全電源喪失の記憶 第一章・まとめその1 より
油と潮のにおい
3月11日夜、放射線の測定や被ばく管理をする保安班の住吉康一(43)は福島第1原発4号機の原子炉建屋前を同僚と歩いていた。4号機タービン建屋地下に流れ込んだ海水の放射性物質濃度の計測-。それが住吉に下った命令だ。建屋内では地震後、調査に出た運転員2人が行方不明になっていた。
海抜10メートルの建屋前は道とは呼ぺない状況だった、泥が堆積していて、1歩進むごとに作業靴がずぶずぶと埋まった。横転したトレーラーや車、がれきが散乱し、クラクションが鳴りっばなしになっている車両もあった。それ以外に音はない。油と潮のにおいがした。
照明は一つもついていない。月明かりと、電池切れ寸前の懐中電灯だけが頼りだ。周辺にあるほとんどのマンホールのふたが津波で外れていた。穴の黒と、ふたの黒、それに水たまりの黒。見分けがつかない。
「落ちたら死ぬな…」
足が恐怖ですくんだ。「あれはマンホールだ。気を付けろ」。同僚と肩をくっつけるように慎重に歩を進めた。
庄吉はようやくたどり着いた4号機タービン建屋南側の大物搬入口でうなった。分厚い鋼鉄製の扉が「くの字」に曲がって建屋内にめり込み、中にはトラックが突っ込んでいた。
頻繁に続く余震
搬入口付近のがれきによじ登って、建屋内に入ると、目の前に地下へと通じる階段があった。
建屋内は真っ暗だ。地下はどうなっているのか。階段を数段下りると、懐中電灯の弱いオレンジ色の明かりに何かが反射した。海水だった。
「これ以上、行けねぇ!」。住吉は後ろにいた同僚に叫んだ。
「この時、津波で地下が水没したんだと初めて気づきました。こんなことがあるのか、と。そうしたら海鳴りが気になりだしました。また津波が来たら命はないだろうな、と思いました」
免震重要棟から直線で約600メートルしか離れていない4号機を往復するのに2時間を要した。
事故当初の第1原発では、こうして多くの作業員が暗い現場に何度も出て行った。頻繁に余震が続き、いつまた津波が来るか分からない。建屋周辺に行くことが命の危険や恐怖と隣り台わせだったことを、このころの政府やマスコミはもちろん、東京電力本店すらも十分に理解していなかった。
住吉の計測で4号機地下の水は汚染されていないことが判明した。報告を受けた東電本店は行方不明だった運転員2人の捜索のためダイバーを派遣したが、14日の3号機建屋の水素爆発で捜索は見送られた。
24歳と21歳の運転員は30日、タービン建屋地下で死亡してしるのが確認された。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 前田有貴子)
時間かかる手作業
福島第1原発は1~5号機で全電源を喪失した。運転中だったI~3号機では、原子炉の燃料冷却ができているか分からない状況に陥っていた。「FP(消火)系 で注水できるラインを考えてくれ」3月11日午後5時12分、所長の吉田昌郎(56)は発電班に、消火設備から原子炉に水を入れる代替注水のラインをつくれと指示した。
1、2号機中央制御室から午後6時半すぎ、運転員たちが暗闇の1号機原子炉建屋内に向かった。代替注水ラインを構成するための弁は本来、制御室から遠隔操作で開閉できる。しかし今は電源がない。
弁には手動でも開けられるよう円形ハンドルが付いている。原子炉に近いほどハンドルは大きくなり、直径70センチのものもある。これを数人がかりで回す。必要な弁を開け終えるのに2時間半近くかかった。次はどうやって水を入れるか、だ。
吉田は自衛消防隊隊長小川広幸(50)を呼び「消火栓を使って注水できないか」と相談した。だが消火栓はほとんど津波でやられていた。ならば、と吉田は消防車を使った代替注水を思い付く。
「そういう発想は全然、ありませんでしたね」と小川は話す。消防車による注水など緊急時のマニュアルにはなかった。
夜通しがれき撤去
消防隊は本来、火災の消火を目的に各職場から選出された30人程度の混成部隊で、小川はもともと1~4号機設備の点検修理を担う第1保全部所属だ。
消防車のホースを建屋に設置された送水口につなげば原子炉に注水できるはずだ。だが送水口がなかなか見つからない。
「震災前に消火栓の工事をしていたので、送水口の場所が変わっていたんです」
送水口は津波で流されたトラックやがれきが折り重なった1号機北側の大物搬入口近くにあった。見つけたのは消火栓工事をした建築グループ所属の消防隊員だった。
