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武藤類子さん:原発はつながりを断ち切る最大のものです・・自分の頭で考えようって

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女の闘い、日常の中から
脱原発福島ネットワーク 武藤類子さん
考える広場 福島と「つながる」とは
(東京新聞)2014年9月27日

 福島は今、深刻な分断に直面しているといいます。二○一一年九月、東京で開かれた脱原発集会で、福島を代表して武藤類子さん(六一)は「私たちとつながってください」と呼び掛けました。私たちは、その振り絞る声に応えられたのでしょうか。電力の消費地と被災地福島は、つながりあえるのか。武藤さんと考えます。
(聞き手・佐藤直子)

女の闘い、日常の中から 武藤類子

 佐藤 三年前の「さようなら原発五万人集会」で語られた「私たちは静かに怒りを燃やす、東北の鬼です」という言葉は衝撃的でした。事故当時、福島県三春町で喫茶店「燦(きらら)」を営んでいた武藤さんはあのスピーチの後、福島原発告訴団の団長となって東京電力の当時の会長、社長ら三十三人の刑事責任を問う運動を始めます。東北の鬼の静かな怒りは、どう変わっていきましたか。
 武藤 東北には鬼の踊りがたくさんあって、私は岩手の「鬼剣舞」が好きなんですね。勇壮というより、どこか悲しい感じで。鬼の面には角がなくて、「仏の化身」という解釈なんです。鬼は「悪者として迫害されながらも、大きな力にあらがおうとしている人」であり、福島の人たちの姿に重なったんですね。すべてを奪っていった原発事故への怒りそのものは消えません。この国のあり方がよく見えてきましたし。怒りは一層深く、静かになっています。
 佐藤 福島は今、どのような状況にあるのですか。
 武藤 原発事故の直後から家族や職場、地域で、残るか、逃げるか、考え方の違いで無数の分断が生まれました。根っこにあるのはもちろん、放射能の問題です。でも、分断はつくられたものもあるんですね。通り一本隔てただけで、賠償を受けられたり受けられなかったり。
 「いつまでも被害者でいるのはやめて、復興していこう」という帰還・復興政策が、「気を付けていれば放射能も大丈夫」という安全キャンペーンと一つになり、人びとを切り裂いています。被害者であり続けるのはつらいから、「大丈夫」と言われれば、忘れたい気持ちとも結び付く。亀裂は深刻になっています。

 佐藤 対立する必要のない被害者同士が対立するのは、沖縄の普天間飛行場を名護市辺野古に移設しようとすることで、県民が分断させられているのと同じですね。移設に反対する人も、反対派の警戒につく人も、同じ県民、地元の人です。
 除染とワンセットになった住民の帰還政策は、福島の問題を複雑にさせています。住民の年間被ばく線量の基準を、事故前の一ミリシーベルトから二○ミリシーベルトまで大幅に緩め、避難指示を解除し、補償を打ち切っていく。放射能の不安の残る所に帰還を促すことが、どんなに混乱させるか。避難先での生活費が続かず地元に戻った人は大勢います。「古里に帰りたい」という素朴な思いが政府に都合よく利用されているようで、報道の仕方も悩ましく思っています。
 武藤 理不尽なことがたくさん起きています。被害者への賠償の範囲や金額を、加害者の東電が審査するのも、被害者があまりにもバカにされている。事故のことが何も解決されていないのに原発再稼働の話が出てきて、元通りの社会がつくられようとして。加害者の責任が問われていないのも原因だと思います。事故から一年たった十二年三月に「福島原発告訴団」を立ち上げたのは、被害者が再び一つにつながり、声をあげ、力を取り戻したかったからです。
人を罪に問うのは、とても怖い。私に資格があるのかも悩みました。でも事故の真実を、責任を誰が取るべきかを明らかにさせるのは、被害に遭った者の責任ではないかと思いました


