世界人権宣言
前文
人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、
人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、
人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権を保護することが肝要であるので、
諸国間の友好関係の発展を促進することが、肝要であるので、
国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、
加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約したので、
これらの権利及び自由に対する共通の理解は、この誓約を完全にするためにもっとも重要であるので、
よって、ここに、国際連合総会は、
社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の規準として、
この世界人権宣言を公布する。
第1条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
第3条
すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。
第6条
すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する。
第7条
すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。
第22条
すべて人は、社会の一員として、社会保障を受ける権利を有し、かつ、国家的努力及び国際的協力により、また、各国の組織及び資源に応じて、自己の尊厳と自己の人格の自由な発展とに欠くことのできない経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利を有する。
第25条
1 すべて人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。
2 母と子とは、特別の保護及び援助を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同じ社会的保護を受ける。
谷川俊太郎の「世界人権宣言」
詩人の谷川俊太郎さんが、世界人権宣言をわかりやすい言葉にしてくださいました。
第1条 みんな仲間だ
わたしたちはみな、生まれながらにして自由です。ひとりひとりがかけがえのない人間であり、その値打ちも同じです。だからたがいによく考え、助けあわねばなりません。
第3条 安心して暮らす
ちいさな子どもから、おじいちゃん、おばあちゃんまで、わたしたちはみな自由に、安心して生きていける権利をもっています。
第6条 みんな人権をもっている
わたしたちはみな、だれでも、どこでも、法律に守られて、人として生きることができます
第7条 法律は平等だ
法律はすべての人に平等でなければなりません。法律は差別をみとめてはなりません。
第22条 人間らしく生きる
人には、困った時に国から助けを受ける権利があります。また、人にはその国の力に応じて、豊かに生きていく権利があります。
第25条 幸せな生活
だれにでも、家族といっしょに健康で幸せな生活を送る権利があります。病気になったり、年をとったり、働き手が死んだりして、生活できなくなった時には、国に助けをもとめることができます。母と子はとくに大切にされなければいけません。
自民・麻生財務相 - 高齢者に「いつまで生きるつもりだ」-2016.06.18
https://youtu.be/XGXzW6pziyg
麻生財務相「いつまで生きているつもり」 北海道の会合で発言
