93歳 寂聴さん国会前へ
戦争法案反対集会で訴え “寝てはいられない”
(しんぶん赤旗)2015年6月19日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-06-19/2015061901_02_1.html
20150618 戦争法案反対国会前集会で瀬戸内寂聴さんが訴え
https://youtu.be/g1gUUa6MEys
憲法だけ、米国の「押しつけ」と主張するのはなぜ?
(東京新聞【こちら特報部】)2015年6月12日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015061202000189.html
安保関連法案は国会で審議中だが、骨子は四月に米国政府と合意した「新たな防衛協力指針(新ガイドライン)」に示されている。国会審議の前に米国と約束とは国民主権の無視もはなはだしいが、こうした自民党の対米追随姿勢は枚挙にいとまがない。環太平洋連携協定(TPP)交渉もその一つだ。ところが、現行憲法だけは「米国の押しつけ」と例外扱いだ。このねじれは何を意味しているのか。
(榊原崇仁、三沢典丈)
オスプレイ配備・基地問題・TPP…も米圧力
安保関連法案の主な中身は、米政府と再改定で合意した新ガイドラインの内容を色濃く反映している。
新ガイドラインで「日本の平和・安全に重要な影響を与える事態」で日米協力を可能にすると定めたことを踏まえ、周辺事態法改正案では自衛隊の活動範囲の地理的制限を撤廃。武力攻撃事態法の改正案も、集団的自衛権の行使要件として「存立危機事態」を挙げた新ガイドラインの内容がそのまま盛り込まれた。
米国への従順さは、今に始まったことではない。
一九九一年の湾岸戦争で日本は多国籍軍側に百三十億ドルの財政支援をしたが、米国に「小切手外交」と非難されたため、国連平和維持活動(PKO)協力法を整備。二〇〇一年には、米軍などのアフガニスタン攻
撃の支援にテロ特措法を成立させ、海自がインド洋で給油を実施。○三年にはイラク復興支援特措法に基づき、自衛隊を「人道派遣」したが、米国の要請で戦地のバグダッドへ多国籍軍の兵士を輸送していた。
最近では、「欠陥機」という指摘もある米国製の垂直離着陸機MV22オスプレイの購入を決定。防衛省は佐賀空港を拠点に十七機を順次配備する計画だ。
基地問題をはじめとして米軍の駐留にも、常に平身低頭だ。日米安保条約に基づく日米地位協定で、米兵らの特権が認められていることは周知のところだ。
七二年の沖縄返還の裏で「米国が自発的に支払う」とされた米軍用地の原状回復費四百万ドルを日本側が肩代わりする密約が交わされた。
日本側が負担する在日米軍駐留経費の一部である「思いやり予算」は、二〇一四年度では千八百四十八億円(防衛省)に上る。
「押しつけ」は軍事、防衛分野にとどまらない。
米国が旗を振るTPPの締結をめぐっては、自民党は一二年末の衆院選で「『聖域なき関税撤廃』を前提にする限り、交渉参加に反対」と公約に掲げた。
しかし、安倍首相は第二次安倍内閣成立から間もない一三年三月、一転して交渉参加を表明した。(`・ω・´)
そもそも米国は毎年「年次改革要望書」という文書を示して、規制緩和を「指南」してきた過去がある。大型店の出店を規制する大規模小売店舗法の廃止が実現されたほか、郵政民営化についても要望書の内容を踏まえ、小泉純一郎元首相が実現している。《゚Д゚》
例を挙げれぱきりがないが、自民党は日本の主権が疑問視されるほど米国に従順なのに、なぜか憲法だけは例外扱いしている。
同党が四月に発表した改憲推進漫画には「憲法の基を作ったのがアメリカ人」で、改憲抜きには「いつまでも敗戦国」と記されている。その主張の妥当性はともあれ、現実の米国追随外交と「反米」的な改憲論はどう接合しているのか。
失敗した 戦後の自立戦略
「対米従属が日常化」
「不満の代償憲法憎悪」
識者たちはこうみる。
思想家の内田樹氏は「戦後の社会制度は憲法だけでなく、教育、医療、土地など国家体制全部が米国の押しつけ」と指摘したうえ、憲法を例外扱いする思考の背景には、日本の外交戦略の失敗があると考える。
