第二水俣病
1976年 昭和電工鹿瀬工場周辺
Minamata Disease
https://youtu.be/VVtpkkYxgJQ
新潟水俣病、公式確認50年 今も続く苦しみ
(東京新聞【こちら特報部】)2015年5月29日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015052902000144.html
四大公害病の一つ「新潟水俣病」が公式確認されてから三十一日で五十年になる。被害者らは今でも、手足のしびれなどの症状に苦しんでいる。つぎはぎだらけの救済制度は、多くの救われない被害者を生み、患者認定の申請や損害賠償を求めた訴訟が続く。差別を恐れて、声を上げられない被害者もいる。半世紀を経てなお、全面解決にはほど遠いのが現状だ。
(林啓太、三沢典丈)
確認50年今も苦しみ
厳しい認定基準・国の責任問う
「私が抱えた傷は昨日のことのように生々しいんです」。女性は唇をかんだ。
阿賀野川のサケやマスを食べて育った。体の異変を感じたのは、小学生だった一九六五年ごろ。手先に違和感があり、祖母に「何か病気かな」と相談すると、「何だろね」と手をもんでくれた。祖母は後に認定患者になった。「かわいい孫に、水俣病とは言えなかったんでしょう」。症状は十年余り前から悪化。「手足のしびれがひどくなった。感覚が薄れて、切ったりやけどしたりしても気付かない。セミが鳴くような耳鳴りがして、声を聞き取れないことも多い」。自分が水俣病だとは気付かず、原因不明の持病と思い込んでいた。家族の間で話題になることもなかった。
二〇〇四年になって病院で水俣病と診断された。なのに公害健康被害補償法(公健法)に基づく患者認定を申請したが、認められなかった。「なぜ祖母と同じ川魚を食べていた私は認められないのか」
女性は、未認定患者ら十二人が国と新潟県、原因企業の昭和電工を相手に○七年に提訴した第三次訴訟に加わった。訴訟は東京高裁で係争中だ。
六三年に重い水俣病で亡くなった漁師の祖父の記憶がある。「亡くなる前、暴れたり奇声を発したりするようになった。暗い部屋に、猿ぐつわをして寝かされていた」。この異様な情景を思い起こすたび、怒りがこみ上げる。「国の責任も認めさせ、おかしな認定基準を変えさせたい」
「本当は認定を勝ち取りたかった」。新潟水俣病阿賀野患者会の山崎昭正会長(七三)は、後悔を囗にする。
阿賀野川沿いの集落に生まれ、フナやコイを家族でよく食べた。三十代から手足のしびれや耳鳴りに苦しんだ。○五年に医師の指摘で、水俣病に特有の症状だと知った。地元では「新潟水俣病だと訴えるのは金目当てだ」との偏見が強かったという。母は認定患者だったが、「水俣病のことを語るのは家族の間でもタブー。母と同じ病気とは思わなかった」と話す。
○五年に患者認定を申請したが、認められなかった。○九年に提訴した「第四次集団訴訟」の原告団長を務めた。一一年に和解し、今後は認定申請をしない代わりに、一時金を受け取った。
「高齢の原告の多数が、生きているうちの解決を望んだ。苦渋のやむを得ない選択だった」と振り返る。
一三年四月、最高裁が感覚障害だけでも水俣病と認定する判断を示す。環境省もこれを受け。一四年三月、「感覚障害だけでも認定し得る」として基準の運用を見直す新通知を出した。山崎さんは思う。「新通知を基準としたら、自分はどうだったろう」と。
沈黙の濳在患者多く
仕事・結婚…差別恐れ
「切り捨です救済を」
差別や偏見を恐れて、声を上げない「潜在的被害者」は、まだ大勢いるとみられている。「新潟水俣病第三次訴訟を支援する会」の世話人を務める萩野直路さん(六一)は「今でも診察を断る人がいる。仕事への影響や子どもが結婚を控えていることなどを理由に、確かめたくないという思いもあるのだろう」と話す。
新潟水俣病阿賀野患者会が現在、力を入れているのは、新たな患者の「掘り起こし」だ。新聞の折り込みチラシなどで、症状のある人は患者認定を経て、一時金や年金、医療費を受け取ることができる可能性があることを知らせている。
新潟大の研究者が、阿賀野川下流の住人の手足のしびれなどの症状を、川魚を食べたことによる有機水銀中毒が原因と報告。六五年五月三十一日に公式確認された。熊本県の水俣病が確認されてから九年後のことだった。