 佐藤 業務上過失致死傷容疑などでその年の六月に第一次告訴をしました。対象は東電の旧経営陣から政府関係者、学者まで三十三人。その異例の規模から、福島第一原発の事故をこの国の社会構造の問題として問うのだという覚悟を感じました。でも、事件は翌年九月九日に突然、合同捜査をしていた東京地検に移され、不起訴になる。東京五輪の招致が決まった翌日でした。
 武藤 不起訴になったら福島の検察審査会に申し立てると決めていたので、東京でしかできないと分かったときは、がっかりしました。福島の検審だからこそ希望も持てると思ってましたから。それでも東京の人に訴えるリーフレットを作り、月に1回ほど東京の検審前で起訴を求めて訴え、東電前で自首してほしいと訴えました。
 佐藤 東京第五検察審査会は今年七月末、勝俣恒久元会長ら東電旧経営陣三人について「危機管理が不十分だった」と判断し、「起訴すべきだ(起訴相当)」の議決をしましたね
 武藤 本当にうれしかったですね。希望になりました。十一人いる審査員のうち八人以上の意見が一致しないと「起訴相当」にはならない。そういう感覚を都民の大多数が持っていてくれたということは、日本の市民の大多数が同じ感覚を持っているということですから。
 佐藤 原発事故の後、東京の繁華街から消えたネオンはいつの間にか戻りました。原発を立地する自治体が過疎地にあり、そこで作られた電力を都会が消費するという構図は全国どこも同じです。三年前の集会で武藤さんは「私たちとつながってください。福島を忘れないでください」と呼び掛けました。私たちは本当の意味で福島とつながることができるのでしょうか。
 武藤 東京という都会のありようにがっかりすることは、もちろんあります。あるけれど、その分断もまた、つくられてきたものだと思うんですね。原発はつながりを断ち切る最大のものです。私たちが分断される必要は全くないわけですね。事故後の福島第一原発では毎日六千人が働いていて、七割が福島県人。事故で仕事をなくした人もいます。被ばく労働がどんなに大変かということが、今になって分かってくる。

 佐藤 その「分かる」とか「知る」ということが、つながりを考え直す一歩かもしれません。「コンセントの向こう側」を想像することが必要ですね。原発が誰かの命の犠牲の上にあるシステムだと知ることで、社会を変えるのかどうかを考えていく。
 武藤 システムの中で生かされているという状況は都会の方だって同じですから、一緒に考えていきたい。えらそうに言えないけれど、自分の頭で考えようって。都会の消費者も、福島の犠牲者も、一人一人が自分で立ってつながろうとしなければ共倒れになります。
 よく観察してほしいのです。福島で何が起きているのか、人々はどんな状況にあるのか。国は何をしているか。人権侵害とか、人の尊厳が失われていくさまとか、それは日本中どこでも起こりうる。観察すればわがことだと分かると思うんですね
 佐藤 原発再稼動には今も大勢が反対しています。都会の人が原発問題に関心がないわけじゃない。イメージを固定化させないことですね。運動の中で大切にしていることは何ですか。
 武藤 英国で一九八一年に起きた「グリーナムの女たち」の闘いに影響を受けました。核ミサイル配備に反対し、米軍基地の周りで十八年間、平和キャンプを続けて、ついに基地を撤去させたのです。
 女たちの闘いは、特別なことではなく、ユーモラスで、日常感覚を大切にしてるんですね。歌ったり、ご飯を作ったり。
 運動は、ややもすれば相手をたたき伏せるまでやってしまいがちですが、女たちの目的は考え直してもらうことで、たたき伏せることではないんですね
 私も、告訴団の団長になったときはこの役目は重いなって思ったのですが、私以上の私は生きられないですよね。
 原発事故があって、一人の人間としての殻をほんの少し破ったというか、一段上がったというか。私のささやかな夢も原発事故のせいでだめになってしまって。でも、神様がいるとしたら、「もっと前に進みなさい」と言われたのかなと、そう思ったのですね。

 むとう・るいこ
 1953年、福島県生まれ。養護教員だった80年代、チェルノブイリ原発事故に衝撃を受けて脱原発福島ネットワーク設立に参加。廃炉を訴える「ハイロアクション福島」の準備中に3・11震災に遭う。著書に『どんぐりの森から』。

 福島原発告訴団
 福島原発事故の被害住民で構成し、2012年6月、福島県民1324人が福島地検に第1次告訴。被告訴人は東京電力幹部や国の関係者ら33人。同11月、全国・海外から1万3262人が第2次告訴を行う。検察の不起訴処分を不服として検審に申し立て、今年7月、「起訴相当」を含む議決が出た。現在、検察による再捜査中。


9/19 【さようなら原発】 武藤類子さん

http://youtu.be/5xdszFXI2J0


Greenham Common Women's Peace Camp
Greenham Common Women's Peace Camp
1982年12月12日にグリーナム・コモン米軍基地巡航ミサイルが配備されることに反対して30,000人の女性が米軍基地の周囲(9.7キロ)を人間の鎖で包囲して抗議の意を示しました。

