5月3日は日本の憲法記念日ですね!
近頃の安倍内閣の策動によって憲法が大企業、アメリカの利益に沿うように改悪の危機を迎えています・・
・・(´・_・`)
憲法とは国家の基本組織を規定し、国民の基本的人権を保証する法です。イギリスでは若干の法律と慣行からできていますが、その他の国では法律に優越する効力を持つ法典の形式をとっています。
国家の階級的性格と力関係によって憲法の内容や機能は異なります。
一般に資本主義国の憲法は、国民主権・議会制民主主義・権力分立・人権保障などを規定しますが、帝国主義の段階では、これらの民主的条項を形骸化させようとする支配層の策動が強まり、これとのたたかいが勤労人民にとって民主主義をまもる重要な課題となります。
憲法の平和的・民主的な条項が勤労人民のたたかいの力となっています!
ここで少しばかり憲法のことについて、振り返ってみましょう。
『あたらしい憲法のはなし』予告編
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戦後60年が経過し時代は大きく変わりました。
60年前に廃墟の中で未来を拓くために固めた不戦の決意。
その決意は、もう時代に合わなくなってしまったのでしょうか。
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あたらしい憲法のはなし
より抜粋しました。
オーディオブック あたらしい憲法のはなし サンプル
http://youtu.be/4gHlL9Bw5jI
一 憲法
みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日本國民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。
國の仕事は、一日も休むことはできません。また、國を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろ/\規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。
國をどういうふうに治め、國の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま國を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。もし憲法がなければ、國の中におゝぜいの人がいても、どうして國を治めてゆくかということがわかりません。それでどこの國でも、憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです。國でいちばん大事な規則は、いいかえれば、いちばん高い位にある規則ですから、これを國の「最高法規」というのです。
ところがこの憲法には、いまおはなししたように、國の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは國民の権利のことです。この権利のことは、あとでくわしくおはなししますから、こゝではたゞ、なぜそれが、國の仕事のやりかたをきめた規則と同じように大事であるか、ということだけをおはなししておきましょう。
みなさんは日本國民のうちのひとりです。國民のひとり/\が、かしこくなり、強くならなければ、國民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。國の力のもとは、ひとり/\の國民にあります。そこで國は、この國民のひとり/\の力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。そのために、國民のひとり/\に、いろ/\大事な権利があることを、憲法できめているのです。この國民の大事な権利のことを「基本的人権」というのです。これも憲法の中に書いてあるのです。
そこでもういちど、憲法とはどういうものであるかということを申しておきます。憲法とは、國でいちばん大事な規則、すなわち「最高法規」というもので、その中には、だいたい二つのことが記されています。その一つは、國の治めかた、國の仕事のやりかたをきめた規則です。もう一つは、國民のいちばん大事な権利、すなわち「基本的人権」をきめた規則です。このほかにまた憲法は、その必要により、いろ/\のことをきめることがあります。こんどの憲法にも、あとでおはなしするように、これからは戰爭をけっしてしないという、たいせつなことがきめられています。