2016年6月18日(土)11:13
https://youtu.be/8H9CAqRwf4s
麻生氏「90歳で老後心配、いつまで生きてるつもりだ」
自民党の麻生太郎副総理兼財務相が17日、北海道小樽市での講演で「90歳になって老後が心配とか、わけの分かんないこと言っている人がこないだテレビに出てた。オイいつまで生きてるつもりだよと思いながら見てました」と語った。麻生氏自身も75歳だが、高齢者への配慮に欠けた発言として批判が出ている。
麻生氏はこの日、参院選の立候補予定者の応援などで北海道を訪問。小樽市の党支部会合で経済政策について語り、「1700兆円を超える個人金融資産があるのに消費が伸びていない」などと指摘する中で「90歳の老後」に言及した。自らの祖母が91歳まで元気だったと紹介し、「カネは一切息子や孫が払うものと思って、使いたい放題使ってましたけど、ばあさんになったら、ああいう具合にやれるんだなと思いながら眺めてました」とも語った。貯蓄より消費が重要として「さらにためてどうするんです? 金は使って回さないとどうにもならない」とも述べた。
麻生氏の発言に対し、民進党の岡田克也代表は大分県由布市で「国は年金や医療、介護制度で、高齢者の不安に応えなければならない。私は非常に怒っている」と批判した。共産党の志位和夫委員長は東京都内で「人間の尊厳をどう考えているのか。血も涙もない」と述べた。
麻生太郎氏:「90歳で老後心配、いつまで生きてるつもりだ」(浜村淳)
https://youtu.be/IvVVDTsnZ2o
総務相統計局家計調査年報(家計収支編)平成27年(2015年)
家計の概況 より
http://www.stat.go.jp/data/kakei/2015np/gaikyo/index.htm
※基礎的支出
家計における支出のうち、食費や高熱費などの生活に必要な支出のこと。
内閣府平成28年版高齢社会白書
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2016/zenbun/28pdf_index.html
高齢者の経済状況 より
高齢者世帯の所得を種類別にみると、「公的年金・恩給」が203.3 万円( 総所得の67.6%)で最も多く、次いで「稼働所得」55.0万円(同18.3%)となっている(表1 - 2 - 2- 2)。
さらに、公的年金・恩給を受給している高齢者世帯における公的年金・恩給の総所得に占める割合別世帯数の構成割合をみると、約7割の世帯において公的年金・恩給の総所得に占める割合が80%以上となっている(図1-2 -2 -3)
貯蓄現在高について、世帯主の年齢が65歳以上の世帯の平均と全世帯平均(いずれも二人以上の世帯)とを比較すると、前者は2,499万円と、後者の1,798万円の約1.4倍となっている。貯蓄現在高階級別の世帯分布をみると、世帯主の年齢が65歳以上の世帯(二人以上の世帯)では、4,000万円以上の貯蓄を有する世帯が18.3%であり、全世帯(11.4%)と比べて高い水準となっている(図1-2-2-6)。
また、貯蓄の目的についてみると、「病気・介護の備え」が62.3%で最も多く、次いで「生活維持」が20.0%となっている(図1-2-2-7)。
老後崩壊
「1億層活躍」
現場からの批判
(しんぶん赤旗)2016年6月21・22日
普通の暮らしをしていた人が高齢になって働けなくなり、病気で入院や介護が必要になるとたちまち「貧困」に陥る―。安倍首相が掲げる「1億総活躍社会」とは裏腹に、「1億総老後崩壊」ともいえる現実が拡大しています。安倍政治の責任が問われています。
(内藤真己子)
”中流”と思っていたが…
