お知らせ
今月25日から一週間、奇跡的にお休みが取れましたので、広島と長崎に旅行してきたいと思います。この時期に休みを取って旅行するなんて学生時代以来ですよ~(^0^)
お金が無いので、青春18切符を使って”乗り鉄”してきます~!(^^♪疲れるでしょうね…(;^ω^)
本場の広島焼きと長崎ちゃんぽんを食したいと思います!(^q^)(^p^)
広島は過去に5回ほど訪問しています。長崎は遥か昔、一度だけ訪問しました。よって、今回は長崎メインで巡って行きたいと思います(^-^)/
長崎原爆資料館を始め、前回の長崎訪問では立ち寄れなかった山里小学校や永井隆記念館(如己堂)、城山小学校などを巡って行きたいと思います。
亀山社中記念館なども行きたいですね~(^^♪
龍馬のぶーつ像
しかし、体力が無いので無理かもですね…(;^ω^)
長崎ちゃんぽんは福山雅治がごひいきの思案橋ラーメンに行ってみたいな~(^q^)
ということで、メインブログと音楽ブログの更新をしばらくお休みしたいと思います。
旅行記はメインブログで発表したいと思いますので、良かったら観てくださいまし~(^^♪
昨年、秋の旅行記がその後のハプニングでお伝えできなかったので、併せて数回に分けてお送りしますね(^-^)/
東日本大震災4年を迎えた福島から伝えたいこと
(ラジオフォーラム#115)
https://youtu.be/7teLsv-yzGU?t=16m17s
16分17秒~第115回小出裕章ジャーナル
東日本壊滅を回避させた奇跡とは「定期検査の日程が遅れていて、まだその原子炉の真上のプールに水が入っていたということがまず第1の奇跡です」
http://www.rafjp.org/koidejournal/no115/
石井彰:
実は、今日は普段の東京のスタジオとは違って、福島県郡山にあるコミュニティラジオ・ココラジから放送してるんですが、ココラジ代表の鈴木さんがぜひ、小出さんに質問をしたいということですので、鈴木さんにマイクをお渡しします。
鈴木則雄さん:
小出先生、こんにちは。
小出さん:
はい、こんにちは。
鈴木さん:
郡山という福一から約60キロぐらい離れてる所にある街なんですけれども、僕が聞きたいことは2点ありまして、1点目は福一が事故を起こした時に、あの事故は奇跡的な幸運によって、あの程度で済んだんであると。
もしかしたらば、東日本壊滅までいったんではないかという、そういう話をよく聞くんですが、それは果たして本当のことなんでしょうかということと、今どういう状態なのかよく分からない福一が今後、何かの拍子にまた放射能を大量に噴出するというような事故が起こる可能性というか、起こるかもしれないと心配してるんですけど、それは一体どんな場合にそういう事故が起こるのかということをちょっとお伺いしたいと思います。
小出さん:
1点目ですけれども当時、原子力委員会の委員長だった近藤駿介さんという方が4号機の使用済み燃料プールの中の燃料が溶けるようなことになると、東京すらがもう住めなくなるという報告書をまとめました。
今、聞いて頂いたように、4号機の使用済み燃料という燃料プールというのは、爆発で半分壊れた原子炉建屋の中に、宙吊りのような状態で存在しています。その使用済み燃料プールの底には、大量の使用済み燃料があって、私の試算によると、広島原爆に換算すると、1万4千発分もの核分裂生成物が貯まっているという状態だったのです。
それが、どんどんどんどんプールの水が減っていったわけで、燃料が水面から顔を出してしまうと溶けてしまうし、大量の放射性物質が何の防御もないまま噴き出してしまうという、そういう状況だったのです。
https://youtu.be/wwYk62WpV_s
そのため、国や東京電力もその危機を十分に承知していて、自衛隊がヘリコプターで上空から水をまいて、プールの中に水を落とそうとしたのですけれども、自衛隊員だって怖いので上空、高い所からしか水を落とせなかった。そのため、水は入らなかったのです。東京消防庁が行って、プールにめがけて放水銃で水を入れようとしたのですけれども、それも遠くからやった。近づけなかったので遠くからやったのですが、上手く水が入らなかったということになりました。
その間にも、どんどんどんどんプールの水が干上がっていったのですけれども、その時に、実に奇跡的なことが起こりまして、使用済み燃料プールと原子炉そのもの真上に、また別のプールというのがあって、仕切りがなされているのです。