「本当にひどいありさまでした。協力企業の方に重機で夜通しがれきの撤去をしてもらって、ようやく消防車が通れる道幅を確保したんです」
第1原発には3台の消防車が配備されていたが、1台は津波で流され、5、6号機付近にあった1台は構内道路が陥没して移動不可能だった。使える状態なのは高台にあった1台だけだ。
敷地内の放射線量が上昇する中、消防車の扱いに慣れた協力企業社員とともに4、5人の隊員が最初の注水に向かった。
「外はすごい放射線量だったんです。よく勇気を振り絞って行ってもらったと思います。みんな汚染されて帰ってきました」
消防車による代替注水が始まったのは全電源喪失から約12時間後の12日午前4時だった。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 前田有貴子)
基本は「同じ物を」
福島第1原発1、2号機の中央制御室では原子炉水位と圧力、格納容器圧力が確認できなくなっていた。原子炉の停止後も燃料は熱を出し続けるため、冷却を続けなければ炉心溶融(メルトダウン)を招く。原子炉水位は一刻も早く知らなければならない情報だった。
3月11日夜、免震重要棟の緊急時対策本部では復旧班のうち、機器保全を担当する計測制御グループが計器の復旧方法を思案していた。
機器保全の基本的な考え方は「同じ物を用意する」というものだ。例えば建屋地下のバッテリー室が浸水して計器が見られなければ、バッテリー室と同じ物をどうやって用意するか、という発想だ。だが今は時間の余裕がない。計測制御のメンバーはそれで悩んでいた。
「車のバッテリーならいけるだろう」
突然、声を上げたのはベテラン菅家藤二(53)だった。周囲にいた同僚たちがキョトンとした顔で菅家を見た。一瞬の間を置いて同僚たちが賛同した。「その手があったか」「いけるぞ」
原子炉の水位計を生かすのに必要な電圧は24ボルトだから、12ボルトのバッテリーが2個あればいい。制御室内で水位計につながる端子に直接電気を送れば読み取れるはずだ。
正しい数値示さず
「まずは1、2号機を救え。バッテリーを集めてくれ」
構内循環バスからバッテリーが外されI、2号機制御室に運ばれた。問題は正しい端子を探すことができるかどうか…。
制御室には端子の配列図が1万枚以上あり、計測制御のメンバーは必死に目当ての端子を探した。直径1センチほどの端子が並ぶ端子盤は制御室奥の狭い通路にあり、暗闇の中で懐中電灯を頼りに探さなければならない。
1号機の水位は午後9時19分に、2号機は9時50分に確認できた。1号機では「TAF+200m」で燃料頭頂部の20センチ上、2号機は3メートル40センチ上に水があることを示していた。しかし後の解析ではこの時点で1号機の炉心溶融が始まっていた。水位計は正しい値を示していなかったのだ。
このころ、妻の安否を確認しに行っていた計測制御グループの横山英治(37)が対策本部に到着、菅家に声をかけた。 一
「戻ってきました」
「ヨコ、やっときたか。ちょっと大変なことになこになってるぞ」
3、4号機でもきっと必要になるはずだ。横山は早速、バッテリー集めに奔走した。
1号機格納容器圧力の確認には、制御室の仮設照明に使われていた小型発電機が使われた。全電源喪失から約8時間後の午後11時50分、信じがたい数値が判明した。
600キロパスカル-。格納容器の使用限度圧力528キロパスカルを超えていた。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 国分伸矢)
炉心溶融を想像
「どういう状況なんだ」「原発はどうなるんだ」。官邸5階の執務室で首相の菅直人(64)はいらついていた。「君は原子力の専門家なのか」。声を荒らげる菅に原子力安全・保安院院長の寺坂信昭(57)は「私は東大の経済学部出身です。専門家ではありません」と返すのがやっとだった。
官邸では東日本大震災の被災者救援に向け、首相を本部長とする緊急災害対策本部が史上初めて設置された。そこに東京電力福島第1原発で原子炉が冷却不能との報告が飛び込んできた。
「私は背筋が寒くなる思いがしたわけ。で、とにかく状況を聞きたいと思ったわけ。だけど事故の時に原子炉のことが分かってない人が説明に来たって、聞いている方は分かるわけがない」