内田氏は「与党の政治家たちは戦後、対米従属を通じて主権や国土の回復を図るという『迂回(うかい)戦術』を受け入れざるを得なかった」とみる。一方、米国側の戦略について、京都精華大の白井聡専任講師(政治学)は天皇制の温存や戦前戦中の支配層の戦争責任を曖昧にする「敗戦の否認」を日本側に与えることで、日本を円滑に従属国として統治してきたという。
その後、米ソ冷戦の激化に伴い、米国は戦略を変更する。だが「米国は朝鮮戦争で日本に再武装を求めたが、時の首相の吉田茂は九条を理由に本格的再武装を拒否することができた。ベトナム戦争の時も出兵を回避できた」(白井講師)。
八〇年代半ばに転機が訪れたと内田氏はみる。戦争体験者が表舞台から退くとともに、日本側が対米従属に身を乗り出した。「主権回復の方便だった対米従属が日常化し、国策を自己決定するという主権国家の意識が消えて、米国が許諾しそうな外交政策しか起草しなくなった」 (内田氏)
そうした中、自民党のタカ派には固有の感情が残ったと内田氏は指摘する。「タカ派には明治維新から戦前まで、軍事力を背景に列強に対抗できたという成功体験の幻想から「主権国家とは戦争ができる国」との妄想が生き残っていた」
内田氏によれば、冷戦後に弱体化した米国は日本に軍事的負担を分担させようとしてきた。しかし、同時に独自の国防戦略を持つことは許さない。その結果。「タカ派は軍事的に対米従属しつつ、武力行使することで、戦争できる国=主権国家を目指すことにした。戦争で手が血で汚れれば、主権が回復されるかのように、主権の意味を矮小化した。米国の属国にもかかわらず、主権国家であるかのように自己確認したいという倒錯した意図に基づいている」と説明する。
「憲法は押しつけ」論はこうした背景を隠す演出だという。ただ、米国も否定しない。「なぜなら、日本を軍事戦略に組み込みたい米国の障害は憲法九条。米国は改憲を許諾するに決まっている」(内田氏)
白井講師は「安倍首相らも米国の意向を忖度(そんたく)することでしか、ものを考えられないほど深く従属している。一方、米国の置き土産
である憲法を憎悪する。彼らにとって戦力不保持は耐えがたいコンプレックスとなり、隷属による不満の代償として憲法を憎むのだろう」と説く。
その上で「首相は『戦後レジームからの脱却』と言いながら、その出発点のポツダム宣言さえ読んでいない。読みたくないのだろう。世襲の中で権力が劣化してしまった。『押しつけ憲法』を嫌えば嫌うほど対米従属を深めることになるという基本的な仕組みを理解していない」と言う。
白井講師は「押しつけは憲法だけじゃない。『対米従属』『戦前からの支配層の維持』という戦後日本の体制も米側の思惑が具体化されたもの。押しつけが嫌なら、戦前戦中からの支配層の系譜に属する首相は身を引くべきだ。でも、そうしない。彼らは単なるご都合主義者だ」と皮肉る。
対米従属下で軍備を増強し、最終的に米国と肩を並べるような「帝国の復興」を夢描くことも「非現実的。そんなカネがどこにあるのか」と突き放す。
内田氏は「戦争ができる国になる許可を米国からもらうことを自立と信じる人たちが、安保法制の成立を急いでいる。壊してよいと許されたものを壊し、満足したいだけだ」と話した。
樺美智子 - Wikipedia
ほしいのは改憲への白紙委任状?
安保法制「議論」を解く
(東京新聞【こちら特報部】)2015年6月4日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015060402000173.html
この間の安保関連法案の国会質疑を聞いて「分からない」と思った人は少なくないはずだ。まともな反応だ。政府答弁は「ご都合想定」「二転三転」「論理破綻」「意味不明」などのオンパレード。とても国民に理解を求めているとは思えない。むしろ、「分からない」国民から白紙委任状を取り、法案を成立。その後は憲法と合わないという理屈で改憲に突き進む…そんなシナリオが透ける。
(篠ケ瀬祐司、林啓太)
安保法制国会答弁
他国領域で武力行使 「例外」増殖、危険否定
そもそも話が分からないのは、政府の示す想定自体に無理があるからだ。
集団的自衛権の行使容認を閣議決定するため、安倍首相は昨年五月、記者会見でその趣旨を説明した。
そこでは赤ちゃんを抱く母親らが米艦に乗る説明図を掲げ、現在の憲法解釈では自衛隊が米艦を守れないとし、必要性を強調した。(?_?)
