戦後70年、平和を誓い 全戦没者追悼式
知事、辺野古移設中止訴え
(琉球新報)2015年6月23日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-244692-storytopic-1.html
翁長知事「沖縄慰霊の日」辺野古新基地建設はできない【全】6/23
https://youtu.be/DLnZQJW3ShE
平和の礎
さとうきび畑 沖縄ライブ 新垣勉
https://youtu.be/m3gCG3xIFC8
「沖縄戦」70年
「慰霊の日」を前に
(しんぶん赤旗)2015年6月20~22日
太平洋戦争末期、凄惨(せいさん)な地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」から今年で70年を迎えます。糸満市摩文仁(まぶに)の「平和の礎」の刻銘碑には、今年新たに87人の戦没者の名前が刻まれ、合わせて24万1336人となりました。沖縄県が全戦没者を追悼する「慰霊の日」の6月23日を前に、沖縄戦の実相を振り返ります。
腕もげかかった遺骨■未成年の学徒兵
新基地戦死者への冒瀆(ぼうとく)
「沖縄戦」の戦死者の遺骨を33年にわたって発掘している人がいます。沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さん(61)=那覇市=です。
「ガマフヤー」とは沖縄の方言で「壕(ごう)を掘る人」。作業では、遺骨の周囲の土を竹串やはけを用いて丁寧に払い、掘り下げていきます。
具志堅さんは本土復帰後、所属するボーイスカウトからの依頼で全国各地から来た遺族の遺骨収集を手伝います。28歳のときでした。
足元の土を数センチ、手でどけると、原野に眠っていた遺骨がごろごろと姿を現しました。
勇気ふり絞り
強い衝撃。そして「遺族でもない僕が遺骨を触っていいのか」-。この疑問が頭から離れず、二度と手伝うまい」、そんな気持ちにもなりました。しかし、冷たい冬の雨が打ちつけるなか、おばあさんがわが子を搜すために熊手を持ってヨタヨタと歩く後ろ姿が目に焼きついたままでした。
「少なくとも若い僕の方が多く掘り出せる」。具志堅さんは勇気をふり絞り、再び遺骨の発掘を始めました。
現場からは遺骨とともに、手りゅう弾、銃弾、水筒、軍靴などの装備品や、眼鏡、万年筆、印鑑、お守り用の五銭硬貨などの遺品が見つかります。「全身を浮かび上がらせることで、亡くなった人の最期の姿がわかると思うんです」
2009年、激戦地だった西原(にしはら)町で見つかった旧日本兵の遺骨5体は、ほぼ完全な状態で発見。砲撃で腕がもげかかった遺骨、手りゅう弾で「自決」し、胸部から腹部が吹き飛んだ遺骨、未成年の県内学徒兵とみられる遺骨もありました。うち1体はうつぶせのまま、茶わんに指を入れた状態でした。「負傷兵は最期まで、生きようと、水を飲みたかったに違いない…」(´ω`)
実相見つめる
沖縄戦の体験者が年々減っていくなか、「戦死の実相をじかに見つめることで、〃もの言わぬ証言者”の訴えを多くの若者に感じてほしい」。具志堅さんは現在、沖縄大学の地域研究所特別研究員として、学生たちと「沖縄戦」の遺品の記録・保存に取り組んでいます。
昨年から、「沖縄戦」直後、本島北部に米軍が基地建設のために造った強制収容所の埋葬跡地の発掘を始めています。名護市辺野古の米軍新基地建設に向けた作業が進む米軍キャンプ・シュワブ内にあった大浦崎収容所もその一つです。
「劣悪な収容所で多くの住民が飢えやマラリアで亡くなった。戦争の犠牲者の遺骨の上に新たな戦争のための軍事基地を造る。これは戦死者に対する冒涜以外の何物でもありません。辺野古新基地は道義的にも絶対許されない」。具志堅さんは大浦崎収容所の発掘調査を求めています。
(つづく)
15歳鉄血勤皇隊に
負傷者担ぎ摩文仁を目指した
