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全電源喪失の記憶 第一章・まとめその1



とても危険な事故現場で働いていた人たちの貴重な証言を元に書かれています。
この証言を見て原発再稼働がもたらす、さらなるもしかしてを考えるうえで貴重なものだと思います。

未読な方は是非ともご覧くださいませ。


全電源喪失の記憶
証言 福島第1原発

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万策尽きた所長「一緒に死ぬのは」

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 「だめかもしれないと覚悟はしていた。もう神様に頼むだけだと」。2011年3月15日、東京電力福島第1原発では1、3号機の爆発に続き2号機も危機的状況に陥っていた。事故発生から5日目の朝のことを、当時の所長吉田昌郎(56)=13年7月死去=は側近の部下たちにそう語った。
 その日は2号機の格納容器圧力が異常に上昇していた。格納容器が破損すれば放射性物質が大量に拡散してしまう。構内で事故対応を続けることはおろか、12キロ南の福島第2原発も放棄せざるを得なくなる。
 第1、第2原発が制御不能になれば、福島県だけでなく首都圏も避難することになるだろう。免震重要棟の緊急時対策本部で本部長席に座る吉田はそう考えていた。だが回避するすべは見つからない。万策尽きて静かに目を閉じ、腕を組んだ。 
 俺と一緒に死ぬのは誰だ-。
 吉田はI人の部下を手招きするとヽ小声で告げた。「最悪の事態が起こるかもしれない。起きているやつだけでいいから、ここを出る準備をするよう言って回れ」
 × × ×
 あの日から3年、政府が原発再稼働に向けて動く今、史上最悪レベルの原子力災害を目の当たりにした関係者たちが口を開いた。事故が残した教訓は何か。
彼らは何を見て、何を思ったのか。多くの証言でたどる。


 建屋の出口に殺到

 3月11日午後2時46分、福島第1原発事務本館2階にある所長室からは薄曇りの空か見えていた。所長の吉田昌郎(56)は11年度の業務計画会議を終えて席に戻ったところだった。午後3時からは原子力部門と他部門の社員の懇親を図る部門間交流会議を控えていた。
 揺れは突然、地鳴りとともにやってきた。どーんと大きく横に揺れた後、どんどん増幅していった。収まる気配はない。
 震度6強か、下手したら震度7になるんじゃないか-。運転中の1~3号機はスクラム(緊急停止)しただろうか。確認しなければならないことは山ほどある。吉田は所長室を飛び出した。
 この時、定期点検中だった4号機では、建物外への唯一の出口となるサービス建屋―階のゲートに作業員が殺到していた。大規模な改修工事もしていた4号機内には協力企業を含めて約1200人がいた。
 本来は1人ずつゲートに入り、体に放射性物質が付着していないか測定する。だが今は停電でゲートが開かないのだ。
 「早く出せ」「ゲートを開放しろよ」「何やってるんだ」
 怒呼が上がった。しかしゲート管理を委託されている協力企業の社員たちには開放を判断する権限がなかった。
 事情を知った東電側の指示でゲートが開放され、作業員は一斉に走り出た。もし判断が遅れていれば、多くの作業員が津波の犠牲になった可能性もあっただろう。

 転がる重油タンク

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 日立プラントテクノロジーの主任監督上田力男(49)が設備に損傷がないか点検を終えてゲートに着いた時は既にい作業員たちの姿はなかった。
 上田は開け放たれていたゲートから4号機を出ると海側を北に約500M歩いて、高台に続く「汐見坂」と呼ばれる坂の上り口まで来た。すると先を歩いていた作業員が海を指さして言った。      -
 「あれ、何かおかしくないか?」
 振り返ると、港湾の防波堤が海に没しようとしていた。海水はみるみるうちに防波堤を越えた。津波の第1波だ。
 上田が目を疑ったのは、その数分後だった。港湾内の海水がすごい勢いで引いていき、海底が見えるほどになったのだ。
 「何だ、こりゃ…」
 上田が沖合に目をやると、横一直線に白波が立っていた。津波の第2波はあっという間に目の前に迫り、1~4号機手前の護岸に当たって大きな水柱を上げた。
 「私がいたのは坂を上っていた人たちの最後尾です。『危ない、危ない』って坂を上かっていくうちに、水がどどどっと上がってきたんです」
 海を見ながら後ずさりする上田の前を高さ9・2Mの重油タンクが津波にのまれ、ごろんと転かっていった。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 高橋秀樹)