今国会で、首相は「他国の領域で武力行使しない」と言いつつ、例外として中東・ホルムズ海峡での機雷掃海活動を挙げている。
「受動的、制限的」と説明しているが、米軍の規定では能動的な武力行使だ。
同志社大の内藤正典教授(現代イスラム地域研究)はこうした想定は「あり得ない」と切り捨てる。
「常識で考えて、避難民は戦火をくぐって米艦に向かう前に、民間機で退避する。機雷も誰がまくのか。海峡を通さないと石油を積み出せない産油国は、自分の首をしめはしない」
では、なぜそうした想定を提示するのか。内藤教授は、国会や国民に「白紙委任させるための単なるアリバイづくり」と批判する。「結局、過去にやったことのある機雷掃海で仕方がないと思わせ、後はいろいろな形で(集団的自衛権を)使おうと考えているのではないか」
◇ ◇ ◇
「他国の領域で武力行使をしない」なる説明のメッキもすぐはがれた。
「例外」という言葉が次第に増え、首相は他国領海で米艦が攻撃された際、日本が反撃する可能性を否定しなくなった。内閣法制局長官は憲法解釈で、敵基地攻撃が許されないわけではないとまで答えた。
転がり続ける答弁の最たる例は、先月二十八日の特別委での岸田文雄外相の答弁だ。外相は軍事的な影響がなければ、自衛隊が他の国の軍を後方支援する重要影響事態とは考えないと答えた。だが、今月一日の答弁では「軍事的な観点を含めて」判断すると、軍事的影響なしでも、後方支援が可能と軌道修正した。
そうした中、「自衛隊員のリスク(危険)は増えない」という点だけは懸命に繰り返している。首相に至っては「(安保)法整備により、国全体や国民のリスクが下がる」と、露骨に論点をずらした。(ーー゛)
自民党国防族の岩屋毅衆院議員ですら「リスクが増える可能性があるのは事実だ」(一日、特別委)と言明しているが、軍事ジャーナリストの前田哲男氏は四月の新日米防衛協力指針(ガイドライン)に真相が示されているという。
「例えば、ガイドラインには『米国による戦闘捜索・救難活動への支援』がある。墜落戦闘機のパイロットの捜索などだ。新法は『戦闘』を抜いて『捜索救助活動』とし、非戦闘地域で実施するが、救助を始めていれば、戦闘地域になっても継続できるとある。戦闘現場での活動が続く可能性がある。リスクが増えないなどナンセンスだ」
極まる無責任
国民無視 首相、やじ謝罪もおざなり
議論は論理的であってこそ、初めて成立するが、その土台もぐらぐらだ。例えば「武器使用」と「武力行使」の違いがそうだ。
先月二十七日の特別委で柿沢未途衆院議員(維新)が「武力の行使と武器の使用の違い」が分からないと詰め寄ると、中谷元・防衛相は、それでは議論にならないとあざけった。
ただ、柿沢氏の指摘は当然だ。安保法制が成立すれば、自衛隊は海外で後方支援や治安維持活動を担う。そこで「敵」に襲われることになれば、反撃する。これは事実上の戦闘だ。それでも「武力行使」ではなく「武器使用」扱いだ。
政府は過去の自衛隊派遣に絡み、武器使用と武力行使の違いを定義した。海外での武力行使は憲法九条に抵触するため、自衛隊員が自身を守るための武器使用は武力行使とは異なるという理屈をひねり出した。
だが、国連平和維持活動(PKO)の現場では双方に違いはない。まして、相手方からは同一だ。政府の論理の方がもともと破綻しており、海外活動がエスカレートしても、その理屈を押し通そうとしている。
◇ ◇ ◇
質疑が核心に迫ると、意味不明の説明でけむに巻く手法も多用されている。
首相が先月二十八日の特別委で説明した外国軍の後方支援を許容する重要影響事態の判断基準はこうだ。
「事態の個別具体的な状況に即して、主に、当事者の意思、能力、事態の発生場所、また事態の規模、態様、推移をはじめ、当該事態に対処する、日米安保条約の目的の達成に寄与する活動を行う米軍、その他の外国の軍隊等が行っている活動の内容等の要素を総合的に考慮をして、わが国に戦禍が及ぶ可能性、国民に及ぶ被害等の影響の重要性等から、客観的、合理的に判断することとなる」?ᐠ( ᐝ̱ )ᐟ?