4号機は定期検査というのをやっていて、定期検査が終われば、原子炉そのものの上のプールの水は本当は抜くはずなのですけれども、定期検査の日程が遅れていて、まだその原子炉の真上のプールに水が入っていたということがまず第一の奇跡です。
そして、第2の奇跡というのがあって、使用済み燃料プールと原子炉の真上のプールは本当は仕切り板でキッチリと仕切られていて、両方にどちらからも水は流れ込まないということになっていたはずなのですが、その仕切り板がずれていて、使用済み燃料プールの水がどんどん干上がっていったのですが、原子炉の真上のプールの方から、また水が流れ込んできてくれたということがありました。
その奇跡が重なって、使用済み燃料プールの水が最後まで干上がるということがなかったのです。ようやくにして、私達が「キリン」と呼ぶ高所コンクリートポンプ車をその間に連れてきまして、4号機のプールの中に水を入れることができたということで、最悪の事態を免れました。それが奇跡と、私達が呼んでいるものです。
それから今後、急な噴出が起こるかということですけれども、私はたぶん起きないと思います。私が何よりも心配していたのは、半分壊れた4号機の原子炉建屋が今でも続いている余震で、もし崩れ落ちるようなことになれば、今聞いて頂いた使用済み燃料プールの中の燃料が溶けてしまうし、そうなれば大量の放射性物質が噴出してきてしまうだろう。なんとかそれをその危機を防がなければいけないと思ってきました。
どうすればいいかと言えば、4号機の使用済み燃料プールが崩れ落ちる前に、そのプールの底に沈んでいた使用済み燃料を少しでも危険の少ない所に移すという作業だったわけです。そのことに関しては、国も東京電力も承知していて、一昨年の11月からようやくにしてその作業を始めて、昨年の11月にその作業をやり終えました。
私は、東京電力を犯罪集団だと国も犯罪者だと、私は言っているわけで、彼らとずっと戦ってきたつもりなのですけれども、この作業に関する限りは、何とか頑張ってやってくれと思って、東京電力にむしろエールを送ってきたのです。ようやくに、東京電力がその作業を昨年の11月にし終えてくれましたので、ほんとに私はほっとしましたし、これからは、突然大量に空気中に出てくるということは、多分もう起きないと思います。
あと残っている危機はいわゆる汚染水というか、溶け落ちた炉心がどこにあるか分からないのですが、それが今、水をどんどんかけているが故に、福島第一原子力発電所の敷地全体がもう放射能の沼のような状態になってしまっていて、それが、四六時中どんどん海へ汚染が流れ出ていってしまっているわけです。それを何とか防がなければいけないということが、これからの最大の課題になると思います。
鈴木さん:
はい。
石井彰:
鈴木さん、よろしいですか?
鈴木さん:
はい。
石井:
ありがとうございました。
鈴木さん:
ありがとうございました。
小出さん:
ありがとうございました。
石井:
今日は郡山のコミニティFM・ココラジの鈴木さんにも加わって頂いて、小出裕章さんとお話を伺いました。どうもありがとうございました。
鈴木さん:
ありがとうございました。
小出さん:
ありがとうございました。
【特別対談】「放射能と原発の真実」内海 聡氏 × 小出 裕章氏
https://youtu.be/RrMNva8G1MY
2015/02/27
【大阪】京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏、在職中最後のゼミ講演で「原子力廃絶」を力説──原発に警告を発し続けてきた半生を語る(IWJ)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/235922
大阪府熊取町にある京都大学原子炉実験所で、2015年2月27日、1980年から行われている自主講座「原子力安全問題ゼミ」の111回目があり、この3月に定年退職を迎える京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏が「原子力廃絶への道程」との演題で、退職前の最終講義を行った。