菅は東工大理学部で応用物理学を学んだ。冷却機能を失えば、炉心溶融に至ると容易に想像できたという。一原発は俺が見なきゃいかん」。他の閣僚任せにはできないと気を高ぶらせていた。
予測返答できず
同じころ、原子力安全委員会委員長の班目春樹(62)は、官邸4階の大会議室前の広い廊下で延々と待ち続けていた。
原発で重大事故があれば、自治体や住民に異常を知らせる原子力緊急事態宣言を首相が即座に発令する。専門家として政府に助言する役割を担う班目は宣言を出す会合に立ち会う決まりだが、それが一向に始まらない。
「待たされた私は、官邸にはしかるべき情報が入っていて対処できているんだろうと勝手に思い込んでいたんです
だが班目は楽観的すぎた。時間を追うごとに事態は悪化していく。東電から派遣された原子力部門の元最高責任者武黒一郎(64)とともに首相執務室に呼び出された。
「どうなるのか予測を出せ」と迫る菅に、2人は返答に窮した。東電本店からの情報は断片的で、保安院からは原発の図面すら届かない。
班目らはこの夜、閣僚らが集まった官邸地下中2階の小部屋と5階の首相執務室を行き来しながら、記憶を頼りに菅に助言を続けたが、対応は終始後手に回る。
「東電が送れって言うから、一生懸命電源車を送ったわけ。着いて『ああ良かった』と思ったらプラグが合わない、配電盤もやられてしるという 何をやっているのかねと思ったよ」。菅は当時のいら立ちを振り返る。
菅はこうして専門家と呼ばれる人々への不信感を募らせていった。これが後に「官邸の過剰介入」と批判される行動に彼を走らせることになる。
情報もないまま、手探りで事故対応や住民避難の指揮を執る。闇をさまよう、計器の見えない飛行機-。全電源を喪失した第1原発だけでなく、官邸もまた別の暗闇を飛んでいた。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 太田久史)
「壊していいの?」
日立GEニュークリアー・エナジー福島第1原発所長の河合秀郎(56)の目の前に、高さが3メートル近くある鋼鉄製のゲートがそびえ立っていた。3月11日午後7時、原子炉建屋西側の7番ゲート。向こうに2、3号機の原子炉建屋が月明かりで浮かび上かっていた。
「本当に壊しちゃっていいの?」
「お願いします」
河合は7番ゲートを開放して車両が通れるようにするため、ゲートの南京錠を破壊していいか、と同行した東京電力の担当者に尋ねたのだ。
原子炉建屋は核物質の盗難や破壊行為を防ぐため高いフェンスで囲まれ、無数のセンサーやカメラで防護されている。だが今は、電源車を建屋付近に入れるためフェンスに設けられたゲートを開けなければならない。
「よし、やれっ」
河合の合図で、日立プラントテクノロジーの村田哲治(51)が大型ハンマーを振り下ろした。1メートル近い柄に約4・5キロの金属の塊が付いており、建物の解体作業などで使うハンマーだ。
ガチャーンー。大きな音を立てて南京錠が壊れた。
200メートル以上必要
電源車を2号機の配電盤につなぐための高圧ケーブルは、河合たちが既に用意していた。第1原発では4号機が定期点検中で、点検を請け負った日立は原発敷地外の倉庫に大量の高圧ケーブルを保管していたのだ。
だが高圧ケーブルは銅線を3本束ねたもので、重さは1メートルにつき6キロ。電源車と配電盤を接続するためには200メートル以上必要だった。通常はラフタークレーンという専用重機を使うが、敷地内にはない。人力で敷設するしかなかった。
ケーブル敷設をめぐっては東電本店と免震重要棟の復旧班とで、こんなやりとりもあった。
「ラフターは当然、準備しているんだろうな」
「えっ?ありません」
「じゃあ、おまえら用意しろよ」
用意しろと言われても、ないものはない。それほど東電本店と現場とは置かれた状況や意識がかけ離れていた。
河合たちが8の字に巻いたケーブルをトラックの荷台に積み、2号機タービン建屋に着いた時には日付が12日になっていた。人力での敷設に向け東電復旧班と日立の計約30人が集まっていた。
いよいよ電源復旧に向けた作業が始まる。皆がそう思った時、足元が揺れた。余震だ。10分おきぐらいに震度3~4が頻発していた。津波を警戒するため、何度も避難した。周囲の放射線量が上昇し、全員が免震棟や企業の事務所にいったん戻って全面マスクを着用することにもなった。本格的に敷設作業を始めることができたのは夜が明けた12日午前6時ごろだった。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 高橋秀樹)