「妻には感謝してる。こんな俺をよく面倒みてくれたんだから」。金沢市の田端実さん(80)=仮名=は、市内の特別養護老人ホーム「なんぶやすらぎホーム」で妻の幸子さん(88)=同=に、やさしいまなざしを向けます。認知症の幸子さんを見舞うのが日課です。
高校を卒業し地元の繊維会社に就職。取引先の織り子だった幸子さんと知り合いました。起業を夢見て上京したものの新聞配達で稼ぐ苦しい暮らし。「助けに行きます」と年上の幸子さんも上京して結婚。田端さんは中堅の電線会社に就職し、幸子さんも内職で家計を助け3人の子を育てました。
「たまにはおいしいもの食って、自分は中流だと思っていたよ。それがこんなことになるなんて。このままでは2年後、3年後には裸になる」
特養費用2倍超
月約6・8万円だった特養の利用料が、昨年8月から同13・8万円へ2倍以上に跳ね上がったことが、田端さんを不安に陥れています。
入所時に世帯分離し、住民税非課税の妻は特養の食費・居住費の軽減措置を受けていました。ところが安倍政権が昨年実施した介護保険改悪で、配偶者が住民税課税の場合、軽減対象から外されました。田端さんも元は住民税非課税でしたが、公的年金等控除の縮小など高齢者増税の影響で課税になっており、妻が軽減措置を受けられなくなったのです。
夫婦の年金は合わせて月23・7万円。高齢者世帯の平均を上回り、一見余裕があるように見えます。しかし特養ホームの利用料で6割が消えます。介護保険料と後期高齢者医療の保険料はどんどん上がり月2・1万円。田端さん自身も脊柱管狭窄(きょうさく)症などで通院しており医療費は月8600円。公共料金などを払うと食費が足りず、月2、3万円ずつ貯金を取り崩しています。
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家族の会と要請
退職時には3000万円以上の蓄えがありました。ところが故郷・金沢市に戻って老後の住まいを購入するなどし、貯金は400万円程度に。そんなとき特養の負担増に見舞われたのです。
「昔は年を取れば医療費もかからなかった。見通しをつけてきたのにバチーンと断ち切られた。自分が貧困の部類に入るなんて国民全体が苦しいということ。政府が年寄りの負担を増やすから。悪政だ」。施設入居者家族会の仲間と初めて厚生労働省への要請に参加しました。
増え続ける「下流老人」
「”中流”が融解して”下流”に落ちてきている」。こう語るのは、生活困窮者の支援をおこなうNPO法人ほっとプラス代表理事の藤田孝典さん。1年前に出版した『下流老人』が20万5000部のロングセラーです。
「年金が低いうえ、終身雇用の崩壊や低金利で十分な貯蓄がない。そこへ税や社会保障の負担増。国民の9割が何らかのきっかけで老後、貧困に陥る可能性があります」
実際、総務省の「家計調査結果」を見ると、高齢者無職世帯の収入と支出の差額=「不足分」は、2005年の月3・5万円から15年には6・2万円へ、1・8倍に激増しています。度重なる社会保障の削減と負担増の結果です。「高齢者世帯の4割以上が貯蓄額500万円未満です。仮に65歳で300万円の貯蓄があっても4年で底をついてしまう」と藤田さんは指摘します。
生活保護50%超
その結果、生活保護を受給せざるを得ない高齢者がどんどん増えています。生保世帯に占める65歳以上世帯の割合は、今年3月分の速報値で初めて50%を超えました。
個人タクシーのガレージの2階にある東京都北区のアパートで暮らす澤田隆さん(65)=仮名=もそんな受給者の一人です。
20歳すぎから20年以上、運送会社の正社員としてハンドルを握りました。給与は完全歩合制で月収が100万円近くあった時期もありました。しかし労働基準法無視の長時間労働、過積載は当たり前…。「12㌧トラックにビール瓶を満載して高速道路をフルスピードで走りました。下りカーブが怖い。下手したら横転して大事故になる。神経使ったよ」