小出氏は、原子力の安全性に長年警告を発し続けてきた「京大熊取6人衆」と呼ばれる学者グループの1人。この日の講義では、原発再稼働の阻止が難しくなりそうな気配を憂い、「私の現役中に、原子力を廃絶できなかったことが無念」と何度か口にするも、自分の信念を曲げずに、原子力利用のリスクに関する研究に精一杯取り組んできた学者としてマイクに向かう姿からは、清々しさが伝わってきた。
原子力の危険性を従来以上に強く訴える、この日の講義は多角的だった。4年前に起きた福島第一原発事故が、いかに過酷なものであったかを、広島に投下した原発の脅威と比較しながら解説する場面では、「政府は、国民を(必要のある人間以外は立ち入れない)放射線管理区域に捨てたようなもの」との発言も飛び出した。
さらには、「核のゴミ(放射性廃棄物)」を生んでしまう点で、原発は、たとえ事故を起こさなくても問題があるとし、選択権のない将来の子どもたちに、人類が始末できない有毒物資を押しつける行為は「未来犯罪」だと主張した。
小出氏はこの日も、核兵器の開発技術を得るために原子力政策を推進してきた自民党と原子力ムラを厳しく批判したが、講義の終盤では、国民にも苦言を呈した。「(福島第一原発事故を受け)多くの日本人は、『自分は原発の安全性について、国にだまされてきた』と痛感したはずだが、そう感じるだけで終わらせていい問題なのか」との言葉は、今の日本人への、将来世代からの厳しいメッセージを先取りしたかのようにも感じられる。
記事目次
1970年代の伊方原発訴訟を振り返る
現実となった、伊方原発訴訟での危機感
核の平和利用に夢を馳せた高校時代
貧弱な埋蔵量のウランにエネルギーの未来を託す間違い
福島第一原発事故は収束などしていない
多くの住民が、放射線管理区域に捨てられた
高レベル放射性廃棄物の処理は「未来犯罪」
大飯原発訴訟の判決文は「大正論」
自治体に丸投げの避難計画──政府の無責任の象徴
将来世代から問われる「原子力政策にどう向き合ってきたのか」
https://youtu.be/Ta68VaWr2js
第111回原子力安全問題ゼミ 2015年2月27日(金)
原子力廃絶までの道程
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/No111/Koide20150227.pdf
定年退職する京大・小出裕章助教
「差別生む原子力許さない」
(東京新聞【こちら特報部】)2015年3月23日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015032302000180.html
京都大原子炉実験所の小出裕章助教(65)が、今月末で定年退職する。強大な「原子力ムラ」と対決し、四十五年。その歩みは負け続きだったという。大学で教授のポストに就くことはなかったが、自らの思いには誠実に生きてきた。それは夭逝(ようせい)した愛息に教えられたことでもあったという。福島原発事故の終わりが見えない中、定年後も、自分にしかできない仕事を模索していきたいと語った。
(榊原崇仁)
反原発私自身のため
今月十七日、大阪府熊取町の京大原子炉実験所にある小出助教の研究室。書棚にあった大量の本や資料などは、数えるほどになっていた。「廊下や倉庫の書棚にあった分を含め、拾てました。どれも実験所の仕事にまつわるもの。定年と同時にその仕事はなくなります。これからの私にとっては意味のないもの」
節目を迎える感慨についても「何もないです。定年は単なる社会的制度。雇用関係が切れるだけ」。あっさりした言葉だが、簡単に語り尽くせない半生の裏返しのように聞こえた。
小出助教の研究室。大量にあった本や資料は捨ててしまったという
一九四九年八月、東京都台東区の下町で生まれた。進学校の開成中学・同高校時代は一日も休まない「良い子」。盛んに宣伝された「原子力の平和利用」という言葉に感化され、担い手になることを夢見た。
都市化が進む東京を嫌って東北大ヘ。大学のある宮城県では、女川原発の建設計画が浮上していた。目にしたのは原発立地を都会ではなく、過疎地に押しつける差別の構図。大学三年の七○年、小出助教は反原発の立場に転じた。
「原発に反対するのは私自身のため。だまされた自分にオトシマエをつけるためです」。当人はこの姿勢を”徹底した個人主義” と名付けるが、独善とは一線を画す。「地球上の命は全て掛け替えのない存在と考えるのが、私の個人主義。誰かの命を犠牲にし、差別を生む原子力は許せない」