何を言っているのか、分かる方がおかしい。ただ、「総合的な考慮」や「客観的、合理的な判断」を政府がすると言っていることは分かる。つまり、全権委任せよと言っているようにしか聞こえず、国民の意思が入るすき間はない。
◇ ◇ ◇
安保関連法案が成立すれば、自衛隊員が背負う危険は高まる。派兵され、仮に死傷した場合、あるいは相手を殺し、傷つけた場合、「国会の答弁」と違うといっても政権が責任を検証するとは考えられない。その分、居丈高なのだろう。
日本も支持した○三年のイラク戦争では、米英が開戦の根拠としたイラクの大量破壊兵器はなかった。
英国などは後に責任追及したが、首相は昨年五月、国会で「累次にわたる国連決議に違反をしたのはイラク」と言い放った。
過激派組織(イスラム国IS)」による人質事件をめぐる政府対応も当事者の官僚らが「検証」。そもそも、福島原発事故の刑事責任ですら問われない。
戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏は安倍政権の「強気」について「メディアが報じないので、無理をしても政権が転覆するほどの反発は起こらないと、高をくくっている」とみる。
ゴールは改憲だが、山崎氏は「国民は改憲のインパクトを十分に認識していない。軽い気持ちでゴーサインを出してしまいかねない」と危ぶむ。
先月二十八日の特別委で、首相は辻元清美衆院議員(民主)に対し、「早く質問しろよ」とやじったのに自説を延々と述べて、私に答弁する機会を与えなかった」と釈明した。
やじが飛んだのは、質疑の想定時間の終了前後だった。民主党関係者は会派の持ち時間の範囲内であり、首相の釈明自体が虚偽だと激しく非難した。
そもそも、議員は国民を代表して質疑権を持ち、閣僚は答弁の義務を負うという関係だ。国民の声は首相の耳には届いていない。
安保法案「立憲主義の危機」シンポ 土台変えては建物は建たない
(東京新聞【こちら特報部】)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015061002000150.html
集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案について、そもそも「憲法違反だ」という意見が、憲法学者らの間でますます強まっている。憲法学者や政治学者らでつくる「立憲デモクラシーの会」が六日に東京都内で開いた「立憲主義の危機」と題した集会には、千四百人を超える聴衆が詰めかけ、この問題に対する関心の高さがうかがえた。佐藤幸治京都大名誉教授、樋口陽一東京大名誉教授、石川健治東京大教授の三人によるパネルディスカッションの模様を当日の熱気とともに紹介する。
(三沢典丈、榊原崇仁)
■参加者の4氏
■佐藤幸治
さとう・こうじ 憲法学。 1937年生まれ。日本学士院会員。政府の司法制度改革審議会会長や行政改革会議委員も務めた。
■樋口陽一
ひぐち・よういち 比較憲法学。 1934年生まれ。東北大、東大、早大、パリ第2大などで教授・客員教授を歴任。
■石川健治
いしかわ・けんじ 憲法学。 1962年生まれ。東大卒。東京都立大法学部助教授、同教授を経て現職。
■杉田敦(司会)
すぎた・あっし 政治学。 1959年生まれ。原発稼働の是非を国民投票で決めるよう求める運動にも関わる。
■基調講演
佐藤幸治・京大名誉教授
日本国憲法は、人権を保障し、立憲主義をよく具現化した憲法となった。占領軍による押しつけだと言われるけれども、政府や国民が軍国主義や全体主義にからめ捕られた理由を考えていけば、自分たちの手でも日本国憲法に近いものをつくったに違いない。
私は日本国憲法の個別的事柄について修正を加える必要があることを否定しない。しかし憲法の根幹を安易に揺るがすようなことをしない賢慮が必要だと強く思う。土台がいつ、どのように変わるかわからないようなところで、立派な建物を築けるはずがない。
根幹を全部変えてしまう発想はイギリスにもない、米国にもない、ドイツにもない。いつまで日本がぐだぐだ言い続けるのか。それを思うと本当に腹立たしくなる。土台がしっかりしているから、法律によって憲法の内容を豊かにすることができる。
冷戦の終結とともに世界の様相は大きく変わった。不確実性が増え、世界が不安定化を強めている。大胆な政策とか、強力な指導力の顕示が受い入れられる傾向があるのは否定できない。しかし根底的に一番大事なのは、人間の自制力だ。一時の思いに駆られて情動的に動くのではなく、何か大事かということを絶えず考えることが必要だ。
杉田敦法政大教授
昨今、政権に近い人たちから、憲法九条がなくても日本は平和だったという議論がされているが、何の根拠もない。われわれは憲法がある歴史を生きてきた。だから、憲法について考えるには、立憲主義が不十分だった時代と比較することが、唯一の手段。この観点から、立憲主義について歴史的に考えたい。
樋口陽一東大名誉教授