経験踏まえ徒歩で
福島第1原発1、2号機中央制御室の当直長の1人、遠藤英由(51)が原発の正面ゲート前に到着したのは3月11日午後9時ごろだった。制御室に応援で入ろうと福島県富岡町の自宅から約13キロ歩いてきた遠藤の脇を、1台の車両がすり抜けていった。
「電源車が通ります。ゲートを開けてください」
「オリープドラプ」と呼ばれる濃い緑色に塗られた陸上自衛隊の電源車が拡声器でゲート内の警備員に指示していた。
ゲートの照明は消えている。そこに自衛隊の電源車…。第1原発で何か起きているのか瞬時に理解した。全ての電源がなくなっているのだ、と。
当直E班を預かる遠藤は11日午後9時からの当直勤務を前に自宅で仮眠中、地震にあった。2007年の中越沖地震の際には柏崎刈羽原発(新潟県)で勤務していた。経験から周辺道路が寸断されたり、渋滞が起きたりして車が役に立たないだろうと考え、歩いて第1原発まで来たのだ。
妻には「しばらく帰れない。とにかく風呂とか鍋に水をためておくように」と話して家を出た。町の防災無線で大津波警報が出たことは知っていたが、携帯ラジオの電池が切れていて原発の状況は分からなかった。
船底見せる観測船
「どちらへ?」。ゲートの警備員に呼び止められた。
「今から現場に行く」
早く制御室に行かなければ-。遠藤はゲートをくぐると構内道路を北へ約400メートル歩き、交差点を右に折れて「大熊通り」と呼ばれる長い坂を下っていった。
「なんだ、これは…」
1号機タービン建屋の北側道路を高さ約9・2メートルの重油タンクかぶさいでいる。手前には港湾観測船が赤い船底を見せて打ち上がっいた。
遠藤はタンク脇のわずかな隙間を通って海側に出た後、1、2号機サービス建屋から2階の制御室に入った。
制御室には既に、他の班の当直長たちが応援に駆けつけていた。状況を尋ねると「何にもないんだ。電源も何も。何も見えねえんだよ」という答えが返ってきた。
午後10時前に1号機原子炉建屋に入った運転員の報告では、建屋内の放射線量が上昇していた。
「スクラムから時間がたっていて、まだ水を入れられていない。『ああ、これはもう炉心が駄目になっているだろうね』と話していました」
午後11時、放射線管理担当者が1号機原子炉建屋入り口の二重扉前で最大毎時1・2ミリシーベルトの放射線量を確認した。
二重扉の向こうの原子炉建屋内は既にかなりの高線量となっているはずだ。連絡を受けた所長の吉田昌郎(56)は午後11時5分、1号機原子炉建屋の入域禁止を命じた。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 高橋秀樹)
蒸気の放出を想定
3月12日未明、福島第1原発1、2号機中央制御室では応援に駆けつけた遠藤英由(51)ら当直長が集まっていた。1、2号機格納容器から蒸気を大気放出するベントを想定して、机に図面を広げ懐中電灯で照らしながら手順を確認していた。
本来、ベントは制御室から操作できる。だが今は電源がない。ベントをするには原子炉建屋に入り、弁についたハンドルを手で回さなければならない。建屋は放射線量が上昇し11日深夜から入域禁止になっていた。
被ばく量を抑えるため、どのルートで弁にたどり着き、どの程度の時間で作業を終えて戻るかも検討した。1号機の場合、開けなければならない弁は2力所。2号機はまだ線量が低く、作業は比較的しやすいはずだ。
「その時点ではもうベントしかないと思っていました。でも誰も口に出しませんでしたね」
遠藤たちは無言で互いの顔を見た。全員の目が「俺たちが行くしかないだろう」と語っていた。原子力安全・保安院からは「2号機のベンドを優先せよ」との指示がきていた。
「2号機のRCIC(冷却装置)はどうなってる」
「回ってるはずだ」
「でも確認してないJ
RCICは原子炉から出る蒸気でポンプを回し原子炉内に冷却水を送り込む装置で、バッテリーで駆動する。作業管理グループの大野光幸(51)が全電源喪失の直前に起動させたはずだ。もしRCICで燃料冷却ができているなら、当面は1号機の対応に集中できる。
記者発表中に変更
RCIC室は原子炉建屋地下にある。「行くしかないね」。そう声を掛け合った遠藤とA班当直長が行くことになった。制御室を出発したのは12日午前2時だった。
