戦争のなかの生活、生活のなかの戦争(ラジオフォーラム#75)
http://youtu.be/h-oEv-tD24g?t=14m31s
14分31秒~第75回小出裕章ジャーナル
原発の町・伊方住民の40年の闘い「なんで四国の一番大きな町、高松とか松山に原子力発電所を建てないで自分達の所に建てるのだという疑問がどうしても抑えられなかったわけです」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no75/
聞き手:
今週のテーマなんですけれども、「原発の町・伊方住民の40年の闘い。これについて小出さんにお話を伺っていきたいと思っています。よろしくお願いします。
原発再稼働の有力候補の一つとして挙げられているのが、愛媛県の伊方原発です。四国電力伊方原発1号機が運転を始めた直後から、長年にわたって原発周辺海域の環境を地元の方達が独自に調べてきた、その調査が終了したと伺っています。
こちらの調査に対して、小出さんがかなり長い時間にわたって支援され、地元の人達にとっても凄く大きな精神的支えになっていたと伺っています。まず、小出さんがこちらの伊方原発の調査に関わるようになったキッカケというのは一体何だったのでしょうか?
小出さん:
はい、私自身は大学の時に東北大学という大学におりまして、宮城県の仙台におりました。ちょうどその頃に、東北電力が女川という所に原子力発電所を造ろうとしていました。女川というのは、三陸にある小さな漁業の町でした。そこに東北電力が原子力発電所を造ろうとして、私自身は一番初めはそれに賛成というか、ありがたい事だと思ったのです。私自身が原子力をやりたいと思っていましたので。
※原発敷地の決定経緯(女川町)
http://www.town.onagawa.miyagi.jp/05_04_04_02.html
でも女川の人達が「なぜ電気をたくさん使う仙台ではなくて、小さな自分達の町に原子力発電所を建てるのか」という疑問の声を上げたがために、私自身はその疑問に答えなければいけないと思って、原子力発電所というものの存在を自分自身でキチッと考えなければならないことになりました。
女川に半ば住み込みまして、原子力発電所に反対をするようになったのでした。74年から京都大学原子炉実験所という所に職を得まして、こちらに来たのですけれども、ちょうどその時から伊方原子力発電所に対しての裁判というものが始まっていまして、私も京都大学に来た時からその裁判に関わるようになりました。
私自身も証人として裁判所に出廷したこともありますし、たびたび現地に行ったり、裁判の傍聴に行ったりしたのです。そんな中で、伊方の現地の人達とももちろん話をする機会がたくさんできましたし、今、景山さんが聞いて下さった伊方の住民達と海の汚染の調査をするというようなことを始めました。
※原子力年表(女川町)
http://www.town.onagawa.miyagi.jp/05_04_04_04.html
聞き手:
もう40年にわたっての関わりということですね。
小出さん:
はい。伊方の原子力発電所の1号機というのは1977年から動き出してしまったのですが、動き出してしまえばもちろん環境が放射能で汚れます。住民達は女川と同じように、「なんで四国の一番大きな街、高松とか松山に原子力発電所を建てないで、自分達の所に建てるのだ」という疑問がどうしても抑えられなかったわけですし、自分達の住んでいる町がどんなように汚染していくかということを自分達の手で明らかにしたいと、彼らは言いだしたのです。
そうなれば、私は原子力の場にいる専門家として、彼らの疑問に答えるために仕事をしなければいけないと思いまして、それ以降、彼らと一緒に調査をするということになりました。
聞き手:
すごい長い時間ですね。今回、5月末に小出さんがこの愛媛県伊方原発に関する調査結果を発表されたんですけれども、少しこちら発表内容について教えていただけますか?