第2次世界大戦末期の1945年3月、軍の命令で、沖縄師範学校の鉄血勤皇隊が結成されました。学校長を責任者とする本部隊、現地で日本軍第32軍の兵士と一緒に陣地を構築する野戦築城隊、軍司令部が作成する情報を民間に宣伝する情報宣伝隊、切り込み隊などが編成され、2等兵と同じ扱いでした。
当時15歳たった古堅実吉(ふるげん・さねよし)さん(85)=元日本共産党衆院議員=は、自活班に配属されました。師範隊300人の食事を賄う任務です。当初、民家を回って食糧を調達することもしましたが、米軍の攻撃が激しくなり、司令部壕(ごう)で使う電気をつくる発電機の冷却水確保に任務が変更されました。
犠牲者埋める
5月4日、発電機のそぱにいた西銘武信さんが至近弾で命を落としました。古堅さんは「冷却水をためたドラム缶のそばで、何か倒れる音がした。見たら彼がやられていた。首が半分、肩もえぐられて、即死だった。弾がドラム缶を突き抜け、ドラム缶に肉片が残っていた」といいます。翌日、近くの畑の脇に穴を掘って埋め、目印に石を置きました。
「戦後、埋めた地域を探したが、手がかりはなかった。地形がすっかり変わっていた」
主力部隊を失った32軍司令部は5月27日、首里(那覇市)を放棄し、摩文仁(まぶに=糸満市)の洞窟に移りました。師範隊もその後を追いました。歩けない者は残して行けという軍の指示でしたが、負傷者を残して行くことは忍び難く、交代で担いで摩文仁を目指しました。
「幸い砲弾にあわず、無事にたどり着いた。負傷した彼は生き残り戦後、高等学校の校長をやった。毎年、慰霊の日に顔を出してくれるのは何よりうれしい」
泣いていた子
摩文仁では海岸の岩下に隠れました。夕方になると艦砲射撃がやんだため、「艦隊の夕食時間だ」といって、急いでサトウキビを取りに行きました。
戻る途中、小学校4、5年くらいの女の子と頭を抱えた男の子の2人が立って泣いていました。どうしたのか聞くと、黙って後ろを指しています。お母さんが倒れていました。艦砲射撃の餌食になったのでしょう。古堅さんは、2人を岩陰に連れていき、サトウキビを分けてあげ、ここでじっとしているよう言い聞かせて、後ろ髪をひかれる思いで立ち去りました。
摩文仁の丘に建つ「沖縄師範健児の塔」には309人の名前が刻まれています。多くは、首里を離れた後に亡くなりました。
「32軍が首里で主な兵力を失った時点で降伏していれば、その後の幾万という人が亡くなることは避けられたはずだ」。古堅さんは無念の胸中を語りました。
(つづく)
サイパン戦 弾雨の中逃げ回った
基地あれば戦場に
第2次世界大戦の敗戦後、母、弟と3人でサイパンから引き揚げてきた体験のある沖縄県宜野湾(ぎのわん)市在住の横田チヨ子さん(86)は2日、新基地反対のたたかいが続く名護市辺野古の米海兵隊基地キャンプ・シュワブのゲート前で抗議の座り込みをしていました。
71年前の記憶
昨年7月から辺野古を訪れるようになったという横田さん。ゲート前に足を向けさせたのは71年前の戦争の記憶でした。
第1次世界大戦後、日本の委任統治下にあったサイパンに、サトウキビ栽培や製糖業などに従事するため、多くの沖縄県出身者が海を渡りました。横田さんも3歳のとき、一家でサイパンへ移住しました。
1941年、太平洋戦争突入。サイパン、テニアン、グアムのマリアナ諸島は日本軍の「絶対国防圏」の要所とされました。
米軍の攻撃が激しさを増し、44年6月、米軍がサイパンに上陸。横田さんは家族とともに艦砲射撃や空襲の中を逃げ回りました。
「弾が雨のように落ちてくる修羅場」でした。
戦場は日本軍の兵隊と民間人が混在。「見つかるから子どもを泣かすな。殺せ」と日本兵に迫られ、横田さんの義理の姉は拒否できず3歳の子に手をかけました。(゚o゚;;
追い詰められて手りゅう弾で命を絶ったり、崖から身を投げたりして、多くの民間人が犠牲になりました。「持だされた手りゅう弾は三つ。ピンを口で抜いて一、二、三でパツと投げる。2個投げてダメなら、最後の1個で自爆するのです。捕虜にはなるなとたたき込まれていました」
