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トンデモ”愛国心”

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今日(5月14日)は23年前に信楽高原鐵道列車衝突事故が発生して、その当日に横綱千代の富士関が引退を表明した激動の日でした。
ちなみに、1971年、横綱大鵬関が引退した日でもあります。
さらに、2007年、第1次安倍内閣の時に国民投票法が成立した日です(。-_-。)

あ!そうそう、ジョージ・ルーカスの誕生日でもあるんですね~(^^♪

特別映像「ジョージ・ルーカスとの対話」Part.1

http://youtu.be/1dH2QC7Gpmw

特別映像「ジョージ・ルーカスとの対話」Part.2

http://youtu.be/xvEY3KPIzWU

特別映像「ジョージ・ルーカスとの対話」Part.3

http://youtu.be/HfzoQNj58Pc



信楽高原鐵道列車衝突事故を中心に振り返ってみたいと思います。


遺族「苦労絶えなかった」=信楽事故23年で追悼-滋賀(時事通信)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201405/2014051400037
信楽高原鐵道列車衝突事故09
42人が死亡した信楽鉄道事故から23年を迎えた追悼法要で、犠牲者の冥福を祈る遺族ら=14日午前、滋賀県甲賀市

 滋賀県信楽町(現甲賀市)で1991年5月、信楽高原鉄道(SKR)とJR西日本の列車が正面衝突し、42人が死亡した事故から23年を迎えた14日、事故現場に建てられた慰霊碑の前で追悼法要が行われた。遺族やSKRの正木仙治郎社長、JR西の真鍋精志社長ら約100人が参列した。
 遺族らは黙とうや献花の後、慰霊碑横に設置された「安全の鐘」を鳴らし、犠牲者の冥福を祈った。妻を亡くし、事故直後から遺族による原因調査を続けた兵庫県宝塚市の吉崎俊三さん(80)は「事故当時からいろいろな苦労が絶えなかった」と取り組みを振り返った。今年で遺族の世話人代表を退くという。
 正木社長は「23年が経過したが、あの大事故は多くの人たちの記憶から消えない。安全確保を徹底し、地域に貢献できるよう、さらに努力を重ねていく」とあいさつ。真鍋社長も「地域から信頼される鉄道を築き上げる」と誓った。(2014/05/14-12:59)


信楽高原鐵道列車衝突事故08

信楽高原鐵道列車衝突事故07

赤信号で走った列車
<リポート・信楽高原鉄道事故の真相>
(京都新聞)1997.5.14
http://web.archive.org/web/19970711235345/http://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/shigaraki/shigaraki_index.html
より

赤信号で走った列車<1> 出発
http://web.archive.org/web/19970711053956/http://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/shigaraki/shigaraki1.html
 信楽高原鉄道で起きた大惨事から十四日で、まる六年の時を刻む。死者四十二人。原因や責任を問う刑事、民事裁判は審理のヤマ場を迎えようとしている。事故当時うかがい知れなかった関係者の行動と、心の揺れが、徐々にではあるが裁判を通して明らかになってきた。なぜ列車は、単線を赤信号で発車したのか。関係者の供述や法廷証言をもとに、あの時、人間がどのように判断し、どのように行動したのかを、改めて検証してみた。
(社会部 鈴木哲法)

「青に変わらない」 制御盤も異常 安全確認せず

 一九九一年五月十四日。その日は、朝から抜けるような五月晴れだった。

 信楽高原鉄道の列車運行を担当する里西孝三主任は午前八時十分ごろ、滋賀県甲賀郡信楽町の信楽駅に出勤した。ロッカー室で制服に着替え、いつものように駅務室で、会社から貸し与えられた懐中時計をNTTの時報に合わせた。

 春の交通安全運動の一環として、近畿運輸局の係官がこの日、安全対策などの査察に来ることになっていた。泊まり明けの職員から、係官が昼前に信楽駅に到着する下り列車で来ることを知らされた。

 午前十時十分、貴生川発の下り列車(三両)が定刻より約三分遅れて信楽駅一番ホームに到着した。満員に近い約二百五十人の乗客があった。改札口南側の臨時集札所は混雑し始めた。県立陶芸の森で開催中の世界陶芸祭のために特別に設けられていた。連休後の平日にもかかわらず陶芸祭は連日、人気を集めていた。 到着列車は、折り返し午前十時十四分貴生川行き上り列車として発車する予定だった。車庫から一両増結され計四両編成となった。里西主任は、列車を出発させるためホームの先に立っている信号機を青にしょうと、駅務室にある制御盤のテコを倒した。二、三度テコを倒したが、出発信号は青に変わらなかった。