Greenham Common, dancing on the Silos on New Years Day, and scenes from outside the court case clips

http://youtu.be/Ipmh_27AADk

Greenham Common peace sign
Greenham Common peace sign





崩壊寸前の福島事故直後の行動調査
(東京新聞【こちら特報部】)2014年9月8日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2014090802000158.html
 福島原発事故直後に被災者たちがどう行動したのかを記録する調査が崩壊寸前だ。放射線による健康影響を調べるため、一人一人が浴びた線量を推計する切り札として福島県が三年前に始めた。しかし、全県民を対象にした行動記録の回収率は26・4%にとどまっている。これでは健康管理はおぼつかないが、県は有効な手だてを打っていない。本気で健康影響と向き合う気があるのか、という疑問の声すら上がっている。
(榊原崇仁)

崩壊寸前の福島事故直後の行動調査_1

出足遅れ 記憶曖昧に
福島原発事故 被災者の行動記録

 「毎回申し上げていますが、満足できるものではありません」。先月二十四日に福島市であった県民健康調査検討委員会。この席上、県双葉郡医師会顧問の井坂晶氏は低迷する回収率に不満をあらわにした。
 国立がん研究センターの津金昌一郎氏も「一般的な世論査では、最低でも60%が求められる」と発言した。だが、県から調査を委託される県立医科大(県医大)の担当者は「どう回答率を向上するか、検討委で十分議論し、助言いただければ…」と受け流した。
 行動記録の調査は、事故後の健康状況を調べる県民健康調査で「基本調査」と位置付けられている。二百万人余の全県民が対象で、東日本大震災があった二○一一年三月十一日から四カ月間、どこにいたか、一時間単位で記録に残す。
 県医大によると、外部被ばく線量はこの行動記録と場所ごとの空間線量などとを組み合わせることで唯一、推計できるという。
 被ばく線量の濃淡が健康にどう影響するかを調べるには不可欠だ。さらにこのデータ抜きでは、影響があった際の立証が難しく、支援や賠償を求める根拠も乏しくなってしまう。
 この健康影響ではとりあえず、甲状腺がんが焦点になるが、これを引き起こす放射性ヨウ素の内部被ばく線量の推計でも行動記録の活用を検討している。
 ヨウ素は専用機器で被ばく状況を把握できるが、半減期が八日と短く、事故直後の測定が求められる。ただ現状では千人程度のデータしかないため、新たな方法による推計が必要だ。
 しかし、行動記録の回収率は低迷している。
 行動記録を書き込む問診票の全県配布は一一年八月に始め、記入後に郵送してもらっているが、回収率は同年十一月末で18.0%。その後、微増という状況が続いてきた。
 昨年十一月には、打開策として移動距離が少なかった日は、時間などを省ける簡易版も使い始めた。
 しかし今年六月末でも、回収率は26.4%。原発に近い相双地区だけでも45.3%と半数以下だ。県医大はこれらのデータから一般人の外部被ばく線量について「最高で二五ミリシーベルト。健康影響は考えにくい」と発表しているが、県全体で約四人に一人の回答では、根拠が薄いと見ざるを得ない。
 ただ、今から回収率を上げるのは簡単ではない。
 避難指示区域の浪江町から二本松市の仮設住宅に避難する大学一年生の女性(一九)は問診票を返送していないが「避難先が四回ほど変わったし、もう記憶は曖昧」と回答をためらう。同じ仮設の女性(六八)も未回答だが「はっきりと覚えてない。細かく思い出さないと、と思うと、面倒な気持ちが強くなる」と話した。