「ドライバーはもう嫌だ」。転職を決めたものの40代後半では派遣会社しかありませんでした。日給8000円程度で現場を転々。高い国民健康保険料は払えず、保険証は持っていませんでした。
胃の激痛を覚えるようになっても痛み止めを飲んでごまかして働き続け、ついに倒れました。歩行が困難で障害がある妻(71)と区役所に相談に行き生活保護を受給。ようやく医者にかかることができ胃の腫瘍を手術、一命をとりとめました。
厚生年金は月約11万円。家賃分程度が生活保護から支給されています。「まさか自分が生保になるなんて考えてもなかった」
希望ある政策を
増え続ける「下流老人」。防ぐにはどうしたらいいのか。藤田さんは「最低保障年金をつくって年金額を引き上げるべきです。公営住宅の増設や家賃補助も欠かせません。そして社会保障の給付削減と負担増をやめること。応能負担を強め、法人税や所得税の累進性を高めれば財源はあります」と語ります。
「多くの人は、なぜ自分が”下流”になったのか分からない。その霧を晴らすことが自分の役割です。そして政策は星、希望です。共産党や民進党など野党4党が、アベノミクスによる国民生活の破壊、格差と貧困の拡大の是正を共通政策に掲げたことに期待しています。政治の流れを変えてほしい」
(おわり)
これもヒドイ(;´Д`)
自民党の女性議員って人が命落とす不幸話好きだよね
https://youtu.be/wvvoWhM_Zo0
自民党 軍国宣言 極ウ政党自民党に乗っ取られた国ニッポン
https://youtu.be/W-OGhntEnrM
憲法改正誓いの儀式
https://youtu.be/h9x2n5CKhn8
『国民主権、基本的人権、平和主義を削除しよう!』
私たちの最期は
ひとり身で逝く
(新潟日報)2016年6月6~14日
(1)積極治療せず
「どう生きたいか」だけ
最期はここで迎えよう―。そう覚悟して借りた3LDKの部屋。用意してあるのは布団だけ。家財道具はそろっていない。JR岐阜駅から徒歩15分ほどの静かな住宅街に立つマンション。今年1月中旬、竹山多恵子(仮名)は不安と孤独を感じていた。
末期がんだった多恵子は約3ヵ月後、この部屋で67年の人生を終える。24歳で夫と離婚し、子どもはいない。両親は既に他界。末期がんであることは数人の身内のほかは、親友2人にしか知らせていない。
それまでは名古屋市で1人暮らしをしていた。40代終わりまでメーカーに勤め、以後は着物の販売員として生計を立ててきた。仕事に打ち込む日々の中、何度も手術を経験した。離婚の翌年、乳がんの疑いから右胸を切除。還暦を過ぎて再び乳がんで左胸も切ったが、65歳で再発する。
「抗がん剤で治療すれば3年、しなければ1年です」。2014年5月、病院の医師の言葉が心に突き刺さった。がんは肋骨や背骨にまで転移。積極治療をするかどうか選択を迫られた。
その時、頭に浮かんだのは病院内でよく見かけた入院患者の顔だった。抗がん剤の副作用でつらそうな男性たち。妻子のために厳しい治療に耐えているようにも感じた。
多恵子は呼吸器が元々弱い。「副作用で余命は『3年』より縮まるかもしれない。でも治療しなくても、体に負担をかけないで『1年』より延びるかも。残された時間は結局、同じでは」
そう考えると、抗がん剤治療を選ばず、入院もしないという結論に至った。「私には家庭がない。自分がどう生きたいかだけで答えを出せた」
ちょうどその頃、終末期の患者を支える医師を取り上げたテレビ番組を立て続けに偶然3回見た。岐阜市で開業する小笠原文雄(68)。この人だ。運命のようなものを感じた。小笠原は単身で暮らす患者を40人以上みとった実績があるという。
名古屋市と岐阜市は30㌔以上離れている。訪問診療を頼むには遠い。主治医になってもらえるだろうか。再発の診断から間もなく、多恵子は小笠原を訪ねた。
(敬称略)
× ×