 上り、下りの列車の進行方向がわかる制御盤の盤面には、なぜか下り列車が信楽駅方向に向かっていることを示す表示灯が点灯していた。

 下り列車はいま信楽駅に到着したばかりだ。次にJR草津線から高原鉄道に乗り入れるJR臨時列車「世界陶芸祭しがらき号」は、貴生川駅を発車する前だ。信楽駅に向かって走行する列車がない以上、点灯するはずがない。

 里西主任は、駅務室とホームの間にいた上司の中村裕昭業務課長に、異常を伝えた。中村課長は制御盤を見て、信号設備工事会社から派遣されていた八木沢守係長を呼ぶように言った。

 八木沢係長はこの時、臨時集札所で乗客の切符を集める手伝いをしていた。「きょうはアルバイトが少ないので」と頼まれ、列車を降りる客に応対していた。制御盤に下りの表示灯が点灯しているのを見た後、信号機を点検するため、電気設備のリレー室に急いだ。

 信楽町役場に年金の書類を出した後、一両目で発車を待っていた信楽町牧、無職辻キサさん(74)は、運転士が「しばらくお待ち下さい」と車内放送するのを聞いた。駅員らは列車と信号機の方を行き来し、ばたばたしていた。「三、四人の駅員さんが何か心配そうな顔をして話をしておられましたが、内容まで分かりませんでした」

 時間は刻々と過ぎた。だが、出発信号は青に変わらない。里西主任はこの時、中村業務課長から「腕章を出せ」と怒鳴られた、という。トラブルで信号機が使えない場合には、代わりの運行方法として、腕章をした人間が運転士とは別に乗り込むことになっていた。

 里西主任は駅務室の用品箱から、腕章を取り出して中村業務課長に渡した。腕章を受け取った別の職員、中村業務課長、近畿運輸局の係官を出迎えに行く奥村清一常務らが列車に乗り込んだ。

 午前十時二十五分ごろ、貴生川行きの高原鉄道の上り列車は赤信号のまま、定刻より十一分遅れて発車した。だが、発車前に、行き違い場所の小野谷信号所に職員を派遣して、対向列車の位置などの安全確認はされないままだった。

 JR臨時列車「世界陶芸祭しがらき号」は、定刻より約二分遅れの午前十時十八分、世界陶芸祭に向かう乗客ら七百十六人を乗せ、貴生川駅を発車していた。

信楽高原鐵道列車衝突事故01
衝突したJR先頭車両からロープを使って
乗客を救出する救助隊員
(1991年 5月14日、滋賀県甲賀郡信楽町黄瀬)


赤信号で走った列車<2> 青信号
http://web.archive.org/web/19970711054005/http://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/shigaraki/shigaraki2.html
 JR京都駅のホームは軽装の夫婦連れら世界陶芸祭を楽しみにする乗客であふれていた。JR臨時列車「世界陶芸祭しがらき号」(林光昭運転士)は、あっという間に乗客で埋まり、定刻より五分遅れの午前九時三十分に始発の京都駅を発車した。

 「三両目に乗ろうとしたが乗れそうになく、二両目、一両目と前に進んだ。車内は身動きが自由にできず、すし詰め状態だった」と城陽市の会社員。定員の約二・五倍の乗車率だった。

 世界陶芸祭号は、草津線の貴生川駅から信楽高原鉄道(単線)に乗り入れ、水口町の小野谷信号場で、先に待避線に入って停車している高原鉄道列車を右手に見ながら、その間に通過し、信楽駅に到着することになっていた。

 大津駅を過ぎたころ、乗客の中に気分が悪いと訴える中年の女性が二人あり、車掌室で休んでいたが、うち一人は草津駅で降りた。

 草津線などの運行管理をする亀山CTCセンター(三重県亀山市)では、陶芸祭号が遅れていることを知り、午前九時四十四分ごろ、遠隔操作で下り方向の走行を優先させる「方向優先テコ」を作動させた。

 方向優先テコを操作すれば、小野谷信号の上り出発信号を赤にし続け、上りの高原鉄道を停車させておくことができ、予定通り行き違いが可能となる。

 貴生川駅に到着した世界陶芸祭号は、停車時間などの短縮でやや遅れを回復。定刻より約二分遅れの午前十時十八分発車、信楽高原鉄道に乗り入れた。依然、超満員で七、八人の乗客がホームに残った。