全面マスクを装着し、ポリ塩化ビニール製のかっぱを着た。懐中電灯を手に原子炉建屋に入るための二重扉を開けると、蒸気が立ち込めていた。
真っ暗で何の音もしない。ものすごく蒸し暑い。建屋に入った海水が熱い配管に触れて蒸発したのだと遠藤は考えた。
地下は20センチ程度浸水していた。RCIC室の水密扉を開けると室内から水が流れ出ると同時に「キーン」とジェットエンジンのような音が耳に飛び込んできた。RCIC特有の駆動音だった。
「動いているぞ!」
この情報は都内で午前3時すぎから2号機ベント実施の記者発表を始めていた東京電力常務小森明生(58)にメモで差し入れられた。方針は急きょ変更され「ベントは1号機で実施」となった。
所長の吉田昌郎(56)は後に、2号機RCICが動いていたことを振り返り「天の助けだった。あれがなければもっと大変なことになっていた」と語った。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 高橋秀樹)
突入チームを要請
3月12日未明、福島第1原発1、2号機中央制御室の運転員たちは疲れ切っていた。床でひざを抱える者、制御盤前に横たわる者-。しんと静まり返った制御室が時折、大きな余震で揺れる。
「1号機の格納容器圧力ががんがん上がっていたので、壊れる前に圧力を下げる必要がある。ベントしかないってみんな意識していましたね」
作業管理グループの大野光幸(51)は明かりの消えた2号機の制御盤側にいた。ベントは放射性物質を含んだ蒸気を格納容器から放出する作業で、誰かが放射線量の高い原子炉建屋に入って弁を開けなければならない。
その時、当直長席の伊沢郁夫(52)の前にあるホットライン(専用電話)が鳴った。相手は免震重要棟の発電班副班長野口秀一(54)だった。
「指示が出た…。ベントに……行ってくれ」
突入チームを選ぶよう求める電話だった。伊沢と同期入社の野口は胸を締め付けられる思いだった。放射性物質を外部に出してはいけないと教え込まれる運転員にとって、ベントは「自殺行為」と言えた。
「電源がなくなって制御室では弁の操作ができない。あとは現場に人を出すしかなかった。伊沢君はつらかったと思います。でも吉田所長も私も伊沢君も命令するしかなかった。苦渋の決断というのはこのことを言うんだと思いました」
黙って電話を聞いていた伊沢が受話器を置き、立ち上がった。
家族の存在よぎる
「集まってくれ」
ゆっくりと集まってきた運転員たちの視線が伊沢に注がれていた。
「ベンドの指示が出た……。申し訳ないが……誰か行ってくれないか。まず俺が行く」
皆、無言だった。
「伊沢君はここに残って仕切ってくれなきや駄目だ」
声を上げたのは応援に駆けつけた当直長たちだった。彼らは1人、また1人と手を挙げ、突入チームに志願した。
大野も右手を胸の辺りまで挙げかけた。だがそこから上にどうしても挙がらない。右手は結局、下ろした。
「怖かったです。申し訳ないとは思いました。でも原子炉建屋に入るってことは半端じゃない被ばくをするってことです。死ぬかもしれない。家族のことも頭をよぎりました…」
当直長席の傍らでは、応援のE班当直長遠藤英由(51)がホワイトボードに突入チームの編成を書き込んでいった。
格納容器外側の弁を開ける第1班はE班副長ら2人に、格納容器下部の圧力抑制室まで行く第2班は遠藤とC班当直長になった。さらに万が一に備えた第3班を加えたチーム編成が決まり、あとは突入命令を待つだけとなった。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 高橋秀樹)
=第1章終わり=
2011年3月23日福島第一原子力発電所 中央制御室
【詳細】原発事故後、敷地内での最高値25SV/hを測定(おしどりマコ)
http://no-border.asia/archives/17293
2013年12月6日の会見において、福島第一原発敷地内で、25SV/hの地点があることが発表された。
原発事故後の測定値として最高の値である。
3行まとめ
①25SV/hという原発事故後の最高値が測定された。
②場所は、1/2号機排気筒の下部、2011年8月に10SV/h以上と測定された地点である。
③排気筒下部に接続されているSGTS配管のうち、1号機に接続されている配管内部に線源があると考えられる。