大学院修了を前に就職先として選んだのは原子力推進の研究機関、電力中央研究所だった。相手の土俵に乗り込み、原発をやめさせようとした。しかし、採用決定の寸前、女川原発の反対運動に参加していたことが伝わり、破談。その後京大原子炉実験所に応募し、四年に入所した。
愛息夭逝 自分に素直に生きよう
「熊取六人組」の1人で1994年に亡くなった瀬尾健さん。小出助教の研究室に写真が飾られていた=大阪府熊取町の京都大学原子炉実験所で
そこで出会ったのが「熊取六人組」の仲間たちだ。大阪・熊取の実験所に属しながら反原発を訴えた六人を指す。七0年代に始まった伊方原発訴訟で住民側の証人になったことから、彼らの存在が脚光を浴びるようになったという。
六人のうち、小出助教の先輩は瀬尾健氏ら四人、後輩は一つ年下の今中哲二氏だ。「入所した当時から既に知っていた仲。皆、原子力に抵抗していたから」
六人組は週一回の会議のほか、自主ゼミや和歌山県日高町で毎年営む合宿などで常時議論を交わした。
「原子力は複合領域。私は自分の仕事の社会的な意義を捉えたかった。そう考えたとき、六人組は大変ありがたい存在だった」
六人組は家族ぐるみで付き合うほど仲が良かったという。小出助教も三人の息子に恵まれていた。ただ、障害がある状態で生まれた次男は、半年でこの世を去った。「人間の運命が不条理で不公平であることを心深く感じた。人間はいつ死ぬか分からない。自分の思いに素直に生きるべきだと強く思った」
小出助教は全共闘世代でもある。向き合ったのは、大学当局や機動隊だけではない。学問や科学のあるべき姿も問い直した。
「人間には、未知の領域を知りたいという抑え難い欲求がある。研究者は国家や権力から独立し、真理の探究に専念すべきだ」
自身がたどり着いた真理は「原子力は危険で破滅的であり、犠牲を押しつける差別の問題でもある」だった。だが、こうした考えは圧倒的に少数派だった。「突き詰めれば原子力は軍事の問題。日本という国家は原子力を進め、核保有につなげたい。そのため、原子力研究は国家の思惑に左右される。研究者はこの状況を自覚して行動すべきだが、出世したい、給料を上げたいと考え、国家に抱え込まれていった」
福島 見続けなければ
事故は進行中
熊取六人組は原子力の危うさを研究、公表し、原子力の利用に歯止めをかけようとしてきた。しかし二○一一年三月、福島原発事故が起きてしまった。
「緊急事態を理由に、汚染地域に住民が捨てられている。捨てられれば、生活者として放射能を忘れ、復興を考えるしかない。『放射能を口にするヤツは復興を妨げる。黙ってろ』というのが、福島の現状だ」
一方、故郷を追われた人たちも数多い。そして、事故から四年たった現在、国は早々に生活支援を打ち切ろうとしている。「片や加害者の方は、誰も責任を取ろうとしない。異常としか言いようがない」
反原発運動も一時の勢いを失ったように見える。「いまは福島が忘れ去られる過程にある」。どうしたらいいのか、という問いには「分かりません」とだけ答えた。後継者を育てる余力もなかった。「いまとなっては手遅れ。仕方がないと思っています」小出助教は「負け続きだった」と語る。ただ、助教というポストについて「実験所で最下層の地位」と認めながらも「私には大変恵まれた立場。居心地がよかった」と話す。
実験所での仕事は所内で出る放射性排水などの処理だった。「自分の仕事をきちっとやる限り、上司は一切注文を付けず、自由にさせてくれた。私は最下層の職員なので、命令する人もおらず、自分がやるべきこと、やりたいことに集中できた。個性を重んじる京大の校風があったからこそで、反原発を訴え続けても最後の最後まで弾圧されることはなかった」
私でなければできない仕事があれば、引き受けます
反原発系市民団体のシンポジウムに参加した小出助教(右から2人目)=1999年2月、仙台市で(篠原弘典さん提供)
仙人になります
定年退職後、新たな定職には就かないという。がらんとした研究室で、小出助教は達観したように「仙人になります」と語った。
生まれ育った東京には戻らない。「信州で暮らします。暑いところが苦手ですし。妻と相談して、何年も前から決めていました」
しかし、俗世と距離を置くことは、そう簡単にできそうにない。「福島原発事故は、敷地の中でも外でも進行中です。完全に目をつぶることはできません」
実験所を離れれば、放射線関連の機器も使えなくなる。さらに自らの老いも実感している。しかし、淡々とこの先を見ている。