汚染源について、国は上流にある昭和電工鹿瀬(かのせ)工場(同県阿賀町)の排水に含まれるメチル水銀としたが、同社は農薬が原因と反論。被害者らは六七年、第一次訴訟を起こした。新潟地裁は七一年、昭和電工に約二億七千万円の損害賠償の支払いを命じた。四大公害病とされる新潟水俣病、水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくの中で、司法による患者救済が最初に図られたケースとなった。
七四年、公健法に基づく救済が始まった。ところが、国は七七年、認定基準を「感覚障害のほかに運動失調や視野狭窄(きょうさく)など、複数の症状が必要」と厳格化。申請を棄却される人が増加した。被害者らは八二年、国と昭和電工を相手に第二次訴訟を起こした。
問題が長期化する中、自民、社会、新党さきがけの連立政権は九五年、未認定患者への一時金支払いを柱とした政治解決策を閣議决定。二次と四次訴訟は和解が成立した。だが、認定基準の運用見直しがあったこともあり、三次、五次訴訟は今も係争中だ。訴訟では、熊本の経験を生かさなかった国の責任も問われた。
国は○九年施行の水俣病被害者救済特措法(特措法)で二度目の政治決着を図る。認定基準から漏れた被害者に、一時金を支払うことなどで救済するものだ。この申請は一二年に締め切られた。
特措法に基づく申請を退けられた被害者の異議申し立てについて、新潟県が独自に審理し、三人の異議を認めている。だが、環境省は異議申し立て自体を認めておらず、新たに患者と認められる道は極めて狹い。
国の救済は、申し出た大について、その都度判断して補償し、それ以外は切り捨てようという姿勢で一貫している。これまでに公健法に基づく患者認定は、二千五百十八人の申請に対し、七百二人にとどまる。政治的解決や特措法による救済された大を加えても三千五百人程度だ。
東京経済大の尾崎寛直准教授(環境政策)は「新潟の場合、激しい症状を訴える患者は少なかった。水俣病特有の症状が感覚障害と認知されたのもまだ最近だ。年齢を経るに従って、症状が出てくる患者もいる。特措法よりも補償内容が充実し、要件は公健法より緩い新制度を創設し、長い視野で救済を続けていく必要がある」と指摘する。
新潟大の渡辺登教授(社会学)は「特措法の申請は、締め切り間近の駆け込みが多かった。それほど差別が自分自身や身内に及ぶことを心配したのだ。国は恒久法などで患者を救済し続けなければならない。その一方で、私たち市民一人一人も、患者が認定の申請を言い出せないような社会のあり方を問い直さなければならない」と話している。
新潟水俣病患者に送りつけられた嫌がらせの手紙
(;`O´)o
クローズアップ現代
「“病の姿”が見えない~新潟水俣病の50年~」
2015年06月04日
https://youtu.be/hxcatq_kOsU
新潟県の阿賀野川流域で発生した四大公害病の一つ「新潟水俣病」が(※2015年)5月31日、公式確認から50年を迎える。しかし、半世紀の時を経ても新潟水俣病の被害を訴える人はあとを絶たず、現在は100人以上が患者の認定審査への申請を行っている。
こうした中、新潟県では去年から全国で唯一、認定審査会に「参考人」と呼ばれる疫学の専門家を置くシステムを導入した。これまで立証が難しかった症状と水銀曝露の関係を異なる視点で丁寧に見直そうというのである。
さらに水俣病被害の全容解明に向け関係者の模索も続いている。
番組では、新潟で始まった独自の認定審査の取り組みから、求められる救済措置は何か改めて考えるとともに、新潟水俣病が現代に照射する教訓をくみ取っていく。
新潟水俣病被害者 昭和電工前で門前払い
https://youtu.be/yErKIvDEXE8
新潟水俣病と昭和電工
(水俣病の過去と現在)より
http://www15.ocn.ne.jp/~aoisora5/4daikougai.html#n-syouwade
(1) 森コンツェルン
1928年に森矗昶(もりのぶてる)の設立した昭和肥料株式会社が、昭和電工の母体である。昭和電工はアルミ・肥料・化学などの多数の関連企業を所有して、戦前戦中に軍需産業として急成長した。
新興財閥としての森コンツェルンは、水俣病を引き起こした日窒コンツェルン同様、政界・官界と結びついて政府系金融機関を十分に活用した。大手都市銀行中心の旧財閥とは対照的である。新興財閥と政界・官界の癒着が、公害企業としての無責任感覚となったり、昭電疑獄事件を引き起こす、根本原因であった。
設立当初の昭和肥料株式会社鹿瀬工場は、阿賀野川の水力発電による豊富で安価な電力と、周辺で産出される石灰岩を用い、石灰窒素を生産した。東京工業試験所の設立した臨時窒素研究所が独自のアンモニア製造法(東工試法)に成功すると、昭和肥料は硫安の本格的生産を開始した。1939年、昭和肥料は日本電工と合併して昭和電工となった。