これまであった憲法は、明治二十二年にできたもので、これは明治天皇がおつくりになって、國民にあたえられたものです。しかし、こんどのあたらしい憲法は、日本國民がじぶんでつくったもので、日本國民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。この國民ぜんたいの意見を知るために、昭和二十一年四月十日に総選挙が行われ、あたらしい國民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。それで、あたらしい憲法は、國民ぜんたいでつくったということになるのです。
みなさんも日本國民のひとりです。そうすれば、この憲法は、みなさんのつくったものです。みなさんは、じぶんでつくったものを、大事になさるでしょう。こんどの憲法は、みなさんをふくめた國民ぜんたいのつくったものであり、國でいちばん大事な規則であるとするならば、みなさんは、國民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。そのためには、まずこの憲法に、どういうことが書いてあるかを、はっきりと知らなければなりません。
みなさんが、何かゲームのために規則のようなものをきめるときに、みんないっしょに書いてしまっては、わかりにくい[#「わかりにくい」は底本では「わかりくい」]でしょう。國の規則もそれと同じで、一つ/\事柄にしたがって分けて書き、それに番号をつけて、第何條、第何條というように順々に記します。こんどの憲法は、第一條から第百三條まであります。そうしてそのほかに、前書が、いちばんはじめにつけてあります。これを「前文」といいます。
この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。この前文というものは、二つのはたらきをするのです。その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。つまりこんどの憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。
それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、「民主主義」と「國際平和主義」と「主権在民主義」です。「主義」という言葉をつかうと、なんだかむずかしくきこえますけれども、少しもむずかしく考えることはありません。主義というのは、正しいと思う、もののやりかたのことです。それでみなさんは、この三つのことを知らなければなりません。まず「民主主義」からおはなししましょう。
二 民主主義とは
こんどの憲法の根本となっている考えの第一は民主主義です。ところで民主主義とは、いったいどういうことでしょう。みなさんはこのことばを、ほう/″\できいたでしょう。これがあたらしい憲法の根本になっているものとすれば、みなさんは、はっきりとこれを知っておかなければなりません。しかも正しく知っておかなければなりません。
みなさんがおゝぜいあつまって、いっしょに何かするときのことを考えてごらんなさい。だれの意見で物事をきめますか。もしもみんなの意見が同じなら、もんだいはありません。もし意見が分かれたときは、どうしますか。ひとりの意見できめますか。二人の意見できめますか。それともおゝぜいの意見できめますか。どれがよいでしょう。ひとりの意見が、正しくすぐれていて、おゝぜいの意見がまちがっておとっていることもあります。しかし、そのはんたいのことがもっと多いでしょう。そこで、まずみんなが十分にじぶんの考えをはなしあったあとで、おゝぜいの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがないということになります。そうして、あとの人は、このおゝぜいの人の意見に、すなおにしたがってゆくのがよいのです。このなるべくおゝぜいの人の意見で、物事をきめてゆくことが、民主主義のやりかたです。
國を治めてゆくのもこれと同じです。わずかの人の意見で國を治めてゆくのは、よくないのです。國民ぜんたいの意見で、國を治めてゆくのがいちばんよいのです。つまり國民ぜんたいが、國を治めてゆく――これが民主主義の治めかたです。