信楽高原鐵道列車衝突事故02
正面衝突し、山のように盛り上がった高原鉄道(右)と
JR「世界陶芸祭しがらき号」の先頭車両
(1991年5月、信楽町黄瀬)


「いつもと違う…」 高原列車の姿 待避線になし

 午前十時二十五分ごろ、上りの高原鉄道列車が赤信号のまま発車した信楽駅では、里西孝三主任が急いで駅務室に戻り、制御盤に赤信号で発車したことを示す「誤出発ランプ」が点灯しているかどうか確かめた。

 赤信号で発車すると、線路上の検知装置が、小野谷信号所の下り出発信号を強制的に赤にする。下りの世界陶芸祭号は、小野谷信号所内で停車して正面衝突は防げるはずだった。

 里西主任は誤出発ランプの点灯を見るのは初めてだった。しかし、信楽駅の制御盤では小野谷信号所の信号機の状態は分からず、本当に作動しているか不安があったという。

 「信楽指令、感度あれば応答せよ」。発車して間もなく、駅務室の無線機に、列車に乗り込んだ中村裕昭業務課長からの声が飛び込んできた。「八木沢係長を呼んでくれ」

 世界陶芸祭号は午前十時半ころ、小野谷信号場にさしかかった。先に待避線に入って停車しているはずの高原鉄道列車の姿はなかった。

 林運転士は、高原鉄道を三十回あまり往復していた。上り列車が到着していない時もあった。その時の下り信号は赤だった。

 だが、この日は青信号だった。「いつもと違うかなと感じたが、上り列車は何かの事情で信楽駅に止まっていると思った」。青信号だったので通過した。

 沿線は新緑が鮮やかだった。信楽駅まであと五・六キロ。ゆるやかな下りから、カーブになった。時速五十四キロ前後。

 その時、高原鉄道列車が目の前に現れた。「だめだ」。林運転士は非常ブレーキをいっぱいにかけて目を閉じた。

 白色ボディーの高原鉄道列車と、肌色の世界陶芸祭号の先頭車両が、空に向かって山のように盛り上がっていた。

信楽高原鐵道列車衝突事故03

赤信号で走った列車<3> 第一報
http://web.archive.org/web/19970711054017/http://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/shigaraki/shigaraki3.html
 カーブを曲がった。その時だ。木の生い茂った土手から、顔から血を流した男性が国道307号に転がり落ちてきた。

 滋賀県坂田郡近江町宇賀野、会社員北村進さん(53)の乗用車は、妻や谷村秀美さん(42)らを乗せ、ちょうど国道307号を走っていた。世界陶芸祭が開かれている滋賀県立陶芸の森は、もう目の前だった。

 「列車が転覆している!」。北村さんは民家に駆け込んだ。

 五月十四日午前十時三十七分。滋賀県警本部通信指令室(大津市)に、北村さんから一一〇番通報が入った。これが事故の第一報だった。

 北村さんの車を降りた谷村さんは、男性の頭の出血をタオルでおさえ、ネクタイやベルトをゆるめた。白カッターシャツに緑の腕章が目に入った。男性は「私はいいので、中(列車)をお願いします」と言った。

 高原鉄道列車の臨時車掌に駆り出されていた信楽高原鉄道旅行センターの田原稲生さん(32)だった。

 この時の様子を来日中の日系ブラジル三世で新聞記者の草野一海さんが撮影していた。「写真の右、確かに私です。左側の女性は看護婦さんと言っておられたように思いますが…」。谷村さんが、写真と田原さんの名前を知ったのは、今年の三月のことだ。

 甲賀郡消防本部の救助隊員十二人は、現場から九キロ離れた野洲川河川敷で訓練に励んでいた。「信楽で列車事故」。無線機のがなり声にせかされ、オレンジ色の作業服のまま出動した。

 信楽駅を高原鉄道列車が発車する直前に、列車が行き違う小野谷信号場に行くよう指示された高原鉄道の神山昇主任は、倉田富司施設主任と二人で白色軽トラックで信号場を目指していた。JR世界陶芸祭号と行き違いさせるポイントを切り替えるカギを手にしていた。