1人暮らしの65歳以上は全国で約600万人。増え続ける単身高齢者を待つのは「孤独死」なのだろうか。異なる境遇の2人の女性が歩んだ道をたどる。
(2)モルヒネ注入
激しい苦痛「楽にして」
名古屋市で1人暮らしだった竹山多恵子=仮名=は65歳で末期がんの宣告を受け、岐阜市の医師、小笠原文雄(68)を訪ねた。2014年5月のことだ。「住まいを近くで借りるつもりで来ました」。在宅みとりの実績が豊富な小笠原に最期を委ねたいと思っていた。
小笠原は「まずは注射を打ちに月1回来てください」と応じ、終末期に向け住居探しを手伝うよう看護師に指示した。先の見通しが立ち、安堵した多恵子は涙を流した。
通院は順調だった。当初は余命1年とされたが1年半が経過。だがその頃、難治性のスキルス胃がんも見つかり、体力はどんどん落ちていった。
今年の1月15日。受診後に「体全体がつらい」と感じ、自宅のある名古屋市まで帰れなくなった。いざという時のため岐阜市内で既に借りていた家賃7万円余りのマンションに、この日から寝泊まりするようになった。衣類や介護ベッドを徐々にそろえ、小笠原の在宅医療を受け始めた。
「楽に死ねると安易に考えていた」という多恵子だが、次第に食事や排せつがうまくできなくなる。体調が良い日は近所に買い物へ行けるが、腹部が痛くなったり、吐いたりする日も。好不調を繰り返して進む病状。3月を迎え、残り時間は1ヵ月程度だと感じた。
「とにかく楽にしてください」。3月30日昼すぎ。ベッドに伏して息も絶え絶えに、訪問した小笠原に訴えた。前夜から嘔吐が続き、看護師を何度も呼び出していた。もろくなった血管から腹部に水分や栄養分がしみ出て、腹水として5㍑以上が充満。肺が圧迫されて
呼吸しづらく苦しい。
痛みを緩和しようと、この日午前には医療用麻薬のモルヒネを体に注入し続ける器具を取り付けた。排尿しやすくするため尿道に管を通す。小笠原は多恵子の手を握り、処置の一つ一つの意味を説明。「自分で痛みをコントロールできますよ」とモルヒネ注入器具のボタンを押させた。痛みに応じ自ら追加投与できる仕組みだ。「手がぽかぽかしてきた」と多恵子。
腹水を抜くと、さらに落ち着きを取り戻し「楽になったわ」と、夕方には小笠原とビールで乾杯できるまでに回復した。
だが病状を見続けてきた看護師の1人は、多恵子と交わしたある約束が「もう果たせないのではないか」と考えていた。
(敬称略)
(3)専門職が連携
満開の桜に笑顔「最高」
機会があれば桜を見に行こう。末期がんで単身の竹山多恵子(67)=仮名=は岐阜市のマンションで、ほぼ寝たきりで療養を続けていた。訪問看護師の1人、五島早苗(46)は、多恵子と花見の約束をしていた。希望はかなえたいが3月末から体調が大きく崩れ、無理をすれば体に負担がかかる状況だった。
桜が見ごろを迎えた4月5日。本人にとって花見は今年が最後となるだろう。そう判断した主治医の小笠原文雄(68)はこの日に実行しようと決め、五島が調整を始めた。五島は、自宅にいる患者がスムーズに療養生活を送れるよう、医師や看護師、ケアマネジャーらを連携させる司令塔の役割を担っていた。
午前中、五島は体調確認のため自宅を訪問。多恵子は「行けそう」と言うが、体内には腹水がたまっている。楽な姿勢で移動するには、背もたれを倒せる車いすが必要だ。五島が急きょケアマネに電話し調達を依頼。ケアマネは福祉用具レンタル業者に掛け合った。
マンションから外へ出るには、1階出入り口の階段を車いすごと持ち上げて越えねばならず、人手も要る。五島は看護師やケアマネと連絡を取り数人を集めた。午後、多恵子を連れ、近所の小学校の校庭へ向かった。
「うわあっ、きれい。最高」。多恵子は喜び、車いすに乗ったまま、青空に映える満開の桜に向かって両腕を伸ばした。五島らも皆、笑顔だった。