下記の資料について、東京電力の設備管理課長に取材した内容を解説する。
福島第一原子力発電所1/2号機排気筒の下部線量測定について(訂正版)
http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/handouts/2013/images/handouts_131206_04-j.pdf
********
1.25SV/hが測定された「1/2号機排気筒」の場所、破断について。
2013年11月21、22日に測定は実施された。
1/2号機の排気筒とは、1/2号機の山側にあり、ベントなどを行う際の排気筒である。
場所はこちら
東京電力福島第一原子力発電所1,2号機排気筒の支柱鋼材の破断に係る報告について
https://www.nsr.go.jp/committee/kisei/data/0023_06.pdf
排気筒全景はこちら
東京電力写真ライブラリーより
http://photo.tepco.co.jp/library/131007_01/131007_19.jpg
ちなみに、この排気筒(スタック)とは、中央部に東日本大震災による破断がみられている。
福島第一原子力発電所1・2号機排気筒の部材損傷に対する耐震安全性評価について
http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/handouts/2013/images/handouts_131007_06-j.pdf
排気筒破断箇所
http://photo.tepco.co.jp/library/131007_01/131007_02.jpg
********
2.過去に10SV/h以上と測定された地点
2011年は、機器の性能により、10SV/h「以上」とまでしか測定できなかった。
2011年8月に、ガンマカメラで撮影した際、排気筒に接続されたSGTS配管の特に1号機から伸びている配管に高線量域が確認された。画像の色がついた部分である。
10SV/超の高線量線源の現場写真・ガンマカメラ画像
http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/images/handouts_110802_01-j.pdf
この2か所を、点の線源と推定し、1号機から伸びるSGTS配管の5か所で測定が行われた。
5か所、ポイント①~⑤のうち、2011年に10SV/h以上と測定されたポイント①は、配管からの距離を変え、4点で測定された。
測定した機器は999mSV/hまでしか測定できない多チャンネルエリアモニタである。
測定線種はX線とγ線の半導体検出器である。
福島第一原子力発電所1/2号排気筒の解体・補強等検討に向けた線量測定と落下物に対する防護対策の実施について
http://www.nsr.go.jp/disclosure/meeting_operator/BWR/data/20131022_01_shiryo02.pdf
前述のガンマカメラで発見された2か所を点の線源と仮定し、その線源からの寄与が支配的なものとする。そして、それぞれの測定点の「線源からの距離」「線量」から、線源の線量を計算したのである。
つまり、仮定した線源を「X」SV/hとし、そこから何mのところで、どれくらいの線量か、という8か所の測定値から、「X」を計算したというわけである。
********
ここから、筆者の質問と東京電力の回答を記す。
Q:2号機につながるSGTS配管は測定しなかったのか。
A:
①2011年8月のガンマカメラの測定で、高線量のポイントは1号機につながるSGTS配管であること、
②高線量地点の測定は近づくことができず、車からポールを伸ばして測定するが、2号機につながるSGTS配管側からは構造物、瓦礫の都合上、近づくことができないこと
以上の2点から、今回の測定は1号機につながるSGTS配管のみだった。
Q:降雨が排気筒に入ると雨水がたまらないのか、何らかの蓋があるのか
A:排気筒に蓋は無い構造。なので雨水は入る。排気筒の地下に、雨水が溜まるようになっている。
Q:その雨水が排気筒の中にたまり、高線量のSGTS配管の付近まで達し、雨水が逆流するようなことは無いのか。
