解釈改憲、ちょっと待った 「集団的自衛権」私なら、こう言い換える
(東京新聞【こちら特報部】)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2014051402000169.html
安倍政権は憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を容認しようとしている。だが、この権利を行使して何をするのかと言えば、日本ではなく他国の防衛だ。だから、集団的自衛権を「他衛権」と呼ぶ人が少なくない。集団的自衛権の本質を表すように、言い換えてみると-。
(榊原崇仁、上田千秋)
「徒党型交戦権」- 日本は代理戦争の駒になる
「日本が米国の舎弟や下僕になる権利」
コラムニストの小田嶋隆さんは「米国との軍事同盟を明確にし、ともに戦うというのが集団的自衛権の本質だ」と指摘し、こう言い換えた。
さらに、自衛というよりも積極的に戦うことを意味しているため、「徒党型交戦権」「拡張型交戦権」とも言えるという。
ただし、「日米の軍事力を考えた場合、米国の力が圧倒的に強いため、おそらく対等な関係にはならないだろう。日米関係はやくざの親分子分の関係になりかねない」と危ぶみ、映画「仁義なき戦い」を思い浮かべた。
「あの映画で描かれているように暴力第一の世界では、兄弟の契りを結んだとしても、力が弱い方は鉄砲玉や盾にされる。つまり、日本は代理戦争の駒として使われるだけだ。集団的自衛権の行使を認めれば、自衛隊が米軍の一部隊として中国監視の最前線に立たされかねない」と最悪の事態を想定する。
「軍国少年量産権」- 戦果を挙げた人が賞賛される風潮に
上智大の三浦まり教授(政治学)は「自衛の名をかたって軍国少年を量産する権利」と称した。
「『戦争できる国』になれば、戦果を挙げた人がほめたたえられるようになる。相手方の命を多く奪った人が称賛される風潮が広がることも考えられる」
学校教育にも少なからぬ影響を与えてもおかしくはない。「集団的自衛権の行使容認は、単に日本が海外で戦争できるようにするだけではないのです」とくぎを刺した。
心配なのは、「今後は米国に言われるがまま、戦争に加わることになるかもしれない」ことだ。
現在、日本はどこかの国に攻められ、個別的自衛権を発動するにも、「わが国に対する急迫不正の侵害があること」「この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと」「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という厳しい三要件で、自らを縛っている。集団的自衛権の行使容認とは、その縛りを解くことにほかならない。
「9条空洞化権」- 「戦争できる国」なら有名無実化
今年十月の受賞を心待ちにする市民運動「憲法9条にノーベル平和賞を」の実行委員会で共同代表を務める石垣義昭さんは「九条を空洞化させる権利」と言い換えて、乱暴な憲法解釈に憤る。
「集団的自衛権の行使容認で、『戦争できる国』になれば、九条は有名無実化されてしまう。平和憲法が守ってきた国民の安全は脅かされるようになり、地獄のような戦火に巻き込まれることが起こり得る」
「隣人不信増幅権」- 近隣諸国の警戒心 決して緩まず
朝鮮半島情勢に詳しいジャーナリストの石丸次郎さんは、集団的自衛権を「隣人の不信を増幅させ、警戒させてしまう権利」だと言
う。 。
「日本がかって武力を誇示して植民地化した朝鮮半島では、自衛隊が海外で戦争できるようにすることには強い抵抗感がある。『米軍の支援』『自国民の救出』を名目にしたとしても、集団的自衛権の行使容認への警戒心が緩むことは決してないだろう。近隣国が行使容認をどう捉えるかという視点が決定的に抜け落ちている」
集団的自衛権の問題に詳しい田中隆弁護士は「自衛という言葉が使われているが、実際は違う」と説き、「よその国によってたかって攻め込む権利」「集団的外征権」と指摘した。
集団的自衛権の行使で最もあり得るのは、日米安保条約を結ぶ米国が他国に攻め込む場合に共同歩調をとるというシナリオだろう。「力の強い国が配下の国と、他国を袋だたきにするのが実態だ。決して自国に危険性が迫っているから、集団的自衛権を行使するわけではない」