小出さん:
はい。調査を始めたのは78年頃からだったと思います。初めての結果を得たのは、1979年で伊方原子力発電所の前面の海が放射能で汚れているという事を公表しました。
調査をしたのはもちろん伊方の住民でして、中には漁民もいたわけです。その漁民が自分が漁をしている海が汚れているということを自分の手で調べて公表するということですので、大変苦渋に満ちたことだったと思います。
でも、調査をしてすぐに「やはり海が汚れている」ということがわかりました。当時は、四国電力としても海に流す放射性物質の量については、それほど気にしないまま、まさか住民の手でそんな汚染が検出されるとは思っていなかったはずだと思います。
でも、私達の調査で汚染が見つかったということで、四国電力としても「やはり、これはまずい」と思ったのだと思いますが、それから放射能を海へ流すという量を少しずつ、少しずつ減らしてくるようになりました。
それにつれて、住民達の調査でも段々段々、海の汚染が少なくなってくるということがわかってきまして、10年、20年、30年と調査を続けてきたわけです。
伊方原子力発電所 周辺環境放射線等調査結果
(平成23年度 第1・四半期) 愛媛県
http://www.ensc.jp/pc/user/HOUDOU/h23/o231021/23kekka1.pdf
一応、住民達が監視をすれば、四国電力の方も海へ流す放射能の量を少しでも減らすということに結び付いてきたわけですし、住民達の苦渋に満ちた調査というものも、それなりに役に立ったんだと私は思います。
そして、調査を始めた時には、住民達の団体は、「磯津公害問題若人研究会」という名前だったのです。私もそうでしたけれども、彼らもみんな20代という若者でした。それが今やみんな60歳を超えてしまうというような年寄りになってしまいましたし、一定の役割を果たしたし、これで調査というものを一応は終了させようかということで、先日、記者会見を開いてもらって、これまでの調査結果を聞いていただくことになったのでした。
聞き手:
そうですか。なんか、今回この調査が終わりということでですね。地元伊方の方やラジオフォーラムのリスナーの方からも、「調査を継続してほしい」というような声が入ってきてたんですけれども。
それは、やっぱり小出さんがこれまで伊方の方とずっと続けてこられた関係性によるものだと思うんですね。私が今回一番このテーマで伺ってみたかったことというのが、そうした小出さんと地元の方達の調査での関わり方というところだったんですが、専門家ではない、その地元の人達と共同作業をずーっと続けてこられたんですけれども、この作業を通じて、小出さん自身が学ばれたこととか、あるいは気付きのようなものというのはありましたでしょうか?
小出さん:
はい、私は原子力の専門家ですし、彼らはもちろん原子力の専門ではなくて、それぞれに漁師であったり農民であったり、あるいはサラリーマンであったりという、そういう人達でした。でも、みんな生きているんですね。
それぞれの自分の場所を大切にしながら、それぞれ懸命に生きようとしていた人達がいてくださったわけだし、私は、言ってみれば結構原子力なんていうヤクザな世界で生きてきたわけですけれども、ほんとに素朴に自然に向き合って生きていてくれる人達がいる。
そして、原子力というものの正体と言うんでしょうか。電気を使う都会ではなくて、自然に寄り添うように生きている人達のところに危険を押し付けてくるという、そういう物がどうしても我慢できないという、そういう気持ちだったのだと思いますし、そういう彼らの気持ちを私も共有できたために、長い間一緒にやってこれたのだと思います。
聞き手:
はい。お話伺っていて、この専門家という、専門の知識持ってる人の役割というのを改めて考えさせられたお話だったかなと思います。小出さん、今日はどうもありがとうございました。
小出さん:
こちらこそ、ありがとうございました。
原子力情報ホームページ(愛媛県)
http://www.ensc.jp/pc/sub/Unews.html
2014.5.25 伊方原子力発電所周辺の汚染 小出裕章(京都大学原子炉実験所)
http://youtu.be/7cwBX2Up6fo
2014.5.25
磯津公害問題若人研究会による調査についての報告会
原子力発電所は平常時にも放射能を環境に流す伊方原子力発電所周辺の汚染
2014/05/24 【愛媛】小出裕章氏講演会「原子力発電所という機械」