=第1章、15回続き=

記憶と教訓を残す
 目の前の男性作業員は両手を顔に当てておえつしていた。男性は東京電力福島第一原発事故の発生から対応に当たった一人だ。一号機の原子炉建屋が爆発した時の心境を尋ねると「死ぬだろうと思っていました」と答えた後、言葉を詰まらせたのだ。
 男性の脳裏には「これで家族には二度と会えない」という思いがあったという。頭の中で何度も何度も小学生の息子や妻への遺書をどう書くか考えていた。「たくましく生きてくれ」「母と息子を頼む。いろいろと面倒をかけたな」
 別の作業員は格納容器から蒸気を放出して圧力を下げるベントを思い起こし「もっとひどいことにならないようにやったことではあったけど、地元に申し訳ないことを…」と涙声になった。
 第1原発で事故対応に当たった東電社員の多くは福島県出身で、地元の高校、高専を出て入社した。家族とともに暮らす自宅は原発の周辺地域にあった。友人、知人も大勢いた。自分たちの会社が「原発は安全」と言い続けてきたことへの責任もあった。
 彼らはそうしたものを抱えて現場に踏みとどまった。暗闇、高い放射線量、再び来るかもしれない津波への恐怖―。過酷な状況に心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患った作業員も多い。
 事故から3年が経過した。いまだに約13万5千人もの福島県民が避難生活を強いられている。事故を起こした東電の責任が消えることはない。だが大事なものを守ろうと死と隣り合わせで闘った人たちがいたことは事故の記憶とともに残さなければならない。彼らの証言は事故がどんな教訓を残したかを考える上で貴重な資料となるだろう。


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全電源喪失の記憶02非常用電源が落ちた


 冷静さ保つ運転員

 ファン、ファン、ファン、ファンー。東日本大震災の地震の揺れが収まりきらない東京電力福島第1原発1、2号機の中央制御室はけたたましい警報音に包まれていた。さらに大きな音で火災警報も「ジリジリジリジリ」と鳴っていた。
 作業管理グループの大野光幸(51)が制御室に駆け込んできた。地震で原子炉はスクラム(緊急停止)したが、外部送電網からの電力が途絶えたため、非常用ディーゼル発電機(DG)が起動していた。
 大野は「通常のスクラムでしたから、この時までは自分も周囲の同僚も落ち着いていました」と振り返る。
 原子炉やタービン、発電機の運転状況を監視する制御室は、1、2号機の原子炉建屋に挟まれる形でコントロール建屋2階に位置する。約750平方片の室内には、中央の当直長席から見て右に1号機、左に2号機の制御盤がある。
 当直は通常、当直長、副長、主任ら計11~13人の運転員を1班とし、A~Eの5班が24時間2交代で詰める。地震発生時は研修生らを加えたD班の14大がいた。
 大野は近隣の小高町(現福島県南相馬市)出身で、かつてこの制御室で副長まで務めた。今は運転員たちの作業が適切か管理する立場になっていたが、緊急時にはこうして当直のサポートに回る。同じ2階の執務室から約20メートルの廊下を走って駆けつけたのだ。
 大野は制御室入り口から見て奥にある2号機の制御盤に駆け寄り、原子炉隔離時冷却系(RCIC)という冷却装置の操作に取りかかった。核燃料冷却が最優先たった。

 4分後に燃料冷却

 「RCIC起動しました」。大野は、原子炉の状態を記録している副長に向かって報告した。RCICは原子炉から出る蒸気でポンプを回し、炉内に冷却水を送り込んで燃料を冷やす装だ。
大野による最初のRCIC起動は地震発生からわずか4分後の3月11日午後2時50分だった。RCICは炉内の水位が上がると自動停止する仕組みで、大野はその後、炉内水位に注意しながら起動を繰り返した。
 火災警報音は誰かが停止スイッチを押していた。本当に火災が起きていれば再び嗚るはずだが、音は消えたままたった。
 事態が急変したのは、大野がRCTICを3度目に起動させた直後だ。
  「DGトリップ!」
 制御盤前にいた運転員が叫んだ。トリップは「落ちた」という意味だ。
  その声をきっかけに制御盤のランプが一つ、また一つと不規則に消えていった。「だ?」。驚いている間に目の前のランプが全て消え、けたたましかった警報音も聞こえなくなった。
  1、2号機は全電源を喪失した。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 国分仲矢)

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全電源喪失の記憶03明日は帰れるよ


 「もう勘弁して」

 東京電力福島第1原発の緊急時対策本部で後に復旧班に所属することになる横山英治(37は、地震の揺れを事務本館2階の机の下に潜ってやり過ごそうとしていた。体重76キロの体が大きな揺れで机の下から何度も引きずり出されそうになる。