日本が集団的自衛権を行使する可能性を表明するだけで、近隣諸国に対しては挑発になる。「中国や韓国との間で緊張感を高めることにしかならない」と訴える。
立教大大学院の西谷修特任教授(哲学)は「米国の戦争を手伝う権利」と言い換える。
集団的自衛権は国際法上、自国と密接な関係にある国に対する武力攻撃を、共同で阻止する権利と解釈される。現実的に密接な関係にある国といえば軍事同盟を結んでいる米国しかなく、いざ行使となると米国が防衛の名の下に仕掛ける戦争に加担する形になる可能性が高い。
「世界中の統治をもくろんでいる米国は、自由に使える手駒が多ければ多いほどいい。その一つになる。日本国内でも、戦時体制となれば、原発の問題でも何でも機密にしやすくなる。国民の締め付けを厳しくできることも安倍政権の狙いの一つだろう」と分析する。
「弱い者いじめをする権利」と言うのは、東海大法科大学院の永山茂樹教授(憲法学)。
過去の歴史をひもとくと、世界で集団的自衛権が行使されたのは米国が仕掛けたベトナム戦争をはじめ、旧ソ連によるハンガリーやチェコスロバキア(当時)、アフガニスタンへの軍事介入など大国による武力行使ばかりだ。
「決して公平な立場から仲裁したり、困っている国を助けようというのではなかった。いずれも米ソという大国が自分たちのエゴのために、軍事力を使って強引に介入した」と話す。
NPO法人「民法改正情報ネットワーク」の坂本洋子理事長は「国民を守るためとは言っても、実際はそうはならないだろう」と断じた。
「むしろ国民の権利をないがしろにするシステム」
坂本氏が懸念するのは、集団的自衛権の行使容認を名目に、国民の権利が奪われることだ。
「人権侵害の究極の形が戦争。自衛というお題目ばかりが叫ばれ、私たち国民一人一人が大切にされなくなるのではないか。もともと人権を重要視していない安倍政権の下で、特に女性や子ども、高齢者、障害者らの意見が封じ込められる恐れがある」
【デスクメモ】
戦争は勝っても負けても誰かが死に、遺族は恨む。誰かが一生の傷を負い、そして恨む。家屋や財産を奪われた市民も恨む。「侵略」ではなく「自衛」でも、それは変わらない。「戦争できる国」になるため憲法解釈をこねくり回す暇があったら、「戦争を回避できる国」になれる外交力を磨いてほしい。(文)
日刊ゲンダイ 2014年5月15日付け
独裁者を支えるために生まれてきた国民
日本人の特異な国民性を挙げていけば、キリがない。まるで独裁者を支
えるために生まれてきたかのようだ。
まず、お上に弱く、反抗しない。逆らわないから、一部の既得権益がガッチリ守られ、そこに加わって利を貪ろうという連中が次々と群がってくる。この構図がますます権力基盤を盤石にするわけだ。
「長いものに巻かれる処世術が脈々と受け継がれているわけですが、これはメディアの責任も大きいと思う。大衆が政治状況を判断する材料は、何といってもマスコミ報道です。ところが、大マスコミの幹部が首相とメシを食って喜んでいる。権力を批判するより、自分も権力に連なって甘い汁を吸おうとしている。そういうメディアが流す報道が大衆の判断を甘くしてしまう。格差が広がり、デフレは長期化していますが、そうした状況は英雄待望論を生む。安倍首相のようにメチャメチャなことをするトップが、カッコイイ”と誤解する若者が増えてしまう。暗い時代だからこそ、強い存在を求める大衆心理が働いているのです」(立正大教授・金子勝氏=憲法)
こうして大衆は、強きにおもねる一方で、自分の優越感を満たすために弱きを挫く。生活保護を「甘い」とののしり、中韓叩きに血道を上げている卑しさである。弱者が弱者を叩いてウサ晴らししているのだから世話はない。
声がデカい者が主導しすると世の中全部がなびく不気味
日本人はすぐに群れる。群れに入らない者をつまはじきにする。こんな特性もあるが、これも
安倍をのさばらしている要因だ。
つまり、みんなが安倍を支持するのであれば、自分も支持する。支持せずに、排除されることを恐れる。こんな「ムラ感覚」である。
ネット編集者の中川淳一郎氏は「みんなが東京五輪を歓迎する風潮は不気味だ」と言った。そこにあるのは「みんな喜んでいる以上、一緒になって支持しなきゃいけないような感覚」だ。そんなに、みんなと同じがいいのか。これほど、個が自立していない国民も珍しいのではないか。