しかし國は、みなさんの学級とはちがいます。國民ぜんたいが、ひとところにあつまって、そうだんすることはできません。ひとり/\の意見をきいてまわることもできません。そこで、みんなの代わりになって、國の仕事のやりかたをきめるものがなければなりません。それが國会です。國民が、國会の議員を選挙するのは、じぶんの代わりになって、國を治めてゆく者をえらぶのです。だから國会では、なんでも、國民の代わりである議員のおゝぜいの意見で物事をきめます。そうしてほかの議員は、これにしたがいます。これが國民ぜんたいの意見で物事をきめたことになるのです。これが民主主義です。ですから、民主主義とは、國民ぜんたいで、國を治めてゆくことです。みんなの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがすくないのです。だから民主主義で國を治めてゆけば、みなさんは幸福になり、また國もさかえてゆくでしょう。
國は大きいので、このように國の仕事を國会の議員にまかせてきめてゆきますから、國会は國民の代わりになるものです。この「代わりになる」ということを「代表」といいます。まえに申しましたように、民主主義は、國民ぜんたいで國を治めてゆくことですが、國会が國民ぜんたいを代表して、國のことをきめてゆきますから、これを「代表制民主主義」のやりかたといいます。
しかしいちばん大事なことは、國会にまかせておかないで、國民が、じぶんで意見をきめることがあります。こんどの憲法でも、たとえばこの憲法をかえるときは、國会だけできめないで、國民ひとり/\が、賛成か反対かを投票してきめることになっています。このときは、國民が直接に國のことをきめますから、これを「直接民主主義」のやりかたといいます。あたらしい憲法は、代表制民主主義と直接民主主義と、二つのやりかたで國を治めてゆくことにしていますが、代表制民主主義のやりかたのほうが、おもになっていて、直接民主主義のやりかたは、いちばん大事なことにかぎられているのです。だからこんどの憲法は、だいたい代表制民主主義のやりかたになっているといってもよいのです。
みなさんは日本國民のひとりです。しかしまだこどもです。國のことは、みなさんが二十歳になって、はじめてきめてゆくことができるのです。國会の議員をえらぶのも、國のことについて投票するのも、みなさんが二十歳になってはじめてできることです。みなさんのおにいさんや、おねえさんには、二十歳以上の方もおいででしょう。そのおにいさんやおねえさんが、選挙の投票にゆかれるのをみて、みなさんはどんな氣がしましたか。いまのうちに、よく勉強して、國を治めることや、憲法のことなどを、よく知っておいてください。もうすぐみなさんも、おにいさんやおねえさんといっしょに、國のことを、じぶんできめてゆくことができるのです。みなさんの考えとはたらきで國が治まってゆくのです。みんながなかよく、じぶんで、じぶんの國のことをやってゆくくらい、たのしいことはありません。これが民主主義というものです。
三 國際平和主義
國の中で、國民ぜんたいで、物事をきめてゆくことを、民主主義といいましたが、國民の意見は、人によってずいぶんちがっています。しかし、おゝぜいのほうの意見に、すなおにしたがってゆき、またそのおゝぜいのほうも、すくないほうの意見をよくきいてじぶんの意見をきめ、みんなが、なかよく國の仕事をやってゆくのでなければ、民主主義のやりかたは、なりたたないのです。
これは、一つの國について申しましたが、國と國との間のことも同じことです。じぶんの國のことばかりを考え、じぶんの國のためばかりを考えて、ほかの國の立場を考えないでは、世界中の國が、なかよくしてゆくことはできません。世界中の國が、いくさをしないで、なかよくやってゆくことを、國際平和主義といいます。だから民主主義ということは、この國際平和主義と、たいへんふかい関係があるのです。こんどの憲法で民主主義のやりかたをきめたからには、またほかの國にたいしても國際平和主義でやってゆくということになるのは、あたりまえであります。この國際平和主義をわすれて、じぶんの國のことばかり考えていたので、とうとう戰爭をはじめてしまったのです。そこであたらしい憲法では、前文の中に、これからは、この國際平和主義でやってゆくということを、力強いことばで書いてあります。またこの考えが、あとでのべる戰爭の放棄、すなわち、これからは、いっさい、いくさはしないということをきめることになってゆくのであります。
四 主権在民主義
みなさんがあつまって、だれがいちばんえらいかをきめてごらんなさい。いったい「いちばんえらい」というのは、どういうことでしょう。勉強のよくできることでしょうか。それとも力の強いことでしょうか。いろ/\きめかたがあってむずかしいことです。