A:無いと思う。排気筒の下に溜まった雨水は、排水ラインがあり、建屋のほうに流れるようになっている。
しかし、震災後、確認したわけではないので、現在もそのようになっているかは未確認。
Q:SGTS配管の口径、素材は
A:素材はカーボンスチール製。(鉄)
口径は25‐30cm。
肉厚は10mm。
(つまり、内径は23‐28cmで、カーボンスチールの厚みは1cmということである。)
Q:今回の測定ではβ線は測定していないが、カーボンスチールで1cmの厚みだと、どれだけ内部に高線量の線源があっても、配管外側からでは測定することは難しいか。
A:難しいと思う。
Q:25SV/hという数字は燃料に近い数字か。
A:さまざまな燃料のタイプがあるので、さまざまな線量があるから、一概に言えない。
Q:これは1号機の爆発時に付着した線源か。
A:ベントか爆発のときに、燃料が壊れ、中のものがたくさん出てしまったときのものだと思う。
Q:これはSGTS配管を通って、排気筒を通り抜け、環境中に放出されたのか。
A:そうだと思われる。
Q:排気筒にも高線量の線源が付着した箇所はあるのか
A:可能性はある。しかし、縦方向の測定はこれからである。本来、排気筒上部の120mまで実測することが望ましいが、クレーン車の関係上難しいため、いったん50mまで測定し、その後、検討して120mまで測定するかの判断をする。
とのことであった。
1/2号機排気筒は、震災により破断が見られ、構造計算後に安全性が担保されていることになっているが、現在、付近を通行する際は監視員を置いている状況である。
その排気筒に接続されているSTGS配管は、1cmの肉厚の配管内にある線源だが25SV/hある。
これは、X線、γ線のみの線量である。(ほぼセシウムの寄与だという)
1号機からのSGTS配管の汚染なので、1号機の関与である。
環境中への放出ルートである、排気筒の測定はこれからである。
********
25SV/hという人間の近づけない線量域である。
対処するには、技術か、もしくは年月が必要だろう。
そして、それは1号機の「中のものがたくさん出てしまったとき」の関与で、それらはSGTS配管から排気筒を通り、環境中に放出されたのである。
(撮影おしどりケン)
【福島原発】2011/3/25/金★作業員の被爆について
http://youtu.be/js0MHm4wxVs
福島原発事故の現状について 小出裕章先生(京都大学原子炉実験所)に聞く
【福島原発】2011/4/8/金★昨夜の余震について 2/2
http://youtu.be/XJjoOPAkTbw
福島原発事故の現状について 小出裕章先生(京都大学原子炉実験所)に聞く
【福島原発】2011/4/18/月★東電の工程表について 1/2
http://youtu.be/DN-jfR0iI3o
福島原発事故の現状について 小出裕章先生(京都大学原子炉実験所)に聞く
Radio News「たねまきジャーナル」
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【 私たちが知らない4年目の福島第一原発、その真実の状況 】《前篇》(星の金貨プロジェクト)
http://kobajun.chips.jp/?p=17606
福島第一原発の本当の状況について、きわめて貧弱な情報しか提供されていない
福島第一原発の設計、それは第二次世界大戦後のアメリカの産業技術を支配していた傲慢さの現れ
メルトダウン・メルトスルーから使用済み核燃料プールの火災へ!国の破滅が眼前に迫っていた3.11
アーニー・ガンダーセン / フェアウィンズ 3月12日
以下、リンク先をご覧下さい m(_ _)m
【 私たちが知らない4年目の福島第一原発、その真実の状況 】《中篇》(星の金貨プロジェクト)
http://kobajun.chips.jp/?p=17623
【 私たちが知らない4年目の福島第一原発、その真実の状況 】《後篇》(星の金貨プロジェクト)
http://kobajun.chips.jp/?p=17650
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全電源喪失の記憶 第一章・まとめその2
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