崩壊寸前の福島事故直後の行動調査_2

専門家会議「被ばくの線量小さい」
不備なデータで判断

 事故直後の行動を記録する作業は記憶との勝負、時間との勝負だ。福島の行動調査の場合、出足の遅れが記憶を曖昧にさせた。
 そもそも全県的な問診票の配布が始まったのは事故から五カ月後の一一年八月だったが、県側が意図的に遅らせた節がある。
 同年五月にあった県の内部会合では、インターネットで県民に行動記録を入力してもらい、外部被ばく線量を推計する試みが独立行政法人・放射線医学総合研究所から提案された。
 これに対し、県側は「現段階では住民の不安をあおる」と強く批判し、中止に追い込まれた。つまり、混乱回避という理由で、行動記録をつかむ試みは先送りされてしまったのだ。
 頼りにならない結果しかない現状だが、これを「利用」しているのかと疑いたくなる動きもある。
 環境省は福島原発事故後の健康管理について議論する専門家会議を開いているが、元放射線影響研究所の長滝重信座長は7月の会議で、行動記録に基づく線量推計に触れ、「大半の人は五ミリシーベルト以下」という点ばかりを前面に押し出した。
 データ不足なのに「被ばく線量は小さく、健康影響は考えにくい」という一方的な判断を打ち出すような姿勢は反発を呼び、翌月の会議では開会直前、市民団体のメンバーらは浮島智子環境政務官(当時)に座長解任の要請書を渡した。
 調査方法が「県民の自己記入式」でよかったのか、という疑問もある。
 京都大原子炉実験所今中哲二助教らの研究グループは県とは別に、避難住民の行動を記録し、外部被ばく線量を推計した。同グループでは各世帯を巡回し、対面式で聞き取った。
 今中助教は「相手の顔を見ながら、回答をお願いした方が協力を得やすい。正確さの面でも、対面方式の方が勝る。原発事故があってからの行動について、順を追って丁寧に聞くことで相手の記憶がよみがえる。『この時、世の中でこんなことが起きていましたけど、あなたはどうしていましたか』と水を向けることで、少しずつ思い出すことも少なくない」と語る。
 今中助教らの調査は避難指示が遅れた飯舘村の住民が対象だが、昨年七月から十月という短期間にかかわらず、全村民約六千人の三割程度から回答を得た。
 実は県医大も、対面式の調査が全く頭になかったわけではない。
 「こちら特報部」が情報公開した資料などによると、問診票配布から約一年後の一二年七月、県医大は有識者会議を開いている。
 今後の大学のあり方がテーマだったが、県医大の重要事業になっている行動調査が話題になり、菊地臣一理事長は「いま選択を迫られている」と報告。対面調査で回収率を上げるか、全県民となっている調査対象を絞り込むか、という2つの道があると説明した。
 そのうえで、対面調査を実施した際の費用は数十億円と語り「資金がかかりすぎる。それほど使えないという意見もある」と否定的な見解を述べた。結局、対面調査に切り替えないまま、現在に至っている。
 「福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク」副代表の福田健治弁護士は「除染に毎年、数千億円かける中、行動調査の費用を渋る理由があったのか」と憤り、こう訴える。
 「そもそも福島県に調査をまかせていいのか。費用の確保がどうのという以前に、信頼を失っている。さらに放射性物質が県境で止まらないということを考えると、県外でも行動調査をする必要がある。そうなれば、国が責任を持って対応しなければならない。いまの行動調査はもう限界。全面的に見直すべきだ

崩壊寸前の福島事故直後の行動調査 デスクメモ


飯舘村住民の初期外部被曝量の見積もり
(今中哲二)飯舘村初期被曝評価プロジェクト
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/etc/Kagaku2014-3.pdf




福島・6号線ルポ バリケードずらり、残る高線量
(東京新聞【こちら特報部】)2014年9月18日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2014091802000140.html
 福島県の浜通りを縦断する国道6号富岡町-双葉町間(14.1キロ)の通行規制が15日、解除された。全線開放は3年半ぶり。国道は除染されていても、放射線量の高い場所がまだ残る。復興に弾みがつくと期待が高まる半面、住民らの不安は続く。帰還困難区域を貫く国道を17日、車で往復した。
(白名正和、沢田千秋)

福島6号線ルポ バリケードずらり残る高線量_1

解放されてもバリケー

 午前 四時二十分、富岡町の富岡消防署前。通行規制が解除されるまで、検問所があった場所だ。
 「この先、帰還困難区域」「自動二輪車 原動機付き自転車 軽車両 歩行者は通行できません」などと書かれた看板が出ている。警察官や警備員ら五人ほどが警戒に当たっていた。
 周辺の空間放射線量を測定してみると、毎時○・九五マイクロシーベルト。道路の真ん中は一・六五、道路脇の草むらでは、三.一○まで上がった。
 内閣府のモニタリング調査によると、規制が解けた富岡町から双葉町までの平均空間線量は毎時三・五マイクロシーベルト。除染前は毎時五・一マイクロシーベルトで、担当者は「三割から四割低減できた」と話す。最大値は、福島第一原発近くの大熊町内の一四・七マイクロシーベルトで、高い場所も残っている。
 二輪車や歩行者の通行が禁止されているのは、被ばくの恐れがあるためだ。四輪車であっても駐停車はできない。政府は、窓を閉めてエアコンは内気循環にするよう呼び掛けている。
 早朝のこの時間も、マイクロバスやトラック、乗用車が行き交う。バスやトラックには、福島第一原発の通行証らしい黄色い標章が付けられていた。ナンバーは、いわき、福島、水戸、仙台とさまざまだ。