1人暮らしでも、さまざまな専門職が支えたことで多恵子が不便を感じることは少なかった。医師5人と看護師10人以上が交代で訪れ、日々の申し送りを携帯端末やパソコンに記入。「発熱39度近く。採血する」「本人は『つらくも何ともないわ』と表情穏やか」。毎日の出来事や体調データ、薬の投与量など情報は常に共有されていた。
介護ヘルパーも毎日2回来た。夜から朝にかけては、泊まり込みの家政婦が見守った。日中は、名古屋市に住む唯一のきょうだい、兄の卓治(72)=仮名=や、愛知県内から親友2人が駆け付けて世話をした。「思い通りにさせていただいてありがとう」。多恵子は感謝の言葉を口にした。
桜は盛りを過ぎ、臨終の時が近づいていた。(敬称略)
(4)シナリオ終幕
多額のケア費用も準備
小学校での花見から10日ほど後の4月16日。「これまでと顔が違う」。訪問看護師の五島早苗(46)は、末期がんの竹山多恵子(67)=仮名=の寝顔を見つめ、終わりが近いと感じた。
岐阜市の賃貸マンションに住む多恵子は前日まで、訪れた医師や看護師と会話ができていた。この日は眠ったまま、呼び掛けても応答がない。血圧は60程度に下がった。
「1週間以内では」。五島は付き添っていた兄の卓治(72)=仮名=に心の準備を促した。「呼吸が止まることがあるかもしれませんが、それが自然なので流れのままに行きましょう。本人も苦しくないと思います」
卓治は「そろそろ覚悟せないかんのかな」と受け止めた。1人暮らしが長かった妹は死期を悟り、生を閉じる場所にこの部屋を選んだ。主治医を小笠原文雄(68)と決めて訪問診療を受け、みとりも託した。意志の強い妹が1人で練った最期のシナリオ。とうとう終幕なのかもしれない。
6日後の22日朝、その時はやってきた。付き添っていた家政婦が多恵子の呼吸の変化に気付いた。連絡を受け、駆け付けた五島が息のないことを確認。間もなく卓治も到着した。午前10時3分、死亡と診断された。実家が寺だという小笠原が枕元でお経を読む。卓治は「ここまで来られたのはみなさんのおかげです」と目に涙を浮かべた。
多恵子は終末期に向け、金銭の用意も整えていた。亡くなった4月は、22日間で医療と介護の自己負担は約4万円。これとは別に、泊まり込みの家政婦を雇うなど公的保険外のサービスも利用し、約40万円かかった。一連の費用は卓治に預けた自己資金で賄った。
相当な額だが、主治医の小笠原は「お金がなくても穏やかな在宅死は可能だ」と言う。睡眠薬を投与して夜は患者に眠ってもらう「夜間セデーション」を施せば、患者は熟睡できる上、家族らが付き添うこともない。家政婦を雇うなどケアにかける費用は節約できる。セデーション実施により、月約7万円の年金で暮らす単身女性をみとった経験もあるという。
亡くなるまでの療養の場を自ら選び、経済的な面でも準備していた多恵子。死亡した後の道筋も付けていた。
(敬称略)
(5)死後の”指示書”
火葬、納骨 NPOに依頼
愛知県一宮市のNPO法人「ひだまりの和」の副理事長、宮本博(58)が、がん療養中たった竹山多恵子(仮名)と初めて顔を合わせたのは今年1月のことだ。多恵子が67歳で亡くなる3ヵ月前。自らの火葬や納骨の依頼を受けた。面談を重ね「なるべく周りに迷惑がかからないようにして」と強く念を押された。
多恵子は自分が死ぬことで、たった1人のきょうだいである兄の卓涓(72)=仮名=や、岐阜市内で借りていたマンションの所有者の手を煩わせたくないと考えていた。
ひだまりの和を紹介したのは主治医の」小笠原文雄(68)だ。身寄りのない高齢者の入院や施設入所で身元保証を請け負ったり、日常生活を支援したりするNPO。こうした事業では預託金を流用し問題化した団体もあるが、高齢化でニーズは増えている。3月、火葬と納骨を代行する「死後事務委任契約」を約45万円で多恵子と交わした。
4月22日、多恵子が死亡したとの連絡を受け、NPOの宮本らは医師から死亡診断書を受け取り、葬祭業者と連携し死に届を市役所に提出。翌23日の火葬許可を取った。