「定年なんて、本当に大したことじゃない。住むところは変えます。自分の人生設計を考えるよい機会だとも思っています。年を考えると、仕事はだんだん減らさざるを得ないですが、私でなければできない仕事があるのなら、引き受けようと思っています。ただ、半年先という範囲で。半年以上先は、生きているかどうか分かりませんので」
【デスクメモ】
「助教だから貧乏に違いないと同情する人が多くて。さらに酒好きも周知。薄給では酒も好きに飲めまいと、全国から銘酒が贈られてくる。助教の給与でも酒くらい買えます。でも、お断りするのも何なので、ちゃっかりごちそうに…」。数年前、酒席でそう笑っておられた。ちゃめっ気は厳しい人に映える。(牧)
なぜ警告を続けるのか~京大原子炉実験所・"異端"の研究者たち~
https://youtu.be/Vb6uH7-mMXE
2008年10月20日(月)大阪MBS関西ローカル
大阪府熊取町にある京都大学原子炉実験所。
ここに脱原発の立場から活動を続けている"異端"の研究者たちがいる。
原子力はわが国の総発電電力量の3割を供給するまでになったが、反面、去年の中越沖地震で柏崎刈羽原発が「想定」を上回る激しい揺れで被災するなど、技術的な課題を完全には克服出来ていない。
番組では、国策である原子力推進に異を唱え、原子力の抱えるリスクについて長年、警告を発し続けてきた彼らの姿を追う。
その言葉はエネルギーの大量消費を享受する私たち国民一人ひとりへの問いかけでもある。
この番組を放送した当時、大阪の毎日放送(MBS)は、関西電力から広告の出稿停止という恫喝を受け、また、該当番組ディレクターの更迭という圧力もかけられた。しかしながら、毎日放送はこれを断固拒否したといわれる曰く付きのドキュメンタリーである。また、こういう恫喝には政府・国も関わっているという噂もある。
○●○●○●○●
八紘一宇 - Wikipedia
「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを」
by 山田麗子(3年B組金八先生)
戦後七十年の「八紘(はっこう)一宇」
(東京新聞【こちら特報部】)2015年3月19日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2015031902000173.html
戦後七十年の国会で、こうした言葉が飛び出すとは思いもしなかった。「八紘一宇(はっこういちう)」だ。自民党の三原じゅん子参院議員(50)が十六日、参院予算委員会で「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と紹介した。この言葉は戦前・戦中の日本のアジア侵略を正当化する標語として使われた。発言後、自民党内、国会でも大きな騒ぎにはなっていない。その静けさが問題の根深さを示唆している。
(篠ケ瀬祐司、林啓太)
「世界を一つの家と見立て天皇が統治」
「満州」支配で理念復活
まず、「八紘一宇」の意味と歴史を確認したい。
この言葉の源は八世紀の歴史書「日本書紀」の記述だ。初代天皇とされる神武天皇が即位直前に「八紘を掩(おお)いて宇(いえ)にせん」と抱負を述べたとある。
八紘は八方の地の果て、つまり世界のこと。宇は家のことだ。天皇が世界を一つの家と見立てて統治しようとの理念が示された。
ただ、これは日本書紀の編纂(へんさん)者による創作というのが通説だ。それ以前にあった「文選(もんせん)」など中国の書籍に類似した表現がある。
専修大の荒木敏夫教授(日本古代史)は「導入されたばかりの律令(りつりょう)制の下で、天皇の支配原理や正統性を証明するための理念として持ち出した。国を家にたとえるのは徳のある君主として人民を慈しまなければ、王朝が滅びるという思想に基づく。近代の平等で民主主義的な家族観とは異質の考えだ」と解説する。
律令国家のイデオロギーの「亡霊」が復活するのは近代になってから。日本書紀を基に「八紘一宇」を造語したのは日蓮宗系の宗教家、田中智学(ちがく)(一八六一~一九三九年)とされる。一九一三年、自身が主宰する信仰団体の機関紙に記した。
千葉大大学院の長谷川亮一特別研究員(日本近現代史)は「田中は日蓮宗の教義を独自解釈し、日露戦争前から天皇が世界統一の使命を負っていると主張していた」と説明する。