父と兄を失い
山の中を約2ヵ月間さまよいました。父と兄は迫撃砲の砲弾で亡くなりました。横田さんも機銃掃射を受け、右脇腹を弾が貫通し、破片で右ふくらはぎを負傷しました。自ら命を絶とうとしましたが、死に切れませんでした。
戦争法案を強引に進め、新基地建設を強行する安倍政権。今の状況は、戦争が押し掛けて来たあのサイパンの状況と同じようになってきているといいます。
「基地があるところが攻撃され、戦場になる。戦争を知らない若い人たちにはピンとこないかもしれませんが、私たちはそれを経験していますから」
毎年、サイパン、テニアンに足を運び、祈りをささけています。そのサイパンに似ている美しい海、大浦湾。ここに基地を造らせていいのか、私と同じ経験を子どもたちにさせていいのか。「基地がなく戦争がなければ父も兄も死なずにすんだ」。その思いで辺野古に来ています。
「慰霊の日」には、那覇市の識名(しきな)霊園にある、南洋群島で犠牲になった1万2826人が合祀(ごうし)されている「南洋群島沖縄県人戦没者並開拓殉難者慰霊碑」で平和を祈ります。
(おわり)
(この連載は沖縄県・星野淳、尾崎吉彦、柳沢哲哉が担当しました)
南洋群島沖縄県人戦没者並開拓殉難者慰霊碑
Battle of Okinawa/沖縄戦
https://youtu.be/ztzuwCX5lWk
まさに狂気だ!(゜д゜)
(閲覧注意)
Battle of Okinawa 沖縄戦
https://youtu.be/a7u7zdR8Sbs
https://youtu.be/JS64LDgz-E8
必見です!
戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった
http://dai.ly/x2jcfi4
戦闘機が急降下し、家々の屋根すれすれから機関銃を放つ。走る列車が被弾し火花が散り、駅舎が燃え上がる。機銃は何発も何発も発射され、学校の校庭に着弾して土煙が上がる。
70年前、日本中のあらゆる街が空襲を受けた。
原爆投下や東京大空襲…大規模な空襲に隠れ、余り顧みられてこなかった機銃掃射を中心とする空襲。
その様子は、全て米軍の戦闘機の翼などに設置されたカメラ=ガンカメラに、映像として捉えられていた。
多くは鮮明なカラー映像で、機銃の引き金を引くと同時に録画が開始される仕組みだ。
低空で撮影された映像には、はっきりと当時の街が攻撃される様子が映っている。
ガンカメラ映像の分析を手がけるのは若い研究者たちだ。40代1人、20代2人のあわせて3人。彼らは米国から映像を取り寄せる。
米国側の映像の整理は行き届いているとは言い難い。それがどこの空襲映像なのかを特定することは、知識と経験のある人が、丹念に調査しない限り難しい。
「映像を見れば、戦争を経験していない我々のような人でも、日本全土が攻撃されたことを実感できるのではないか」。
http://dai.ly/x2jcnol
証言を集めるうち、私たちは犠牲になった人々に改めて思いを馳せる。
ガンカメラ映像には、列車や駅が撃たれるシーンが多数登場する。鉄道は日本の重要な輸送路。連合軍はそれをターゲットにしていた。そしてその列車には、多くの人々が、様々な目的で乗っていた。鉄道への空襲は、そうした人々の運命を、一瞬にして変えた。
単独の列車が狙われた最悪の空襲は東京の中央線、高尾山の麓にある「湯の花(いのはな)トンネル」の入り口で起きた。乗り合わせた疎開中の若い姉妹の運命は分かれる。家族の今も続く悲しみを、取材を元に制作したドラマと、実際の証言を織り交ぜたドキュメンタリーを組み合わせたドキュメンタリードラマで描く。
ドキュメンタリー部分の取材は、番組全体のナビゲーターである佐藤浩市が担当。遺族や目撃者らに話を聞く。ドラマでは、杉咲花と福田麻由子が若い姉妹の役を演じ、飯田基祐と奥貫薫が姉妹の両親の役を演じる。戦争で犠牲になるのはいつも市井の人々だ。
↧
沖縄戦70年
↧