http://youtu.be/B_EVQSCyqVw
松山市に隣接する愛媛県伊予郡松前町の松前総合文化センターで、小出裕章氏(京都大学原子炉実験所)講演会「原子力発電所という機械」が行われた
斉間満著『原発の来た町 原発はこうして建てられた 伊方原発の30年』
(南海日日新聞社、2002年発行)
http://www.hangenpatsu.net/files/SaimaIkataBook.pdf
より
「原発事故後の日本を生きるということ」
小出裕章、中嶌哲演、槌田劭 著
農文協ブックレット(2012/11/20発行)
http://shop.ruralnet.or.jp/b_no=01_54012165/
より
巨大科学技術は"想定外"のすきまだらけ
―伊方原発裁判という経験― 小出裕章、槌田劭 対談
槌田
短い期間のあいだに学園紛争の影響と女川の原発という現実に出会って、小出さんは大きく脱皮した。そして、京大に来られて伊方の裁判。伊方の裁判で、僕との関わりでいうと、当時、私は原子炉の「げ」の字も知らんぐらい。ほんと、そうなんですよ。沸騰水型、加圧水型、そういう言葉は知っていたと思います。それがどういうことなんかということが本当にわかっていたか、という程度なんですよ。
ですので、荻野さんや久米さんが、なんで僕のところに言ってきたかっていうのは全くわからない話でした。ただ、僕が科学文明社会に疑問を持ち始めているということについては、もちろん知っておられたんでしょうね。
来られたときに、ぽくは知識もなく、責任をもてんから、と辞退することになりますよね。にもかかわらず、裁判を始めた住民には、いわゆる専門家といわれる人を応援団にもつことのできない現実がありました。
小出
原子力を専門にする人で、反原発に協力する人がいるはずがないです。
槌田
いるはずがないね。いるはずがないという事実は、知らないわけではなかった。研究費を出してくれるスポンサーにさからう人はいない。御用学者ばかりになっていたんですね。
「協力する人がいないから協力しろ。専門でなくても、化学と金属のことをやっているのだろう」という説得ですね。
ノーと言ってしまえば、こんなふうにならなかった。結局、いろんなことを皆さんに一から教えてもらいながら、反対の論理、理屈を僕なりに立てて、裁判にお手伝いさせてもらうことになったんです。
伊方の裁判は勉強になりましが、何よりもおもしろ かった。
小出
私がおもしろかったのは、1979年にスリーマイル鳥の事故が起きで、何か起きているかということを、伊方の弁護団が倹討会をしましたね。
槌田
事故発生の直後に技術的検討をやりました。
小出
みんなで、ああだこうだと言いなから。最後に、槌田さんが炉心の絵を描いたんです。絵を描いて、ここの真ん中の部分かメルトしているんだ、と。
槌田 もう溶けているのは確実だ。炉心の構造と制御棒の性質を考えると論理的に当然のことだ、と言いましたね。
小出
そういう絵を槌田さんか描いて、マスコミに向けて発表したんですね。国のほうは、そんなことはない、溶けてないと、ずうっと言い張っていました。
槌田
私たちの記者発表は無視されました。朝日新聞も地方面の一部に載りましたが、途中で消えました。その筋からの圧力があったのでしょう。
小出
事実はスリーマイル島の事故が起きて6年たってふたを開けてみて、少しずつ調べてみたら原子炉はもう半分溶けてしまっていました。それが最終的にわかったのは7年半後です。それを私たちと伊方の弁護団は事故の直後にちゃんと言い当てたわけです。そういうのは、たいへんおもしろい。
隣接領域がわからないから事故の進展もわからない「専門家」たち
槌田
伊方の裁判で、炉心燃料の危険性を論証したのですが、国側の証人は東大の三島良績さん。有名な燃料の専門家、国際的な権威者ですよね。私はずぶずぶの素人。もう勝負は、名前を聞いただけでついているわけですよね。
小出
肩書と名前だけならそうです。
槌田
ここが、科学技術というか、とくにこの危険な科学技術、巨大な技術の核心に触れてくる点だと思うんです。
だけど、裁判の結果はおもしろかったですよね。三島さんは弁護士さんの質問に答えられず、恥をかき続けました。他方で、ぼくは鈍感だったからかもしれんけれど、答弁に窮したことはなかったです。
小出
こちら側の、住民側の証人は誰も答弁に窮しないし、国側の証人はみんな突っ伏してしまっていました。
槌田