(2) 昭電疑獄
戦後の財閥解体によって森矗昶が公職追放された。1947年に昭電社長に就任した日野原節三は、肥料増産のために復興金融金庫融資を受ける目的で政界の贈賄工作を行ったとされた。社長が逮捕され、芦田内閣は総辞職した(1948年)。芦田連立内閣を倒すための政治的陰謀とする説も根強い。
(3) アルミニウム生産
日本電工は、日本で最初にアルミニウムの工業生産を可能にした企業である。昭和肥料と合併する前の1934年、長野県大町工場で豊富な電力を利用してアルミニウムを生産していた。
合併して昭和電工になった後の1943年、福島県喜多方工場でアルミニウム生産が開始された。喜多方では阿賀野川水系の日橋川・只見川の水力発電を利用した。
戦後の高度経済成長期、電器・建材・自動車などにアルミニウムの需要が増加した。昭和電工は火力発電所の電力を使う千葉工場を新設した(1965年)。
1973年にはボーキサイトと電力の豊富なベネズエラにベネズエラアルミニウム(ベルナム)を完成させ、安価なアルミ地金を輸入した。2度の石油危機で電力料金が高騰して国内のアルミ産業が壊滅した時、ベルナムが昭和電工へのアルミニウム供給基地になった。
(4) 総合化学工業
昭和電工は、1957年に昭和油化を設立して川崎工場を建設した。1969年には大分石油化学コンビナートを建設した。
昭和電工は三菱化成・住友化学と並ぶ3大総合化学企業になった。第1次石油危機以降は、アルミニウム・肥料などの利益の少ない分野から、ファインケミカルを主体とする先端産業に進出した。高性能ポリマーやコンピューターのハードディスク、液晶材料などの生産で高い市場専有率を占めている。
昭和電工鹿瀬工場は新潟昭和株式会社として分離し、本社も鹿瀬町に置かれた。従業員は100名、肥料は家庭用園芸肥料程度であり、セメント製品や脱水シートなどの生産が主力である。
新潟日報 2013年9月30日
国は今こそ水俣病の全面解決を!
――最高裁判決をふまえ、新たな救済制度の確立を求める――
2013年(平成25年)9月30日
新潟水俣病被害者の 会
新潟水俣病阿賀野患者会
新 潟 水 俣 病 弁 護 団
新 潟 水 俣 病 共 闘 会 議
http://www8.ocn.ne.jp/~heiwa/130930teigenhonbun.pdf
新潟日報 2013年10月13日
新潟水俣病の胎児性患者
(東京新聞【こちら特報部】話題の発掘)2015年6月3日
新潟水俣病でただ一人認定された胎児性患者、古山知恵子さん(五〇)は、新潟水俣病が公式確認された一九六五年に生まれた。一刻も早く全ての被害者の暮らしを保障し、福祉を支えてほしい」。生まれながらに普通の生活を送る権利を奪われ、半世紀の節目を迎えた今も、古山さんの全人生を懸けた闘いが続いている。
「償って」…闘い今も
阿賀野川の漁師の家に生まれ、四歳で患者認定された。車いすを使い、しゃべることができないため筆談で「会話」する。五十年の式典に出席する望月義夫環境相との面談を要望したが、かなわなかった。古山さんは式典参加を見送った。式では、環境相も原因企業昭和電工の会長も患者の福祉について具体的言及はなかった。
二○一二年末に自宅を離れ、新潟市内の障害者支援施設で暮らす。施設職員は忙しく、入浴などで困ることなある。本当は一人暮らしかしたくて、市営住宅入居も考えたがあきらめた。一年半ほど前に熊本県水俣市を訪問した際には、胎児性患者たちの独立した居室があるグループホーム建設の話を聞き、憧れた。
古山さんの主治医斎藤恒医師(八四)はかつて、幼い古山さんと訪れた水俣市で胎児性患者たちがリハビリに励む姿を見て熊本との福祉の違いを実感した。熊本では約七十人が胎児・小児性患者と認定された。新潟の胎児性患者が一人だけなのは、当時、毛髪水銀値が高い妊婦に中絶を奨励し、妊娠を制限する指導をしたためという。差別や偏見への恐れもあった。「著しい人権侵害だった。今も新潟には水面下で認定されていない多くの胎児性患者がいるはずだ」と斎藤医師は指摘する。
古山さんは近年は疲れやすく、体力的な衰えを自覚する。新潟市内に住む母親は七十五歳で、月に二、三回会うが、いつまで元気でいてくれるのか、生活の先行きに不安を感じている。
昭和電工に福祉支援の充実を求める要望書を送る準備を進めている古山さん。
「加害企業のもうけのために水俣病になった。ちゃんと償ってほしい」。筆談の文字に力を込めた。