信楽高原鐵道列車衝突事故04
事故直後、国道で信楽高原鉄道の社員を介護する谷村秀美さんら
(1991年5月14日、草野一海さん撮影)


「脱線」から衝突!  難航する救助 時間との闘い

 国道307号に出て間もなく、右手に列車の前部が盛り上がった高原鉄道の車両が目に飛び込んだ。

 「列車が脱線している」。倉田主任は軽トラックの無線で信楽駅へ叫ぶように通報した。午前十時四十分ごろだった。線路に近づくと、車体の前が空に向け四五度の角度で折れ曲がったJR世界陶芸祭号があった。「衝突しとる! けが人もいる」。二報を入れた。

 昼前に到着予定の近畿運輸局の係官に説明するため、信楽駅事務室の自席で、踏切など安全対策案を考えていた山本長生施設課長は「頭の中が真っ白になった」。

 直後、事故の列車内は不思議なほど静かだった。

 甲賀郡消防本部の上村光男さん(43)と堂山吉広さん(40)は、三階建てほどの高さに傾斜したJRの先頭車両の前部に入った。約五十人の乗客が車両の底に折り重なっていた。

 乗客の手足が座席にはさまり、人の重みで引っぱり出せない。「早く助けて」。小さな声が、むこう側で何度も消えていった。「みなさん、体力も気力もすでになかったのだと思います」

 車両は鉄板が厚く、切断は難しい。国道側と山側の窓にロープを張り、上から順に救出するしかなかった。救助作業は難航、時間との闘いだった。白いヘルメットがまたたく間に血で染まった。

 高原鉄道の運転席から、淵本繁運転士=当時(51)=の遺体を収容し、救助作業を終えたのは、日付が変わった十五日午前零時を過ぎていた。

 死者はJR三十人、高原鉄道十二人。重軽傷数は合わせて六百十四人。大惨事だった。

信楽高原鐵道列車衝突事故05
誤出発装置が正常に作動すれば、小野谷信号場でJR列車(左)と
高原鉄道列車は、行き違いできるはずだった
(1991年10月、滋賀県警の走行テスト)


【1/3】1991年5月14日 報道特番 信楽高原鐡道事故

http://youtu.be/TK6ZJn0D0rU

【2/3】1991年5月14日 報道特番 信楽高原鐡道事故

http://youtu.be/NBUeXiGVe1Y

【3/3】1991年5月14日 報道特番 信楽高原鐡道事故

http://youtu.be/QLM2Zk4envI

赤信号で走った列車<8> 過信
http://web.archive.org/web/19970711054120/http://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/shigaraki/shigaraki8.html
 見落とされた「予兆」ダイヤ順守に焦りと重圧?

 世界陶芸祭に合わせ、新しく導入された信号システムではあったが、信楽高原鉄道、JR双方の打ち合わせや連絡が十分でなかったことが、事故の遠因として浮き彫りになった。

 信楽高原鉄道列車は、単線の路線を赤信号で発車するという、やってはならない危険性を、なぜ、いとも簡単に踏み超えたのだろうか。

 九一年五月十四日と同じように赤信号で発車した「五月三日」は、線路上の誤出発検知装置が正常に作動し、惨事には至らなかった。本来、検知装置は列車が万が一、間違って赤信号で発車した場合、安全なように設置されたものだ。

 高原鉄道の運転主任は「誤出発装置が働けば、対向(世界陶芸祭号)の信号が赤になるということが頭の中にありました」と述べている。システムへの過信、油断があったのだろうか。

 「定時運転に一番神経を使います。遅れると、行き違い列車や接続列車も被害を被る。列車の遅れでお客さんの商談が失敗したと聞いたこともあります」。高原鉄道の運転士の一人はこう話す。

 鉄道は、交通機関の中でも特にダイヤ順守を求められる。定時運行が乗客の信頼の礎であることは、昔も今も変わらない。

 世界陶芸祭の開催に伴い滋賀県などから輸送力アップを要請された高原鉄道にとって、連日押し寄せる乗客への対応は初めての経験でもあった。鉄道利用者は、関係者の予想を大幅に上回っていた。

 事故当日、高原鉄道列車は、世界陶芸祭の乗客を乗せたJR列車と小野谷信号場で行き違うことになっていた。だが、高原鉄道列車は予定より出発時間が約十一分遅れていた。ダイヤ順守への焦り、重圧がなかったとはいえないだろう。