火葬当日。宮木はノーネクタイで多恵子が横たわる部屋を訪れた。「亡くなったことが周囲に分からないようにしてほしい」と言っていた多恵子の遺志を尊重し、喪服姿は避けた。遺体をひつぎに納め、目立たない黒塗りのワゴン車でマンションから運び出した。
納骨には、宮本ら職員2人と兄の卓涓の計3人で臨む予定だったが、火葬場に足を運んだ卓治の子どもと親友2人も立ち会いを望んだ。医師と僧侶の資格を併せ持つ小笠原の実家、岐阜県羽島巾の伝法寺へと全員で向かった。本堂で卓治の手によって骨が納められた。
「よく全部決めたと感心する」。そう話す卓治の手元には「通夜・葬儀はやらない」「物の処分方法」などと書かれた5枚の紙がある。臨終後の手順のほか、財産や家具一つ一つの扱い方まで、生前の妹の希望を卓治が書き起こした”指示書”だ。残された兄は、これに沿ってマンションを解約し、遺品の整理を進めている。
(敬称略)
× ×
この女性の場合、兄がいて、本人の経済力もあった。次回からは、全く身寄りがなく生活保護を受けていた女性の最期を振り返る。
(6)ヘルパーが遺体発見
家族なく生活保護受給
晩秋の空には次第に雲が広がり始め、長野県諏訪市は午後になると急に肌寒くなってきた。2013年11月26日。諏訪赤十字病院・訪問看護ステーションの看護師長高橋光子(59)は、藤田葉子(仮名)が1人で暮らすアパートに急いでいた。
重い関節リウマチなどでほぼ寝たきりの状態が1年ほど続いていた葉子はその日の朝、ひっそりと70年の生涯を閉じた。
約10年前から生活保護を受けていた。連絡できる家族はなく、葬儀はしない。亡きがらは、研究用に「献体」を登録していた松本歯科大(同県塩尻市)に送られる。
葉子宅に向かう軽自動車の助手席で、高橋は前日の記憶をたどった。担当看護師からは「昼すぎにトイレで大量に吐き、緊急訪問した」と報告を受けていた。葉子が夜間に吐しや物を喉に詰まらせないか気掛かりだった。3日前に通所介護事業所でデイサービスを利用した際も「具合が悪い」と入浴を断ったようだ。・高橋は介護ヘルパー事業所に、様子に注意するよう引き継いでいる。
この日もデイサービスの予定が入っていた。午前8時前、長年担当してきたヘルパー(49)が玄関で「おはようございます」と声を掛けたが、いつものような返事がない。部屋に上がりベッドに近寄ると、葉子の体は温かく顔色も良かったが、息をしていない。
訪問看護ステーションから看護師(43)が駆け付けた。少し後に到着した主治医(69)の診断では、死因は急性心不全。口の中はきれいで、高橋が心配していた嘔吐に伴う窒息ではなかった。眠っているように穏やかな顔たった。
連絡を受けたケアマネジヤーや別のヘルパー、市役所で生活保護を担当する職員らが入れ代わり立ち代わりやってきた。二間しかないアパートの部屋は葉子に関わった人たちでごった返した。最期を発見したヘルパーが「これがいいかな」と葉子の好きだった紫色の洋服を選び、看護師が丁寧に着せた。
午後11時ごろ、献体先の歯科大から黒色のステーションワゴンが到着。友人やヘルパーら10人余りが寒空の下、遺体の搬送を見送った。その列にいた高橋らに、ひつぎを運び出した大学職員が近寄ってきて頭を下げた。「(単身者の献体の場合に)こんなに大勢に送ってもらえる方はなかなかいないです」
(敬称略)
(7)施設拒否 思い貫く
「恩返し」にと献体登録
長野県諏訪市のアパートで見守る家族もいない中、70歳で息を引き取った藤田葉子(仮名)は、どんな人生を送ってきたのだろう。
太平洋戦争中の1943年生まれ。親しい友人には「生みの親の顔は知らない。首都圏の米軍基地近くで養女として育てられた」と話していた。
美容師の資格を取り、結婚して1男1女を授かったというが、子どもたちが成人する前に家を出る。各地を転々としたらしいが、詳しい事情は語らなかった。諏訪市に移ってきたのは1996年ごろだ。精密機械工場やそぱ店で働いた後、55歳で病院の清掃業務を請け負う仕事に就いた。