「日本人は配慮しすぎるのですよ。嫌われないように。しかし、それが今や、いぴつな形になって表れています。ネット社会では小保方さんを批判すると炎上する。「美昧しんぽ」の作者を擁護すると、非難を浴びる。声がデカい者が主導し、世の中、全部がそれになびいてしまう。そんな不気味な傾向があるのです。なぜかというと、考えていないからだと思う。レッツゴー三匹のじゅんちゃんが死んだとき、レッツゴー三匹なんて知らない世代が悲しんでいた。知らないくせにテレビがあおると、同調する。これは非常におかしいし、危ないと思います」
ジャーナリストの山田順氏も「日本はムード主義の国だ」と、こう言う。
「もうすぐサッカーW杯が始まると、日本中がサッカー一色に染まります。データを分析すれば絶対に勝てないのは明白でも。『サムライ魂』などと称して、理論ではなく、情緒で大衆心理が形成され、国民は熱狂する。客観的に世界の中の日本の立ち位置を検証しようとはしない。心理的にはずっと鎖国が続いているようなものです」
あまりに狭い世界、狭い価値観
名作「ジャングル・ブック」を記した英国の作家・ラドヤード・キップリングは「イングランドしか知らない人に、イングランドの何がわかるか」と言ったというが、日本人の閉鎖性は格別だ。島国根性というのか、いつまでだっても井の中の蛙で大海を知らない。だから、世界中が危
険視する安倍政治の異常性にも無関心でいられるのだろう。「カネ学入門」の著者・藤原敏之氏は本紙のインタビューでこんなことを言っていた。
「日本人はあまりに狭い世界、狭い価値観の中に閉じこもっている。ほかの世界も知らずに、今が『幸せ』と信じ込まされているような気がします。本当に今の若者は幸せなのでしょうか」
まさしく精神的な鎖国ではないか。
「宗教的な影響もあり、欧米人は二元論的な思考をしますが、多くの日本人は『今』と『自分』にしか関心がない。価値の多様性を認めず、違う価値観は排除しにかかる傾向があると思います」(藤原敬之氏)
民主政治より個人の尊厳よりカネが大事か
群れをなして、個性的な個人を排除しようとするのも日本人の特徴だ。
生活の党の小沢一郎代表が巻き込まれた陸山会事件なんて典型だった。国民は事件の中身もよく知らないのに、「悪そう」というイメージだけで糾弾し、マスコミ報道がそれを増幅させて、大悪人に仕立て上げた。最終的に無罪がハッキリしたが、政椎交代の立役者は政治的に潰された。その結果の民主党政権崩壊、自民党の政権復帰。実は陸山会事件では、最初に汚職捜査のターゲットになっだのは自民党の政治家たちだった。しかし、名前が挙がっていた自民党議員は、いまや何食わぬ顔で、政権中枢で権力をふるっている。悪いやつほどよく眠れる法体系も、権力者を助けている。みんなの党の渡辺喜美前代表の怪しい資金疑惑にも国民は納得していないが、おそらく逃げ切る。「安倍にスリ寄っていたから」という見方
もある。この国では、いつだって権力者に都合よくコトが進んでいくのである。
それでも国民は怒らない。格差を認め、貧乏に生きる我慢強さが染み付いているみたいだ。
「”分をわきまえる”のが美徳の日本人には、もともと階級格差を是認する意識がある。そこに新自由主義が入ってきて、『格差より国の経済成長』というイビツな価値観が生まれてしまった」(金子勝氏=前出)
筑波大名誉教授の小林弥六氏の指摘も面白い。「今の日本は、民主主義国家とは相いれないヤクザ社会の綸理がまかり通っているように見えます。安倍首相は自分のことを「最高責任者」と言った。『自分が親分だから、黙ってついてこい』というのです。それで、子飼いの有識者会議にお手盛りの報告揶を出させ、子分の大臣たちに判をつかせる。こんなデタラメは、ほとんど山賊と変わらないやり囗です。トップが憲法違反の集団的自衛権行使という不法行為に手を染めるのだから、国が乱れるのも当然だと思います」
拝金主義に毒された庶民はいいカモ
「日本人はいつから、こんなにアホになったのか」と嘆く声もある。それは世論調査をやればよくわかる。