日本の近代化は戦前まで、立憲主義がキーワードだった。ところが、戦後はひたすら民主主義を唱えていればいいという時代があった。立憲主義と民主主義は場合によっては反発し合う。民主主義とは、人民による支配であり、憲法制定権力になる。一方、立憲主義は人間の意思を超えた触れてはならないものがあるとの考え方に基づく。そんな立憲主義と民主主義のぶつかり合いをどう近づけ、具体的な統治制度をつくり、政治的な決定をしていくのか。
この観点から、七十年前の八月十五日の意味をどう受け止めるか。それがポツダム宣言にある「(民主主義的傾向の)復活強化」の言葉にある。世界史からの要請でもあった。戦前の帝国議会の議会人たちの尊敬に値する行動があって「復活」したのが日本国憲法だった。明治憲法にはない個人一人一人の尊厳が盛り込まれたのが「強化」のポイントだ。この土台を簡単に動かしてはならない。
石川健治東大教授
問題提起したい。合憲と違憲とは別次元で語られる立憲と非立憲の区別についてだ。京都帝国大の憲法学者、佐々木惣一(一八七八~一九六五年)が、違憲とは言えなくても「非立憲」という捉え方があると問題提起した。今、ここに集まってこられた方は今の政治の状況に何とも言えないもやもや感を抱いていると思う。そのもやもや感を「非立憲的」と表現した。まさに今、非立憲的な権力と政権運営のあり方が、われわれの目の前に現れているのではないのか。
佐藤幸治京大名誉教授
戦後は、国民が憲法制定権力となって国のあり方を決めようということになった。決めたものがぐらぐら揺れていては、社会は決して良い方向には向かわない。自由平等な人間がお互いに議論して決めたことは、大事に守っていかなければならない。それが、立憲主義の根幹にある。米国にもメイフラワー誓約があり、米国人の精神の根源となっている。佐々木が言った非立憲とは立憲精神に反するということで、特に政治家はやってはいけないことだ。
杉田氏 安倍政権の安保法制の進め方や改憲案は、現行憲法の土台まで変えてしまおうという内容だ。現在の政治状況をどう見るか。
樋口氏 現政権はまず憲法九六条を変え、改憲発議に必要な国会議員数三分の二というハードルを下げようとした。まずこれが非立憲の典型。安保法案は提出方法そのものが非立憲だ。国民が集団的自衛権の議論に飽きたころに法案を提出し、国民に議論を提起せずに、憲法の質を丸ごと差し替える法案を提出した。さらに安倍晋三首相は米国の議場で、日本の国会に提出もしていない安保法案について、夏までに必ず実現すると語った。これは憲法が大前提としている国民主権にも反する。
石川氏 憲法の側から枠をはめ、その枠の中で法律ができ、法の枠内で行政が動くのが本来の道筋だが、現在はその逆。安全保障という目的のためにどういう手段が必要かという行政の思考を優先してまず法律をつくり、それに合わせるように憲法まで変えようとしている。これはまさに非立憲的な事態だ。
「お試し改憲」論も、日本国民の皆さんに改憲に慣れてもらおうという発想だが、そもそも改憲は「お試し」が目的ではない。改憲内容以外で、「お試し」目的で権限を行使するのは乱用そのものだ。現状は、そんな権力の乱用が次から次へと繰り出されている。安保法案についての議論も、憲法九条の論理的な限界を超えている。どう歯止めをかけるかが問われている。
樋口氏 歴史に学ぶとは、負の歴史に正面から対面することであり、向時に、先人たちの営みから希望を引き出すことでもある。今の政治は負の歴史をあえて無視するだけでなく、希望をもつぶそうとしている。戦後レジームからの脱却だけでなく、戦前の先人たちの努力を無視、あるいはそうした努力について無知のまま突き進もうとしている。
一九三一年の満州事変の時、国際法学者の横田喜三郎(一八九六~一九九三年)は、これは日本の自衛行動ではないと断言した。その横田の寄稿を載せた学生たちの文集が手元にある。その中で横田はみぎに和を欲さば、戦への備えをせよ」とのラテン語の警句を引き、「汝(なんじ)平和を欲すれば平和を準備せよでなければならない」と呼び掛けた。そして文集に、学生が「横田先生万歳!」「頑張れ!」と共感を書き込んでいる。恐らく、この二人の学生は兵士として出征しただろう。再び母校に戻ってくることはなかったかもしれない。 ’゛
今、私たちが対しているのは、平和を欲すれば戦争を準備しようという警句通りの時代。しかも、かつて文集に書き込みを残した若者たちがいた」)、この会にも若い人がたくさん参加している。われわれは日本の将来に対して、大きな責任がある。立憲主義の土台を維持できるかどうかは、世界に対しても大事な責任なのだ。
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土台がいつ、どのように変わるかわからないようなところで、立派な建物を築けるはずがない
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