 生存者の供述や証言では、高原鉄道の列車に乗り込み亡くなった中村業務課長=当時(54)=が、「五月三日」「五月十四日」の二度とも発車を「指示」したとされる。

 五月三日に駅長役を務めた運転主任は「怒鳴られ、従わざるをえない状況に追い込まれました。それ以上言えなかった」。裁判の中でこう話している。

 信楽高原鉄道の服務規程は、鉄道係員は上長(上司)の指揮命令や指示が法規に違反し、列車の運行などに危険を及ぼす恐れがあるときは、上長にその旨を述べて指揮を受けると定めている。

 二度目の赤信号で発車し惨事となった「五月十四日」の里西孝三運転主任も、安全確認の必要を感じながら、発車を止めることができなかったと述べている。

 信楽高原鉄道は、赤字の第三セクターで、常勤職員はわずか二十人だった。旧国鉄や近江鉄道などを退職し、第二の人生を選択した人たちが多く、男性職員の平均年齢は五十二歳だった。

 中村業務課長は運転畑を歩み、旧国鉄で助役を務めた。衝突したJR世界陶芸祭号の林光昭運転士のかつての上司でもあった。

 JRとどんな交渉の経緯があったのか、社内でのやりとりはどうだったのか。亡くなった中村業務課長は、生存者の一方的な話に反論することも、無念さを語ることもできない。「責任感が強い人だった」と職員は言う。

 惨事はさまざまな出来事が積み重なって起きた。事故に至るまでには危険を知らせる予兆もあった。それを知り、それを生かすのも人間だ。

 まる六年を迎えた十四日、信楽町で法要がしめやかに営まれた。犠牲者の慰霊碑の下の方に信楽高原鉄道職員の名も刻まれている。あの日は抜けるような青空だったが、五月雨(さみだれ)が石碑をぬらしていた。

信楽高原鐵道列車衝突事故06
安全の願いを込めて走る信楽高原鉄道の列車
(信楽駅)


(おわり)


体力の限界

http://youtu.be/2Sfe56a9nLE
千代の富士貢 - Wikipedia




マル激トーク・オン・ディマンド 第308回(2007年02月23日)
国民投票法案の中身を知っていますか
ゲスト:井口秀作氏(大東文化大学法科大学院助教授)
http://www.videonews.com/on-demand/301310/000998.php
 安倍政権は憲法改正の手続き上不可欠となる国民投票の方法を定める、いわゆる「国民投票法案」を今国会で成立させる意向を明確に打ち出している。与党側はこの法案を、憲法に定められた手続きを規定するだけの「手続き法」と位置づけ、強行採決も辞さない構えを見せている。
 しかし、憲法学者で各国の国民投票制度に詳しい井口秀作氏は、法案にはいくつかの重大な問題点があり、これを単なる「手続法」と受け止めることには、慎重さが求められると指摘する。
 まず、国民投票の方法について、法案では「関連する事項ごとの投票」となっているが、これでは国民は複雑に意見が絡み合う問題でも二者択一の選択を迫られてしまう可能性が高いと言う。例えば、憲法9条を改正する場合に、自衛権のみを明文化する条文と、集団的自衛権の行使を認める条文が提示された場合、「関連する事項ごとの投票」では一括して賛否を問われることになる可能性が高いため、自衛権には賛成だが集団的自衛権には反対の人の意見は反映されないことになる。与党側は、条文ごとの投票では話が複雑になりすぎて国民がついてこれないと主張するが、だとすれば、そもそも国民投票を行う意味は何なのかという問題も出てきそうだ。
 また、現在の与党案では、改憲案が国会から発議された後、国民投票の前に国民に対する広報は国会内に設置された広報協議会が行うことになっているが、この協議会のメンバーは国会の議席配分に応じて構成される。国民投票では本来、賛成、反対の意見が平等に国民に提示される必要があるが、現行の与党案では広報段階で国会内の勢力が反映されてしまうため、国民投票が中立的な立場から行われなくなる危険性があると井口氏は指摘する。
 同時に、現行法案では各政党の改憲案に関する広報費用を政府が助成することになっているが、これではメディアが政府から多額の広告料を受け取る立場に置かれることになるため、中立的なメディア報道が担保されるかどうかについても懸念が残る。
 他にも、投票が有効になるための最低投票率が設定されていない点や、「国民投票法案」と呼んだり「手続法」と呼んでおきながら、実際は憲法審査会を設置することを定める国会法の改正をも含む「憲法改正のための法案パッケージ」的な色彩が濃い法改正である点についても、井口氏は注意を喚起する。そもそもこの法案を「国民投票法案」と呼ぶことに疑いを持つ必要があるというのが井口氏の主張だ。与党が今国会での成立の意志を明確にしているにもかかわらず、メディアが法案の問題点を積極的に指摘しようとしない点も気になる。
 5月3日の憲法記念日までの法案成立が取りざたされる中、憲法調査特別委員会の中山太郎委員長(自民党)と同委員会の委員を務める辻元清美議員(社民党)の主張に耳を傾けながら、「いわゆる国民投票法案」とその背後にある推進派の真意について井口氏とともに考えた。