ただ、田中の思想は一部軍人らに影響を与え、三〇年代前半から軍部が八紘一宇を使い始めた。陸軍省のパンフレットや二・二六事件の青年将校の「蹶起(けっき)趣意書」にも引用された。
背景にあるのが、三一年の満州事変と翌三二年の満州国の建国だ。長谷川氏は「満州は朝鮮や台湾のように併合できなかった。第一次大戦後、民族自決の風潮が国際的に浸透していたためだ。そこで、日本が満州国に対して支配的な地位に立つことを正当化する狙いで、天皇の威光が世界を覆うという八紘一宇の理念を主張した」と語る。つまり、アジア侵略を正当化する理念だったといえる。
政府は三七年、戦意発揚のために「八紘一宇の精神」と題する冊子を発行し、四〇年にはこの言葉を含む「基本国策要綱」を閣議決定した。宮崎市に「八紘一宇の塔(現・平和の塔)」が建てられるなど、草の根にも浸透していった。
文部省が学校に配布した「大東亜戦争とわれら」(四二年)という冊子も「戦争完遂の大目的」が「万邦が各々(おのおの)その所を得て、あひともに栄えゆくやうにすること」で「八紘為宇」の精神に基づくと説いた。
やがて、敗戦。連合国軍総司令部(GHQ)は四五年、八紘一宇を「軍国主義、過激ナル国家主義卜切り離シ得ザルモノ」として公文書での使用を禁じた。
侵略戦争を正当化
戦後 中曽根氏ら否定
その後、戦後は一貫して時の閣僚たちが「八紘一宇」を否定している。
五三年八月七日の衆院文部委員会では、大達茂雄文部相が「八紘一宇などという歴史教育のやり方を復活する考えは毛頭ない。(略)やはり偏っていた」と明快に否定した。八三年三月十六日の参院予算委でも「八紘一宇を平和主義のシンボルと考えるか」。と問われた中曽根康弘首相が「(略)戦前の限定された意味が非常に強くあり、私自体はそういうものはとりません」と答えている。
三原議員は「こちら特報部」の取材に対し、文書で回答を寄せた。「八紘一宇という言葉が、戦前に他国への侵略を正当化するスローガンや原理として使用されたという歴史的事実は承知しているし、侵略を正当化したいなどとも思っていない。良くない使い方をされた経緯を認めた上で、この言葉は、戦争や侵略を肯定するものではないことを伝えたかった」と説明。(・3・)
さらに、この言葉との出会いは「一三年二月十一日の建国記念日に、神武天皇の『建国のみことのり』をブログで紹介するにあたって勉強した」際という。
一方、自民党の谷垣禎一幹事長は十七日の記者会見で、「必ずしも本来、否定的な意味合いばかりを持つ言葉ではないと思う」と、三原議員を擁護した。( ̄^ ̄)凸
しかし、党内には戸惑いの声もある。ある閣僚経験者は的をかわした麻生太郎副総理兼財務相の答弁を「バランスが取れていて良かった」と評価。別のベテラン議員も「普通なら三原議員の世代は使わない単語。誰かに知恵をつけてもらったのか」と苦笑した。
若手議員は党の印象悪化を心配する。「さすがに党が使うよう指示したとは思えない。仲間内では『元の意味は良くても、戦前、戦中の単語を持ち出すのは勘弁して』と話している」
三原議員は、委員会で清水芳太郎(故人)が書いた八紘一宇に関する抜粋を配布した。清水は戦前に国家主義思想団体を主宰した人物で「一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家」「世界で一番強い国が弱い国、弱い民族のために働いてやる制度ができた時に、世界は平和になる」などと記されている。
「アジア民衆の心を剌す」
「歴史的文脈無視は危険」
結局「一議員の発言で、表現の自由もある」(ベテラン野党議員)などの理由で、三原議員の質問は委員会理事会などでは問題化されていない。だが、参院予算委で質問を聞いた福島瑞穂議員(社民)は「上から目線の歴史修正主義だ。次々と類似の発言が出てきたら、大変なことになる」と警鐘を鳴らしている。
前出の荒木教授は「八紘一宇は侵略に苦しんだアジア民衆の心を刺す言葉。三原さんは政治家でありながら、他者の痛みへの想像力を欠いている」と話す。
長谷川氏も「歴史的な文脈を無視した安易な使用が一般化するのは極めて危険だ。八紘一宇の理念の下に推し進められた侵略戦争の正当化にもつながりかねない」と危ぶんだ。
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”お知らせ” と 第115回小出裕章ジャーナル
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