 「もう勘弁して」
 ようやく揺れが収まり、職場の壁にある各号機の出力計をみると、運転中だった1~3号機のデジタル表示はいずれも「0」になっていた。
 原発では運転員以外にも「止める」「冷やす」「閉じ込める」という考え方が浸透してる。原子炉を安全に停止させ、燃料を冷却し、放射性物質が外部に漏れないようにする、という考えだ。今は「止める」が成功した段階だった。
 「みんな、大丈夫か。外に出るぞ」
 第1原発では1週間前に避難訓練があったばかりで、隣接する免震重要棟前に集合して点呼を受ける手順になっていた。横山は同僚たちが出て行くのを見届けると、防寒着を羽織った。
 外気温は4、5度。慌てて避難したのか、同僚の女性社員がシャツー枚で震えていた。女性は横山が卒業した双葉町の中学校の先輩だった。
 「どうぞ」。横山は防寒着を脱いで差し出した。そして妻のことを思い浮かべた。地震前の午後2時すぎ、結婚7年目の妻から「今から帰るよ。晩ご飯は何がいい?」と携帯メールが来ていた。

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被害を受けた福島第一原発事務本館


 再会は2週間後

 妻は原発の南約10キロにあるJR富岡駅前のホテルで働いていたのだ。大熊町の自宅には戻っているのだろうか。携帯電話は不通だった。
 この日の第1原発には協力企業も含め約6400人がいた。免震棟前には600人以上が集まっていたが、津波に気づいた者はほとんどいなかった。免震棟は海抜35メートルで、津波に襲われた区域とは25メートルの高低差がある。
 津波の襲来を知らない横山は午後5時すぎ、自家用車でいったん自宅に向かった。だが妻はいなかった。近所の人に尋ねると、避難したようだという。避難所を何カ所も回り、町役場裏の体育館をのぞいた時には午後9時になっていた。
 妻は体育館の入り口近くにいた。「あぁ、いたよー。良かったあ」。横山は安堵した。水や食べ物を手渡すと妻に告げた。
 「会社に戻るよ。何かやることはあるはずだから。明日には帰れると思う」
 横山は原子炉制御システムなどのメンテナンスをする計測制御の担当だ。事故対応で原子炉水位計や圧力計などを生かそうと、重いバッテリーを抱えて何度も放射線量の高い現場に足を運ぶことになるとは、この時まだ知るよしもなかった。再び妻に会えたのは2週間後のことだった。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 高橋秀樹)

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全電源喪失の記憶03-1事故発生からの経過


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全電源喪失の記憶04建屋に流れ込む海水


 想定しない事態

 福島第1原発1、2号機は非常用ディーゼル発電機(DG)が停止して全電源を喪失してた。中央制御室では原子炉をコントロールする制御盤の明かりが全て消え、照明も非常灯だけになった。訓練でも想定したことがない事態だ。作業管理グループの大野光幸(51)は2号機制御盤の前でほうぜんとしていた。
 運転員たちからは「何だ、何だ」「どうしてだ」と声が上がった。
 どうすんべ、どうすんべー。大野は原子炉のことと同時に妻を心配していた。妻も東京電力社員で地震発生時には1号機から約200メートル離れた事務本館にいたはずだ。構内用PHSで連絡てみると1回でつながった。
 「そっちは大丈夫だったか」
 妻は免震重要棟2階の緊急時対策本部に移動していた。お互いの無事を確認した後、対策木部の壁のテレビモニターを見ていた妻が言った。
 「うわっ、津波。岩手に津波。釜石。すごい。きゃあ」
 電話の向こうではテレビ画面が岩手県釜石市に押し寄せる津波を映し出していた。
  「ええっ! 岩手は大変なことになってるんだな」
 だが大野にこの津波の深刻さは伝わらなかった。制御室には窓もテレビもないのだ。制御室で作業を続けると告げて、大野は通話を切った。

 止めるすべなく

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津波による福島第一原発の浸水域
 「まさか自分のところにも津波が来ているなんて思わなかったです。建屋に衝撃があるわけじゃないですからね」
 制御室にいた運転員で、地震発生から間もない時期に家族の無事を確認できたケースはまだ。ほとんどは家族の安否を気にしながら何日も作業に当たることになる。ただ大野がもし、妻との会話で停電の原因が津波と気づいたとしても、事態の悪化を食い止めるすべはもう誰にもなかった。
 なぜDGが停止したのか-。
 制御室にいた全貝が首をかしげていた。答えは全身ずぶぬれで制御室に飛び込んできた若い運転員が告げた。
 「やばい! 海水が流れ込んでいます!」
 1、2号機それぞれの制御盤を見渡せる位置にいたD班当直長の伊沢郁夫(52)が聞き返す。
 「どこに流れているんだ」「建物の中に入ってきています!」