10組余りのペアの対決だったと思うんだけれども、どのペアでもそうでしたね。
小出
痛快でした。裁判は全体的に圧勝でした。
槌田
伊方の裁判のときにね、炉心燃料のところだけで言うと、ぼくが直接関係したから強く思うんです。一流の炉心の専門家が、なんと何も知らないのかって思いました。
狭い狭い専門の研究分野については、ものすごくよく知っているかもしれないけど、それの意味するところとか、それに関連する隣の領域のことにつなぐと途端に何もわからない。
小出
それは、いわゆる専門バカだから。燃料のことはわかるけれども、他の、全体の炉心の構造に関してはわからない。事故のシナリオに関しても多分わからない。
槌田
燃料を入れる鞘の材料となるジルコニウムは、高温の水蒸気と接すると、何が起こるかということについては、知らないはずはないんですが、考えていない。
僕たちは誘導尋問的に、質問を重ねたのですが、三島教授は最後はもうしどろもどろになりましたね。要するに、安全審査の基準とまるで矛盾することを言わざるを得なくなってしまった。
小出
安全審査の基準では燃料棒の破損はあってならぬことであるのに、40%壊れたって大丈夫だ、というような発言に結局なってしまった。彼は燃料の専門家であっても、40%壊れたときの炉心の状況、そして、事故の進展ということに関しては多分知らないんです。
槌田
高度な科学技術は巨大になりすぎて、科学技術の粋を集めても「想定外」のすき間だらけなのです。専門バカによる穴が科学技術の危険となるのです。伊方裁判ではその危険が炉心燃料だけでなく、全面的に暴露されました。
伊方裁判は、原発問題の基本を限りなく明快に浮き彫りにした
小出
裁判は内容的にいって負けようがありませんでした。
槌田
負けようがなかったです。国策だからという心配だけでした。証人調べが終わって結審したときに、「こんなおもしろい裁判やったことがない」というのが、弁護士さんの感想でした。ただ弁護にさんは「国策だからどうかなあ」と言ってましたが。
その直後に裁判官が入れ替わったのです。こんな難しい技術問題が絡んでいる裁判を、証人調べもしない裁判官にやらせてよいのだと考える最高裁人事は露骨な政治的介入です。その犯罪はものすごい。司法の放棄、三権分立、民主主義の死です。
小出
そうです。向こうは、それをあえてやったわけですから。ひどい。
槌田
証人調べした裁判官だったらね、内容がわからなくってもあの風景を見ているだけで、どちらが形勢有利かというのは見えたでしょうね。
小出
そうですね。権力者はそこまでやるんだな、と思いました。判決は住民原告側の全面敗訴。実に理不尽…。
槌田
それで、私は科学者を辞める決断をするわけです。論理的な科学論争だけでは出口がない。一般市民の生活レベルの言葉で生きようと思ったのです。科学者としては戦線の離脱で申し訳ない。
小出
わたしから見れば、槌田さんに残ってほしい思いは、もちろんありました。でもそれは、人生なんて一回しか生きられないわけですから。槌田さんは槌田さんなりの強い意志で今日まで生きてこられたわけ だし、別に科学者辞めたからって、槌田さんがいなくなるわけではないし…。槌田さんはもっと活躍の場 を、ご自分でつくっていったわけだから。
槌田
そんなことで、伊方の裁判への関わりから、 原発の恐ろしさというのは、非常に明快に見えた。も っと言うと、伊方の裁判ってね、原子力問題の基本は かなり明快に浮き彫りにしましたね。
小出
もうあれ以上、何をやる必要もないぐらいにやったと思います。
偽証と裁判長更迭で作った伊方原発 ETV特集より
http://youtu.be/TtLPmETfOO8
20120514? 検証・伊方原発 問い直される活断層 建設当時からの経過
http://dai.ly/xrkmc8
おしどりマコ氏「伊方原発から時々プルトニウムが放出されている」
http://youtu.be/VkmvhAzLyyk
32分20秒ごろ
おしどり マコ氏 :
それから工程表を出す時は、定期的に大気中に出している放射性物質の総量は東京電力の会見で出てくるようになったんですけど先月の工程表の収束状況が出た時の話ですけど今の段階では一時間に0.1億Bq放出しています。
それを去年の夏ぐらいから0.1億Bqになってそれ以上低減しないそうです。
これ以上放出し続けている放射性物質を減らすことは今の段階ではできないと、もう完璧に石棺なりカバーリングなりして覆わないと止めることはできない。