「消費税でも集団的自衛権でもなんでもいい。その是非を世論調査で問うと、『わからない』『関心がない』という答えが半分くらいある。是非にちゃんと答えているのは2、3割です」と驚いていたのは経済評論家の菊池英博氏だ。
これは何も今に始まったことではないかもしれないが、ヤバいのは、こうした傾向がどんどん強まっていることだ。なにも考えていない連中が増え、彼らは拝金主義に走る。
「稼ぐが勝ち」で、ますます政治に無関心になっていく。すなわち、個人の権利や人間の尊厳よりも「カネ」になる。
世論調査を見ても、国民の関心のトップはいつも「景気・経済」だ。神戸女学院大名誉教授の内田樹氏は、週刊金曜日臨時増刊号で「独善的な安倍政権が支持される理由」として、「民主主義よりカネが大事な日本人」と書いていた。
なるほど、これなら安倍政権は楽チンだ。株価を上げれば、拝金主義に毒された庶民は盲目的に支持してくれる。安倍が図に乗るわけである。
政治思想史家の丸山貞男は1961年の著書「日本の思想」で、主体的に行動しない日本人の
思想原理を「権利の上に眠る者」に例え、「主権者であることに安住して、権利の行使を怠って
いると、ある朝、もはや主権者ではなくなっているといった事態が起こる」と警告した。それが
現実になっている。
要するに、日本人は自分の頭でモノを考えることを放棄したのだ。黙ってお上についていく。
「その方がラクだから」と、流されて生活することを選んでしまった。かくして、国民イジメの悪政が永遠に続き、庶民はひたすら耐え忍ぶことになるのである。
自衛隊が地球の裏側まで
自民党元幹事長 加藤紘一さんが批判
(しんぶん赤旗日曜版 2014年5月18日付)
集団的自衛権の行使を容認するために憲法解釈を見直すということは、要するに、日本の自衛隊を海外に出し、米軍と肩を並べて軍事行動させようということです。
第2次大戦で失墜した日本への世界の信頼は、憲法9条によって回復したところが大きい、と私は考えています。「二度と銃は持たない」というのが守るべき日本の立場だと思います。
自衛隊を海外に出すというのは、私か官房長官をやっていたころからの懸案事項でした。米国は、中東だけでなく、南米の政治的に不安定な地域への介入も考えています。集団的自衛権の行使容認をすれば、米国の要請で自衛隊が、地球の裏側まで行くことは十分に想定されます。
集団的自衛権の行使容認の根拠として最高裁の「砂川事件判決」をあげる人もいます。しかしこの判決は在日米軍の存在を容認しただけで、集団的自衛権を認めたものではありません。
集団的自衛権の議論は、やりだすと徴兵制まで行き着きかねない。なぜなら戦闘すると承知して自衛隊に入っている人ばかりではないからです。
集団的自衛権の行使を容認したいのなら、憲法解釈の変更などという軽い手法ではなく、正々堂々と改憲を国民に提起すればいい。立憲主義は守るべきです。
戦争の道再び進みかねない
戦後日本の反戦・平和の世論は、労働組合や平和団体も支えてきました。でも日本の反戦・平和勢力で最大のものは戦争体験者だと私は思っています。
第2次大戦中、日本の少年兵で一番若いのは15、16歳でした。
私の地元に、復員兵の息子さんがいます。彼はこんな話をしていました。「父は夜中になると荒れるんです。自分が殺した八路單(中国共産党の軍隊)の兵隊が追いかけてくる、といって、家中のものをぶっ壊すんです」。別の復員兵は「1日に3人、4人と殺すことは大変なことだ」
と語り、戦後25年たって、古い井戸に飛び込み自殺したそうです。
復員兵たちは「生きて帰ってきて申し訳ない」と思いつつ、戦後、一生懸命働いてこの国を再建しました。その多くは保守系議員の後援会の中枢幹部になりました。そういう人たちは「代議士よ、国会議事堂に赤旗が立つのは困るけれど、戦争だけはしちゃだめよ」と強烈にいっていました。
戦後69年もたつと、そういう人たちはだんだんいなくなってきた。あとは、戦争を知らない、戦争の悲惨さを体験していない世代です。戦争体験のない、頭だけで考える若者たちが、。ネット右翼”と称して勇ましいことをいっています。
憲法は時代とともに多少変化があっていいと思うが、解釈改憲をこの流れに乗ってやると大変危険です。だからこそ集団的自衛権問題を機に、憲法論議を正面からやればいいと思っています。