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全電源喪失の記憶04-2福島第一原発に流れ込む津波


 各号機は、海側から見て、出人り囗となるサービス建屋、タービン建屋、制御室があるコントロール建屋、原子炉建屋からなる。DGはタービン建屋の地下だ。制御室にいた全員がようやく理解した。この事態の原因は津波なのだ、と。
 3、4号機も同じ事態に陥っていた。対策本部には各号機の制御室から「建屋に津波」との連絡が入り始めていた。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 高橋秀樹)

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全電源喪失の記憶05制御室 突然真っ暗に


 「3メートルななら大丈夫」

 「おう、どうなってる」。
福島第1原発の免震重要棟2階にある緊急時対策本部に、所長の吉田昌郎(56)が入ってきた。吉田は1~3号機が地震で緊急停止したことを確認すると満足そうにうなずき、壁のテレビモニターに目をやった。NHKが大津波警報を出していた。福島は3メートル-。
 「これなら大丈夫」
 吉田はそう思った。各号機の海側には熱交換器や非常用ディーゼル発電機(DG)を冷却するための非常用海水ポンプが設置されている。このポンプが津波をかぶらない限り大丈夫と考えたのだ。テレビ両面では日本地図の太平洋側か真っ赤な線で縁取られていた。
 対策本部の大きな円卓には本部長の吉川以下、各号機の中央制御室をサポートする発電班、計器や電源復旧を担う復旧班など12班の班長が座る。
 免震棟は2007年の中越沖地震柏崎刈羽原発(新潟県)の事務棟が壊滅的被害を受けたのを教訓に建設された。完成したのは10年7月だ。独立した非常用電源を備え、テレビ会議システムのある対策本部室は651平方メートルの広さがあった。
 地震後、最も早く駆けつけたのは発電班副班長の野口秀一(54)だ。各号機の制御室からはホットライン(呼用電話)で外部電源の代わりにDGが起動しているとの連絡が入っていた。
 「もうだめかな・:」
 異変は突然やってきた。1、2号機の制御室からだった。
 「DGトリップ(落ちた)!」
  「何?」
 なぜDGが止まるのかー。制御室で電話を代わったD班当直長伊沢郁夫(52)がさらに驚くべきことを告げた。
 「SBO事象です。原災法10条に該当すると思います」
 「えっ?」
 「エス、ビー、オー。何が使えて何が使えないのか確認中!」
 ステーションブラックアウト(SBO)。制御室が真っ暗で何も見えないという意味だ。1999年9月のJCO臨界事故(茨城県東海村)を機に制定された原子力災害対策特別措置法10条では、緊急事態に発展する可能性がある場合は国に通報しなければならない。
 「10条、宣言します」
 3月11日午後3時42分、テレビ会議に緊迫した古田の声が響いた。
 さらに伊沢はわずか10分後、こう告げる。
 「15条に該当します」
 原子炉圧力と水位が読み取れなくなり、燃料冷却ができているのか分からなくなった。状況が原災法15条の「緊急事態」に移行したというのだ。
 「飛行機のエンジンが全部止まって、計器も見えない状態で操縦しろと。言われているようなものです。これはもうだめかなと、最悪のことを考えましたね」。吉田はそう振り返った。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 高橋秀樹)

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全電源喪失の記憶06原発の異変を直感


 防風林越す大津波

 3月11日、福島第1原発3、4号機作業管理グループの富田敏之(54)は休暇を取って、自家用車に妻と次女、犬を乗せ、仙台市方面へ買い物に行こうと国道6号を走っていた。
 激しい揺れに襲われたのは、福島県相馬市の辺りだった。富田は車を路肩に止めて長々と続く揺れをやり過ごした。
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全電源喪失の記憶06-1津波来襲後の各号機の状況
 「大きな地震でしたけど、原子炉はたぶん止まったと思いました。だから家族を自宅に帰すことが優先だと考えました」
 自宅は第1原発の立地する大熊町で、ここから南に約40キロもある。富田は車をUターンさせると、来た道を戻り始めた。ラジオは津波警報を繰り返していた。南相馬市原町区まで来ると、海岸線の防風林がキラキラと光っていた。
 「目の錯覚かなと思ったんですよ。きれいだなあ、と。そうしたら次の瞬間、防風林の上から波がダーンっと。あんな大きな津波が来るとは思いませんでした」
 車はたまたま小高い丘の上を走っていた。富田が車を止めると、丘を挟むように、水がものすごい勢いで南北の平地を流れていった。
 水が引くのに約2時間かかった。そばにいた地元の住民に聞くと、この丘から車で移動するには国道以外にないという。富田は車をあきらめ、歩いて通れそうな場所を選びながら自宅を目指すことにした。
 10キロほど歩いたところで自宅にいた長女に連絡が取れ、車で迎えに来てもらった。帰宅した時には日付が替わっていた。
 自宅は停電で真っ暗。台所は割れた皿やコップが散乱していた。テレビもつかない状況で、原発がどうなっているのか知る手段はなかった。それにもうくたくただった。