國では、だれが「いちばんえらい」といえるでしょう。もし國の仕事が、ひとりの考えできまるならば、そのひとりが、いちばんえらいといわなければなりません。もしおおぜいの考えできまるなら、そのおゝぜいが、みないちばんえらいことになります。もし國民ぜんたいの考えできまるならば、國民ぜんたいが、いちばんえらいのです。こんどの憲法は、民主主義の憲法ですから、國民ぜんたいの考えで國を治めてゆきます。そうすると、國民ぜんたいがいちばん、えらいといわなければなりません。
國を治めてゆく力のことを「主権」といいますが、この力が國民ぜんたいにあれば、これを「主権は國民にある」といいます。こんどの憲法は、いま申しましたように、民主主義を根本の考えとしていますから、主権は、とうぜん日本國民にあるわけです。そこで前文の中にも、また憲法の第一條にも、「主権が國民に存する」とはっきりかいてあるのです。主権が國民にあることを、「主権在民」といいます。あたらしい憲法は、主権在民という考えでできていますから、主権在民主義の憲法であるということになるのです。
みなさんは、日本國民のひとりです。主権をもっている日本國民のひとりです。しかし、主権は日本國民ぜんたいにあるのです。ひとり/\が、べつ/\にもっているのではありません。ひとり/\が、みなじぶんがいちばんえらいと思って、勝手なことをしてもよいということでは、けっしてありません。それは民主主義にあわないことになります。みなさんは、主権をもっている日本國民のひとりであるということに、ほこりをもつとともに、責任を感じなければなりません。よいこどもであるとともに、よい國民でなければなりません。
以下略
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http://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html#midashi50
言論・出版の自由
日本国憲法が保障している、一切の表現の自由のなかで、もっとも古典的でいて、かつ、現代的で今日的な意義のある政治的・市民的自由の一つです。
今日、インターネットとそれを土台としたSNSの発達した中においても、個人の言論がその社会的な影響力を持ちにくい現代社会、特に日本社会においては、マスメディアを独占する大企業とそれを管理する政府による言論・出版の統制が特定秘密保護法に代表されるように、ますます強化されようとしています。
独占資本と自民党政府の言論・出版の統制にたいして、国民の言論・出版の自由を護り実現するには、国民の立場からのきびしいマスコミ批判が必要です。
(`・ω・´)
そのためにも、あらゆる場面で日常的な言論・出版の活動が活発にされなくてはなりませんね?
特定秘密保護法 知る権利の重みを再認識したい
(愛媛新聞) 2014年05月02日(金)
http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017201405026580.html
国家機密の漏えいに厳罰を科す特定秘密保護法が昨年12月に成立した。年内施行に向け、政府や国会では監視機関設置の議論が進んでいるが、国民の「知る権利」を損なう懸念は拭えないままだ。
「知る権利」は「表現の自由」と一体として、憲法で保障されている。脅かされると国民主権をも危うくする民主主義の根幹だ。なりふりかまわず成立を急いだ安倍政権には、国民の権利を尊重するという視点が欠けていよう。
特定秘密は定義が曖昧で、範囲が際限なく広がる。一般市民も罪に問われかねない。最長60年の指定期間には例外があり、行政に都合の悪い情報を半永久的に隠せる。審議の過程で噴出した国民の不安が何一つ解消していないことを、政府は恥じるべきだ。
成立したから万事休すではない。弁護士らによる違憲訴訟の提訴も相次ぐ。秘密保護法への反対を重ねて表明するとともに、廃止を求める国民の声を政府に突きつけることが肝要と指摘しておきたい。
国会に設ける監視機関をめぐり、先月中旬に与党プロジェクトチームがようやく初会合にこぎつけた。自民、公明両党の隔たりは小さくない。焦点は秘密指定の妥当性検証だ。公明案は「妥当性を判断し政府に改善を勧告できる」とする。一方、自民案は政府への意見表明にとどめ、権限を曖昧にした。
ことは国民の代表たる国会議員の権限に関わる。自民党の及び腰の背景には、国会への秘密提供を最小限にしたい安倍晋三首相への配慮があるといわれる。事実とすれば、国会議員の存在意義を自ら否定したに等しい。行政府が立法府より優位に立つことにもなろう。猛省を促したい。