改憲勢力は実は、反米勢力なんですよ。靖国神社は、あなた方がよくご承知の通り、反米神社です。正面から議論するとそういう問題があぶり出されてくる。憲法論議はいろんな欺瞞(ぎまん)を映し出してきます。
私はこの国は、よほど慎重にやらないと間違えた方向に行きかねないと思っています。昔、「再び戦争の道を歩ませない」と聞いた時は「大げさな話だ」と思っていました。でも最近は、万が一ということもあると思っています。日本共産党はしっかりしているが、本当に腹のすわった抵抗勢力が少ないからです。
自民党もいろいろと考えなおさなきゃいけない。戦後の保守主義というのは、地域のいろんな声を束ねた地域共同体づくりに原点がありました。しかしこの10年の新自由主義・構造改革がその日本的地域主義を壊し続けている。そういう中で保守のありようも変わってきて、異論は排除しても右に行くというようになってきている。
私たちは近現代史をよく勉強していないし、学校の授業でも十分に教えてくれない。今こそ歴史を学ぶ必要があります。
聞き手 田中倫夫記者
「9条 日本が望んだ」
GHQ憲法草案 舞台裏を小説家化
(東京新聞【こちら特報部】ニュースの追跡)
連合国軍総司令部(GHQ)による日本国憲法草案作成の舞台裏を歴史小説にまとめたマッカーサー元帥の元護衛兵がいる。デビッド・バレーさん(82)。GHQの元同僚らから取材して書いた。「憲法9条は、押し付けたのではなく、日本側が望んでいた」と話す。(鈴木伸幸)
世界に誇れる高貴な理念
「日本の憲法起草に関する専門書は少なくないが、私が内部で見聞きしたような人間ドラマは、これまで紹介されていない。架空の人物を登場させることで、GHQ内部で何があったのか、誰にでも分かるように表現したかった」
バレーさんは小説「シェーピング・ジャパンズ・コンスティトゥーション(日本国憲法作成)」を書いた意図をこう説明する。
米東部のニューハンプシャー州出身で、地元の高校卒業後に陸軍に入隊。狙撃兵として朝鮮半島に派遣された時に、護衛兵に選抜されて1949年から2年間、GHQに勤務した。除隊後、大学でエンジニアリングを専攻し、米系化学会社の日本事務所に勤務したこともある。
今回の来日は、マッカーサー元帥が解任されて50周年の2001年4月に、神奈川県の米軍厚木基地で行われた記念式典に参加して以来。GHQが置かれていた東京・有楽町の旧第一生命ビルも訪ねた。「6階の元帥の部屋はそのままだった」と懐かしそうに語った。
その部屋で元帥が憲法草案を起草するよう極秘裏で指令を出したのが1946年2月。バレーさんはその当時は、東京にいなかったが「『二十数人の起草メンバーが集められ、1週間ほどで原案はまとめられた。連日、徹夜の熱気を帯びた作業だった』と聞いた。日本の歴史を変えた1週間に強くひかれた」。
GHQの占領政策について、内部者の目線で調べることがライフワークとなった。護衛兵のOB会も組織した。OB会は会員の高齢化で昨年、解散を決めたが、最年少のバレーさんが最後の代表だった。OB会や起草メンバーだった故ベアテ・シロタ・ゴードンさんらから話を聞いた。東部のバージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館にも通って資料を読んだ。
「元帥は日本政府側が作成した憲法試案が、民主化に反する内容であることを新聞で知り、マッカーサー草案を作らせた。国民主権や民主主義を柱とするよう強調していた。ベアテさんは、男女平等を実現しようと奮闘した」と言う。
小説では、日本側の試案が新聞にスクープされたことも、占領政策の一環で利用したと書かれている。内容を知った日本国民は民主化への期待がそがれ、その失望感がマッカーサー草案の受け入れの土壌になると元帥は読んだ。「われわれは第一歩を成し遂げた」「憲法草案の作成準備だ」と指示した。
バレーさんは「GHQによる占領政策は、最も成功した事例。男女平等ではまだ壁があるように感じるが、戦後民主主義はうまく定着した。日本には、憲法は『押し付けられた』という声もあるが、民主的な手順で日本が受け入れた」と言う。戦争放棄をうたった9条についても「元帥よりも、当時の幣原喜重郎首相が強く望んでいた。世界に誇れる高貴な理念だと思う」。日本語版の発行も考えているという。