気心の知れた仕事仲間もでき、数年が過ぎたころ。関節リウマチを発症して旱朝出勤ができなくなり、早退や欠勤が増えた。収入が激減し、借金を相談した友人の説得で2004年から生活保護を受給することになる。61歳の時だ。
病状は徐々に悪化。清掃の仕事も辞めざるを得なくなった06年夏、葉子は市役所のケースワーカーを通じ「字が書けるうちに手続きをしたい」と、献体登録を申し出た。医学研究目的の解剖用に、自らの死後に遺体を大学に寄贈する仕組み。病院清掃の仕事をする中で制度を知ったようだ。
葉子は友人らにオレンジ色の献体登録証をしばしば見せた。「市の世話になっていて、私にできる恩返しはこれぐらい」と話し、生活保護に負い目を感じているようだった。「遺骨を預ける家族もいない。こんな体でも誰かの役に立つのなら」
友人(50)が「お葬式は私たちが出すよ」と言っても「登録してあるから、心配しなくていい」と断った。
その後も入退院を繰り返し、09年に介護保険の利用を申請。その年、短期間だけ特別養護老人ホームに入るが、市の担当者に「うちに帰りたい」と泣きながら訴えた。当時60代半ばの葉子にとって、他の入所者は80~90代と親ほどに年の離れた存在。施設暮らしは耐え難かったのだろう。
12年暮れ、前年に起こした脳梗塞の後遺症もあって寝たきり状態となる。友人や市側か施設入所を勧めても「病院や施設は嫌だ。私はうちで死にたい」と、首を縦に振ろうとしない。では、家族のいない葉子を誰がどう支えるのか。
(敬称略)
(8)「孤独死」ではない
支えられ満足の旅立ち
関節リウマチや脳梗塞の後遺症から、1人暮らしのアパートで寝たきりだった長野県諏訪市の藤田葉子(仮名)。要介護度は最も重い「5」。70歳で亡くなるまで療養生活を支え続けたのは、医療・介護従事者や市のケースワーカーらたった。
訪問看護を含む介護サービスの利用計画を整えたのは、ケアマネジャーの松永正子(66)=仮名=だ。日曜を含め毎日2~4回、ヘルパーが訪問し洗濯や買い物。食事とトイレ介助もこなす。火曜と土曜は入浴を兼ねたデイサービスに。木曜は介護タクシーで整形外科へ通院。金曜に来る看護師が内服薬を管理した。
ただ、葉子は。手のかかる”利用者だった。
気が合わないヘルパーや看護師が担当だと、食事や服薬を受け付けない。細かい点へのこだわりも強い。ストローの角度、トイレへの移乗の仕方、点滴する場所…。少し皮が変色しただけのバナナを食事に出したヘルパーを「そんなものを食べさせないで」となじり、担当から外させた。
ヘルパーの1人は「厳しい生い立ちだから、子どものように甘えたかったのかも」と振り返る。
わがままな自宅暮らしのようにも見えるが、我慢と引き換えでもあった。アパートはトタン屋根で部屋にエアコンはなく、夏は汗まみれであせもに悩まされた。胃炎を起こしベッドで吐いたときも、吐しや物に汚れたまま誰かを待つしかない。首回りは胃液で肌荒れしていた。夜はいつも1人きり。心配する松永に「ゆっくり寝たいからいいの」と強かった。
環境面では施設の方が快適だったろうが、耐え忍んでも「自宅で」という葉子の強い気持ちが支える側を動かしていた。
幸いだったのは、生活保護の受給者だったため、介護や医療の自己負担がなかった点だ。「裕福でなくても、生活保護の場合には理想のみとりが実現できるという面もある」と松永は話す。
事切れた後、訪問したヘルパーに発見された葉子は、紋切り型に言えば「独居高齢者の孤独死」となる。だが多くのみとりに立ち会ってきた松永は、そうは考えない。「1人だからこそ彼女は意志を通せた。多くの人に支えられ、満足して旅立ったと思う」
亡くなった日、遺体搬送の見送りに10人以上が集まったことが、孤独ではなかったことの証したろう。
(敬称略)
=おわリ=