治さんの妻)
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人類にとって最高の宝は”平和”です!d(゚ー゚*)ネッ!
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