38分00秒ごろ
おしどり マコ氏 :
2012年12月と2013年1月に小学生の尿を、100人単位で、測定すると、現段階でも尿から10 Bq程度セシウムが検出すると福島県ではない所ですね。
離れた県や市ですごく大変なことだと思うけど研究所、研究室として、勝手に公表することはできないのでだから私がこっそり、そこの自治体に行って、小学生の尿を放射能測定室や海外の研究機関で測ってうっかり気づいたことにしてくれという依頼が来るんですね。なぜ、いまでも小学生の子供の尿からセシウムがでるかというのが心配で調べると、一日の食事の中から基準値以下であっても、地産地消だと何かしら汚染されているのがあるんですね。10Bq以下でも何品かあると、それを毎日取り続けると今の段階でも尿が出るとおっしゃてましたね。
2時間14分20秒ごろ
おしどり マコ氏 :
愛媛県の伊方原発なんですけど私たちもすごく不勉強で、2011年3月11日の後に勉強し始めた事をすごく後悔していてもっとやっとけばよかったと思ったんですけど四国の方のCTBT核不拡散のセンターで、事故直後の早い時期に放射性物質を観測して、それで福島原発事故の放射性物質が早い段階で四国のほうに空気中の物が届いていたという情報があったので伊方原発のデータをずっとチェックしていたんですよ。
4月、5月、6月と そうすると時々プルトニウムが出てたんですね。それで記者会見で、伊方原発で検出しているプルトニウムは福島原発由来の物かどうか聞くと、「我々も精査します。」と言って出てきた回答が、「伊方原発で出ているプルトニウムは福島原発由来ではないと、福島原発事故以前からちょくちょく伊方原発からプルトニウムが出ていました
槇原氏 :
その事実は地元でよく知られていて電力会社の社員が、「今日はあぶないから洗濯物は干すな」と教えてくれる。そういうことはちょくちょく漏れ聞こえてはいるんですけど、きちんとしたデータでは証明されていない。
小出裕章さんにきく。- 大飯原発差し止め訴訟について。- 2014.06.12
http://youtu.be/xijTI_hYHrM
小出裕章さんにきく。-「美味しんぼ」問題について。- 2014.06.12
http://youtu.be/voP49wXpq7k
小出裕章さんにきく。- 水戸巌さんについて。- 2014.06.12
http://youtu.be/xA7-X0zkTSU
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今日(6月16日)は、新潟地震が発生してから50年目になります。
新潟地震(にいがたじしん)は、1964年(昭和39年)6月16日13時1分41秒(JST)、新潟県粟島南方沖40km(北緯38度22.2分、東経139度12.7分、深さ34km)を震源として発生した地震。地震の規模はM7.5。
新潟地震は、地震、津波だけでなく、長周期地震動、液状化、危険物タンク火災などの多様な災害事象が発生しました。
我が故郷を襲った地震の一端を写真を中心にして、振り返ってみたいと思います。
新潟地震 - Wikipedia
津波から避難する人々
新潟地震 倒壊した家屋に佇む少女
新潟地震(1964年)が防災の原点
新潟地震の災害フロー図
19640617OA 新潟地震実況生中継1 昭和石油爆発現場編
http://youtu.be/S1xtD6ahQVk
19640617OA 新潟地震実況生中継2 ヘリコプター編
http://youtu.be/LbH9KZScqY0
1964年新潟地震オープンデータ特設サイト
(独立行政法人 防災科学技術研究所)
http://ecom-plat.jp/19640616-niigata-eq/
より
新潟地震の概要 から
http://ecom-plat.jp/19640616-niigata-eq/index.php?gid=10020
●新潟地震強震波形
強震記録は新潟気象台で計測されたものである。
(出典元:土木学会新潟震災調査委員会,1966.防災科研が一部加筆)
●液状化による鉄筋コンクリート建造物の転倒
場 所 : 新潟県新潟市川岸町 県営アパート
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 : 1964 年6 月18 日12 時頃
●石油タンクの火災
場 所 : 新潟県新潟市臨港町付近、昭和石油