 行き先告げぬまま

 「とりあえず寝よう」
 富田が第1原発の異変に気づいたのは12日早朝、目を覚まして犬の散歩に出た時だ。大熊町の防災無線が10キロ圏内の住民避難を指示していた。
 運転員としての経験が長い富田は当直長の資格も持っている。直観的に「冷却手段がなくなったんだな」と感じた。急いで自宅に戻ると家族を起こし、妻の車で近くの公民館に向かった。
 険しい表情でハンドルを握りながら富田は考えた。1~3号機は運転中だった。詳しい状況は分からないが、現場はきっと大変な事態になっているはずだ。
 妻と2人の娘を見ると、3人とも不安を隠せない表情たった。しばらく一緒に避難していようかー。そんな思いが胸をよぎった。
 しかし・…
 「会社に行かなきゃならん」。意を決して言ったつもりだったが、言葉には出せなかった。富国は家族を公民館に降ろすと、行き先も告げず第1原発に向かった。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 前田有貴子)

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全電源喪失の記憶07設備全滅「うそだろう」


 現場の状況確認

 福島第1原発の免震重要棟2階の会議室に復旧班のメンバーが集まっていた。どうすれば電源を復旧できるか。まずは現場の状況確認をしなければならない。送電線から高圧電流を受ける「開閉所」と呼ばれる施設(海抜35メートル)は地震で設備の損傷が激しく、復旧に数力月かかりそうだった。
 海抜10メートルの原子炉建屋付近にはまだ誰も足を踏み入れられないでいた。余震が続き、大津波警報も解除されていない。
 「俺が行きましょう」。声を上げたのは池田公男(50)だった。入社以来、電気設備の点検、補修をしてきた専門家だ。ただ地震発生時、勤めに出ていたはずの妻と、富岡町の自宅にいた両親のことが気にかかっていた。何度か電話をしてみたがつながらないのだ。
 いや、今は行かなければ。池田は3月11日午後6時、同僚とともに4人で免震棟を出た。周囲はもう暗くなつていた。

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全電源喪失の記憶07-1池田の電源設備調査経路


 唯一の復旧方法

 徒歩で1号機タービン建屋北側の大物搬入口に近づいてみると、鋼鉄製の大きな扉が津波の衝撃でひしゃげていた。
 わずかな隙間から建屋内に入り、小さな懐中電灯を頼りに暗闇を進んだ。チタッ。チタッ。どこからか水の落ちる音が不気味に響いていた。
 建屋内に電力供給するための配電盤は高圧系、低圧系とも水に漬かっていた。
 「メタクラ」と呼ばれる高圧系には常用2系統と非常用2系統のほかに、常用と別の外部送電網から受電する1Sという予備系統があった。

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 池田は構内用PHSがつ
ながる屋外に出て、免震棟にいる復旧班の磯貝拓(51)に連絡した。
 「1号機の電源設備は津波で全滅です」
 「何? メタクラ1Sもか?」
 「そうです」
 「うそだろ…。そいつが死んでいたらどうしようもなくなるぞ」
 「でも本当にだめなんです」
 何度説明しても磯貝は信じられない様子だった。池田は2号機に向かった。海側は車やがれきが散乱していて通れそうもない。それにいつまた津波が来るか不安だった。
 2号機タービン建屋では低圧系の2Cと呼ばれる配電盤が床から5センチ程度、水に漬かっていたものの、かろうじて使えそうだと分かった。
 再び山側から3、4号機へ向かう途中で黄色のドラム缶が5、6個転かっていた。黒い放射能マークが付いていた。低レベル放射性廃棄物だ。4号機南側の大物搬入口にはトラックが突っ込んでいてタービン建屋内の確認はできなかった。
 免震棟に戻ったのは午後9時前だった。このころ東京電力本店が手配した電源車約50台が第1原発を目指していた。残された配電盤に電源車をつなぐ。それが電源復旧の唯一の方法だった。
(敬称略。年齢、肩書は当時。共同通信 高橋秀樹)



全電源喪失の記憶 第一章・まとめその2へ続く


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