 北上 する。脇道はバリケードなどでふさがれ、侵入できない。民家との間にも、バリケードが左右に並んでいる。
 福島第一原発に近づくにつれ、社内の空間線量は二、三、四マイクロシーベルトと上がっていく。福島第一原発から西約二キロの中央台交差点付近で、六・三八マイクロシーベルトに達した。
 双葉町の双葉厚生病院入口交差点からは、数十メートル先に「原子力明るい未来のエネルギー」という標語の看板が見える。
 この標語を小学六年の時に考案した大沼勇治さん(三八)は、規制解除の当日、避難先の茨城県古河市から現場を訪れた。看板を写真に収める人々を目にし、複雑な心境になったという。
 大沼さんの自宅は、除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の候補地の目と鼻の先。候補地は、福島第一原発を取り囲むように、国道6号の東側に広がる。「一般車両にとっては確かに便利になった。けれど、本当の目的は復興に見せかけた汚染ごみの運搬ルートの確保と思わざるを得ない
 侵入を防ぐバリケードは沿道に約三百カ所。「バリケードは、東電とともに歩んだ私の人生に付けられた✕印に見えた。そして、6号は今後、人が住める側と住めない側とに、町を分断する象徴になった

福島6号線ルポ バリケードずらり残る高線量_2

便利になるが人はいない 「子や孫は通らせたくないな

 住民が心配しているのは、人の出入りが増えることによる盗難などの犯罪の増加だ。双葉、大熊、富岡を含む八町村を管轄する福島県警双葉署管内の刑法犯認知件数は、原発事故前の二○一○年に四百二十三件だったのが、事故後の一一年は千十五件に激増。住民が避難し無人となった住宅の空き巣被害が相次いだ。
 このため、富岡町では四十四カ所に防犯カメラを設置。大熊、双葉両町も防犯カメラや自動車ナンバー自動読み取り装置(Nシステム)の設置準備を進めている。
 双葉町にあるゲートまで約二十分だった。そのまま南相馬市に入る。国道沿いの食堂駐車場で、まきストーブにあたっていた同市の男性(七三)は、「子どもや孫は通らせたくないな。原発の近くは線量が高いから」と話した。同市のJR原ノ町駅前で喫茶店を経営する吉田至巴(よしとも)さん(七五)は、「今まで南に行くことのできる道路がなく陸の孤島のようだった。これからは南北の人の交流が増えるだろう」と歓迎した。
 ここでUターン。今度は南下する。
 同市小高区の避難指示解除準備区域。夜間の立ち入りや宿泊が制限されている。同区で二○一二年四月から理容室を再開した加藤直さん(六四)は、国道の規制解除について、「利便性は向上するだろうけど、宿泊制限も解除にならなければ、変わらない。人がいないと町は活気が出ないよ」と話す。
 同区にある南相馬市ボランティア活動センター。一時帰宅する住民などから片付けやがれきの処分、農業用ビニールハウスの解体などの依頼が月百件ほどある。センター長の松本光雄さんは「やってもやっても終わらない。交通が便利になり、ボランティアに来てくれる人が増えてほしい」と期待している。

 進行 方向の左手に太平洋が見える。海岸の整備のためか、重機がいくつも動いている。草むらの中に、上下逆さになった乗用車が一台、放置されていた。
 双葉町に再び入る。明るくなったため、早朝には分からなかった町の様子が見て取れた。国道沿いにラーメン店、ガソリンスタンド、クリーニング店、食堂などが並ぶが、いずれも人影はない。
 富岡町にあった衣料品チェーン店は天井が落ち、壁やガラス窓が破れ、店内にはハンガーに服が掛けられたまま。ホームセンターも商品のコーン標識や鉄柱が、屋外の商品棚に置きっ放しになっていた。どの店も朽ち果て手付かずになっているという印象だった。
 国土交通省磐城国道事務所によると、八月の平日の一日平均交通量は六千四百台だったが、解除後の今月十六日は一万台に増えた。
 富岡町のゲートを過ぎて、さらに南下する。避難指示解除準備区域で夜間の立ち入りと宿泊が制限されている楢葉町。町役場庁舎前に今年七月、町のPRと地元の復興につなげるための共同店舗「ここなら商店街」がオープンした。飲食店「おらほ亭」を経営する横田峰男さん(四九)は「今までは人通りが少なく隔離されているような閉塞(へいそく)感を感じていた」と喜ぶ。
 ただ、店に客としてきていた同町の宿泊業の男性(三九)は、「正直、規制解除に特段の思い入れはない。楢葉に人が住むことができて、商売も軌道に乗るようにならないと、町が元気になったという実感は湧かない」と話した。
 いわき市に着くまでに、原発作業員を乗せたバスを何度も見かけた。国道6号は通行できるようになったが、原発事故はまだ収束していないということを実感した