本当は恐ろしい国民投票法01
本当は恐ろしい国民投票法02



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鼻血描写 広がる議論 東京新聞20140513



戦時中のトンデモ”愛国心”
出版物から探る「当時の価値観」

(しんぶん赤旗日曜版 2014年2月9日)

編集者 早川タダノリさんに聞く

 ”ぜいたくは敵だ””進め一億 火の玉だ”-勇ましい標語が戦争熱をあおった日本が70年前にありました。”国のために個人は犠牲”という社会をつくるテコにされたのが「愛国心」。そんな”愛国ワールド”を、当時の出版物などのコレクションで見せてくれる人がいます。都内の編集プロダクションに勤務する早川タダノリさん(39)。集めたものの一部を本にまとめました。見えてきたことを聞きました。
神田晴雄記者

 学生時代、友人の女子学生が「従軍慰安婦はうそだ」「農民や労働者を中心にした歴史はおかしい」と、政治学の教授にひどくいじめられたと訴えてきました。「なんだそれは」と憤ったのが戦前・戦中のことに関心を持ったきっかけです。
 「従軍慰安婦」を合理化する政治家が「当時の価値観では良かった」なんて言い訳している。当時の価値観って何だ? どうやったら「当時の価値観」なるものが分かるんだ?
 と考え、古書店や古物商に通って、当時の大衆的出版物を山のように読み始めました。自分自身が、当時の国民意識を涵養(かんよう)したイデオロギーに身をゆだねて脳みそを戦前にしてみようと思ったんです。
 調べてみたらこれがひどい。集めた出版物などの一部は、『「愛国」の技法 神国日本の愛のかたち』(青弓社)にまとめました。
 「愛国心」を国民意識に刷り込むためになにがおこなわれたか。その一端を紹介しましょう。

主婦之友付録「支那事変皇軍大勝双六」上がりのマス
雑誌「主婦之友」付録「支那事変皇軍大勝双六」の上がりのマス。「日の丸」イケメン少年を挟んで、右の少女は「冀東(きとう)防共自治政府」、左の少女は「満州国」の旗をそれぞれ持っている。日本が従属せしめたところは「女性」として象徴されていて、性的なメッセージも。「主婦之友」(主婦之友社)1939年(昭和14)年1月号。

富国徴兵
「日の丸」=国のために生活を犠牲にすることを訴えた報告。「富国徴兵」とは富国徴兵保険相互組合のこと。「家の光」(産業組合中央会)1943(昭和18)年6月号

政府広報誌「写真週報」軍人稚児隊19380727
軍人稚児隊 千葉県流山町に誕生しました。6,7歳の少年勇士11名からなる部隊で、松戸神社に参拝、戦没者英霊追悼ならびに出征将兵の武運長久を祈願しました」とういう記事が。政府広報誌「写真週報」(情報局編)第24号。1938(昭和13)年7月27日

安倍政権の「愛国心」

  「愛国心」を訴えて、〃戦争する国づくり〃を進めようと考えているのが安倍政権です。
 昨年12月17日に閣議決定された「国家安全保障戦略」には、こんな論理が展開されています。
 -「国家安全保障」のためには、「外交力及び防衛力」の強化に加え、これらの能力が効果的に発揮されることを支える「国内基盤の整備が不可欠だ」
 -それには国民が「国家安全保障を身近な問題として捉え、その重要性や複雑性を深く認識することが不可欠だ」。そのために「我が国と郷土を愛する心を養う」

170億へ郵便貯金で総突撃
『写真週報』288号(昭和18年9月8日)







神国日本のトンデモ決戦生活
http://www.godo-shuppan.co.jp/products/detail.php?product_id=359



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