秘密保護法は防衛、外交、スパイ防止、テロ防止の4分野で漏えいすれば著しく支障がある情報を特定秘密に指定し、違反には最高10年の懲役を科す。さらに共謀、扇動、教唆にも処罰の網をかける。いずれも5年以下の懲役だ。
情報を求める側も求められる側も、神経質になるのは必至だ。政府は「一般人や正当な取材行為は罰せられない」とする。が、処罰に至らなくても対象になっただけで萎縮させる効果は計り知れない。
安倍首相が推し進める集団的自衛権の行使容認などと密接に関わる点にも注意が必要だ。首相はかねて、国家安全保障会議(日本版NSC)を円滑に機能させるには情報管理が不可欠と強調している。安保政策全体の中で捉えなければ、秘密保護法の真の姿を見誤ることにもなる。
メディアは萎縮することなく権力に対峙(たいじ)する責務をかみしめたい。同時に、国民一人一人が自らの問題との意識を強くし、「知る権利」の重みを再認識する必要があろう。
高村薫 - Wikipedia
集団的自衛権を考える 憲法学者・渋谷秀樹氏(59)
(中日新聞)
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/our_kenpo/list/CK2014042002000179.html
◆「砂川」根拠、無理な解釈
尖閣諸島をめぐる問題も靖国神社の参拝も、安倍政権と政権を支える人たち自身が近隣諸国との緊張を高めておきながら、それに対処するために「集団的自衛権の行使を認めるべきだ」と主張している。緊張の原因除去に努めることこそ、真の政治家がするべきことです。
集団的自衛権を国家の「固有の権利」と規定している国連憲章は、国と国との約束事である条約です。条約と憲法とでは憲法が優位に立つ。憲法は国のあり方の基本ルールだから、そのルールが認めていない権利を日本が持つことは論理的にあり得ないというのが、従来の政府の見解です。
現在の政府は国連憲章に照らし合わせて「日本が主権国家である以上、集団的自衛権を有していることは当然だ」と言いますが、不正確です。「国連憲章に規定はあるが、憲法は必要最小限度の自衛権、つまり個別的自衛権の行使しか認めていない。憲法が認めていない以上、集団的自衛権が無いのは当然だ」と言うべきです。
自民党の高村正彦副総裁は、集団的自衛権が認められる根拠に「砂川事件」を挙げています。一九五九年十二月の最高裁判決に「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく…」との記述がありますが、前後の文脈や「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を取りうる」との部分を読めば、判決が個別的自衛権について述べていることは明らかです。
自国の平和と安全が脅かされていないにもかかわらず、砂川事件の判決を持ち出して「集団的自衛権の行使は認められる」と主張するのは、論理に飛躍がある。憲法の基本判例だから、どの法科大学院生でも知っていることです。無理な解釈というほかないでしょう。
<しぶたに・ひでき>1955年、兵庫県生まれ。立教大大学院法務研究科教授。元司法試験考査委員。著書に「憲法」(有斐閣)など。
憲法のゆくえ 震災・くらし(上)国民主権、強く意識を/俳優・菅原文太さん(河北新報)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201405/20140502_11010.html
日本国憲法が岐路に立っている。改憲論議が活発化し、憲法の解釈変更による集団的自衛権行使容認の検討も加速する。一方で、東日本大震災や福島第1原発事故で生活基盤を失い、再建のめどが立たない被災者は多く、国民の権利をどこまで保障するかという課題は残ったままだ。憲法はどこへ向かうのか。震災対応や暮らしの視点から、各界の3人に聞いた。
-今の日本の社会と政治をどう見ているか。
<最後のとりで>
「さみしい国になった。多くの人が金と自分のことばかり考え、国の在り方や政治に関心がなくなった。さらに東日本大震災と原発事故が起き、民心が弱った。再び起きうる地震、原発事故の影響への不安…。あえて物事を深く考えない、考えたくないという風潮がある。憲法の改正や拡大解釈など政治が暴走するには格好の時代だ」
「不穏な空気を捉えて権力を監視するのがメディアの役割なのにおとなしい。最後のとりでは憲法だ。今ほど憲法の存在意義が高まっている時代はない。憲法前文を読み返そう。その精神が、いかにないがしろにされているかが分かる」
[日本国憲法 前文]日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