福島6号線ルポバリケードずらり残る高線量デスク



帰還ありき 住民苦悩 来月1日 川内村避難解除
(東京新聞【こちら特報部】ニュースの追跡)2014年9月25日

 福島第一原発から二十キロ圏にある福島県川内村は、来月一日に避難指示解除準備区域の指定が外される。今月十七日には安倍首相が来村し、住民帰還を促す考えを示した。だが、事故から三年半がたち、それぞれの事情で古里に戻れない人も多い。今後、賠償打ち切りという痛みばかりを強いることにもなりかねない。
(榊原崇仁)

帰還ありき 住民苦悩 来月1日 川内村避難解除

避難先の生活、賠償打ち切り…懸念大きく

 川内村は原発事故直後、二十キロ圏内は警戒区域、二十キロ圏外は緊急時避難準備区域となった。二○一一年九月には緊急時避難準備区域の指定が解除され、一二年四月には、警戒区域も避難指示解除準備区域と居住制限区域に再編された。
 今回指定が解除される避難指示解除準備区域は、百三十九世帯二百七十五人の訴人が対象。政府は十二日に解除を正式決定した。
 村側は帰村を促すため、復旧復興を急いできた。
 村によれば、除染は住宅のみならず、道路、農地、森林などで一通り終えた。震災で傷んだ道路の補修は半分ほど済み、来年度中に完了する。雇用面では、金属加工メーカーや野菜栽培などの工場を誘致。来春に災害公営住宅、来夏は特別養護老人施設ができる。
 ただ、帰還ありきで前掛かりになっている面は否めない。村が設けた有識者会議「川内村への帰還に向けた検証委員会」は先月八日に「除染の効果はあり、日常生活に必須のインフラなどが整った。避難指示解除準備区域の解除は妥当」という中間答申を出した。
 これが解除決定を後押ししたが、検証委は七月にスタートし、中間答申まで二回しか会合を持っていなかった。検証委の委員長は県立医科大の山下俊一副学長に師事する長崎大の高村昇教授、副委員長は電力会社出資の財団法人「電力中央研究所」の井上正・名誉研究アドバイザーが務める。
 安倍首相も解除決定から五日後に、川内村にある仮設住宅を訪れ、「住民の不安を受け止めながら、帰還に万全を期す」と宣言した。だが、実際はそう簡単にはいきそうにない。
 村側は避難指示解除準備区域の外部被ばく線量について年間一~二ミリシーベルトにとどまると推定する。しかし、雨どいの下など放射性物質が集まりやすい場所などでは、空間線量は毎時一~二マイクロシーベルト(年換算で四~五ミリシーベルト)と高くなっている。
 全村民二千七百人余のうちの九割は、既に避難指示の対象から外れているが、半分程度しか帰村していない。村の担当者は「若い世帯は、村に戻らない例が目立つ。避難先で新しい仕事を見つけ、子どもも避難先の学校になじむと、腰が重くなる」と語る。
 避難指示が解除されると、一年後に東電からの精神的損害賠償(一人月十万円)が打ち切られる。これが帰還を思いとどまらせる要因にもなりかねない。
 避難指示解除準備区域から郡山市内の仮設住宅に避難する女性(七七)は「家業だった畜産はもうできない。賠償金を打ち切られれば、ほんの少しの年金で暮らすしかない」と話す。「店が多い郡山は商品が安い。川内村の店の半額ぐらい。お金のことを考えると、郡山にとどまるしかないのかなと思ってしまう。川内に帰りたい気持ちは強いが…」
 同じ仮設の男性(八○)は膝の調子が悪く、週に一回病院に通うが「川内は小さな診療所しかなく、村に戻っても郡山まで通院しないといけない。交通費もばかにならない」と嘆く。
 仮設住宅の自治会長を務める志田篤さん(六五)は今後をこう見通す。「避難者はそれぞれが事情を抱える。十月一日になったからと言って、急に帰村する住民が増えるとは思えない


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