撮 影 : 弓納持福夫氏
撮影日 : 1964年6月16日地震発生後
出典元 : 個人撮影
●新潟地震の被害状況(出典元︓宇佐美他,2013)
●新潟地震の津波の波高分布(出典元︓宇佐美他,2013)
揺れによる被害
●陸上競技場内の液状化被害
場 所 : 新潟県新潟市中央区
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年6月17日
●バス会社車庫の浸水被害
場 所 : 新潟県新潟市下所島
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年6月17日17時30分
●昭和大橋の落橋被害
場 所 : 新潟県新潟市中央区 昭和大橋
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年6月17日13時
場 所 : 新潟県新潟市中央区 昭和大橋
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年6月18日13時頃
●昭和大橋の取り付け部分の被害
場 所 : 新潟県新潟市中央区 昭和大橋
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年6月18日
●昭和大橋の取り付け部分の現況
場 所 : 新潟県新潟市中央区 昭和大橋
撮 影 : 防災科学技術研究所
撮影日 :2011年9月15日
●昭和大橋の路面の地割れ
場 所 : 新潟県新潟市中央区 昭和大橋
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年6月18日
●白山駅周辺の線路の陥没
場 所 : 新潟県新潟市 白山駅付近
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年6月18日
●昭和石油K.K 石油タンクの火災
右側の煙の中の白い点は火災の炎
場 所 : 新潟県新潟市
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年6月17日13時ごろ
●信濃川の両岸津波と沈下による浸水
万代橋たもとの付近
場 所 : 新潟県新潟市 万代橋
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年6月17日18時
液状化現象
新潟地震は、液状化現象による被害が特徴的でした。当時は、噴砂水(宇佐美他,2013)や流砂現象、クイックサンド(水谷,2014)などの表現が使われていました。
ここでは、新潟地震の液状化被害の代表例として紹介されることの多い県営アパート(新潟市川岸町)の液状化被害の様子を写した空中写真、スナップ写真を紹介します。
●新潟市川岸町付近のオルソ画像
ピンク枠が県営アパートの敷地です。枠の中央の建物が傾斜し、建物の側面が見えています。
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年7月21日
液状化による鉄筋コンクリート建造物の転倒
場 所 : 新潟県新潟市川岸町 県営アパート
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年6月18日12時頃
建物の底部を見ると、地盤に深く打ち込んだ杭が存在せず、壁式鉄筋コンクリート造の布基礎であることが分かります。
●アパートの窓から荷物を運び出す様子
場 所 : 新潟県新潟市川岸町 県営アパート
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年6月18日12時頃
液状化現象による被害は、容積が大きな建築物や構造物が影響を受けやすいと言われます(防災科学技術研究所,2014)。新潟地震においても鉄筋コンクリート造の建物が液状化現象による被害を受けました。
●川岸町 県営アパートの傾動
場 所 : 新潟県新潟市川岸町 県営アパート
撮 影 : 国立防災科学技術センター
撮影日 :1964年6月18日12時頃
なお、新潟市で液状化現象の被害を受けた鉄筋コンクリートの建物のうち、3分の2 が上部構造(建物そのもの)については被害が見られませんでした(宇佐美他,2013)。つまり、主たる被害は建物の立地する地盤の液状化による、建物の傾動です。
新潟県の災害地図