-前文がうたう国民主権と現状との隔たりで感じることは。
<原発ゼロ軽視>
「国民が強く意識しなければ、国民主権は死語になる。福島第1原発事故後の原子力政策の問題が象徴的ではないか。民主党政権時代とはいえ、原発ゼロを目指すことが国民の意見の大勢だったはず。自民党は選挙で『原子力に依存しない社会』を目指すと公約したが、今は原発依存と推進にかじを切っている」
「原発依存を望む人がどれほどいるのか。電力会社など一部の『主権』だけが尊重されている。国民は主権が軽んじられても憲法や政治に関心がないから、何も行動せず黙認する。この国の民主主義は弱体化している」
-平和主義のこれからをどう見ているか。
<戦前に逆戻り>
「戦争を知る世代が少なくなった。この世で最も悲惨な出来事が戦争だ。軍事力を強化して勝てばいいと勇ましいことを言う政治家もいるが、犠牲を考えていない。昨年成立した特定秘密保護法案に反対したのも太平洋戦争の記憶があるからだ。当時、国民は監視社会で疑心暗鬼になり、誰も信用できなかった。戦前のような社会になるのではないか」
「最近、久しぶりに銀座を歩いた。戦後の建物の多くが壊され、海外ブランドの無機質なビルに変わり、落ち着ける喫茶店もなくなった。残すべきものまで消え、さみしい街になった。日本の行く末と重なってしまう」
-憲法の価値をどう守っていくか。
「(戦争放棄を定めた)憲法9条は、ノーベル賞委員会が推薦状を受理し、ノーベル平和賞候補になった。候補になっただけでも快挙だ。受賞を目指した運動を盛り上げたい。受賞すれば多くの人が憲法の素晴らしさに気付き、改憲もできなくなる」(聞き手は東京支社・中村洋介)
[すがわら・ぶんた]仙台市出身。仙台一高卒。58年に俳優デビュー。「仁義なき戦い」などで主演。山梨県内の農業生産法人代表。80歳。
吉永小百合&瀬戸内寂聴
「震災&原発被害」
被災者の未来に…私たちは闘います!
(女性自身) より
「核と人は共存できない」 対談で語った吉永小百合の本気度
(日刊ゲンダイ)
http://gendai.net/articles/view/geino/148606
「女性自身」で瀬戸内寂聴と
吉永小百合(68)が本気のようだ。
11日発売の女性誌「女性自身」で瀬戸内寂聴(91)と対談し、安倍政権への怒りと原発再稼働反対への思いを改めて話している。
記事は全8ページの長文で、カメラ撮影は篠山紀信という豪華版。そこで吉永は、地震がないような国なら事情が違うと言いつつ、「原子力の平和利用なんてない、核というものは、人間とは共存できないものなんだということを、事故で初めて自覚した」と明言している。また、憲法改正、特定秘密保護法などに動く安倍政権の危険性にも目を向けるのだ。
「先日、テレビのニュースで見たのですが、〈集団的自衛権が成立したとき、あなたは戦争に行きますか?〉と、若い人たちに質問していたんです。すると躊躇(ちゅうちょ)なく、〈僕は戦争に行きますよ〉と、答える人もいて……。そう答えた人の頭の中にある戦争は、ゲームやコミックスで知っている戦争ではないかと思うのです」
吉永も戦争を知らない世代だが、ライフワークの原爆詩朗読会を通じ、平和への思いがさらに強まっているようだ。また、被災地の悲しみを忘れ、東京五輪に浮かれる世相にも疑問を投げかける。
彼女は、先の都知事選では反原発を訴える細川候補への支持を表明したばかり。政治色を嫌う女優が多い中、稀有(けう)な存在と言える。
だが、番組スポンサーから睨まれるのを避けるのなら、政治的な発言は控えるのが賢明だと思うが……。
芸能評論家の肥留間正明氏がこう言い切る。
「吉永さんの反戦、原子力否定の考えは、昨日今日のものではありません。彼女は大震災のずっと前から同じことを主張している。他の俳優にも続いて欲しい。スポンサーに気兼ねして発言を控えるようなケチな芸能界にはなって欲しくありません」
吉永のこういった批判精神は、彼女いわく、「婦人画報」の元編集者で平和活動家だった叔母の川田泰代さんから受け継いだものだという。耳を傾ける価値は十分ある。
再掲ですがぜひ、ご覧ください!
日本国憲法が創り出した価値
http://www.youtube.com/playlist?list=PL31113E1104AD0F9D
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すぐそこにある危機・・
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